人生の歌 #192

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人生の短歌

明日もまた何もするなと言うような私自身の夕暮れである
奥田亡羊『亡羊』

奥田亡羊の第一歌集『亡羊』(2007年)に収められた一首です。

この歌は「何もするな焚火以外」という題の一連の最後に置かれた歌であり、長年勤めた仕事を辞めて、榛名山麓に転居した後を詠ったことが、一連に記された詞書やあとがきから窺うことができます。

あとがきには次のように記されています。

使われていない農家を借り、貯えの続くうちは働くまいと決めて一年半ほど何もしなかった。

夕暮れには、寂しさも羞やさしさも、すべてがあった。何を詠みたいかと問われれば、私は夕暮れを詠みたいと答えるだろう。

転居後の榛名山麓の夕暮れは、これまで住んでいた場所とは違って見える夕暮れだったのでしょう。それは、実際に見る場所が違うから見えるものが違うというだけでなく、主体自身の環境や身上の変化によるところが大きいと感じます。

それは「私自身の夕暮れである」という断定にしっかりと表れているでしょう。ここで見る夕暮れは、みんなに共通する夕暮れではなく、あくまでも「私自身」のものなのです。私自身を通して見る夕暮れは、私自身にしか味わえないということです。

「明日もまた何もするな」ということは、昨日も今日も何もしなかったということでしょう。一連の題が「何もするな焚火以外」とあり、実際は焚火やこまごまとした雑務は行っているはずです。

しかし、主体の気持ちとしては、それらは「何」に当たるものではないのでしょう。「何」に当たるものは、人生を通して取り組む何かを指しているのかもしれません。あとがきから考えると、働くということも「何」に当たるでしょうか。

それらをしていないことに対して、主体は負い目を感じているのでしょうか。どうもそのような印象は受けないのです。何もしない一日ほど、貴重なものはないかもしれません。ともすると、人は忙しさに飲み込まれ、知らず知らずのうちに、忙しいことがすばらしく何もしていないことが罪悪のように感じていってしまうものです。

でも、それは物の見方の一面であって、何もしないことは罪悪でもなく、むしろすばらしいと捉えることもできるのです。街の喧騒から離れれば離れるほど、そのような思いになるのかもしれません。

夕暮れ自身が何もしなくていいよと語りかけてくれているようですが、そのような「私自身の夕暮れ」をもてることは、とても幸せなことなのではないでしょうか。

今このような状況にいることを肯定している主体の姿が際立って感じられ、印象深い一首です。

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