「10月の短歌」と題して、10月に関わる短歌を現代短歌を中心にピックアップしてみました。10月に詠まれたと思われる歌もあれば、別の月に詠まれている歌もあります。
10月といえば、秋真っただ中でしょう。スポーツの秋といわれるように運動会や体育祭も開催されることが多い季節です。秋の味覚もおいしくなってくる頃です。近年は、10月31日にハロウィンでの盛り上がりも見られます。
10月の異称は「神無月」。神無月という名称は、八百万の神々が陰暦10月に出雲大社へ集まるため、それぞれの地域から神様がいなくなるという説が有力です。反対に、出雲地方は神様が集まるため「神在月」と呼ばれています。
二十四節気では「寒露」「霜降」の季節です。
小学生、中学生、高校生などが10月の短歌をつくったり、鑑賞したりする際の参考にもなればと思います。
10月の短歌
十月の雨をみてゐるフライドポテトに指汚すひとの背後の
| 作者 | 魚村晋太郎 |
| 歌集 | 『銀耳』 |
tankalife「フライドポテト」とありますが、ファストフードでの場面でしょうか。おそらく店内だと思いますが、窓の向こうには十月の雨が降っています。そして主体はその雨を見ているのです。雨を見ているだけならば何気ない光景ですが、「フライドポテトに指汚すひとの背後の」と詠われることで、この光景が何気なくはない光景に変わってしまうように感じます。「ひと」は目の前に座っている知り合いかもしれませんし、偶々その場にいた見知らぬ別の客かもしれません。ただ、「指汚す」「ひとの背後」から感じられる距離感を考えると、目の前にいる人物を指していると見た方がいいかもしれません。そうなると、主体が意識を向けているのは目の前のその人ではなく、その人の背後になるでしょう。また「指汚す」といういい方も冷静さを感じさせ、もう目の前の人に対する興味が薄れているような雰囲気がここから感じられないでしょうか。十月の雨はしばらく止まないでしょう。その雨が物語るものは何なのか、色々と想像をかきたてられる一首です。
出戻りの夏に汗ばむ十月のすべての人道はローマに通じ、ず
| 作者 | 黒瀬珂瀾 |
| 歌集 | 『空庭』 |



ことわざ「すべての道はローマに通ず」を下敷きにしている一首ですが、連体形か終止形かわかりにくい部分や、語の切れ目をどこに置くか迷うところがあり、なかなか読みが難しい歌です。まず四句をどう読むかについて、「すべての人/道は」と「すべての人道は」とが考えられますが、一字空けやルビがないことから、素直に「人道」と読みたいと思います。また「夏に汗ばむ十月の」と続けて読んでいたのですが、「夏」と「十月」が少しずれていることを考えると、「汗ばむ」で一旦切れる二句切れと捉えた方がいいのかもしれません。出戻りのあった夏に汗ばんでいる状況があり、その後しばらくして十月がやってきたというイメージでしょうか。もしくは季節外れの夏の暑さが十月まで引き続いていたということでしょうか。その場合は二句三句がつながって読めますが、このあたりの読みに迷うところです。さて下句ですが、「すべての人道」がローマに通じるのであれば、こんなにも世の中は乱れていないのかもしれません。この歌の本意としては、できればすべての人道がローマに通じることを望んでいるのでしょう。「ローマに通じ」と一旦述べられているところにそのような思いが垣間見えます。しかし「、ず」と続き、やはり現実は同じ目的地に行き着いていないことを痛感しているのではないでしょうか。全体的な状況の把握は難しいのですが、人口に膾炙した言葉を引き合いにして、結句の「通じ、ず」の読点における転換から、期待と現実の落差を表している点がとても興味深く、印象に残る一首です。
ノーバンでボールを受けるきみがいるユーフォルビアの揺れる十月
| 作者 | ほんだただよし |
| 歌集 | 『パパはこんなきもち。~こそだてたんか~』 |
| 詞書 | 息子とのキャッチボールは、やはりパパの夢である。 いつの間にか、上達している。 構えているところへ、パパもうまいこと投げているけどね。 |



「ユーフォルビア」はトウダイグサ科の植物で、サボテンタイプや低木タイプなどそのかたちはさまざまあるようですが、「揺れる」とあるので風に揺れやすい草花タイプのユーフォルビアではないかと思います。さて、詞書にあるように親子でキャッチボールをしている場面です。ノーバンでボールを受けるというあたりに、キャッチボールを通して息子の成長をひしひしと感じている様子が伝わってきます。このときの光景は将来いい思い出として思い出されるのでしょうか。そのとき、キャッチボールとともに浮かぶのは、きっとユーフォルビアなのでしょう。ユーフォルビアによって、十月という季節、そしてこの場所で子息子とキャッチボールをしたという記憶が強く彩られるのだと思います。「ユーフォルビア」と「揺れる」の「ゆ」の音も読んでいて心地よい一首です。
就職が決まった十月 年老いたアポロにベージュの首輪を買った
| 作者 | 千葉聡 |
| 歌集 | 『海、悲歌、夏の雫など』 |



「アポロ」とは愛犬の名前です。歌集において、この歌が収められている一連では、すでにアポロは亡くなっていることが窺えますので、これは就職が決まった、かつての十月を思い出している歌でしょう。就職が決まった時点で、アポロはすでに年老いていたのでしょう。「ベージュ」の色合いが、アポロにはぴったりの色だったのかもしれません。就職が決まったとき、一般的には自分が誰かに贈り物をするよりも、誰かから「おめでとう」といわれて、場合によっては贈り物やお祝いをもらうケースが多いかもしれません。しかし、ここでは就職が決まったお祝いに、もらう側ではなく、あげる側になっている主体がいます。就職が決まったことのうれしさを、何よりも愛犬と分かち合いたいという思いが滲み出ているのではないでしょうか。もう「アポロ」がこの世に存在しないという状況が、このときの記憶を一層かけがえのないものとして響かせている一首です。
十月へと向かう電車の中にいて電車の玩具で遊ぶ子を見る
| 作者 | 鈴木ちはね |
| 歌集 | 『予言』 |



「十月へと向かう電車」に不思議さを感じます。それは、電車の向かう先といえば駅名や地名を想像しますが、そのような空間的な位置ではなく、「十月」という時間的な位置が示されているからです。いや、少し現実的な捉え方をすると、九月末に乗った夜行列車や、深夜を超えて運転される最終列車であれば、そういういい方もできるかもしれません。日付をまたげば確かに十月になるでしょう。となれば、時間帯は夜を想像してもいいのではないでしょうか。ただ、あまり現実的に捉えるよりも十月という大きな季節へ向かうと捉えた方がいいのかもしれません。さて、そのような季節の変わり目を感じさせる電車において、子どもが電車の玩具で遊んでいた光景を見た場面です。電車の中で電車の玩具という点が面白く感じますが、そこから想起されるのは入れ子のような構造ではないでしょうか。ひょっとすると自分もそのような、窮屈な入れ子のような日常に巻き込まれているのかもしれないと主体は感じたのかもしれません。そう思うと、十月へと向かうことは、希望にあふれたベクトルだけではないような雰囲気が感じられてきます。果たして、向かう先の十月は開放なのか閉塞なのか、そんなことを考えさせられる一首です。
軽いのだけど決して軽くはないものを鞄につめて十月をゆく
| 作者 | 荻原裕幸 |
| 歌集 | 『リリカル・アンドロイド』 |



