塩辛で独酌をせり人生は足し算であり引き算である
高野公彦『渾円球』
高野公彦の第十歌集『渾円球』(2003年)に収められた一首です。
「人生は足し算であり引き算である」と詠われています。人生の長さ、時間軸、そして自分のもちものについて考えさせられる歌ではないでしょうか。
人生という時間を考えると、短いようでもあり、同時に長いようにも感じます。この世に誕生してから死ぬまで、時間の積み重ねであると考えると、それは時間の「足し算」なのかもしれません。
日々、時間を積み重ねていくことが生きることそのものであり、その時間の中でうれしいこともかなしいこともすべて経験していくのです。そのような経験の足し算が、その人のたどってきた人生として、自分はもちろん他者にも、ある輪郭をもって伝わるのかもしれません。
しかし、一方で「引き算である」とも詠われています。積み上げが人生だと思っていたところに、引き算が人生なのではないかという心境は、ある程度年齢を重ねてから感じることかもしれません。若い頃は、あれもほしい、これもやりたい、こんなこともできるとさまざまな希望や可能性が膨らんでいると思います。足し算か引き算かでいえば、足し算に当たるでしょう。しかし、年齢を重ねるにしたがって、どうも足し算だけが人生ではないと感じる場面に遭遇するのではないでしょうか。
年齢を重ねると、職場、家庭、地域、趣味のグループなどの立場や役割がよくも悪くも自分にまとわりついてきます。気がつけば、内面ではなく、そのような「外側」に当たるものによって自分の人生が窮屈になっていることもあるでしょう。自分がまといたくて、そのような立場にいるのであればいいのですが、どうもしっくりきていないけれど、何か縛られているように生きてしまっている人も少なからずいると思います。
そのときこそ「引き算」の出番なのでしょう。今まで生きてきて、自ら望んで身に着けたもの、また自ら望んではいないけれど身に着いたもの、それらを一旦見直し、場合によっては不要なものは捨ててしまう覚悟も必要なのかもしれません。
けれど、何もかも捨ててしまえというわけではありません。「足し算であり引き算である」と詠われている通り、バランスが大切だとこの歌は教えてくれるのではないでしょうか。
このようなことを考えるとき、「塩辛で独酌をせり」には、何ともいえない深さや味わいが感じられます。塩辛の熟成された感じ、そして独酌によって、自分自身に深く潜りこんで、改めて見つめ直しているような感じが、人生のさまざまを味わってきたひとりの姿として立ち上がってくるのではないでしょうか。
「足し算」と「引き算」を同じ塩梅で行えば、最終的にはゼロになるのでしょう。人が死にゆくとき、この世で貯めた物質的なものは一切もっていくことはできません。足し算と引き算を繰り返しながら、人は色々な経験をしつつ、色々なものを手放しながら、人生という長い道を歩き続けていくのではないか。そんなことを感じさせてくれる一首です。

