「6月の短歌」と題して、6月に関わる短歌を現代短歌を中心にピックアップしてみました。6月に詠まれたと思われる歌もあれば、別の月に詠まれている歌もあります。
6月といえば梅雨の時期で、雨の季節のイメージが強いでしょう。また紫陽花が見頃を迎えます。取り上げた短歌の中にも、雨を詠んだ歌が多いです。
六月の異称として「水無月」はよく知られていますが、「水無月」という語を取り入れて詠まれた歌も多くありました。
二十四節気では「芒種」「夏至」の季節です。
小学生、中学生、高校生などが6月の短歌をつくったり、鑑賞したりする際の参考にもなればと思います。
6月の短歌
善と悪とのどちらでもないものばかり揺れてわたしの庭の六月
| 作者 | 荻原裕幸 |
| 歌集 | 『リリカル・アンドロイド』 |
tankalife六月の庭に揺れているものは何でしょう。まず花や緑を思い浮かべますが、六月といえば紫陽花などがその候補に入るかもしれません。紫陽花は「善と悪とのどちらでもないもの」として捉えられるのでしょうか。植物に、人間のような善悪の区別を適用すること自体が稀であり、人間の側から見ると、例えば紫陽花は善悪どちらでもないものとなるでしょう。しかし、この歌で揺れているのは何も植物に限った話ではないとも思うのです。庭に揺れているもの、それは主体が生み出した数々の感情、思い、考え、記憶などかもしれません。「わたしの庭」という表現が、主体のもちものとしての庭に留まらず、主体が想像することで生み出された感情や思考の庭のような印象をもっているからです。目の前にあるのは現実の庭であると同時に、主体の思いがつくりあげた庭なのではないでしょうか。この日の庭に揺れているのは、善でも悪でもないフラットな状態のものであり、それは主体が判断を求めず、穏やかな心であるといえるのかもしれません。ついつい善悪の判断を下してしまいたくなる日々ですが、そのどちらでもない状態を感じられる「庭」に憧れを抱く一首です。
一年はまだ六月の一日でパスタのあとにパイの実を食う
| 作者 | 永井祐 |
| 歌集 | 『日本の中でたのしく暮らす』 |



一月始まりの十二月終わりで一年を見た場合、六月一日は一年の半分に達していない時期です。「まだ」にそれがよく表れているでしょう。さて、そのように捉えた六月にパスタを食べて、その後にパイの実を食べたことが詠われています。パスタもパイの実も、食べ物としては見た目もジャンルも全然違いますが、強いていえば、半濁音の「パ」から始まる言葉であることが共通しているでしょうか。無理に共通項を探す必要はありませんが、歌の流れとして、パスタときてパイの実がくると「パ」の頭韻が心地よく伝わってきます。日常の一コマといえばそうなのですが、これが十二月であれば同じようにパスタとパイの実を食べるのかどうかを考えると、やはり日常とはいえ、六月の一日の代替の効かない出来事として迫ってくる一首ではないでしょうか。
六月の雨をあなたが駆け抜けてバスに乗るのを校舎から見た
| 作者 | 工藤吉生 |
| 歌集 | 『世界で一番すばらしい俺』 |



六月の雨「に」ではなく「を」です。つまり、雨に向かって駆け抜けていったのではなく、雨の中をまさに駆け抜けている「あなた」の姿が浮かび上がってきます。雨とあなたとの距離感はほとんど感じられず、雨とあなたは一体化しているような印象があります。一方、主体は校舎からあなたを見ており、そこには一定の距離感があるでしょう。雨とあなたとの間よりも、主体とあなたとの間には近づきたくても近づけない隔たりがあることが窺えるのではないでしょうか。主体は本当は見ているのではなく、あなたと一緒に六月の雨を駆け抜けたかったのかもしれません。あなたがバスに乗った後、きっと六月の雨の音だけが残されていたのではないでしょうか。
六月の現実として降る雨のしずけさ 決意するということ
| 作者 | 田中ましろ |
| 歌集 | 『かたすみさがし』 |



何かを「決意する」とき、心の底から湧き上がるような熱量をもって、あるいは熱い思いが言動に全面に出てなされるケースがあると思います。しかし、この歌では見た目にわかりやすい熱さは感じられません。「六月の現実として」という把握の冷静な視線、そして「降る雨のしずけさ」というまさに静寂を湛えた時間が感じられるからです。熱さが感じられないからといって、決意の程度が弱いかというと、決してそうではありません。むしろ、静かであればあるほど、逆に怖ろしいほど揺るがない意志を奥底にもっているように感じられます。
六月のやさしい雨よ恋人のいる人が持つ雨傘の赤
| 作者 | 伊波真人 |
| 歌集 | 『ナイトフライト』 |



六月に降る雨にやさしさを感じています。「恋人がいる人」は主体を指すのでしょうか、それとも別の誰かのことでしょうか。あるいは面識のない人も含めて、地球上にいるすべての「恋人がいる人」を指しているのでしょうか。それらの人は赤い雨傘を差しているのです。傘に触れるのは「やさしい雨」であり、傘をもっている人までやさしさそのもののように思えてきます。赤が象徴するものは何でしょうか。愛や情熱でしょうか。赤から何を読みとるかは読み手に委ねられている部分はありますが、赤い雨傘ではなく「雨傘の赤」という収め方によって、赤色が読み手に印象に残るよう工夫された一首です。
鬱憂は濃さであるのか六月のわたくし濃くて椎ともなれり
| 作者 | 渡辺松男 |
| 歌集 | 『雨る』 |