「軽いのだけど決して軽くはないもの」とは、まるでなぞなぞのようでもありますが、現実的に見ればどういうことでしょうか。初句の「軽い」はグラムで測れるような実際のものの重量を指しているのでしょう。二句三句の「軽くはない」は、ものの実際の重さというよりは、時間的な要素を含んだ思い入れの重さのようなものを思い浮かべるのがいいのかもしれません。鞄に入れるものとして、ペン、手帳、ノート、本、スマホ、パソコン、折り畳み傘、写真など色々ありますが、いずれにしてももち運ぶことができる程度のものでしょう。その中に、主体の思い入れや愛着のあるものがあるのかもしれません。あるいは大切な人からの贈りものかもしれません。鞄につめていくということは、肌身離さずもち歩くイメージが浮かんでくるでしょう。大切な何かとともに十月にいる主体の姿が凛として感じられます。音の面でいえば、二句八音の字余りは「軽くはないもの」の重さを表しているように感じられます。少し理屈で読んできましたが、ここでふと思うのは、冒頭で触れたようになぞなぞのままとして読んだ方がひょっとすると面白いのかもしれないということです。あまり理でつめていくと、この歌のよさが失われそうで、細かくどうこういうよりも「軽いのだけど決して軽くはないもの」を言葉そのままに受け取り、あまり詮索せず、それって一体何だろうと終始思いながら、歌を最後まで読むことが、この歌にとっては想像も歌の広がりも最もふくらむのではないかとそんな気のする一首です。
(スコッティがもうなかったと)十月のシーツまくりあげては咳
| 作者 | 野口あや子 |
| 歌集 | 『眠れる海』 |



「スコッティ」はティッシュペーパーを指しているのでしょう。風邪を引いているのでしょうか。「咳」を「せき」ではなく「しわぶき」と読ませている点が注目を引きます。シーツをまくりあげたのは、ティッシュを探すためでしょうか。いや、「(スコッティがもうなかったと)」が先にあるので、ティッシュがないことはまくりあげた時点でもう気づいていたのでしょう。そうなると、咳が出るときにティッシュで押さえることができないとわかっているので、咳をカバーするものとしてシーツをまくりあげたのではないでしょうか。不意に出る咳は抑えようがありませんが、咳が出る一瞬スコッティがなくなったことが脳裏をよぎったのでしょうか。その記憶がシーツをまくりあげる行為をとっさに導いているように思います。スコッティ、十月、シーツ、咳とあり、季節感や生活感を感じさせると同時に、初句二句の括弧書きや「しわぶき」のルビなどによって、どこか孤独感やさびしさを湛えているように感じる一首です。
フライパンにバター落として溶けるまでふと長くなる十月の朝
| 作者 | 奥村知世 |
| 歌集 | 『工場』 |



十月の朝、朝食を用意している場面でしょうか。バターを使う朝食は何でしょう。ベーコンとほうれんそうの炒め物でしょうか、あるいは卵を使ったフレンチトーストなどでしょうか。とにかくバターが熱されて溶けるまでを待っている時間が、まさにこの歌に詠まれた時間です。「ふと長くなる」は、溶けるまでしばらく待っている時間そのものであることは間違いないのでしょう。しかし、それ以上に、バターが溶けるまで、主体があれこれと思いを巡らせ、色々と考える時間こそが、十月の朝の時間を長く感じさせている要因なのかもしれません。それは、いいことも悩みも、仕事もプライベートも、本当に色んなことがないまぜになっていて、バターが溶けるまでの時間を埋め尽くしていたのではないかと想像します。ただ、あれこれと思考はあったにしても、この朝に悲愴な感じはまったくありません。ゆっくりとバターが溶けるように、主体の心も穏やかに十月の朝の時間を感じているのではないでしょうか。
すばらしくはれる日がくるとおもって
プール出したまま
もう10月です
| 作者 | 今橋愛 |
| 歌集 | 『としごのおやこ』 |



子どもがまだ小さいのでしょう。夏には、庭やベランダで使用できる家庭用ビニールプールを何度も使っていたのではないでしょうか。それが九月、十月となり、七月や八月のような暑い日が減ってきても、しまうことなく外に出したままだったのでしょう。もちろん毎回片づけてもいいのですが、空気を入れるのが大変ですから、次に使うときまでそのまま置いていたのでしょう。ただ結局は夏真っ盛りほど使用頻度は増えず、気がつけば十月となっていたのです。「すばらしくはれる日」の表現が印象的で、晴れの日がくることを信じていた主体の気持ちも浮かびますし、その晴れの日がいい天気であることはもちろん、子と一緒に過ごす一日としてもきっとすばらしい日になることが予定されているような、そんな素敵な時間をこの表現から受けとることができるのではないでしょうか。
朝靄が雪のごとくに覆いいる山現るは秋の十月
| 作者 | 花山周子 |
| 歌集 | 『屋上の人屋上の鳥』 |



朝靄がかなり濃く、遠くの山並みが真っ白なさまに充ちている朝だったのでしょう。十月ですから、まだ雪は降っていないでしょうが、「雪のごとく」とある通り、雪が降り積もったときのような光景を思い浮かべるほどの白さだったことが窺えます。「動かざること山の如し」ではありませんが、一般的に山といえば、そこにどっしりとそびえていて動かないイメージがあるでしょう。しかし、この歌の「山現る」には、山の静的な印象ではなく、むしろ動的な感じがいきいきと表れているように感じます。朝靄をかぶりながら、山の存在が前面に押し出されてくるような表現であり、この十月の山の存在感が充分に感じられる美しい一首ではないでしょうか。
十月はガムシロップの透明度 光合成の回路を落とす
| 作者 | 笹本碧 |
| 歌集 | 『ここはたしかに 完全版』 |



十月をガムシロップの透明度に喩えたところに興味深さを感じます。ガムシロップは確かに無色で透明に近いのですが、粘度があり完全な透明感とは少し異なるでしょう。その若干の不透明感を伴った透明度が、夏の最中でも冬真っただ中でもない十月という季節を表すのに合っているのかもしれません。下句の「光合成の回路を落とす」は、植物全般のことをいっているのでしょうか。それとも自分自身を植物に喩えて詠っているのでしょうか。あるいはどちらともかもしれません。植物にとって光合成はまさに生きていく仕組みですが、その「回路を落とす」というのは生存をストップさせることに他ならないでしょう。もちろん夏に比べて十月は日射量が減るため、光合成の速度が落ちるという意味合いもあるでしょう。作者はこのとき病気を患っており、自分自身の生と死に対して深く考えざるを得なかったのだと思います。そのような思いが植物の光合成に重なって感じられたのではないでしょうか。十月という季節、そして生存するとは何かを改めて考えさせられる一首です。
疲労がさらに疲労を呼べば気持ちのみ十月は春のウシュアイアまで
| 作者 | 生沼義朗 |
| 歌集 | 『関係について』 |



仕事でしょうか。疲れが溜まっているところに、激務によってさらに疲労が蓄積されてしまう様子がよく伝わってきます。疲れたときは、何をするのがいいのでしょうか。家でゆっくり休んだり、おいしいものを食べたり、温泉につかったり、どこかに出かけて思いきり発散したり…など人それぞれですが、この歌は、どこかへいくのではなく、気持ちだけ遠くの地へ遊ばせているところが面白く感じます。実際自分が旅行するわけではないのですが、気持ちだけはウシュアイアまでいったつもりになっています。ウシュアイアは、アルゼンチン南端のフエゴ島に位置する街で、かつては世界最南端の都市とされていました。南半球ですから季節は日本と反対で、日本が十月であれば、ウシュアイアは春です。疲労が増していく中で、春のウシュアイアを思い浮かべることが若干疲労軽減に役立っているのでしょうか。それともただ現実から目を背けたくて、日本から遠い地へ気持ちを飛ばしているだけでしょうか。主体はウシュアイアにいったことがないかもしれませんが、存在を知っているということは憧れがあるのでしょう。憧れは、疲労が増すほど強くなっていくかもしれません。今すぐ体はその場所にいけなくても、気持ちはすぐにでも自由自在に世界中をはばたくことができるのです。厳しい疲労を負う現実においても、心の自由さを教えてくれる一首ではないでしょうか。
黐の木の垣の隙より十月のプールの水面をりをり光る
| 作者 | 沢田英史 |
| 歌集 | 『異客』 |



