紙を裂くやうにこころは破けねば今日の悲しみ折りたたみゆく
栗木京子『夏のうしろ』
栗木京子の第五歌集『夏のうしろ』(2003年)に収められた一首です。
心というのは、一体全体どこに存在しているのでしょうか。
具体的に目に見えるものではないために、心は、人によって捉え方やイメージはさまざまでしょう。頭や脳にあると考える人もいれば、胸や心臓のあたりにあると考える人もいます。あるいは、体全体に宿ると考える人もいるかもしれません。
私は、何となく胸のあたりにあるようなイメージでこれまで考えて生きてきました。
さて、掲出歌は、そのような「こころ」について詠った歌です。
「今日の悲しみ」とあるので、今日は何かかなしいことがあったのでしょう。そのかなしさを何とか乗り越えたい、あるいは抑え込みたいと考えるとき、どのような行動をとるでしょうか。心というのは、捉えどころがなく、そのものを物体として扱うことができません。
「紙を裂くやうにこころは破けねば」は、まさにどうしようもない様を表しているのではないでしょうか。本当は、「今日の悲しみ」を抱えた心は破ってしまいたいと感じているのでしょう。しかし、破けないことを承知しているのです。破りたくても破けない。であれば、どうするかといえば、主体は「今日の悲しみ」を「折りたたみゆく」方向に向かっていったのです。
心が破れないからといって、このまま何もせずにいれば、かなしさは益々増幅していく一方なのかもしれません。「今日の悲しみ」を静かに折りたたんでいく行為に、主体のやさしさのようなものが垣間見られるのではないでしょうか。
折りたたんだからといって、完全にかなしみが消えるわけではないでしょう。それでも、折りたたまずにはいられなかったのだと思います。
厳密には、折りたたまれたのは「こころ」ではなく「今日の悲しみ」と表現されていますが、実際うれしさやかなしさは心に宿る感情と捉えるのは自然であると思いますので、「今日の悲しみ」が折りたたまれるということは、すなわち心が折りたたまれるイメージを浮かべても問題ないのではないかと感じます。
この歌では、心が「紙」のような平面のイメージで捉えられているところが面白いと感じます。折りたたまれた「今日の悲しみ」は、いつかまた広げられることはあるのでしょうか。それとも、もうこのまま開かれることはないのでしょうか。そのあたりも、色々と想像の余地があり、平易な言葉づかいにもかかわらず、非常に深さを感じさせてくれる一首なのではないでしょうか。

