一億のなかの一人の心さえ見えがたくして春の浮雲
久々湊盈子『あらばしり』
久々湊盈子の第五歌集『あらばしり』(2000年)に収められた一首です。
「一億」とありますが、これは日本の人口を大きく捉えた数字だと思います。ここ数十年、日本の人口は、一億二千万人から一億三千万人の間くらいで推移しています。厳密な研究や調査でないかぎり、日本の人口は、ざっくり一億人と捉えておいて特段問題はないでしょう。
さて、日本中にいる全人口の中のたった「一人」の人に注目していますが、その人の「心」でさえ見え難いと詠われています。
そもそも、他者の心というのは見えるものなのでしょうか。理解できるものなのでしょうか。例えば、他者である相手が困っていたり、絶望に打ちひしがれていたりしたときに、その人に対して「わかるよ」とか「私にも経験あるから理解できるよ」などと声をかける人もいるでしょう。あるいは逆に、相手が喜んでいたり、うれしがっていたりしたときに、その人に対して「よかったね。自分のことのようにうれしい」というケースもあるでしょう。
しかし、実際のところ、相手のつらさや喜びは、本当の意味では理解できないのではないでしょうか。それはその相手と自分は違う人間だからです。もちろん、相手のつらさや喜びを何となくわかった気になることはあるでしょうし、かなり似たような状況を経験していれば、そのつらさや喜びに寄り添うことはできるでしょう。ただ、相手が感じているつらさや喜びとまったく同じつらさや喜びを感じることはできないのではないかと思います。
「一人の心さえ見えがたくして」と詠われていますが、主体はこの「一人」についてかなり親しい間柄ではないかと思います。もし長い期間一緒に時間をともにしてきたのであれば、相手のこともある程度わかってきていることでしょう。しかし、そのような関係においても、やはり心の中までは「見えがたい」と感じているのだと思います。
「春の浮雲」からは、どことなく頼りない儚い印象が感じられるのではないでしょうか。相手の心を見つめて理解することも、浮雲のように捉えどころがなく、どうやってもその本当の部分をつかまえることはできないという、そのような気持ちを想像します。
よく知っているたった一人の心でさえ見え難い状況であるのに、ましてその他大勢の人の心を理解するということは、到底難しいことなのではないでしょうか。生きていくということは、多数の他者と関わっていくということでもありますが、相手との関係性を築く際、相手の心を本当の意味では理解できないという視点に立ってみるのも、その後の関係をうまく保つためには必要なのかもしれないと、この歌を読んで感じます。
「一億」「一人」という言葉の大小の対比も効果的に響いてきて、改めて人の心を見るとはどういうことなのかを考えさせられる一首だと思います。