「黐の木」は、鳥を捕らえるためのトリモチの原料が採れることから名がついた常緑高木です。プールが登場しますが、学校でしょうか。黐の木が植えられている垣の傍を通ったのでしょう。その垣の隙間から、十月のプールが見えたのです。屋内プールではなく、外のプールでしょう。十月ですから、もうプールでは誰も泳いでいないでしょうが、その水面がきらりと光っていたのです。「をりをり」とあるので、ずっと光っているのではなく、陽の当たるタイミングや、主体の見る角度によって、光ったり光らなかったりしていたのでしょう。特に何かが起きるわけではなく、日常の静かな場面ですが、だからこそ、この水面には主体の心の穏やかさのようなものが投影されているように感じます。もし慌ただしい日々を送っていれば、あるいは気持ちがささくれ立っていれば、とてもこのような視点でプールを見ることはできないでしょう。いや、プールすら視界に入らないかもしれません。この歌からは、プールの水面の光る様子を見つめることができる心の余裕が充分に感じられ、あまり目立たない歌かもしれませんが、安らぎを感じる一首です。
家中に塩が溜まってゆくように赤子は泣けり十月の夜を
| 作者 | 吉川宏志 |
| 歌集 | 『夜光』 |



よく「赤ん坊は泣くのが仕事」などといわれますが、赤ん坊は泣く生き物です。もし全然泣かなかったら、その方が心配になるかもしれません。しかし、そうはいっても、親の側としては、あまりにも泣かれ続けると精神的に参ってしまうことも確かです。仕事で疲れているし、明日も早く起きないといけない中、夜泣きで起こされる状況も大変なものです。「家中に塩が溜まってゆくように」という喩えが魅力的ですが、赤ん坊が泣いているこの状況はとてもそんなことをいっていられないくらいつらい夜であることがひしひしと伝わってきます。あやしてもなかなか泣き止まないのではないでしょうか。そして一旦泣き止んだと思って寝かそうとすると、またすぐに泣き始める。そんなことの繰り返しなのではないでしょうか。泣き声の総量は相当なものになっているでしょう。この家はやがて塩で埋もれてしまうかもしれません。人間が生きるうえで塩は欠かせないといいますが、息もできないほどの塩に埋没してしまっては元も子もありません。泣き声に悩まされる状況は、子の成長という時間が解決するしかないとはわかっていても、それまでの息苦しさの伝わってくる一首です。
十月の青磁の空に擦過傷ひとすじ残しジュラルミン機は
| 作者 | 松平盟子 |
| 歌集 | 『うさはらし』 |



十月の澄んだ青空を「青磁の空」と捉えているところに、まず魅力を感じます。そんな空を飛行機が飛んでいった様子を詠っていますが、飛行機でも航空機でもなく、「ジュラルミン機」と表現しているところに、より金属物質的なイメージが強調され、独特の雰囲気が表れているのではないでしょうか。ジュラルミン機が残した軌跡、あるいは飛行機雲でしょうが、それを「擦過傷」と捉えているのは、主体の心がどこか傷を抱えているからなのかもしれません。ジュラルミン機はただ飛んでいるだけであり、傷を残そうと飛ぶわけではありません。擦過傷と見ずにはいられない主体の心は、決してこの十月の空のように晴れているわけではないのではないでしょうか。「青磁の空」の鮮明で明るいイメージに対しての「擦過傷」。「ひとすじ」の擦過傷が、十月の空に鮮やかに、そして深く刻まれる一首です。
シャッターの音ももゆらに十月のアロエの花を古きカメラに
| 作者 | 水沢遙子 |
| 歌集 | 『空中庭園』 |



カメラでアロエの花を撮影している場面でしょうか。「もゆら」があまり見慣れない表現ですが、「玉や鈴が触れあってカラカラと鳴る音」を指す言葉です。カメラで写真を撮るときの醍醐味のひとつは、シャッター音ではないでしょうか。カメラの性能はもちろんですが、シャッター音に惹かれてカメラを選ぶ人も少なくないでしょう。この歌もシャッター音に注目していますが、シャッターを切ったときの音が「もゆら」を導き出したのだと思います。「古き」カメラというところも味わいがあるでしょう。その家で昔から使われてきた年代物のカメラかもしれません。デジタルではなくフィルムでしょうか。フィルムのカメラも味があるでしょう。そのようなカメラで撮るアロエの花はどのような写真に仕上がるのでしょうか。いや、写真の出来云々よりも、このシャッター音を聞きながら、今この瞬間アロエを撮っているということが何よりも充実した時間に感じられる、そんな一首だと思います。
十月も終わらんとして安らぐに商店街にかぼちゃは躍る
| 作者 | 松村正直 |
| 歌集 | 『風のおとうと』 |



十月でかぼちゃといえばハロウィンでしょう。十月の終わりの、しかも夕方か夜ではないでしょうか。主体は季節の移り変わりに安らぎを感じているのでしょう。しかし、ハロウィンのかぼちゃの飾りものなどは、まだきらきらと商店街に揺れているのです。主体は、この光景をあまりいいようには捉えていないのでないでしょうか。「安らぐに」の助詞「に」を順接と採るか逆接と採るかで読みが変わってきますが、この歌では心の穏やかさとハロウィンの賑やかさを逆接でつないでいると採るのがいいと思います。実際、歌集において、この歌の次には〈ハロウィンを流行らさんとする勢力をふかく憎みて釣り銭を受く〉とあり、ハロウィンの盛り上がりをそれほどよしとしていないことが窺えるのではないでしょうか。かぼちゃが滑稽に映っているかもしれません。踊るかぼちゃをどのように見るかは人によって、あるいはそのときの気分によってさまざまです。その姿を楽しいと見るのか、騒がしいと見るのか。十月の終わりにかぼちゃの飾りはしばらく揺れ止みそうにありません。
朝顔と呼びゐたれども十月になつても咲いてゐる 青い花
| 作者 | 石川美南 |
| 歌集 | 『架空線』 |



ここでいう「朝顔」は、昔学校で育てたような一般的な朝顔を指しているのだと思います。その場合の主な開花時期は七月から九月頃だと思います。しかし、この歌では十月になっても咲いている朝顔が詠われています。「朝顔と呼びゐたれども」とあるので、十月に咲いているその「朝顔」は実は学校で育てた朝顔とはまた別の「朝顔」なのではないでしょうか。最後の「青い花」という、どこか突き放したようないい方もそれを物語っているのかもしれません。確かに十月になっても朝顔のような花を見かけることはありますが、厳密にいえばそれは一般的な朝顔とはまた別の朝顔のようです。例えば、琉球朝顔や西洋朝顔は十月に見頃を迎えます。大きな括りでは朝顔であっても、分類上細かく見ていけば、朝顔と「○○朝顔」は別の花であるわけです。この歌ではその区分けがそれとなく示されているのかもしれません。「呼びゐたれども」というどこか仰々しいいい回しが、十月に咲く青い花に対するやや遠い距離感を表しているようで、興味深く感じられる一首です。
足もとの草が尋ねる「十月の光さえぎるおまえは誰か」
| 作者 | 野樹かずみ |
| 歌集 | 『路程記』 |



歌集において、この一首が収められた一連には〈アウシュビッツゆきの列車を嘲うよき隣人に挨拶をする〉や〈汚れたるビニール紐が足首にからまるいたるところに国境〉などの歌があり、掲出歌に登場する「足もとの草」は、そのような地における草なのかもしれません。草が直接言葉を発したわけではありませんが、草から強く問われている感じがしたのでしょう。自分はこの草の前に立って十月の光を遮っているけれど、果たして自分は光を遮るような存在なのだろうか、自分という存在は一体何なのだろうか、と。草を経由していますが、本当は自分が自分に尋ねた問いかけだったのではないでしょうか。この問いに対してすぐに回答を出せるのでしょうか。主体自身も迷い続けているような印象を受けますし、すぐに答えは出ないのではないでしょうか。回答はいずれ時間がもたらしてくれるのかもしれません。
十月の新月の夜の探しもの探してるうちに自分が消えた
| 作者 | 九螺ささら |
| 歌集 | 『ゆめのほとり鳥』 |



