一生は長き風葬 夕光を曳きてあかるき樹下帰りきぬ
菅原百合絵『たましひの薄衣』
菅原百合絵の第一歌集『たましひの薄衣』(2023年)に収められた一首です。
「風葬」は、かつては日本の一部の地域で行われていた埋葬方法ですが、現在の日本で見ることはほとんどないでしょう。
「一生は長き風葬」という、短い言葉ながらもはっきりとした定義のようないい切りが強く迫ってきます。一生とは、短くもあり長くもあるでしょう。この歌では、一生を「長き風葬」と見ていますが、まさに一生という長い時間をかけて、次第に自然に還っていく姿が浮かび上がってきます。
風葬ですから、外界から守ってくれる防御壁や盾のような存在はありません。雨風などの自然現象、また動物や鳥たち、はたまた菌類などの存在から完全に無防備な状態で晒されるのです。
人の一生もこの風葬のようなものではないかと訴えかけてくるのです。生まれてから死ぬまで、生きるということは、本当の意味での庇護はないのかもしれません。常に他者と接し、自然に接し、外界と関わりをもたぬまま生きるということはできないでしょう。いつも何かに晒され、何かを衰退させられているのではないでしょうか。
そして、自分というすべてがだんだんと削がれていったとき、人は死を迎えるのかもしれません。しかし、一生という風葬には何も脅威だけが存在するわけではありません。太陽のあたたかさ、風のやわらかさなど、非常に心地よく感じられるものも存在するでしょう。そこには安らぎがあるのではないでしょうか。
「夕光を曳きてあかるき樹下帰りきぬ」に見られる明るさが、そのような救いのイメージを与えてくれるように感じます。
音の面でいえば、「ゆふかげ」「ひきて」「あかるき」「じゆか」「かへり」「きぬ」にはすべてK音が含まれています。K音の鋭さは「一生は長き風葬」という認識を突きつけられたことに対する鋭さのように感じますが、その一方で、この三句以降には光と明るさを伴ったやわらかさや穏やかさが感じられるように思います。そこには「長き風葬」を拒絶する姿ではなく、むしろ受け容れる姿が見えてこないでしょうか。
一生を長き風葬と捉えなおすことから始まる一生が、今後どのように展開していくのか。風葬の途中である今現在の位置から見えるものは何なのか。そのようなさまざまなことを考えさせられる一首ではないでしょうか。

