とりあへず洗濯をせむもやもやと死の一日分がわれに近づく
万造寺ようこ『そよぐ雀榕』
万造寺ようこの第二歌集『そよぐ雀榕』(2009年)に収められた一首です。
日々生活していれば、もやもやとしてすっきりしないと感じることもあるでしょう。毎日気分よく、何の憂いもなく過ごせれば、それに越したことはありませんが、なかなか思い通りにいかない日もあります。
この歌での「もやもや」はそのような日常のもやもやもあるでしょうが、どうもそれだけではなさそうです。この「もやもや」は下句にもかかっているのではないかと思います。
「死の一日分がわれに近づく」というのは、いずれ訪れる死の瞬間までの日数が減っていくことを意味しているのではないでしょうか。
人は生まれた瞬間が最も多くの時間をもっていて、生きていくほどにその時間は減っていきます。そして自分のもち時間がなくなったとき、人は死を迎えるのでしょう。
一日を過ごすということは、その分死へ一日近づいたといいかえることができます。これは避けがたいことですが、どのように一日を過ごそうと変えられないことでしょう。
気分よく過ごそうが、もやもやを抱えて過ごそうが、イライラしたり怒ったりして不機嫌に過ごそうが、一日は一日として減っていきます。
掲出歌においては、主体はこのとき「もやもや」を抱えていたのでしょう。そして、一日過ごすと一日分死へ近づくことも充分認識しているのです。しかし、どうもこの「もやもや」が晴れないのです。思考ではわかっているのでしょうが、感情がついていっていないのかもしれません。
そこでどうしたかといえば「とりあへず洗濯」をしたのです。洗濯で、今のもやもやがすべて解消されるわけではないでしょうが、何もせずに思考の中に留まり続けるよりも、気を紛らわせる意味でも洗濯に取りかかったのでしょう。
あれこれ考えるよりも、まずはこのような日常の作業を行うことで、つまり体を動かすことで、やがて少しはもやもやが小さくなるかもしれません。洗濯をしても効果がないのであれば、掃除をしたり、食事をつくったり、あるいは外出したりするのも手でしょう。仕事も気晴らしになるかもしれません。余暇であれば、買い物やカフェへ向かうのもひとつかもしれません。
とにかく動いてみることがきっかけとなり、もやもやの解消につながることはあると思います。
それにしても「死の一日分がわれに近づく」という表現は鋭く核心をついており、改めて自分自身の今日一日の使い方はそれでいいのかと問われているようであり、心に刺さる一首です。

