人生の歌 #93

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人生の短歌

棒切れかなにかのごとき一生も棒切れに長さありてわれ泣く
渡辺松男『歩く仏像』

渡辺松男の第三歌集歩く仏像(2002年)に収められた一首です。

一生はいろんなものに喩えられます。一生を何に喩えますかという質問を受けた方もいるかもしれませんが、この歌では「棒切れかなにか」に喩えています。

「棒切れ」といういい方ですが、棒の切れ端に対してあまりいいイメージをもつ言葉ではありません。どちらかといえば、役に立たないものといった印象を伴った言葉でしょう。

ここでは「棒切れかなにか」となっており、「棒切れ」と明確化するのではなく「かなにか」とややぼやかしています。一生を「棒切れ」であると断定するのと比べ、棒切れに似た一生ではあるけれども、一生がより捉えどころのない、不安定なものである印象が強まっているのではないでしょうか。

さて、そんな「棒切れかなにか」のような、どちらかといえばつまらない、大したことのないように捉えられている一生ですが、下句では「棒切れ」そのものにフォーカスを当てています。

「棒切れ」は、通常短い部分、いらない部分を指しますが、その「棒切れ」の「長さ」に注目しているのです。どんなに短い「棒切れ」もよくよく見れば、それは「長さ」をもっているわけです。「棒切れ」は短いといい捨てることは簡単ですが、もう少し客観的に「長さ」を見つめてみると、「棒切れ」に対するイメージも変わってくるでしょう。

一生も同じで、「棒切れかなにか」のように思える一生であっても、その「長さ」を見つめることで、一生に対する見方は変わってくると思います。それはいい面も悪い面も両方含めてのことでしょうが、単に「棒切れ」とだけ思っていただけよりも、「一生」がより輝いて見えるのではないでしょうか。

一生に対する捉え方が変わることで、まさにその「一生」を生きている自分自身をも振り返ることとなり、それゆえに「われ」が「泣く」のです。

「われ泣く」は少し過剰な表現のようにも思えますが、この表現によって「棒切れに長さありて」が活きてくるのだと感じます。

一生に対する捉え方は濃淡、長短さまざまあるでしょうが、この歌は一生の長短に注目することで、一生の濃淡までもが垣間見えるようで、印象深い一首です。

棒切れ
棒切れ

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