はなさけばはなちるまでをいきてみむ十方微塵南無不可思議光
金川宏『揺れる水のカノン』
金川宏の第三歌集『揺れる水のカノン』(2018年)に収められた一首です。
本歌集に収録されている短歌の多くは、詩が一緒に添えられています。掲出歌には、歌の後に次の詩が書かれています。
いなくなるということ
が どういうこと
なのか よく
わからなくて
えいえんのいりぐちで
わたしは いまも
しずかに あなたを
まっています
みしらぬかぜが
きいたこともない
うたをかなでるので
みづいたぴあののふたを
そっと あけてやります
(帰命無量寿如来……
詩の最後に「帰命無量寿如来」と出てきますが、これは、浄土真宗の開祖である親鸞の『教行信証』に収められた偈文「正信偈」の冒頭の一節です。そして、掲出歌の結句「南無不可思議光」は、「帰命無量寿如来」に続く一節です。
そう考えると、掲出歌は、詩の最後の続きとして位置づけられている歌のようにも思われます。
また「十方微塵」はすべての世界を意味しますが、これも親鸞の示した言葉にあり、歌の下句は親鸞の世界観や表現で埋め尽くされているといえるのではないでしょうか。
上句のひらがなのみの表記に対して、下句の漢字のみの表記の対比が視覚的にインパクトを与えます。
さて、「はなさけばはなちるまでをいきてみむ」に、この世をどう感じながら生きるかという主体の姿が表れているように感じます。この考え方も親鸞の影響を受けているのかもしれませんが、この世に生を受けた以上、咲いてから散るまで、つまり誕生してから死までをとにかく全うしていこうという思いが感じられるのではないでしょうか。
それは自分ひとりの力だけを頼りにして生きるというのではなく、阿弥陀如来の慈悲に守られているという安心感を根底にして、ひとりの人間では及ばない力や加護に自らを委ねて生きる生き方なのかもしれません。花が咲いてから花が散るまでには当然さまざまな出来事が起こるでしょう。いいこともあれば、つらいこともあるでしょう。しかし、それさえも生を受け、生かされていることの意味として捉えていけるのかもしれません。
この歌を読んでいると、この一生でさえも、永遠の魂の観点から見れば、ほんの些細で短いひとときなのかもしれないと考えさせられます。
それは詩にも表れていて、「いなくなるということ / が どういうこと / なのか よく / わからなくて」「えいえんのいりぐちで / わたしは いまも / しずかに あなたを / まっています」とありますが、これを読むと、今の一生が終わったとしても、それは単にこの世で生きるということが終わりを迎えただけであり、魂の点でいえば、まだまだ続いていく、そんな印象を受けるのです。
この世に執着して生きるのではなく、むしろこの世を手放して委ねて生きる。しかし、決して人生を投げやりに生きようというのではありません。人生に真摯に向き合っているのはもちろんですが、無理に生きようとしない姿、世界は自分の思考を超えて存在していることを認める姿など、やわらかで緩やかな主体がこの歌には表れているように感じる一首です。

