きみをなす無数の問いに眼をこらす素足にたまごのからふみしめて
柳澤美晴『一匙の海』
柳澤美晴の第一歌集『一匙の海』(2011年)に収められた一首です。
「きみをなす無数の問いに眼をこらす」とは、中々意味が取りづらいところはありますが、「きみ」を構成しているのは「無数の問い」であるということを意味しているのでしょうか。
「きみ」という一人の人物をつくりあげているもの、それは皮膚や臓器といった目に見える物体ももちろんですが、「きみ」という存在を本当に「きみ」たらしめているのは、そのような目に見えたり手に触れたりできるものではないのかもしれません。目に見えたり手に触れたりできるものは、むしろ表面的なものであり、それは「きみ」を構成する本質ではないということでしょう。
では、「きみ」を構成する本質は何なのか。それが「無数の問い」だというのでしょう。「無数の問い」こそが「きみ」をつくりあげており、そのような問いがなければ「きみ」ではなかった、そのように詠われているような印象を抱きます。
「問い」は目をこらそうとしても見えないものかもしれません。しかし、目の前にいる「きみ」はどのような「問い」を経てきたのか、また今現在もどのような「問い」によって包まれているのか、それに必死に目をこらそうとする主体の姿が浮かんできます。
状況としては、「素足にたまごのからふみしめて」とありますが、これは実景でしょうか、それとも何かの喩なのでしょうか。いずれにしても、足裏の触覚が鋭敏に伝わってくるような表現だと思いますし、たまごのからの上であることから、安定していない、やや危うい状況なのかもしれません。
そのような状況の中で「きみ」を見つめている、いや「きみをなす無数の問い」を見つめているところに、研ぎ澄まされた瞬間を感じずにはいられません。
結果として、はっきりとした「きみ」の存在が、主体には見えていないのかもしれません。「きみ」へのアプローチは、「きみをなす無数の問い」から辿ろうとしたわけですが、その「無数の問い」すらも、無数であり捉えどころがないかもしれません。ましてや、そこから形成される「きみ」は尚更捉えどころがないといえるのかもしれません。ただ、主体は「きみ」を見つめることを決してやめないと思います。視線の力強さだけは、この歌から終始感じることだからです。
あまりうまくこの一首を読めてはいませんが、上句の「きみをなす無数の問い」というところが、妙に心に残り、何度も何度も立ち止まる一首です。


