言ふべからざることにはあれど夫の死をこひねがひゐしわれにあらぬか
石川不二子『ゆきあひの空』
石川不二子の歌集『ゆきあひの空』(2008年)に収められた一首です。
病に倒れた夫が死線をさまよった後、無事命をつないで生還した後に詠われています。
夫が倒れて病院で生死をさまよっているとき、非常に不届きなことではあるけれど、夫の死を心のどこかで願っていた自分がいたのではないかと吐露しているのです。
夫が倒れるまでの、長年一緒に暮らしていた日々において、これまで夫の死を一度も願ったことはなかったのでしょうか。なかったかもしれませんし、一時的な感情によって死を願ったことがあったのかもしれません。
しかし、夫が元気なときに夫の死を願うのと、いざ夫が倒れてその死が現実味を帯びてきたときに夫の死を願うのとはわけが違うと思います。
まさに夫が死にそうなときに、少なからず夫の死を願うのは、非常に生々しい感情の表れなのではないでしょうか。主体自身も、夫の死を願うという思いが湧いてきたことに驚いているのかもしれません。
もちろん、夫が命をつないだとしても、体が不自由になり自分で動けない状態となれば、その後の世話や生活の大変さを想像するのはごく自然なことでしょう。そのような将来のつらさが、主体に夫の死を願わせる状態に導いたのかもしれません。いっそぽっくりいってくれた方が、夫にとっても妻である主体にとっても、ある意味においては幸せかもしれない、そんな思いが一切兆すことがないといえば嘘になるのではないでしょうか。
ただ、主体は本当に心の底から夫の死を望んだわけではないでしょう。一時的に、夫の死を願ったとしても、やはり夫の死を簡単に受け容れることはできないでしょうし、本当に死なれてしまうとかなしみに打ちひしがれることでしょう。それは「言ふべからざることにはあれど」に表れており、夫の死を願うことに対して決していってはいけないような、後ろめたい、不届きな思いがあるからでしょう。
ただ、「言ふべからざることにはあれど」と詠っていますので、夫にも周囲の人々にも、このような思いを抱いたことが伝わってしまっています。そこにこの歌の面白さのようなものが表れているのではないでしょうか。
実際、このときは夫が死線をくぐり抜け命をつなぎとめたから、この歌ができたのだと思いますし、このとき夫が本当に亡くなってしまえば、この歌は表に出ることはなかったのかもしれません。
夫の死という非常に深い部分を詠った歌ですが、このような歌が詠えるというところに、かえって主体と夫とのこれまでの信頼関係のようなものが表れているとみることもでき、なかなか興味深い一首だと感じます。

