孤独という壺を互みに抱えつつスイッチバックの列車に揺るる
梅内美華子『若月祭』
梅内美華子の第二歌集『若月祭』(1999年)に収められた一首です。
「互みに」とあるので、ひとりではなく誰か相手と列車に乗っていたのでしょう。
「スイッチバック」というのは、電車などにおける急勾配を上り下りする仕組みで、進行方向を転換するジグザグに敷かれた線路を指す言葉です。
スイッチバックが導入されているのは急勾配の路線ですから、どこかの登山電車などに乗っていたのかもしれません。
さて、注目したいのは上句の「孤独という壺を互みに抱えつつ」です。
孤独は、自分の内側に抱えるものであり、それを「壺」という喩えで表現しているところに納得を覚えます。孤独というものは、互いがそれぞれもっているものという点では同じですが、自分の孤独と相手の孤独とがまったく同じものではありませんし、そもそも共有できるものではないと思います。共有できないからこそ、孤独なのであり、その孤独に対して、人は色々と考えることになるのだと思います。
「壺」というのも、まさに閉じ込められているようなイメージであり、相手の壺に不用意に触れることもできないでしょう。安易に触ろうものなら、相手の壺を割ってしまいかねません。孤独は、自分の内側だけにある壺そのものであり、人目に晒して見てもらうものではないでしょう。
スイッチバックの列車に揺られていたのですが、この揺れは、進行方向を切り替えるときの電車の動きによる揺れもあったのだと思います。ただ、進行方向が切り替わることによって、新たな思考や感情が生まれるかといえば、どうもそういう感じはせず、やはり「孤独という壺」を抱いたまま、目的の駅まで互いに列車に揺られているのではないでしょうか。列車がいくら進もうと、「孤独という壺」が消えることはないのでしょう。
孤独が決して悪いものであるということではなく、人が生きていくにあたって孤独はむしろ必要なものであると思います。孤立すると人は生きていけませんが、孤独を抱えるということは、自分自身を見つめることであり、自分も相手もその孤独をもっているという認識が主体にあることが見てとれますし、相手の孤独に容易に踏みこまない距離感を表しているのではないでしょうか。
「孤独という壺」という表現がとても魅力的に感じられる歌であり、たとえ列車内で隣席に座っていたとしても、人はそれぞれ孤独を抱えているということを改めて思わせてくれる一首ではないでしょうか。