新月ですから、月の姿が見えない夜です。そんな新月の夜に探し物をしているのですが、探し物は見つからない様子です。それどころか「探してるうちに自分が消えた」とあり、これをどう解釈すればいいものか、何とも謎めいた一首です。ただ、必ずしも現実として論理的に捉える必要はないのかもしれません。純粋に探し物の途中で自分が消えたという状況を、新月という月の姿が見えない夜と重ね合わせて楽しめばいいのかもしれません。少し論理的に解釈するならば、次のように考えるのはどうでしょう。探し始めたときは、見つからないなあ、どこにいったのだろう、あのとききちんと片づけておけば、などと色々余計な思考が大半を占めていたのかもしれませんが、探し物に集中するうちにそのようなわがままともいえる思考が退いていき、もう探すという行為だけに集中する自分になっていたのではないでしょうか。探す行為そのものになりきった自分を「自分が消えた」、つまり自分の余計な思考や感情が消えたというふうに捉えられなくはないでしょう。ただ、このような読みよりも、最初に示した、実際「自分」が本当にこの世から消えてしまったと読む方が面白いかもしれません。とにかく新月の夜の探し物は何か不思議なことが起こる、それだけは確かなように感じる一首です。
スクイズの走者のように来てほしい十月の空ぽっかり澄みて
| 作者 | 江戸雪 |
| 歌集 | 『駒鳥』 |



上句の比喩が鮮やかで驚かされます。スクイズはバッテリーの意表をつくから成立するプレーであり、実際の野球でもドラマを生みますが、スクイズと聞けば、やはり思いがけないというイメージが浮かぶのではないでしょうか。三塁走者がホームベースへ一気に駆け込んでくるように、主体にとって大切な人もこの場にやってきてほしいという思いが表れています。主体は野球でいえばキャッチャーのポジションで待っているのでしょう。そこから見える広大な十月の空は「ぽっかり」澄んでいるのです。特にぽっかり澄んでいるような日だからこそ、事前の連絡も予告もまったく必要ないから、とにかくここにきてほしいという思いが一層強く募っていくのではないでしょうか。「スクイズの走者のように来てほしい」に勢いが感じられ、とても印象に残り忘れがたい一首です。
十月のきれいな雲で埋めていくカレンダーの真っ白い日々
| 作者 | 杉﨑恒夫 |
| 歌集 | 『パン屋のパンセ』 |



十月に入ってしばらく経った頃ででしょうか。十月のカレンダーには特に予定が書かれていません。「真っ白い日々」とあるので、ひとつも書かれていないのかもしれません。何かと忙しい現代ですが、とにかく予定が埋まっている人が頑張っているとされる傾向があったり、あるいは予定が埋まっていないと不安になる人もいるようです。しかし、本当の豊かさはあまり予定を詰め込みすぎず、余白を設けて生きることではないでしょうか。「真っ白い日々」なら最高です。そのようなすばらしい日々を「十月のきれいな雲で埋めていく」とは何と素敵なことでしょうか。その発想も魅力的ですし、空を眺めながらそのように過ごす日々は、きっと毎日が充実して生きる実感に充ちているものになるのでしょう。秋空の雲というのも風情があり、読んでいて心落ち着くとともに、このような日々にあこがれを抱いてしまう一首です。
をやみなく十月の雨ふる夜にとなりの部屋に夫の咳ふたつ
| 作者 | 小島熱子 |
| 歌集 | 『ぽんの不思議の』 |



「をやみなく」は、途切れることなく降り続く様子を意味する言葉ですが、十月の夜にひとときも止むことなく、ずっと雨が降り続いていたのでしょう。このとき、主体は夫と隣り合った別の部屋にいたのです。ふすまか扉で仕切られているのでしょう。夫の姿は見えないけれど、咳がふたつ聞こえてきました。それだけといえば、それだけの状況なのですが、隣の部屋にいることと「咳ふたつ」から、主体と夫との距離感が伝わってくるのではないでしょうか。別々の部屋にいるなんて仲が悪いのではないかと考えてしまいますが、おそらくそうではなく、ずっと一緒の部屋にいなくても互いを信頼している関係性であり、主体は夫の咳をしばし気にかけたのだと感じます。雨が止まない夜という背景も風情を感じさせる一首です。
あの年は十月に百合が咲きはじめ赤と青だけの虹がでてゐた
| 作者 | 森井マスミ |
| 歌集 | 『まるで世界の終りみたいな』 |
| 詞書 | 二〇一二年夏、空地の百合は咲かなかつた |



百合の開花は夏ですが、詞書にある通り、2021年、空き地の百合は夏に咲かず、十月に咲いたということでしょうか。季節外れに咲くという事態がどこか不穏な雰囲気を漂わせます。そして、虹も出ていたのですが、それは赤色と青色の二色だけの虹だったのです。もちろん虹の見え方は人によっても国によっても異なりますが、日本では一般的に七色でしょう。黄色や緑色が薄れて、赤と青だけが強く前面に出ていた虹なのでしょうか。物理的な視点でいえば、可視光線の波長の長い短いによって決まりますが、偶々波長の長さが赤と青を出現させる長さに偏っていたのかもしれません。「あの年」といういい方も、主体にとっては特別な一年を指しているのかもしれません。百合の開花時期、そして虹の偏った色と、一首全体を通して穏やかならぬ様子と不思議な印象を残していますが、色彩が鮮やかさをもって迫ってくる一首です。
十月の磯にひろへば手のひらにひとでは石のごとく乾けり
| 作者 | 大辻隆弘 |
| 歌集 | 『汀暮抄』 |



「ひとで」もさまざまなかたちがありますが、星型のひとでをイメージしました。そもそもひとでは、人の手のかたちに似ているところから名づけられた生き物です。そのひとでを主体は手のひらに載せたわけですが、手のひらとひとでが見た目からも由来からもやはりつながっているように感じます。十月の磯ですから、海の水は冷たくなっている頃でしょう。ひとでが落ちていたのは誰かが釣りあげて放置していたからでしょうか。主体が拾ったときにはもう水分もあまりなく乾いていたのです。いや、すでに死んだひとでだったのでしょう。「石のごとく」がもうこれ以上水分を吸収することができない様子をまざまざと表しているのではないでしょうか。互いに似たもの同士の手のひらとひとでは密着しているのに、命あるものと命途絶えたものの断絶がその境界から感じられ、印象駅な一首です。
ゆくりなくプラスティックの椅子に降る十月の雨、ときどき落ち葉
| 作者 | 近藤かすみ |
| 歌集 | 『雲ケ畑まで』 |



「ゆくりなく」は突然の意味。公園でしょうか。カフェのテラスでしょうか。近くに木々があるような場所で、プラスティックの椅子がいくつか置かれていたのでしょうが、その椅子に十月の雨が突然降ってきました。雨の降り方はさまざまで、ぽつぽつとくる雨もあれば、急にざっと降ってくる雨もあります。ここでは、予想もしていなかったけれど、突然降ってきた様子が伝わってきます。興味深いのは「ときどき落ち葉」です。雨が降る中に落葉も降ってきたのです。強い雨風だったのかもしれません。プラスティックの椅子を打ち音を鳴らす雨に対して、落葉は音もなく椅子のうえに落ちてきたのではないでしょうか。この音の対比が想像でき、緩急の面白さを味わうことのできる一首だと思います。
電車を待つわずかな時間にきみだけが猫を見つけた十月の夜
| 作者 | 初谷むい |
| 歌集 | 『わたしの嫌いな桃源郷』 |



十月の夜の駅でしょうか。もうすぐ電車がやってくるわずかな時間に「きみ」が猫を見つけたという場面です。猫を見ることはそれほど珍しい光景でもなく、どちらかといえば日常によくあるような光景かもしれません。しかし、注目したいのは三句の「きみだけが」です。「きみだけが」猫を見つけて、主体自身はその猫を、あるいは別の猫であっても見つけることができなかったのです。ここに表れているのは、主体と「きみ」との大きな隔たりなのではないでしょうか。主体は、本当は「きみ」と同じように猫を見つけたかったのではないでしょうか。いや、正確には猫を見つけるという「きみ」の行動と同じことをしたかったのではないでしょうか。つまり、「きみ」が猫ではなく、もし犬を見つけていたのなら、主体自身も犬を見つけたかったのだと思います。仮に「きみ」が猫を、主体が犬を見つけたとしても、それは主体の望む状況ではなかったのでしょう。「きみ」が猫なら自分も猫ですし、「きみ」が犬なら自分も犬なのです。「きみ」と同じ視線、同じ状況にあるということが、「きみ」と主体との距離の近さにつながるのかもしれませんが、この歌ではそうならなかったことによる距離の遠さが表れているようで印象深い一首です。
十月の満月 総理大臣のやりがいを語っている両親
| 作者 | 郡司和斗 |
| 歌集 | 『遠い感』 |