「鬱憂」は憂鬱と同じ意味合いの言葉ですが、憂鬱に比べあまり見聞きしない分、初句でいきなり言葉そのものの魅力を感じます。その鬱憂が濃い淡いの基準で捉えられています。「六月のわたくし濃くて」とあり、「六月のわたくし」は濃いと感じているのでしょうが、ここで濃いというのは、鬱憂が濃い、つまりかなり気がふさがり沈んだ気持ちであることを指しているのでしょう。その濃さがある一定範囲を突き抜けると、どうなるのか。その結果が「椎」にもなったということなのです。濃すぎるがゆえに「椎」になるという発想というか体感というかが飛び抜けています。六月のじめじめとした気候が鬱憂を呼び、鬱憂が主体を椎にしてしまったのでしょうか。見た目は椎ではなくても、鬱憂の果てに感じる気持ちが椎の気持ちそのものと感じたとき、気持ちの面では椎であり、すなわちそれは主体は椎になったといえるのだと思います。
自己紹介うまくできない六月の排水口に毛は絡まって
| 作者 | 上坂あゆ美 |
| 歌集 | 『老人ホームで死ぬほどモテたい』 |



自己紹介が好きで得意な人もいれば、苦手でできればやりたくないと思っている人もいます。しかし、職場や学校など新しい環境に入るとき、必ずといっていいほど自己紹介を求められます。得意不得意に関わらず、自己紹介をしなければならない度に、うまくできない場合は自分が嫌になることもあるでしょう。自己紹介と「六月の排水口」に毛が絡まることは直接的には関係ないように見えますが、毛の絡まり具合が、自己紹介がうまくできない感じをよく表していると思います。ただし、排水口をきれいにしたからといって、途端に自己紹介がうまくなるわけではないでしょう。自己紹介と排水口の毛の絡まりは関係性がないとしても、自己紹介がうまくいかない理由の一端を、排水口の毛の絡まりにしておくことで、若干の心の安らぎが得られるのであれば、それはそれでいいのかもしれません。
六月の夢にも黄砂がふいていてきみの寝息がたまにつまずく
| 作者 | 榊原紘 |
| 歌集 | 『悪友』 |



春に多い黄砂ですが、どうやら六月の「きみ」の夢の中にも黄砂が吹いているようです。主体は「きみ」の寝息を傍で聞いているのですが、スムーズに一定のリズムを保っていた寝息が、時々引っかかる瞬間があるのでしょう。寝息が「つまずく」という表現が端的でありながら、状況を的確に表していてとても惹かれます。一般的に黄砂は呼吸器や循環器に影響を及ぼす場合も考えられるため、この歌の黄砂から寝息への展開は自然な流れに感じられます。寝息がつまずいた瞬間は、おそらく夢の中の黄砂がひどくなった瞬間と重なるのでしょう。実際、主体が「きみ」の夢の中を覗き見することはできないので、「きみ」の夢に黄砂が吹いているかどうかはわかりません。しかし、「きみ」の寝息のつまずき方から、主体が六月の夢の黄砂を思うところに魅力を感じます。
喩としてのあなたはいつも雨なので距離感が少しくるう六月
| 作者 | 笹川諒 |
| 歌集 | 『水の聖歌隊』 |



「喩」とはたとえのこと。「あなた」を「あなた」として捉えるのではなく、「喩」として見た場合、「あなた」は「いつも雨」なのでしょう。「あなた」を「あなた」以外の何かに喩えるとき、無数の選択肢がありますが、その中から「あなた」は「雨」として選ばれたのです。しかも、「いつも雨」であり、あなたに対する喩が毎回変わることはなさそうです。「いつも雨」の「あなた」であるから、雨の多い「六月」は「距離感が少しくるう」と詠われています。六月の雨はずっと降っている場合もあれば、突如降り出す場合もあるでしょう。また降っているかと思えば急に止んだり、降る予報だったのに降らないといったケースもあるでしょう。主体は、そんな「雨」すなわち「あなた」との距離感をつかみにくく感じているのではないでしょうか。表現として魅力的なのは「あなたはいつも雨のようだ」ではなく、「喩としてのあなたはいつも雨」であり、「喩」を起点として「あなた」の存在を計ろうとするところに魅力の根幹があると感じます。
六月の青葉若葉の照る道にときをり春の落葉ふるおと
| 作者 | 時本和子 |
| 歌集 | 『運河のひかり』 |



「春落葉」という俳句の季語があり、晩春に古葉を落とす椎や樫、楠などの常緑樹の落葉のことを意味します。この歌の「春の落葉」とはそのような落葉を指しているのでしょう。六月になれば、「青葉若葉」の存在が目立ちますが、その中に時々春の落葉が見られたのだと思います。「ふるおと」ですから、実際葉が落ちている途中の音でしょうか。枝から葉が剝がれ落ちた瞬間に、春の葉から春の落葉へと変化するのでしょう。主体は非常に注意深く葉を感じながら、この道を歩いていたのだと思います。青葉若葉が照る視覚的な上句から、春の落葉の降る聴覚的な下句への展開がスムーズに感じられる一首です。
六月のハイ・ウエイ ひとは座したまま運命を移動するとおもへり
| 作者 | 魚村晋太郎 |
| 歌集 | 『銀耳』 |



