歩む自の踵は見えぬ背な見えぬ大方後姿は見えざるぞよき
岩田正『泡も一途』
岩田正の第七歌集『泡も一途』(2005年)に収められた一首です。
よほど変わった歩き方でなければ、自分のつま先は見えても自分の踵が見えることはないでしょう。
背中も同じで、前を歩く人の背中はしっかり見えるのに、自分の背中を見ることはできません。歩く場合に限らず、背中を見ることは元々難しいかもしれません。よほど体が柔らかいか、首の角度を変えることができるような身体性がなければ見ることはできないでしょう。背中を見るときは、大抵鏡を使うのではないでしょうか。
この歌は、歩くときの自分の踵や背中に注目している歌ですが、「大方後姿は見えざるがよき」と詠っています。ここがこの歌のポイントになりますが、単に歩くときに体の一部が見えないのがよいといっているわけではありません。
ここから想像できるのは、人生の進んできた方向とこれから進もうとしている方向ではないでしょうか。そしてそれを見つめる自分の眼ではないでしょうか。
つまり、歩くという行為を人生に喩えると、これから人生を進んでいく姿そのものに重なるでしょう。そして、踵や背中といった後姿が見えないというのは、過ぎてしまった時間を振り返らなくていいということではないでしょうか。
これから前を向いて歩いていこうとしているのに、いちいち後ろを気にして、つまり過去の後悔に落ち込んでいては、歩くのに邪魔になることでしょう。一歩踏み出すごとに、踵を確認したり、見えないにしても背中の方を振り返ったりしていては、スムーズに歩くことはとてもできないのではないでしょうか。
むしろ、そのような過ぎてしまった諸々はあまり意識しない方がいいということをこの歌は暗に示しているのではないでしょうか。いつでも過去が現在に侵入してきてしまうような生き方は、あまりよろしくないということかもしれません。
人生の過去を振り返るなというメッセージをダイレクトに読むのではなく、日々行う「歩く」という動作において、そのようなメッセージを含ませているところがこの歌の巧みな点であり、このような詠い方によって、その背後に広がる世界やメッセージがとても魅力的に表現された一首です。

