どの魚もまぶたを持たず水中に無数の丸い窓開いている
服部真里子『行け広野へと』
服部真里子の第一歌集『行け広野へと』(2014年)に収められた一首です。
魚にはまぶたがありません。まぶたに似た膜の構造をもつ魚はいるようですが、基本的にまぶたをもっていない生き物と考えていいでしょう。
歌集においてこの歌は、湖を背景とした一連に置かれています。さて、「どの魚も」は地球上に存在するすべての魚を指しているのでしょうか、それとも主体が把握できる目の前の湖に生息する魚のすべてを指しているのでしょうか。
どちらかは明確にはわかりませんが、魚はまぶたをもたないという事実から考えるとどちらでも問題はないように思います。ただ後者と捉える方が、主体の意識が届く範囲内の魚であるため、その一匹一匹の魚に対する存在感のようなものがよりくっきりと浮かび上がるように感じます。前者と捉えると、例外がないという絶対的な強調は得られますが、その分魚の存在が概念的に近づくことになり、後者ほどの魚の存在感は感じられなくなるのではないかと思います。
ですので、「無数」と詠われていますが、まぶたをもたないという手触りを感じられるのは、主体が今思い描いている魚に限定した方がいいと思いますし、主体が思い描く魚の数もまた数えきれないくらい多くいるというふうに想像するのがいいのではないでしょうか。
さて、そのようなまぶたをもたない魚を「水中に無数の丸い窓開いている」と捉えているところが非常に面白いと感じます。
「丸い窓」は魚の目のイメージでしょうか。まぶたがないので、その目を閉じようとしても閉じることはできません。カーテンのない窓と同じなのでしょうか。カーテンのない窓は、いつまでも窓は光を行き来させる場所として存在するのと同様に、まぶたのない魚の目、すなわち海中の丸い窓は永遠に閉じられることはなく、暗い中でも海中のわずかな光を映しつづけるかたちとして存在しているのでしょう。
「丸い窓」を開け閉めする自由がない、それもどの魚においても閉められないということが一種の怖ろしさを感じさせるのではないでしょうか。
主体が、無数の魚の目を想像しているのに、逆に無数の魚の無数の目から主体が見つめられ続けているような印象があり、その光景が読み手にも強く迫ってくる一首だと感じます。