高速道路を車で走っている場面でしょうか。六月は雨の日が多いので、ひょっとするとこの日も雨が降っているかもしれません。何の先入観もなしに「移動する」という言葉を聞いたとき、最初にどんな姿や状況を思い浮かべるでしょうか。立っている姿でしょうか、座っている姿でしょうか。歩いているのでしょうか、それとも車を運転しているのでしょうか、電車やバスに乗っている様子でしょうか。さまざまな「移動する」があるわけですが、ここでは「ひとは座したまま」移動する姿が想像されています。何を移動するのかといえば「運命を移動する」のです。この表現が魅力的ですが、運命を自ら切り開くと考えるケースでは「座したまま」は少しマッチしないかもしれません。しかし、運命というのは自分の力を超えたもので、ある程度受け入れざるを得ないものと考える場合、「座したまま」はしっくりくるように思います。車であれば、運転席に座っているか助手席に座っているかでも大きく異なるでしょう。運転席なら座したままでも自ら進む方向や速度を決定することはできますが、助手席なら自ら決定することはできません。自ら運命という道を進んでいくのか、運命の方が自らに流れてきて結果的に「移動」という状況になるのか。考えれば考えるほど、「座したまま運命を移動する」には多くの含みが感じられますが、その幅の広さが一層歌を魅力的にしている一首だと感じます。
六月号「きょうの料理」はそり返る散らかっている円卓の上に
| 作者 | 染野太朗 |
| 歌集 | 『あの日の海』 |



NHKで放送されている料理番組「きょうの料理」のテキストが円卓の上に置かれています。六月号なので、初夏の食材を中心とした料理のレシピがまとめられているのでしょう。その六月号は単に置かれているだけではなく、そり返っています。しかも、円卓の上はきれいに片づけられておらず、散らかっているのです。そり返っているのは、特定のページをじっくりと見ていたからでしょうか。テキストのレシピを見ながら料理をつくっていたのかもしれません。そり返るテキストを冷静に見つめる目をこの歌から感じます。したがって、自分がこのテキストを見て料理していたというよりも、自分以外の誰かがテキストのレシピを見て料理していた状況を想像する方がしっくりくるように思います。閉じて置かれたテキストと、そり返って置かれたテキストでは受け取り方も変わってくるでしょう。そり返りに何かストーリーを思い浮かべてしまいそうな一首ではないでしょうか。
六月の月をホテルの窓にみてはるかなりきみのいる世界の樹
| 作者 | 正岡豊 |
| 歌集 | 『四月の魚』 |



「きみ」と主体は距離的に離れた場所にいるのでしょう。いや、「きみのいる世界」ですから、そもそも同じ世界にいるのかどうかも定かではありません。自分がいる世界と「きみ」がいる世界は全く違う世界なのかもしれません。「きみ」のいる世界の樹への想像は及ぶとしても、主体がその樹に触れることはきっと難しいのでしょう。ここで確かそうに思えるのは「六月の月」と「ホテルの窓」です。主体の確かな居場所に対して、「きみ」の世界はおぼろげで捉え難く、窓から月を見ていると、「きみのいる世界の樹」が一層「はるか」に感じられるのです。「世界の樹」という表現からは、神話などによく見られる、世界を成り立たせる根源的な存在としての世界樹を想像させ、単に距離の隔たりに留まらず、時間や生命といったものの遠さも感じられる一首ではないでしょうか。
さまざまのことありしかど六月の月の光は膝に来ている
| 作者 | 岡部桂一郎 |
| 歌集 | 『一点鐘』 |



これまでの人生で起きた「さまざまのこと」を振り返っているのでしょうか。それは短時間では語りつくせない、プラスのこともマイナスのことも色々とあったのでしょう。思いを馳せた後、ふと今の自分を見つめてみると、六月の月の光が膝まで届いていることに気がつきました。月の光は否定も肯定もせず、ただそこに訪れるだけでしょう。その光を見てどう感じるかは人間側の判断によるのです。このときの月の光はとてもやさしく感じられるものだったのではないでしょうか。満ち欠けを繰り返しながら地上を照らし続ける月の光は、すべてを包み込んでくれるような存在として主体の膝を照らしている、そんな一首ではないかと思います。
三階の一番隅の教室で英語の虹の詩を読む六月
| 作者 | 小島なお |
| 歌集 | 『乱反射』 |



学校の英語の授業の場面でしょう。六月に英語の虹の詩を読んでいますが、声を出して読み上げているのか、声を出さずに詩を読み解いているのか、あるいはその両方でしょうか。教室が三階の一番隅であることから、その教室の窓からはこれまでに何度も虹が見えていたのかもしれません。虹が見える教室で、虹の詩を読むという状況に鮮やかさが漂います。注目したいのは、三つの数字が詠み込まれている点です。「三階」「一番隅」「六月」とあります。数字を多用しすぎるとごちゃごちゃとした歌になりがちですが、この歌は数字が三つも使われていながら、そのような印象はありません。一と三は六の約数であり、無関係な数字同士ではないところもうるさく感じない要因なのかもしれません。数字がアクセントと限定を示し、効果的に活かされた一首だと思います。
六月の晴れ間の水に反射して通りの人の増えはじめたり
| 作者 | 花山周子 |
| 歌集 | 『屋上の人屋上の鳥』 |



雨の多い六月ですが、「六月の晴れ間の水」は、雨が上がった後にできた水たまりをイメージしました。道路は完璧な平坦ではありませんから、道路の窪みのあちこちに水たまりができるでしょう。そのような水たまりに晴れ間の光が当たって反射しています。通勤や通学の時間帯でしょうか、あるいは雨が上がって外を歩く人が多くなったからでしょうか、通りの人がだんたんと増えていったのです。通りの人たちは、水に反射してまるできらきらとした水の光に包まれたように感じられます。そこには、人が増えたことによる、ごみごみとした鬱陶しさはありません。人が増えることは光が増えることそのものであるように感じられ、通りの空間は明るさを増していくばかりに思われる一首です。
六月の止まらない大山は優しい顔したダンプカーみたいだ
| 作者 | 池松舞 |
| 歌集 | 『野球短歌 さっきまでセ界が全滅したことを私はぜんぜん知らなかった』 |



