ほんたうにかなしむものはかなしみをつたへはしない そこに木がある
佐々木六戈『佐々木六戈集』
佐々木六戈のセレクション歌人『佐々木六戈集』(2004年)に収められた一首です。
「かなしむ」という語を漢字で書けば、「悲しむ」「哀しむ」「愛しむ」などさまざまあります。この歌でどの「かなしむ」が詠われているのか、どれかひとつに絞る必要はないでしょう。平仮名で書かれているところに、「悲しむ」「哀しむ」「愛しむ」のいずれも含んでいると考えればよく、そこに多重性が感じられるのではないでしょうか。
「ほんたうにかなしむものはかなしみをつたへはしない」が、真理を突いた言葉だと感じます。悲しい、哀しい、愛しいにしても、本当にかなしい場合、それを伝えることはできないのでしょうし、伝えようとすることもしないのでしょう。
例えば、かなしみを言葉で伝えるとして、そこには言葉にするという行為が介入してきます。かなしいという気持ちを言葉に一旦変換しなければならないのです。本当にかなしんでいる人が、それをするのでしょうか。
よく周囲の人たちに、自分はこんなにかなしんでいるのだというアピールをする人がいますが、この歌の視点に立てば、そのような人は「ほんたうにかなしむもの」ではないのでしょう。
本当のかなしみは、自分が感じることしかできなくて、他者にまったく同じかなしみが伝わるかといえば、それは難しいのだと思います。かなしみの表層は伝わるかもしれませんが、本当のかなしみはどうやっても他者には伝わらないのかもしれません。
「かなしむもの」は何も人に限った話ではありません。人間以外の動植物、あるいはモノでさえも、この「かなしむもの」に相当する可能性はあるでしょう。
一字空けの後の「そこに木がある」とありますが、「木」もかなしみを感じているのかもしれません。この歌は主体がかなしみを抱いているともとれますが、木がかなしみを抱いているというふうに読みたいと思います。
ここから感じられる「木」の圧倒的な存在感が迫ってくるのではないでしょうか。
木は何もいわないでしょう。かなしみを抱えていようといまいと元々しゃべりません。しかし、このときのこの木のたたずまいに、主体は、木のかなしみを想像したのではないでしょうか。
「つたへはしない」とあるので、木からかなしみが伝わってきたわけでないのでしょうが、その伝わらなさがかえって、木が本当にかなしみを抱いている様を思わせたのかもしれません。
果たして、人はこの木のようにじっとものもいわず、立ち続けることができるものでしょうか。まして、「ほんたうにかなしむ」ときこそ、この木のように自分の内面と向き合い続ける姿を見せることはできるのでしょうか。
木の内面を想像することによって、逆に木から問い返されているような印象があり、魅力的な一首です。「木」以外すべて平仮名で詠われている点も注目すべきところだと感じます。

