生きよ生きよ 樹々にやさしく強いられてうすき若葉の息を吸うなり
佐伯裕子『あした、また』
佐伯裕子の第三歌集『あした、また』(1994年)に収められた一首です。
「若葉」とあるので、季節は初夏でしょうか。太陽の光があたたかく射す、若葉の生い茂る空間に主体がいるところを想像します。
若葉の色、明るさ、そして匂い。それらすべてを全身で感じている様子が「若葉の息を吸うなり」から伝わってくるのではないでしょうか。
しかし、ただ純粋に若葉の季節は清々しくていいなあと感じているわけではありません。「樹々にやさしく強いられて」に単純ではない心が表れているでしょう。そこには、自分の意思だけではなく、周囲からの影響を受けて、息を吸う自分が映し出されているように感じます。
ただし、強いられてはいるのですが、「やさしく」とあり、無理強いという感じはあまりしません。樹々が寄り添ってくれているような印象があり、樹々から主体への問いかけのような感じを思い浮かべます。では、その樹々からの主体へ投げかけられたことは何だったのでしょうか。
それが「生きよ生きよ」なのでしょう。
「生きよ」と感じる主体の心は、生きることから少し離れたい、逃れたい、つまり生きることから少し外れている状態だったのかもしれません。そのような心境だからこそ、樹々からの「生きよ生きよ」を感じたのではないでしょうか。
樹々のやさしさに、安心感を抱くような主体の姿が浮かんでくるように思います。
この歌集の別の一連には次の歌が詠われています。
生きたくも死にたくもなる夕まぐれ若葉の影が皮膚を滑れり
この歌は、掲出歌とは正反対のような感じがあるでしょう。同じ「若葉」であっても、二つの歌から受ける印象はかなり異なります。「死にたくもなる」があったからこそ、掲出歌の「生きよ生きよ」が深く沁み込んでくるように思います。
そして、この「生きよ生きよ」は、樹々から主体への投げかけであると同時に、主体から主体自身へ投げかけたものなのかもしれません。あるいは、主体から別の誰かへと投げかけているものかもしれません。
起点は樹々であるとしても、「生きよ生きよ」はやがて樹々の手を離れ、その言葉単体が生命力をもって広がっていく、そのようなイメージも浮かびます。
若葉がこれから成長していくように、「生きよ生きよ」に触れた人々は、この先何とか生きていくことができるのかもしれません。