阪神タイガースの大山悠輔選手を詠った歌です。この歌は2022年6月7日の頁に掲載されていますが、6月7日のセ・パ交流戦で福岡ソフトバンクホークス相手に、大山選手はタイムリーを放ち勝利に貢献しました。大活躍の6月の様子を「ダンプカー」に喩えていますが、この「ダンプカー」は褒め言葉でしょう。面白いのは「優しい顔した」がついていることです。ダンプカーのイメージとして、その力強さから「優しい」とは相容れない印象がありますが、大山選手の顔だけはダンプカーのイメージではなく、まさに「優しい顔」なのです。ダンプカーのような働きと、優しい顔とのギャップに益々魅了され、大山選手に対する作者の心寄せを感じる一首です。
六月の北半球の体温がじわりと上がる カルピス飲もう
| 作者 | 笹本碧 |
| 歌集 | 『ここはたしかに 完全版』 |



春から夏にかけて徐々に気温が上がっていく様子を「六月の北半球の体温がじわりと上がる」と詠っています。気温といういい方は人を主としたものですが、北半球を主とした場合、それは「体温」なのでしょう。北半球という大きな捉え方も魅力的であり、「じわり」という表現が効果的だと感じます。「カルピス飲もう」には、日常の些細なことながらもとても幸せな感じを受けます。豪華な料理を食べるわけでもなく、旅行にいくわけでもありません。しかし、気温がじわりと上がる六月にカルピスを飲もうと思い立つことは、それにもまして素敵なことなのかもしれません。飲んだという結果よりも「飲もう」と思うこと、そこに惹かれる一首です。
ヴェランダは散らかっていて六月の台風がもうじきやってくる
| 作者 | 土岐友浩 |
| 歌集 | 『Bootleg』 |



日本で台風といえば九月、十月のイメージが強いですが、もちろん一年を通して台風は発生しており、六月の台風が詠われています。威力のある台風がやってくるときには、飛ばされないように事前にヴェランダのものを片づけておく必要があるでしょう。植木鉢や物干し竿などを置いている場合は部屋の中に入れておかないと、自分の被害だけでなく、飛ばされたものが近所の家や人に迷惑をかけることもあります。主体はヴェランダが散らかっていることを認識していますし、片づけないといけないなあと感じているのだと思います。でも実際は、まだヴェランダは散らかったままなのです。台風がやってくることはわかっているし、飛ばされる可能性があることもわかっています。片づけた方がいいし、片づけないと後で困ることになることも想像できています。けれども、どうにも片づけようという行動に移る気配がこの歌からは感じられないのです。本当のところは、散らかったままの状態で、何事もなく、台風が通り過ぎるのが一番いいと思っているのではないでしょうか。「もうじき」とわかっていながら、散らかっている状態であることに、ヴェランダの片づけに対する主体の葛藤が見え隠れする一首ではないでしょうか。
六月の受話器より雨はしぶしぶと自らの鬱伝えてきたり
| 作者 | 松平盟子 |
| 歌集 | 『うさはらし』 |



携帯電話やスマホが普及する前の、固定電話の「受話器」を指しているのだと思います。受話器から聞こえてくるのは、誰かからの話し声ではなさそうです。聞こえてくるのは「自らの鬱」であり、それを伝えてくるのは「雨」なのです。「自らの鬱」は一体誰の鬱なのでしょうか。主体自身の鬱でしょうか、それとも雨の鬱でしょうか。状況を分かりやすく捉えると、受話器の向こう側の場所では雨が降っていて、受話器越しに雨音が聞こえてくるといったことかもしれません。しかし、「雨」「しぶしぶと」「自らの鬱」と並んでくると、まるで雨自身が鬱を伴っているようでもあり、それを聞いている主体が鬱を感じているようでもあります。「しぶしぶ」というオノマトペも効果的で、陰鬱に降る雨の様子も想像できますし、「自らの鬱」にもつながる表現だと思います。受話器と雨の存在感が光る一首です。
画用紙にうすいみどりと灰色の絵具のしずくがにじむ六月
| 作者 | 岸原さや |
| 歌集 | 『声、あるいは音のような』 |



「絵具のしずく」をどのように捉えるかが難しいところですが、画用紙に六月の雨の粒が当たって、画用紙に描かれていた絵が少し滲んだ場面でしょうか。画用紙に滲んだのは「うすいみどり」と「灰色」で、やや暗さを帯びた印象を受けます。赤や黄といった暖色でもなく、青系の寒色でもなく、どちらかといえば濃さを伴わない「うすいみどり」と「灰色」は六月の雨の降る雰囲気にマッチしているように感じます。画用紙に絵具がだんだんと滲んでいく様は動的であり、「うすいみどり」と「灰色」が織りなす世界が、絵具自らの意思で展開していくようにも思われます。この歌には人間の存在をあまり感じませんが、その分、色が主役となって歌の雰囲気をつくりあげている、そんな一首ではないでしょうか。
うすみどりふちにさしゐてなほ白き六月の百合かひなに重く
| 作者 | 水沢遙子 |
| 歌集 | 『空中庭園』 |



「かひな」は腕のこと。百合といえば白をイメージしますが、ここでは百合の色について非常に丁寧に詠われています。百合は真っ白ではなく、「うすみどり」が縁にうっすらとさしている様子が示され、それでもなお百合は白さを保っていることが詠われています。色が丁寧に捉えられることで、単に白い百合というよりも、百合の美しさが確かに伝わってきます。そして歌は色から重量へ展開し、美しい百合が重く感じられることが詠われており、重さを伴った白さに、百合のもつ重量感や存在感を感じることができる一首となっているのではないでしょうか。
換へるとき頭の中で書いてゐて〈襁褓〉が書ける六月のわれ
| 作者 | 大松達知 |
| 歌集 | 『ゆりかごのうた』 |



