遅き春 エレベーターと階段のどちらを選んでも下へ行く
山木礼子『太陽の横』
山木礼子の第一歌集『太陽の横』(2021年)に収められた一首です。
「遅き春」とあり、なかなか春がやってこない時期を指しているのでしょうか、それとも、春が終盤に差しかかった頃、つまり春の遅い頃合いを指すのでしょうか。
状況としては、建物の上階にいる場面でしょう。その建物には、エレベーターも階段も両方設置されていて、どちらにもアクセス可能なのでしょう。階下にいくためにエレベーターを使うか、階段を使うか、主体が選択することが可能です。
エレベーターで降りても階段で降りても、「どちらを選んでも下へ行く」のです。当たり前といえば当たり前ですが、選択肢があるところを取り上げて、あえて詠ったところがこの歌の味なのでしょう。
一番の目的は階下にいくことです。その目的を達成するためには、途中経過である手段はエレベーターでも階段でもどちらでもいいわけです。つまり、階下に着くことだけを考える場合、特に急いでおらず、時間を気にしなくていい場合は、エレベーターでも階段でもいいわけです。
もちろん何十階、何百階の建物の最上階から降りる場合は、エレベーターを使うか階段を使うかで所要時間はかなり変わってくるでしょう。しかし、ここではそれほど高い位置にいるのではなく、せいぜい十階以内の状況を想像しておきたいと思います。
さて、ここで初句の「遅き春」が再び思い出されます。
春のほがらかなイメージにおいて、エレベーターでも階段でも、そのときの気分によってどちらでも選べる状態にあることが、何とも豊かなことなのではないでしょうか。どちらかしかないのでもなく、どちらかの使用を強制されるわけでもなく、どちらでもいいですよ、どちらでも下にいくことができますよと提示されるだけで、どこかしら主体の心に余裕が生まれるような印象がもたらされていると感じます。
どちらを選んでもいいのです。選ぶ権利が与えられているのです。このときの気分で選べばいいのです。
「遅き春」のひととき、主体はどちらを選んで下にいったのでしょうか。それを自由に想像するのも楽しく思われる一首です。


