壜の塩卓上にあり家族らが生きた分だけさらさらと減る
前田康子『黄あやめの頃』
前田康子の第四歌集『黄あやめの頃』(2011年)に収められた一首です。
人間は、塩なしには生きていけないといわれています。塩つまりナトリウムには体液を調節する機能があり、塩が極度に不足すると、体液の調整が崩れ、めまいや倦怠感を起こします。
つまり、人間にとって塩という存在は、生存していくうえで切っても切れないものだということです。
日常生活においては、食事やお菓子には塩分が含まれていますから、殊更塩だけを単体で舐める必要はありません。普通に生活して、三食規則正しく食事をしていれば、塩分は体に取り込まれていくでしょう。ですから、塩を摂取しなければという意識は、日々の生活において特段表に現れることはないかもしれません。
しかし、掲出歌では、塩を正面から捉えており、人間にはやはり塩が必要なのだという認識が改めて浮き彫りにされているのではないでしょうか。
「壜の塩」、しかも「卓上にあり」とありますから、食卓塩のような小さな壜に入った塩を想像しました。公益財団法人塩事業センターが発売するおなじみの赤い蓋の食卓塩が最もイメージしやすいかもしれません。
先ほどきちんと食事していれば、塩単体で舐める必要はないと述べましたが、出てきた食事に対して、追加で食卓塩をかけて食べることはあるでしょう。単体では舐めないにしても、肉や野菜などに塩をふりかけて、塩の結晶のかたちを口の中で感じながら、塩を体内に摂り入れるということはあると思います。
壜の塩は、一日で目に見えるほど減ることはないでしょう。しかし、日々使い続けていると、いつの間にか壜の中の塩が残り少なくなっていることに気づくはずです。それを「家族らが生きた分だけさらさらと減る」と表現したところに、この歌の魅力を感じます。
塩が減ったのはただ単に塩という物質が減ったのではなく、「家族らが生きた」証そのものなのだという思いが滲み出ているのではないでしょうか。人間にとって塩は欠かせないものであり、塩が減るということはすなわち生きていることそのものであり、減り続けているということは生き続けているということにつながるのだと思います。
「さらさらと」というオノマトペも効果的で、塩のさらさらとした状態を表しているのはもちろん、この家族が「さらさらと」生きている、そのような家庭であることをも表しているでしょう。ここには、生きることに対するどんよりとした暗さや重苦しさはありません。どちらかというと、飄々と軽やかに生きているような印象があるのではないでしょうか。
壜の塩が減るという部分に着目した歌ですが、塩が減った分は、反転して家族らが生きた分として歌の前面に立ちあがってくる一首であり、生命としての生きること、そして家族という関係において生きることなど、生きることに対して多面的に考えさせられる歌で印象に残ります。