「襁褓」の読み方は「むつき」で、つまりおむつのことです。子育ての場面を詠った歌であり、まだ小さい我が子のおむつを交換しようとしているところです。「襁褓」という漢字を書ける人はそれほど多くいないと思いますが、「われ」もまた子が生まれる前や生まれた直後は「襁褓」を書けなかったのかもしれません。しかし、おむつ交換を繰り返すうちに「襁褓」が書けるようになったのでしょう。それは単に漢字で書けるというだけの話ではなく、だんだんとおむつ交換に慣れてきたことそのものを表しているのではないでしょうか。おむつ交換をしながら、頭の中で漢字を書いている余裕すらあるのですから、六月時点でおむつ交換は手慣れたものになっているのだと思います。漢字を書くこともおむつを交換することも、ともに成長していることが窺える一首です。
いま産めば父を産むかも ひそやかに検査薬浸す六月の朝
| 作者 | 岡崎裕美子 |
| 歌集 | 『わたくしが樹木であれば』 |



歌集においてこの歌が収められている一連「父を運ぶ」には父の死が詠われています。父の死後、六月のある朝に妊娠検査薬で妊娠の有無を確認したのでしょう。「ひそやかに」とある通り、非常に静かな時間を感じます。主体は父の死、そして新たな命の誕生の両方を何度も見つめ続けているのではないでしょうか。死と生が切っても切れない関係として膨れ上がってきたとき、「いま産めば父を産むかも」という思いに至ったのではないかと思います。一連の最後には〈吾はただ命をはこぶ水であれ死も産まれるも見届けたきに〉という一首がありますが、命というのは死んで終わりではないと感じているのでしょうし、命の連環について思いを巡らせているのではないでしょうか。父の死後の日々においては、まだ父のことを考える時間が占める割合が多いのでしょう。「いま産めば」は、命の連環を思う際、父の存在がいかに大きいかを物語っているように感じます。死と生のつながり、そして深さが伝わってくる一首です。
六月のあなたの痛みを牽きてゆく海馬、その荷へ花を放らむ
| 作者 | 川野芽生 |
| 歌集 | 『Lilith』 |



「海馬」はタツノオトシゴを指す場合もありますが、ここでは記憶に関与する脳の部位のことをいっているのだと思います。しかし「牽きてゆく」や「荷」という語があることで、「海馬」は単に脳の一部位に留まらず、まるで命をもった「馬」のような躍動感ある存在として提示されているように感じます。「六月のあなたの痛みを牽きてゆく」のは主体自身の海馬でしょうか。主体は「あなたの痛み」を記憶から消してしまいたいのかもしれません。しかし、自分ではその記憶を完全に制御することができず、海馬に痛みの記憶が残り続けている状態なのではないでしょうか。せめてできることといえば、その記憶に対して花を放ること。花を放るとは中々解釈が難しいのですが、痛みの記憶に対して優しさをもって接するようなイメージを想像しました。その痛みを拒絶するのではなく受け入れることによって初めて「あなたの痛み」は海馬において終わりを迎えるのかもしれません。
めずらしくない鬱に入るめずらしくない六月の雨の中にて
| 作者 | 松木秀 |
| 歌集 | 『RERA』 |



晴れの日と雨の日、晴れの季節と雨の季節。晴れと雨を比べたとき、鬱を感じるときはどちらでしょうか。天候が人の気分に及ぼす影響は決して小さくないと思います。主体が鬱を感じている場面ですが、場合によってはうつ症状やうつ病の「鬱」を指しているのかもしれません。「めずらしくない鬱」ということは、今回が初めてのことではなく、過去何度も「鬱に入る」経験をしたことがあるのでしょう。「六月の雨」も主体にとっては「めずらしくない」ものであり、この雨は「鬱」と関連づけられた雨という点で珍しくないのだと思います。鬱も雨もいたって普通のことになってしまっていますが、「めずらしくない」が繰り返されることにより、逆に「鬱」も「六月の雨」も”普通”を超えた輪郭を帯びているように感じます。淡々と詠われている様子がありますが、読んでいくと「鬱」も「六月の雨」も小さな突起物のように読み手に伝わってくる一首だと思います。
街角でわれの心を振り向かすデジャヴュ デジャヴュと六月の雨
| 作者 | 杉﨑恒夫 |
| 歌集 | 『パン屋のパンセ』 |



「デジャヴュ」とは、初めて体験する出来事なのに以前にも経験したことがあるように感じる現象です。既視感ともいわれます。六月の雨降る街角で、主体はデジャヴュを感じたのではないでしょうか。それは雨の景色だったかもしれませんし、雨の音だったかもしれません。心を振り向かせる何かが、六月の雨の時間に存在していたことは確かなようです。この歌のもう一つのポイントはオノマトペとしての「デジャヴュ」でしょう。雨が降る「じゃぶじゃぶ」という音と「デジャヴュ デジャヴュ」がどこかしら重なります。意味としてのデジャヴュはもちろんですが、音としてのデジャヴュが雨が降る音に呼応しているのではないでしょうか。六月の雨を契機として、五感をフルに刺激してくる様が伝わってきて印象に残る一首です。
六月が歩いてきたりむかうからひかりのなかに白いブラウス
| 作者 | 小島熱子 |
| 歌集 | 『ぽんの不思議の』(『小島熱子歌集』現代短歌文庫) |



