今日のよきことのみ告げん寝そべりて絞るがごとく物言う夫に
中川佐和子『海に向く椅子』(セレクション歌人『中川佐和子集』より)
中川佐和子の第一歌集『海に向く椅子』(1993年)に収められた一首です。
今日一日を振り返って「よきことのみ」を告げようとしているのですから、朝ではなく、一日が終わりに近づいた夕方か夜の場面だと思います。
夫はソファか何かに寝そべっている状況です。平日であれば、仕事から帰ってきた後かもしれません。夫は寝そべったまま言葉を発しているのですが、「絞るがごとく」に、通常運転とは異なる夫の姿が見えるのではないでしょうか。
それは疲れているのかもしれませんし、機嫌が悪いのかもしれません。普段からそういうもののいい方というのではなく、やはりこのときだけ「絞るがごとく物言う」状態だったのだと思います。
そんな夫に対して、主体は「今日のよきことのみ」を告げたのです。夫がまだ知らない今日の出来事を伝えるとき、今日あったすべてを、いいことも悪いことも含めて伝えることもできるでしょう。それは夫に今日の出来事を色々と知ってほしいという思いから、あれもこれも告げようとするのでしょうが、このときの主体はすべて告げるということはしなかったのです。
それは夫を気遣ってのことかもしれません。よくないことを告げたところで、誰が得をするのでしょうか。ましてや夫の体調や機嫌が思わしくないような状態において、よくないことを告げるメリットはあまりないでしょう。
ですから、主体はあえて「よきこと」だけを選び、夫に告げるようにしたのだと思います。話を聞かされる側も、別に悪い出来事を聞きたくはないでしょう。どうせ聞くのであれば、よくないことよりもいいことを話してくれた方が、気分もよくなるはずです。
一日を振り返るとき、今日のいい出来事をいくつか思い出して眠りにつくと、眠りもそうですし、人生自体が好転していくという話も聞きますが、「よきこと」は伝える側にとっても聞く側にとっても、得なことはあってもあまり損なことはないでしょう。
この歌から感じられるのは、主体が夫の存在を意識して見つめている姿ではないでしょうか。本当は「よきこと」以外にも聞いてもらいたいことはあったのかもしれません。しかし、何でもかんでも自分の思いを放出すればいいというわけではなく、そこは今このときの夫の状態を気遣いながら、何を告げるべきかの選択が、このときの雰囲気がどう展開していくのかを、主体は充分わかっているのだと感じます。
「よきことのみ告げん」という、一見それほど目立たない選択ですが、このような選択をすることは、日々を送っていくうえで非常に大切なことのように感じますし、今このときをどうするのが一番いいのかを真摯に見つめている主体がの姿が垣間見えて、印象深い一首です。

