報はれぬ努力のやうに初雪になりきれず降るみぞれかわれか
吉田隼人『忘却のための試論』
吉田隼人の第一歌集『忘却のための試論』(2015年)に収められた一首です。
「努力しても必ずしも報われるとは限らない。しかし、成功者はみな努力している」といった言葉を聞いたこともあるのではないでしょうか。真偽はともかく、努力の大切さを説いている言葉です。
また、子どもの頃から「努力しなさい」といわれ続けてきた人もいると思います。いい大学に入るため、いい会社に入るため、立派な人になるため…。
このように、「努力」というのは少なからず、したほうがいいもの、あるいはすべきものとして捉えられる傾向はあるでしょう。
しかし、努力が絶対かといわれればそうでもありません。努力したからうまくいくことが確約されていれば、これほど楽なことはないでしょう。うまくいきたい人は努力を重ねればいいのです。
ただ、努力をしても報われないことがあるのが人生です。
掲出歌は、報われない努力を「初雪になりきれず降るみぞれ」に喩えています。みぞれは初雪になりたかったのかもしれません。みぞれのままでは人からそれほど注目されないのでしょうが、初雪となれば、多くの人から注目されるでしょう。
そのようなみぞれを見ていて、主体は「われ」もみぞれと一緒ではないのかと感じたのでしょう。最後に置かれた「われか」に何ともいえないもの悲しさが感じられないでしょうか。
主体は、報われない努力を痛切に感じることがあったのだと思います。努力が足りなかったのか、努力の方向性が間違っていたのか、それとも自分より他者が優れていたのか、あるいは自分には運がなかったのか…。色々なことが浮かんできたでしょう。
今この場で見上げるみぞれは、いつまで待っても初雪になることはありません。初雪になりそうでなりきれない様子が主体の姿に重なります。もう少しで目的に届きそうだったのかもしれません。この歌からは、そんな自分を責めたり、怒ったりする気持ちよりも、どこか諦めに近い思いが感じられます。報われなかったこを受け容れざるを得ないといった感じでしょうか。
今回の努力は報われなかったのだと思いますが、努力をしたという事実は残ります。みぞれはやがて消え去っても、努力の事実は残りつづけるのです。それをせめてもの救いと思えるのかどうか。それは主体にしかわかりません。
みぞれを見上げる主体の姿がいつまでも印象に残る一首です。