ある季節がやってくる、あるいは何月がやってくるといういい方はよく聞きますが、六月が歩いてきたという表現を日常見聞きすることはほぼないと思います。歩くと表現からは二足歩行をイメージしますが、特定の月に対して二足歩行を関連づけることはまずないでしょう。しかし、ここでは「歩いてきたり」といわれることで、「六月」が人型の立体感をもって迫ってくるような印象があります。「六月」が歩いてくる方向に眼を凝らすと、そこに見えるものは「ひかりのなかに白いブラウス」なのです。白いブラウスを纏っている人は誰なのでしょうか。知人でしょうか、それとも全く知らない誰かでしょうか。あるいは人ではないのかもしれません。六月そのものが白いブラスを纏って歩いてきているのかもしれません。このとき六月のイメージは光輝く明るさと濁りのない白に満たされているようです。明度と行動が巧く掛け合わされ、躍動感ある一首になっていると感じます。
六月は酸素がいたくうすい月ソーダ飴が口にはじける
| 作者 | 中津昌子 |
| 歌集 | 『風を残せり』 |



高山に登る場合はともかく、同じ場所にずっと暮らしていて、酸素が濃い薄いを意識することはあまりないのではないでしょうか。しかし、ここでは六月は他の月に比べて酸素が薄いと主体は感じているのです。実際、高温となる日は大気中の酸素濃度が若干減少するとされています。ただ「いたく」とある通り、主体が感じているのは、物理的に薄いという意味以上に、心理的に薄いということでしょう。さて、ソーダ飴を一粒口に頬張ったのですが、ソーダ飴のしゅわしゅわとはじける様子がとても心地よく感じられます。はじけるソーダ飴は、酸素の薄い状況を打破してくれるような爽快感を与えてくれるのではないでしょうか。ソーダ飴の小さな泡は、酸素こそ生み出しはしませんが、可能性と期待感が膨らませてくれる、そんな印象を受ける一首です。
ふくざつな雲のすきまに六月のひかりさし貝釦をすてる
| 作者 | 河野美砂子 |
| 歌集 | 『ゼクエンツ』 |



雲が幾重にも折り重なっているように見える六月の空でしょうか。単調な雲ではなく「ふくざつな雲」として空を覆っています。その雲の隙間に光が射したのです。この光は何かの恩寵でしょうか。恩寵ではなかったとしても、何かしらの合図のようにも思います。主体はこの光に対して、何かを感じとったのかもしれません。結果として光が射した現象は「貝釦をすてる」行為を導き出しました。これまでに、着ることのなくなった洋服の貝釦を多数集めていたのでしょうか。貝釦の光沢のきらきらした様がそこにはあるのでしょうが、主体はそのきらきらをも一緒に捨て去ってしまったのです。日常のややこしい状況が「六月のひかり」によって解消の糸口が見つかり、あっさりと貝釦を捨てることによって清々しい心境がこの後には訪れたのではないでしょうか。音の面でいえば、「ふくざつ」と「ひかり」のH音、「雲」と「貝釦」のK音、「すきま」と「すてる」のS音がそれぞれ語頭の音として対応していますが、上句と下句でこの順に呼応しているところは意識的に詠み込まれたのかもしれません。
六月の曇天のなかの電線にしろき碍子の嵌まるかなしゑ
| 作者 | 小池光 |
| 歌集 | 『サーベルと燕』 |



「碍子」とは、電気を絶縁し、 電線を支えるための器具のことです。電線や鉄塔についていて、白いそろばんのような見た目をしている、あれです。「かなしゑ」の「ゑ」は詠嘆を表す助詞です。主体は六月の曇天に「しろき碍子」を見つめていたのでしょう。碍子が電線にぴったりと嵌まる様子を「かなしゑ」と詠っています。「かなし」には「悲し」「哀し」と「愛し」がありますが、この歌ではどちらかといえば前者の「悲し」「哀し」の意味が強いと思います。それは「嵌まる」という表現からくるものであり、流れゆく雲との対比において、碍子は動きの自由度がないように感じるからです。碍子の役割である絶縁ということも、また関連しているかもしれません。絶縁するために配置される碍子を思う主体のまなざしが何ともいえない雰囲気を醸しだし、さりげない歌ながら印象に残る一首です。
六月のたび紫陽花の生えてくる家とおぼえて角を曲がりぬ
| 作者 | 山木礼子 |
| 歌集 | 『太陽の横』 |



毎年、六月になる度に紫陽花が咲く家があり、この家は曲がり角に建っているのだと思います。道をいくとき、特に道を曲がるとき、何か特定の目印を見つけて、方向転換することがあると思いますが、主体にとってこの家はそのような目印として記憶されているのでしょう。「生えてくる」から紫陽花の状況は、一輪や二輪ではないでしょう。自然の力を存分に感じさせるように、多くの紫陽花が重なりあいながら咲いている様子が浮かんできます。紫陽花が咲くのは限られた期間ですが、一旦「六月のたび紫陽花の生えてくる家」として記憶されれば、紫陽花が咲かない季節もこの家は目印として機能し、主体は紫陽花があってもなくても角を曲がることができるのです。「生えてくる」というところに生々しさと生命力を感じる一首です。
うろこある膚の歓喜は六月の水ぬめらかな岩の間をゆく
| 作者 | 小島ゆかり |
| 歌集 | 『憂春』 |



岩の間を流れる川をゆく魚を詠った歌です。人間は鱗をもちませんが、鱗をもつ魚は鱗をもつがゆえに感じる「歓喜」があるのでしょう。「水ぬめらかな」という表現がとても巧く、鱗と水がぴったりと合わさっていて、まるでその境界がなく融合しているような感じが伝わってきます。魚という語を使わず魚を表現し、しかも主語は「歓喜」としているところに、物体としての魚ではなく、生命力と感情のあふれる魚が歌の中で躍動している一首だと感じます。
アガパンサス色のこころは六月の朝だけにあり 和紙の手ざわり
| 作者 | 小俵鱚太 |
| 歌集 | 『レテ/移動祝祭日』 |