家族団らんのひとときでしょうか。主体と両親が居間でテレビを見ている場面かもしれません。両親が総理大臣のやりがいを語っているのですが、総理大臣がどう感じているかは本当のところは総理大臣以外はわからないでしょう。実際やってみた本人しか本当のやりがいがあるのかないのかも含めてわからないでしょう。ですから、今この場で展開されているのは、あくまでテレビや新聞を通して見て感じたやりがいになるでしょう。もちろん国民は、総理大臣のやりがいを自由に想像して語って何ら問題ありません。そういう会話がなされる夜はそう何度もないかもしれませんし、ひょっとするとこのときだけかもしれません。主体はそのようなさまざまを承知で両親が語る様子を眺めているのですが、一体どのような思いでそれを聞いているのでしょうか。この歌にはあまりに手がかりがありませんが、「十月の満月」だけがこのときの雰囲気を知っているのかもしれないと思うと、急に「十月の満月」の存在感が大きく感じられてくるのではないでしょうか。一字空けも効果的に感じる一首です。
出会してあいさつまでの数秒に十月らしい量感はあり
| 作者 | 吉野裕之 |
| 歌集 | 『ざわめく卵』 |
| 備考 | ※正式には、吉野裕之の「吉」は上の横棒が短い漢字。 |



「出会して」とあるので、久しぶりに誰かと出会った場面でしょうか。あるいはよく知っている人なのだけれど、職場や家といった場所ではなく、思いもかけない街中で偶然出会った場面でしょうか。どちらの場合も、思いがけない点では共通しており、挨拶が若干遅れたのでしょう。スムーズな挨拶にならなかったことの微妙な間みたいなものは、自分だけでなく相手も感じているのではないでしょうか。しかし、その間を単なる気まずさと捉えるのではなく、「十月らしい量感」として把握したところにこの歌の魅力を感じます。この挨拶までの数秒の間に互いの関係性が縮まる様子や、十月という季節の存在が存分に表れているのではないかと思います。日常の会話ではあまり用いない「量感」という言葉も歌の中にしっかりと存在感を示している一首ではないでしょうか。
いつからの蟬を寒蟬といふならむ途切れぬこゑの十月に入る
| 作者 | 花山多佳子 |
| 歌集 | 『胡瓜草』 |



「寒蟬」は秋の季語で、通常は立秋を過ぎて秋の気配の漂う頃に鳴く蟬をこう呼ぶようです。もちろん言葉の定義の上ではそうですし、主体ももちろんそのことは承知しているのですが、「いつからの蟬を寒蟬といふならむ」というのは、語義の話ではなく、主体が感じている実感の上の話でしょう。夏という期間を通して蟬の声は途切れることなく聞こえてきます。もしどこかであきらかに断絶の期間があれば、それ以後を寒蟬と呼べばいいんだとわかりやすいことでしょう。しかし、そのような断絶がないため、いつからをいうのだろうというちょっとした疑問が湧いてきたのです。そして、季節は十月に移り変わったのです。結局、振り返ってみれば、いつが境目だったのだろうとやはり明確な回答は出なかったのではないでしょうか。でも、それで構わないのです。それほど蟬の声は夏を通して鳴き止まなかったのではないでしょうか。特に大きなイベントが起こる歌ではありませんが、ちょっとした問いと季節の推移が感じられる、とても味わい深い一首です。
通り雨降るとしもなしスクールの破風に十月の陽は輝けり
| 作者 | 万造寺ようこ |
| 歌集 | 『そよぐ雀榕』 |



「破風」とは、屋根の側面にある、傾斜した三角形の端やそこに取り付けられる板を指す言葉です。耐久、防火、雨風の侵入を防ぐなどの役割があります。この歌の「スクール」はイギリスの語学学校を指しているのですが、その学校の破風に十月の陽が当たって輝いている情景を詠っています。通り雨が降っているというわけではないけれど、破風が輝いているのが印象に残ったのでしょう。雨が降っていれば、より一層破風に注目して、そこが輝いているように思えるのかもしれません。しかし、通り雨がなくても、不意に視線は学校の破風に導かれ、十月の陽の輝きを感じているのです。一定期間だけ語学学校に通っているという状況がそう感じさせているのではないでしょうか。もしもこれが住み慣れた日本で、期間限定もなければ、学校の造りおよびそのときの日差しにそこまで注目していなかったかもしれません。限りある経験と思うからこそ、外界に対しての意識が開かれて感じられる部分が増えてくる、そのようなことを思わせてくれる一首です。
錆びてゆく廃車の山のミラーたちいっせいに空映せ十月
| 作者 | 穂村弘 |
| 歌集 | 『シンジケート』 |



車は走っているときは見た目も美しく、移動手段としても優れていると思いますが、それだけに古くなって廃車になると非常にものがなしさを感じます。一台だけならまだしも「廃車の山」となるとさらにさびしさを感じずにはいられません。しかし、この歌はただ廃車を詠って終わりではありません。捨てられて錆びている車ですが、そのミラーには十月の澄んだ空が映し出されているのです。廃車となってもまだ美しい空を映さなければならないという苦痛のようでもあり、廃車となったけれどまだ空を映し出せるという希望のようでもあるでしょう。「いっせいに空映せ」には若干希望に近い思いが垣間見えるかもしれません。「錆びてゆく廃車の山」と、ミラーに映る鮮やかな空との対比が印象に残る一首です。
『ベストカー』書店に余ること多し二〇〇八年十月ののち
| 作者 | 松木秀 |
| 歌集 | 『RERA』 |



『ベストカー』は講談社ビーシーと講談社が編集発行する自動車雑誌で、書店では車やバイク関連の棚でよく見かけます。そんな『ベストカー』が2008年10月以降、売れ残りが多くなったということを詠っています。理由は何でしょうか。おそらく2008年9月に起こったリーマン・ショックがひとつの原因ではないでしょうか。景気の悪化によって、車のような高額な支出が抑えられるようになり、結果として車を取り扱った雑誌の売れゆきも落ち込んだのではないでしょうか。この歌は雑誌名、そして年月が示されているところに具体的な時代が表れていますが、雑誌の売れゆきで、そのとき世界や日本がどういう状況であったのかを後々振り返ることができるのかもしれません。事実を淡々と詠っているだけのようですが、記憶や記録からこぼれてしまいそうな、日常の小さなところに目をつける着眼点が光る一首だと思います。
バスとバスすれちがいたる一瞬に十月の風は光ってみえる
| 作者 | 小島なお |
| 歌集 | 『乱反射』 |



バスに乗っているのでしょうか。それとも道端からバスがすれ違う様子を眺めているのでしょうか。どちらの可能性もありますが、風や光を直に感じている様子からすると、後者の状況を想像します。さて、十月の風を感じているのですが、本来風自体は目に見えません。何か物が揺れて初めて、ああ風が吹いていると気づくでしょう。しかし、この歌では「風は光ってみえる」と詠われており、この捉え方がとても新鮮に感じました。バスとバスがすれ違った瞬間、その隙間にまさに光る風を感じたのでしょうか。車と車では互いの隙間が大きすぎて、このようには感じなかったのかもしれません。バスという長方形同士がぎりぎりにすれ違うからこそ、そこに生まれた風があったのでしょうし、陽の当たり具合によってか、とにかく風が光って感じられたのでしょう。視覚の歌ですが、風という通常見えないものを見る美しい一首に感じられます。
なまなまと死者は近づくうつし世に在らずと知りたる十月尽より
| 作者 | 秋山佐和子 |
| 歌集 | 『豊旗雲』 |



