明日からきのふを窺ふやうな霧見てゐるわたしをみてゐるわたし
紺野万里『星状六花』
紺野万里の第二歌集『星状六花』(2008年)に収められた一首です。
不思議な雰囲気のある歌ですが、そう感じるには大きく二つの視点があり、ひとつは「明日からきのふ」というまなざしであり、もうひとつは「わたしをみてゐるわたし」という入れ子構造のような表現のためではないでしょうか。
まず上句の「明日からきのふを窺ふやうな霧」ですが、これは一体どのような霧をイメージすればいいでしょうか。未来に起こるであろう予感が、過去のある行為を原因として見つめている、そんな感じでしょうか。
ここで、明日から昨日、すなわち未来から過去への視線があるのですが、明日と昨日だけがあり、現在という時間はここで表されてはいません。
ここからは、霧という捉えどころのない現象と、今現在をすっとばして明日から昨日へと通じる方向性がどことなく、ぼんやりとして不確かな現在を表現しているような印象が感じられはしないでしょうか。
下句に移れば、「見てゐるわたしをみてゐるわたし」とあり、霧を見ている「わたし」がいて、その「わたし」を見ているもうひとりの「わたし」がいるということでしょう。このふたつの「わたし」は、未来のわたしと過去のわたしなのかもしれません。
霧が明日から昨日を窺うように、未来のわたしが過去のわたしを見ているとも採れるでしょう。しかし、霧自体は現在目の前に発生しているようであり、その霧を見ているわたしは、やはり現在を生きているわたしと捉えるのが自然かもしれません。そう考えると、最初の「わたし」は現在のわたしであり、その現在のわたしを見ている「わたし」が誰なのかということが気になります。
最後の「わたし」を未来や過去のわたしと見てもいいのですが、こちらも現在のわたしと捉えてもいいのかもしれません。つまり、霧を見ている現在のわたしを見ている、もうひとりの現在のわたしがいるといった感じでしょうか。
そうなると、現在のわたしもきっちりとした存在感のあるわたしではなく、霧のように消え去ってしまうかもしれない不確かなわたしということになるかもしれません。入れ子状態であること自体、定まりがたい何かが感じられるように思います。
この歌をうまく説明するのが難しいのですが、この歌から感じられるのは、今現在に対する不確かな雰囲気と、現在を見つめるわたしの心の不安定さのようなものではないでしょうか。
輪郭がはっきりとしない謎めいた歌ですが、その捉えどころのない不思議なたたずまいに惹かれる一首です。

