臓物を大鍋に煮る屋台まで人生の今日を歩み来たれり
谷岡亜紀『香港 雨の都』(セレクション歌人『谷岡亜紀集』より)
谷岡亜紀の歌文集『香港 雨の都』(1997年)に収められた一首です。
1995年7月に香港を訪れたときの歌で、香港の夜の街を歩いているときの場面が想像されます。
屋台が並んだ場所でしょうか。歌文集において、この歌が収められた一連には次の歌も詠われています。
臓物を煮る湯気のむこうに家族いて誰もが笑い物を食みおり
屋台を出している家族のことでしょうか。一人ではなく家族誰もが笑っているところに、にぎわいを感じます。
さて、掲出歌ですが、そのような臓物を煮る屋台まで、主体がようやくたどり着いたというふうに読みたいと思います。もちろん「歩み来たれり」は、屋台を出している側の人たちがさまざまな出来事の末、屋台を出すに到ったと採れなくはありませんが、やはり主体がこの屋台まで歩んできたと採るのが自然ではないでしょうか。
興味深いのは「人生の今日」という、非常に大きな表現です。香港に到着して、屋台まで歩いてきたという歌であれば、それほど広がりは感じられませんが、「人生の今日」を歩んできたことにより、時間的な長さと人生の一回性が一気に迫ってくるように感じます。
屋台を訪れることを目的として今日まで生きてきたわけではないでしょうが、今このとき屋台を前にして立っている自分にある感慨を抱いていることが想像できるでしょう。
臓物を煮る大鍋という状況も、自身の人生を振り返るのに適しているのかもしれません。もちろん人間のではなく動物の臓物ですが、臓物という肉体に直結するものをぐつぐつと長時間煮ていることが、これまでの人生の起伏を想起させることにつながっているように感じられます。
大鍋の臓物はこれからも煮続けられるでしょうし、同じように人生はこれからも続いていきます。今このときも、ひとつの通過点であることは間違いありませんが、今日を生きている実感がひしひしと伝わってくるでしょう。
臓物、大鍋、屋台が醸し出す雰囲気が、触覚として直に伝わってきて、「人生の今日」が生々しい肌触りをもって生き生きと立ち上がってくる一首だと感じます。

