たらればは人生からの贈り物馬酔木の花も月もゲームも
町田康『くるぶし』
町田康の第一歌集『くるぶし』(2024年)に収められた一首です。
「たられば」といえば、「もし○○していれば」「もし○○だったら」と過ぎ去ったことに対して後悔するときに使われるので、どちらかといえばネガティブに寄った言葉だと思います。
すでに結果が出たことに対してあれこれ仮定の話をしても仕方ないのはわかっていますが、ついついあのときこうしていれば、今頃もっとうまくいっていたのにと思うことはしばしばでしょう。
しかし、この歌ではいきなり「たらればは人生からの贈り物」と詠われているのです。
「たられば」を否定的な言葉として捉えているのではなく、むしろ肯定的にいいものとして捉えているところがとても興味深く感じられます。
「たられば」があることで、まるで人生に豊かさがもたらされるかのようではありませんか。もしも「たられば」をいうことが禁止されていれば、過ぎ去ったことに対してああだこうだと、うまくいった可能性を想像することができませんが、「たられば」をいうことができれば、過ぎ去った結果は変わらないにしても、そのときを振り返って楽しむことはできるのかもしれません。
下句の「馬酔木の花も月もゲームも」がなかなか読みが難しいのですが、「馬酔木の花」は文学作品か映画か何かに「たられば」を想起させるものがあるのかもしれません。歌の関係でいえば『万葉集』にも馬酔木が登場しますので、そのあたりを踏まえている可能性も考えられます。そういう意味では「月」も同様かもしれません。
花、月ときて、いきなり方向性が変わったかのように「ゲーム」が出てきます。ゲームはテレビゲームのようなものを想像すればいいでしょうか。あそこであのように操作していればクリアできたかもしれないのに、といった思いが込められているのかもしれません。いや、そのようなテレビゲームに留まらず、もっと大きなゲーム、強いていうなら人生というゲームとして読んでみてもいいでしょう。
結局、生きていれば、少なからず「たられば」を口にする場面に遭遇すると思います。もちろん、その際「たられば」をいっても何も変わらないから、それよりも今後どのようにすればもっといい方向に向かうかを考える方が有益かもしれません。でも、「たられば」を口にしてもいいのではないでしょうか。「たられば」を口にすることが必ずしも駄目なことだとは思いません。「たられば」を吐き出すことで、今の自分の気持ちが落ち着いたり、少し元気になったりすることもきっとあると思います。
「たられば」のある世界と、「たられば」のまったくない世界。このふたつの世界があるとすれば、どちらの世界の方が彩りがあり、豊かでしょうか。「たらればは人生からの贈り物」と詠うこの歌を読むと、「たられば」もいいものなのかなと次第に感じさせてくれる、生きることが少し和らいで感じられる、そのような一首なのではないでしょうか。