「うつし世」とは、今生きている現世のことです。生者と死者を分けるものは何でしょうか。一般的には肉体の存在かもしれません。一方、魂は永遠不滅という考え方もあります。生者の側から死者が見えないだけで、もしかすると死者の側からは生者が見えているのかもしれません。死者の肉体はもうこの世にはありませんが、死者の存在は日が経つごとに強く感じられるものかもしれません。「なまなまと死者は近づく」がまさに生々しい手触りをもって読み手に伝わってくるのではないでしょうか。歌集において、この歌が収められた一連を読むと、歌人である藤井常世の追悼を詠んでいることがわかります。藤井常世は2013年10月30日に亡くなりました。「十月尽より」というのは十月末のことですが、藤井常世の死の翌日から、その死をこの世に生きる者として感じている様子を意味しているのだと思います。このような背景はありますが、仮に背景を知らなくても「なまなま」とした実感、そしてあの世この世、死者生者などさまざまなことを考えさせられる一首ではないでしょうか。
負けてから優しくなった先輩とストレッチをする十月の朝
| 作者 | 小俵鱚太 |
| 歌集 | 『レテ/移動祝祭日』 |



「ストレッチ」とあるので、スポーツクラブか何かでしょうか。「負けてから優しくなった」のは「先輩」でしょう。先輩はそれまで、すごく厳しくて全然優しくなかったのかもしれません。先輩自身、自分は強いという自信があったのではないでしょうか。しかし、大会なのか練習試合なのかで一度負けてしまったのです。「本当に強い人間は、人の弱さを知っている人間だ」などとよくいわれますが、勝負の世界でも同じように、敗北を知っているから、本当の勝利も強さもさらに理解することができるのかもしれません。先輩は敗戦の後、主体に優しくなったのでしょう。一緒にストレッチをするという状況は以前と変わったものではありませんが、先輩の心、主体に接する態度、そして主体の側も先輩に対する気持ちが変わったことで、この十月の朝のストレッチの時間は、過去のものとはひと味もふた味も違って感じられたのではないでしょうか。さりげないひとときですが、先輩と主体との関係性や気持ちの通いようの変化を感じることのできる一首で好感のもてる一首です。
対岸の光を土手に見にいこうって約束をして暮れる十月
| 作者 | 山崎聡子 |
| 歌集 | 『手のひらの花火』 |



十月の夕方でしょうか。対岸の光を土手まで見にいく約束を誰かと交わしたのです。この場では約束をしただけであり、その後、実際に対岸の光を見たのかどうかはわかりません。しかし、この歌から感じられるのは、約束をした今この瞬間の気持ちの高ぶりや盛り上がりであり、それを今この瞬間に大切に味わうことができることが素敵だと思います。約束が果たされるかどうかも大切ですが、今この瞬間に限っていえば、約束をしたという事実が、約束が果たされるかどうかよりももっと重要なことなのではないでしょうか。「対岸の光」とは何でしょうか。どこか憧れの象徴のようにも感じます。対岸へは簡単にはたどり着けないけれども、その光を見ることはこちら側の土手から可能なのです。つまり、対岸の光に直に触れられなくても、それを見つめることはできる。そしてそれを見る場所へいくことも約束することができるのです。光へとつながっていく約束は、希望への第一歩のような存在に思えて、印象深い一首です。
十月は石像の白きアポロンとなりて洋館の窓辺に冷えつ
| 作者 | 高野公彦 |
| 歌集 | 『甘雨』 |



ギリシア神話のアポロンに限らなければ、美術館にいけば白い石像を見ることができますし、美術の教科書にも石像が掲載されているでしょう。石像と聞けば、ダヴィデ像やラオコーン像を思い浮かべる人もいるかもしれません。このように石像は色々とありますが、この歌ではアポロンという具体名に注目し、そんな石像と自分自身を重ねているのです。アポロン像と洋館の取り合わせはどことなく静寂のたたずまいがあり、ひと気のなさを感じます。「冷えつ」という表現からも、周囲から相手にされることのない、アポロン像の孤独感が際立って感じられるのではないでしょうか。同じように主体も、この十月の日に孤独感を感じているのかもしれません。自分のことであれば、窓辺で冷えないように対処することも可能でしょうが、このひとときは窓辺に冷える以外にどうすることもできなかったのかもしれません。ひとりの人間が静的な石像に類似していく様子が面白みをもって感じられる一首です。
否定としてさらには拒絶として灌ぐ十月の雨 中年の頰
| 作者 | 日置俊次 |
| 歌集 | 『ノートル・ダムの椅子』 |



歌集において、この歌が収められた一連には〈十月の闇を熟れさすざくろ見ゆ 云ひたきことはおし殺せ、ああ〉の歌も収録されています。掲出歌と合わせて読めば、どこか否定的で抑圧された印象を感じるのではないでしょうか。掲出歌は、十月の雨が主体の頰を打っている場面ですが、「否定」「拒絶」という語が続けざまに出てくることで、この雨を契機として主体は心の中に抱えていた負の感情を、より一層膨らませてしまったのではないかと感じます。雨は雨としてただ降っているだけなのに「否定」「拒絶」と感じてしまうところに、そして自分自身を「中年」と呼ぶところに、どこか屈折した何かが内面に潜んでいるのではないかと想像します。あまり光が見えない歌ではありますが、雨が上がれば主体の気分も変わるのでしょうか。十月の雨が冷たく頰を伝うさまがありありと浮かぶ一首です。
眼窩あさきモンゴルびとに親しみてすぐす十月あたたかきかな
| 作者 | 山田富士郎 |
| 歌集 | 『羚羊譚』 |



「眼窩」とは眼球周辺の頭蓋骨のくぼみのことですが、「モンゴルびと」は生まれつき眼窩のくぼみ具合が浅いのでしょう。モンゴルびとだけでなく、日本人もそうですが、確かに欧米人に比べると彫りが浅く、眼窩が浅い顔立ちです。そのモンゴルびとと一緒過ごす期間が十月にあったのでしょう。「親しみて」は、もちろんそのモンゴルびとの人柄や親切心によるところが大きいでしょうが、眼窩が浅いという身体的共通項がより一層親しみを感じさせる要因になっていることも否定できません。同じような顔立ちの人と一緒にいると変な警戒心をもたず、安心感をもつことができるでしょう。きっとこの十月一緒に過ごした時間は、主体にとってとても快適な時間だったと感じます。結句の「あたたかきかな」に、親しみ、感謝などさまざまな思いが滲み出ている一首です。
十月に眼があるのなら奥二重その眼のなかに鶫があそぶ
| 作者 | 服部真里子 |
| 歌集 | 『遠くの敵や硝子を』 |



「十月」という季節に対して、生物の身体の一部である「眼」を想像している発想にびっくりさせられます。他の月ではなく「十月」であるところも意味があるのかもしれません。そして十月に眼があるとすれば「奥二重」といいきっています。通常の二重と違い、奥二重は一見一重と見間違うこともあり、よく見ないと二重とわかりにくいでしょう。そのような秘密めいた雰囲気がこの歌には表れているのではないでしょうか。眼の中では鶫が楽しそうに遊んでいます。眼の中で遊ぶ鶫を見ているのは、主体の眼でしょうか、十月そのものの眼でしょうか、あるいはまた別の思わぬ眼なのかもしれません。眼が場であり、その眼を見る眼がまた存在するような不思議な感覚のある歌で、同時に読み手のこちらも十月の眼に見つめられているような印象も覚える一首です。
十月を大きな布で包みたい それにお金と時間がかかる
| 作者 | 瀬口真司 |
| 歌集 | 『BEAM』 |



十月を大きな布で包むという発想が飛び抜けていますが、なぜ包みたいのでしょうか。布で包んで贈り物のように誰かに差し出したいということでしょうか。それとも、何かを隠したいから周りから見えないように、大きな布で包みたいということでしょうか。このあたりは明示されていませんので想像するしかありません。いずれにしても、大きな布で包むのは「お金と時間がかかる」と認識してはいるのです。ですから、主体にとっては金銭的にも時間的にも労力をかけるとしても、十月を包むことに大きな意義があるのでしょう。しかし、お金も時間もかかることから、十月を大きな布で包むという行為は、現段階では実現できていないのだと思います。しかし、「包みたい」という思いはそれなりに強いように感じます。色々と考えると不思議な歌ですが、想像の世界の比重が高い上句に対して、やたらと現実的な下句という対比で見れば、それも妙に面白く感じられる一首です。
十月の光届かぬ堂内に菩薩は耳をながく垂れおり
| 作者 | 中津昌子 |
| 歌集 | 『風を残せり』 |