夏になるとアガパンサスをよく見ますが、色はさまざまあります。多く見かけるのは薄紫色のアガパンサスでしょうか。ここでは「アガパンサス色のこころ」と詠われており、アガパンサスの美しさや潔さに心寄せる主体の姿が現れているように感じます。それは「和紙の手ざわり」のように心地よい「こころ」なのでしょう。「六月の朝だけ」という限定もいいと思います。このときだからこそ感じられる特別感があるのではないでしょうか。アガパンサスの透き通るような色合いと、和紙の手ざわりのような穏やかで落ち着く心の様子が浮かんでくるような一首です。
六月のわれと子の間を耀けりボトルシップのなかの海光
| 作者 | 佐藤モニカ |
| 歌集 | 『白亜紀の風』 |



ボトルシップを主体と子で一緒につくりあげた場面でしょうか。主体と子の間には、ボトルシップが輝いています。輝いているのは、窓辺から差し込む光のためかもしれません。しかし、他から陽の光があったという以上に、ボトルシップ自身が発行体となって輝いているようなイメージが伝わってきます。それは「ボトルシップのなかの海光」という表現であり、ボトルシップの内側という閉ざされた空間に「海光」が自ずからあふれ出ているような感じがします。その海光の中をボトルシップの中の船が活き活きと進んでいるように感じられないでしょうか。六月のひととき、光に充ちあふれた光景が迫ってくる一首です。
六月の濃き陽だまりに繫がれて柴犬まどろむ汗垂りもせず
| 作者 | 島田修三 |
| 歌集 | 『蓬歳断想録』 |



六月といえば梅雨のイメージが強いですが、この日はよく晴れた一日だったのでしょう。「濃き陽だまり」の表現が、暑いイメージを伝えてくれます。そんな陽だまりに柴犬がつながれていた場面です。そして柴犬はまどろんでいたのです。それほど珍しい場面でもないでしょう。しかし、観察眼が光るのは「汗垂りもせず」です。通常、つながれているなあ、まどろんでいるなあで終わるところを、しっかりと汗が垂れているか否かに目をやっているのです。汗の有無に注目するというのは、よほど暑い場所だったのではないかと想像されます。柴犬を取り囲む場所自体が、暑さに光っているような、そんな印象さえ浮かんでくるようです。柴犬がどういう気持ちでそこにいたのかを想像してみるのも楽しいでしょう。
六月の滝のほとりに滝守のごとく日すがら濡るる羊歯の葉
| 作者 | 高野公彦 |
| 歌集 | 『天泣』 |



「滝守」とは、滝を守る人を指す言葉でしょうか。この滝のほとりに、羊歯の葉が茂っているのを見つけたのでしょう。「日すがら濡るる」ですから、本当に滝の傍にある羊歯で、一日中滝のしぶきを浴び続けている様子が窺えます。この羊歯の葉を「滝守」と捉えたところに、この歌の魅力を感じます。この羊歯の葉はずっと滝の傍を動くことはありません。好むと好まざるに関わらず、動かないわけですが、じっとその場を動かない様子はまさに滝守の姿そのものなのでしょう。羊歯の葉は、本当は滝の傍を離れたいと思っていたのかもしれませんが、自らの意思では動くことができないため、ずっと滝のほとりで生きているわけです。しかし、ずっと滝の傍で生きているという継続こそが、羊歯の葉の成長や意識を変え、滝守にふさわしい羊歯の葉にしていったのかもしれませんし、「滝守のごとく」感じさせる葉として存在しているのではないでしょうか。
「てんとう虫のサンバ」流れぬ六月に見上げてました東京アラート
| 作者 | 笹公人 |
| 歌集 | 『終楽章』 |



「東京アラート」とは、新型コロナウイルス感染症流行時に東京都が発出した、東京都内の感染状況の警戒を呼びかけた指標です。「てんとう虫のサンバ」はチェリッシュの名曲ですが、結婚式で歌われることが多いと思います。しかも六月といえばジューンブライドですから、これは知り合いの結婚式や披露宴に参列していたときの歌かもしれません。「てんとう虫のサンバ」の軽快で心温まる歌と、「東京アラート」の閉塞感との対比が鮮やかに描かれています。「てんとう虫のサンバ」は覚えておきたい記憶ですが、「東京アラート」はどちらかといえば覚えておきたくない記憶かもしれません。ただ、「東京アラート」が詠み込まれることで思い出される当時の空気感があることも確かであり、「てんとう虫のサンバ」とともに思い出される「東京アラート」は特別な存在として残り続けるのではないでしょうか。
六月のすずしき響きおほかたは風と光の交叉する音
| 作者 | 阪森郁代 |
| 歌集 | 『ランボオ連れて風の中』 |



六月の屋外に立っている場面でしょうか。主体はその中で「すずしき響き」を聞いているのです。六月のこの日が体感的に涼しいということもありますが、音それ自体がもつ涼しさを「すずしき響き」と表現しているのかもしれません。その響きの正体は何かというと「おほかたは風と光の交叉する音」だというのです。美しい表現ですね。風の吹く音だけであれば通常イメージすることができますが、光から音というのは普段想像することはあまりないのではないでしょうか。しかし、風と光が交叉することで生まれる音があるのでしょう。「風と光の交叉する音」がとても魅力的に感じられます。そして「おほかたは」ですから、「すずしき響き」のほとんどは風と光が交叉する音なのですが、それ以外にも何か含まれているという含みを思わせます。それが何かは明示されていないため、読み手がそれぞれに想像するほかありません。雲や川のせせらぎといった自然現象もあれば、夢や希望といった目には見えないものを、この響きの要素として想像することは可能でしょう。「風」の触覚、「光」の視覚、「響き」の聴覚と五感に訴えかける歌でありますが、「響き」は単に聴覚に留まらず、すべてが一体となり五感すべてに語りかけてくるような「すずしき響き」を感じ、非常にゆとりのある心地よさが伝わる一首ではないかと思います。
六月の葉漏れ陽はふる女の子同志だからねと告げるみたいに
| 作者 | 小川佳世子 |
| 歌集 | 『水が見ていた』 |