仏堂内に入って菩薩を見ている場面でしょうか。菩薩は堂内にずっと鎮座しているわけですが、光の届く入口付近の手前側ではなく、堂の奥深くに位置しているのでしょう。「十月の光届かぬ」とありますが、十月の太陽の高さの関係から奥まで届かないのだと思います。太陽の高度が低くなる冬であれば、ひょっとしたら堂の奥まで届くのかもしれません。さて、興味深いのは「耳をながく垂れおり」です。菩薩の耳が長いといえばそれまでですが、この歌からは、光が届かないから耳が長く垂れているという因果関係のようなものを感じてしまい、そこが面白さを引き出しているのではないでしょうか。また光が届かないことで、耳がだんだん今以上に垂れていくような雰囲気も感じられ、菩薩が生きているような印象を受けます。実際に耳が伸びるということはないでしょうが、堂内の暗がりでは、耳が少しずつ少しずつ伸びていっているイメージが浮かび、何とも興味を惹かれる一首です。
十月の学生は秋のシャツ清く肘笠雨にぬれて走れり
| 作者 | 小島ゆかり |
| 歌集 | 『折からの雨』 |



「肘笠雨」とは、にわか雨のことですが、笠をかぶる暇もなく突然降ってきて、肘を頭のうえにかざしてしのぐ様子から名づけられた言葉です。学生がにわか雨に濡れながら走っている様子を眺めているのでしょう。校内かもしれません。近距離の移動であれば、傘を差さずに雨の中を走り抜けることもあります。ノートや鞄、そして自らの肘を頭上にあげて走っている状況を想像します。その走る姿が、そして雨に濡れるシャツが、とても清く感じられたのでしょう。手を頭上にあげることで、手で隠れていたシャツの全体がくっきりと把握できた様子が浮かびます。十月という季節の雨であることも、夏の暑さとも冬の寒さとも違い、清らかさを一層増して感じられるような気もします。肘笠雨という言葉が喚起するイメージが大変効果的に組み込まれた一首ではないでしょうか。
ふたり分の茗荷をつめり止むと見えてまたも降りだす十月の雨
| 作者 | 宮本永子 |
| 歌集 | 『青つばき』 |



十月の雨の降る一日だったのでしょう。雨がしばらく止んだ時間帯を見計らって、茗荷を摘むために庭先か畑へ出たのではないでしょうか。ここで「ふたり分の茗荷」というのがいいですね。自分の分と家族の分でしょうか。出荷のための収穫ではなく、家で食べる分だけを摘んだところに生活の一端が垣間見えるようで惹かれます。さて、茗荷を摘んでいたところ、さっきまで止んでいた雨がまた降り出してきたのです。止んでいた雨が再び降り出すというのはよくある光景かもしれませんが、茗荷と雨が何ともいえない風情を感じさせるのではないでしょうか。ささやかなひとときですが、自然と人との関係や生活のたたずまいが感じられ、味わいのある一首です。
背開きといふ語すずしも十月の昼の畳にぱたり寝ころがる
| 作者 | 栗木京子 |
| 歌集 | 『綺羅』 |



十月の昼の畳に寝転がりながら、「背開き」の語を思い浮かべているのでしょう。「背開き」とは、魚を捌くとき、背筋に沿って切り腹の皮を残して開くやり方を指す言葉です。鱚や穴子などを調理するときに使われることの多い方法です。そんな「背開き」を涼しげな言葉として感じていますが、腹から開く腹開きに比べ、確かに涼しい感じがします。腹開きの場合は、内臓はさっと取り出しやすいですが、腹切りをイメージすることもあり、背開きのような風通しのよさは感じないでしょう。十月の昼は暑くもなく寒くもなく、畳に寝転がるにはちょうどいい時間帯かもしれません。畳に触れる背中の感触の心地よさ、清々しい感じが「背開き」に通じていて、言葉の語感や意味合いが、主体自身の心のありようにつながっている素敵な一首ではないでしょうか。
テレマンのトランペット協奏曲に十月尽の耳の力抜く
| 作者 | 大森益雄 |
| 歌集 | 『歌日和』 |



ドイツの作曲家テレマンのトランペット協奏曲を聴いている場面でしょう。主体はこの曲を普段好んで聴いているのかもしれません。十月も終わりとなり、いよいよ秋が深まっていく頃合いです。「耳の力抜く」というのは、力みなくゆったりとした状態でいるということでしょう。耳というのは、元々あまり力を自由に入れたり抜いたりする場所ではありませんし、力加減を普段意識することはほとんどないでしょう。しかし、トランペット協奏曲を聴いていると、意識が耳に集中し、自分の耳の力の入り具合を感じたのではないでしょうか。そこで、耳の力を抜いて、耳を思いのままに曲に任せている様子が浮かんできます。拒絶のイメージは一切なく、曲が耳へ心地よく流れ込んでくるさまが感じられるのではないでしょうか。「耳の力抜く」という余裕のある表現が印象に残る一首です。
十月は学生実習の季節 どことなく落ち着かず過ぎゆく
| 作者 | 永田紅 |
| 歌集 | 『春の顕微鏡』 |



歌集において、この歌の次には〈さまざまな失敗をする学生のため準備する1.5倍量〉が詠われています。つまり、「学生実習」は参加する側ではなく、迎え入れる側の立場なのです。実習に臨む学生ももちろん緊張しているとは思いますが、受け入れる側としても落ち着かない日々が続いていることが窺えます。迎え入れるに当たって物品の準備は必要でしょうし、スケジュールの作成、実習期間の担当割り振り、当日の補助やレポートのチェック、振り返りのサポートなど数え上げれば本当にさまざまなことを考えないといけないと思います。そのようなことから、十月をそわそわして過ごす主体の姿が浮かび上がってきますが、それは実習をよりよいものにしたいという主体の強い気持ちの表れからかもしれません。実習期間が終われば、この落ち着かさなさもなくなると思いますが、そう思うと十月のそわそわした感じは今しか味わえない気分だと思えば、どこか愛おしくなる、そんな気もする歌ではないでしょうか。
十月の孤独のごとくとがりたるペンシルを持ち細き眉引く
| 作者 | 有沢螢 |
| 歌集 | 『致死量の芥子』 |



眉を引いている場面です。「ごとく」が全体にかかるのか一部にかかるのか、どこにかかるかで読みが変わりますが、ここでは「とがりたるペンシル」にかかると読み、アイブロウペンシルの尖りを「十月の孤独」に喩えていると捉えました。一般的に「孤独」と聞けば、捉えどころがなく、ぼんやりとしたイメージが浮かびことが多いと思いますが、ここでは尖ったイメージとしての孤独が表現されています。もちろんペンシル自体が孤独を備えているわけではなく、主体がそのように感じたからこそ、ペンシルの尖りが孤独と重なったのでしょう。尖った孤独というのは、ぼんやりと漠然とした孤独よりも、より主体に刺さってくる孤独なのでしょう。そんなブスリと刺してくるような孤独を追いやるように、眉を引いているのではないでしょうか。孤独を感じながらも、自分を見つめて眉を引く姿に力強さを感じる一首です。
門ごとに石炭を盛り冬を待つ吐魯番に十月の日はあたたかし
| 作者 | 時本和子 |
| 歌集 | 『運河のひかり』 |



中国北西部に位置する新疆ウイグル自治区の都市トルファンを訪れたときの一首です。トルファンはシルクロードの代表的都市として知られています。そのトルファンで、冬の到来に備えて、門ごとに石炭が積まれている光景を目にしたのでしょう。十月ですから冬本番はもう少し先でしょうが、すでに準備が進められているところに季節の移り変わりを実感したのではないでしょうか。旅においては名所旧跡ももちろんいいのですが、こういう生活の一端が垣間見える光景も旅の楽しみではないでしょうか。十月の太陽はまだあたたかく、石炭を盛るという街の生活の様子自体にもあたたかな思いを抱いている主体の姿が浮かびあがってくる一首です。
十月を迎えてもなお会食は院長令にて自粛継続
| 作者 | 犬養楓 |
| 歌集 | 『救命』 |



病院で救急の医師として勤務する作者の、コロナ禍を詠った一首です。コロナ禍においては、三密(密閉・密集・密接)を避けるようしばしばいわれたことを思い出す人も多いでしょう。したがって、歓迎会や忘年会、会食も控えざるを得ない状況が続きました。特に病院勤務の職員であれば、万が一自分が感染して、同僚や患者に感染させるようなことがあれば、たちまち病院の機能が滞ってしまうため、より厳しく、より長期に渡って自粛の継続が求められていたと思います。コロナ禍が終息した現在から振り返れば、ひとつの記録や記憶として冷静に見つめることができますが、当時はいつまで続くかわからない不安感の中における自粛であり、この一首はまさに当時のリアルな閉塞感を伝えてくれる歌ではないかと感じます。
空はビルをうつさないからビルにうつる十月の空はあんなにきれい
| 作者 | 宇都宮敦 |
| 歌集 | 『ピクニック』 |



三句以降だけを見れば、十月の澄んだ空が純粋にきれいだということが伝わる歌ですが、この歌の面白さは初句二句の「空はビルをうつさないから」によって醸し出されているでしょう。もしも空がビルを映すとすればどうなるのでしょう。その場合、この歌の反対をいくので、十月の空はあまりきれいではないということになります。空がビルを映すとすれば、ビルが映った空をもう一度ビルが映し出すことになるでしょう。その空にはまたビルが…と、いわゆる入れ子構造やドロステ効果のように、空とビルが互いにどこまでも映り合っていくのではないでしょうか。そうなると、ビルに映った空の姿も、ビルと空がごちゃごちゃとして入り組んでいることになり、ビルの窓にすっときれいな空を見ることはできなくなるのではないでしょうか。「空はビルをうつさない」は当たり前のようでいわれるまでは当たり前ではなく、いわれてみれば確かに「空はビルをうつさないから」ビルに映る空を、美しい空として眺めることができるのだという発見をこの歌は与えてくれるように感じます。
神無月、その他の短歌
10月は10月でも、「神無月」という表現、あるいは10月の異称や英語名に関わる短歌を取り上げています。
天王寺動物園前に行き合いしオクトーバーフェストに一人し飲めり
| 作者 | 永田淳 |
| 歌集 | 『光の鱗』 |



オクトーバーフェストとはドイツのミュンヘンで毎年十月に開催されるビールの祭典ですが、日本でも大阪を含め、各地で開催されています。仕事かプライベートかわりませんが、大阪の天王寺に何か別の用事で訪れたのでしょう。そこで偶々オクトーバーフェストが開催されている現場に出くわしたのです。元々の予定には入っていなかったわけですから、そのまま横目に通り過ぎることもできますが、主体は祭典に参加してビールを飲んだのでしょう。「一人し飲めり」なので、誰かと連れ立ってというわけにはいかなかったようですが、ひとりで飲む時間もそれはそれでいいものです。こういうイベントに偶然出くわすことは、予期していないだけに特別うれしいものですし、しかもそれが自分が興味をもてるものであればなおさらすばらしいことでしょう。場所もイベントも、そしてその後の行動も三十一音という短い中に具体的に端的に収められていて見事な一首だと思います。
神無月といふもどかしさ不随意筋のごとくすぢ雲曳かれてゆけり
| 作者 | 梶原さい子 |
| 歌集 | 『あふむけ』 |



「不随意筋」とは、自分の意思で動かすことができない筋肉のことで、心臓やほかの内臓の筋肉などがこれに当たります。自分の意思で動かせないことが「もどかしさ」として表現されているのでしょう。神無月の空でしょうか。空に浮かぶ「すぢ雲」は自分の力で出現させたり消したりすることはできませんし、移動させることもできません。ただ自分は雲の流れてゆくさまを見つめることしかできないのです。何か納得いかないこと、どうしようもないことが主体にも起こっている状況かもしれません。神無月という神が不在の月であることもどうもできない状況に関連しているようであり、本当は神頼みでもしたいのにそれさえもできない様子も浮かんできます。神無月と不随意筋の組み合わせが興味深く感じられ、もどかしい姿がひしひしと伝わってくる一首です。
木にのぼる機会のふえる神無月 鳥はたいがい横顔がいい
| 作者 | 藤島秀憲 |
| 歌集 | 『すずめ』 |



神無月になると木に登る機会が増えるのはなぜでしょう。仕事でしょうか、プライベートでしょうか。そのあたりが読み取れませんでしたが、主体が木に何度も登っていることだけは確かなようです。登る理由は別にして、「鳥はたいがい横顔がいい」がとても魅力的に映ります。鳥の顔が正面か横かなど普段あまり気にしたことがありませんし、しかもどの角度がいいかなんて考えたこともありません。しかし、主体は「横顔がいい」といっているのです。すべてではなく「たいがい」というところも逆に信ぴょう性があるように感じます。木に登って鳥の顔を見ている場面ですが、何でしょう、この歌からあふれ出てくるやさしさとも落ち着きとも穏やかさともいえるような雰囲気は。実際鳥の横顔を見ていないにもかかわらず、この歌を読むと、自然と顔がほころんでいきます。主体の、鳥に対する愛情を感じる一首です。
神無月半ばすぎしに払はれぬ蔓ありて咲くさむき朝顔
| 作者 | 蒔田さくら子 |
| 歌集 | 『標のゆりの樹』 |



神無月の半ばといえば、朝顔の開花の最盛期から少し時間が経過した頃でしょう。その頃に朝顔が咲いている光景を詠っていますが、「さむき朝顔」が、神無月半ばに咲いている様子を端的に表現しているのではないでしょうか。もちろん夏に比べて気温が下がっていることもそうですが、朝顔が咲いている姿そのものが「さむき」ものとして感じられたのでしょう。蔓が払われていないという状況から、この朝顔は園芸用というより、農作物の成長や収穫を阻害する雑草としての位置づけで、朝顔を見ているのではないでしょうか。そう考えると、「さむき」という語が示しているように、朝顔に対するやや冷ややかな視線を感じずにはいられない一首に感じます。
神無月されど綻びぬ星宿に掟といふを教へられをり
| 作者 | 小川真理子 |
| 歌集 | 『母音梯形』 |



手触りのある具体物が登場しないため、なかなか状況をイメージするのが難しい歌です。「星宿」とは星、星座を意味する言葉です。歌集において、この歌が収められた一連には魚座が度々登場するので、この歌の「星宿」は魚座のことを指しているかもしれません。さて、「神無月されど綻びぬ」とありますが、なぜ神無月であれば綻びが前提となるのでしょうか。月と星の巡りの深い関係があるのかもしれませんが、正直読み取れませんでした。「綻びぬ」「星宿」「掟」などから、全体のイメージとしては天命や宿命のようなものをイメージしたり、人間ひとりの力ではどうすることもできない理や流れのようなものを想像します。ただ、夜空に浮かぶ星座を見ていると、星座というのは人間の存在と比較して時間的にも空間的にも壮大であり、見つめているだけで何か新たな認識を与えてくれる存在であることは肯けるところがあります。主体もきっと何か感じるところがあり、それを「掟」として受け取ったのではないかと想像できる一首です。
蚊が鳴くと真夜妻言へりいのちなり神無月の寒さおして出でし蚊
| 作者 | 岩田正 |
| 歌集 | 『背後の川』 |



蚊といえば、暑い季節にたくさん湧いてくるものですが、この歌に出てくる蚊は神無月の寒いときに現れたのです。「寒さおして」というところが、わざわざ出てきた感じがして興味深く感じます。「蚊が鳴く」とありますが、蚊は鳴くのでしょうか。ブーンという耳につく音は、実際は羽がこすれている音のようですが、あれを「鳴く」といえば、鳴いているといえなくもありません。真夜に妻が鳴くといったという状況が面白く感じます。三句の「いのちなり」が蚊という存在の大きさを伝えているのではないでしょうか。体格の大小と命の大小は本来無関係だと思いますが、蚊という小さくてはかなくて弱々しい生き物が、寒い中出現したところに「いのち」の有りさまを見いだしたのではないでしょうか。自分、妻、そして蚊の命がそれぞれに際立って感じられる神無月の夜が印象に残る一首です。