六月の樹々の葉の間から漏れてくる陽の光を詠っています。「葉漏れ陽はふる」の「ふる」という表現も丁寧で魅力的です。この歌のポイントはやはり「女の子同志だからねと告げるみたいに」でしょう。これはお互いだけが知っているという秘密の共有のようなイメージでしょうか。女の子同志だからということで、自分と相手との間の関係性を特別なものにしてしまう印象が窺えます。これは比喩的に使われているのですが、この秘密めいた関係性、内緒の関係性のように「六月の葉漏れ陽はふる」というのです。堂々と陽の光が射しているのではなく、どこか特別な関係や空間を想像させるように陽が射しているのでしょう。周囲の人たちはこの陽に気づいていないかもしれません。まるで女の子同志でいるかのように、主体だけがこの葉漏れ陽を認識しているようにも感じられる一首です。
六月のひかりのなかに女を恋ふ風が象るその乳房など
| 作者 | 大辻隆弘 |
| 歌集 | 『景徳鎮』 |
| 備考 | 名字の「辻」の字は、正しくは1点しんにょうです。 |



「恋ふ」とあるので、「女」は主体にとって特別な存在としての女性なのでしょう。六月の陽の光がその女性を一層輝かしく見せているのだと思います。風も吹いていたのでしょう。さわやかな風を想像します。強風ではないでしょうが、ある程度の強さがある風なのでしょう。その女性の乳房のかたちを象るように吹いていたと詠われています。前面から、着ている服を圧しつけるような感じで、吹いていたのでしょう。風に象られた乳房のかたちを見て、主体にとっては女性が一層輝いて見えたのではないでしょうか。それはいやらしさではなく、もっと美に近いものを感じていたのだと思います。「六月のひかりのなかに」という表現が、明るさとともに「女」の存在を美しくしていると感じられる一首です。
六月のあらしの風の吹きとほり娘とわれはプリクラ撮りぬ
| 作者 | 花山多佳子 |
| 歌集 | 『空合』 |



歌意に特に難しいところはありません。六月の嵐の風がきて、その後に自分と娘でプリクラを撮ったという一首です。プリクラといえば、中高生が友達同士で撮ることが多いような印象がありますが、この歌では親と子で撮ったことがわかります。さて、プリクラを撮ったというだけの歌といえばそれまでですが、若干の起伏を感じさせるのは上句でしょう。「六月のあらしの風の吹きとほり」とあることで、何かしらプリクラを撮った経緯に意味があるのかもしれないと色々と想像してしまいます。嵐がなければ撮らなかったのか、それとも嵐とは関係なく撮ったのか、嵐がなければ別の人も一緒に撮る予定だったのか、など、この上句があることで様々な可能性が歌の背後に現れるのではないでしょうか。どれが正解というわけではありませんが、このようなさまざまな可能性を想像させるところに、この一首の深さを感じさせられるのではないでしょうか。
鉄柵を口にふふみて舌青くキリンは涎たらすろくがつ
| 作者 | 藤井良幸 |
| 歌集 | 『風の委任状』 |



動物園で飼われているキリンでしょうか。「鉄柵」はキリンの檻の柵を指しているのでしょう。キリンが首を下げて鉄柵を舐めている場面だと思います。「舌青く」とありますが、キリンの舌は、紫色というか青色というか、とにかく人間のように赤っぽい色はしていません。「涎たらす」は鉄柵を舐めているから、自然と涎が垂れてきたところを捉えているのだと思います。とにかく、キリンの行動およびキリンの舌の特徴を、順番につぶさに詠い込んでいます。そしてそのような「ろくがつ」が最後に提示されるのです。この歌を読んで、特に嫌な気分はありません。むしろ、六月という時期の雰囲気と、自然の穏やかな面を具体的な情景をもって感じることができるのではないでしょうか。キリンの舌が青色であることを詠むのは面白い着眼点だと思いますが、青と六月がどことなく呼応しているように感じる一首です。
六月の空の力といってから父が静かに食うコッペパン
| 作者 | 吉野裕之 |
| 歌集 | 『ざわめく卵』 |
| 備考 | ※正式には、吉野裕之の「吉」は上の横棒が短い漢字。 |



下句の「父が静かに食うコッペパン」というのは状況はわかります。特におしゃべりをするわけでもなく、黙々と父はコッペパンを食べているのでしょう。一方、上句の「六月の空の力」というのが、少々謎めいています。「空」も「力」も単語レベルでは理解できますが、「空の力」といわれると途端に具体的な像を結ぶことが難しく感じられます。しかも「六月」という限定つきなのです。この「六月の空の力」は肯定的な捉え方の力なのでしょうか。それとも否定的な捉え方なのでしょうか。「力」ですから、肯定的に採りたいとは思いますが、例えば、晴れ渡った六月の空の偉大さみたいなものをいっているのかもしれません。人間には到底真似でいない存在としての空がそこには広がっているでしょう。その下で食べるコッペパンは屋内で食べる味とはひと味違うかもしれません。あるいは、父の中に「六月の空」に対する何かしらの記憶があり、それを思い出していっている可能性も考えられます。そのとき、「空の力」はいい記憶か、あまり思い出したくない記憶かどちらの場合もあり得るでしょう。「静かに食う」から、あまり「空の力」について語りたくないといった読みをすることもできるかもしれません。「空の力」と「コッペパン」との関係も明確に答えることができず、読みが難しいと感じる歌ですが、「六月の空の力」という言葉には、語義通り力強さが伝わってくるフレーズで魅力的に映るのではないでしょうか。
起きぬけの髪は豆の葉六月をひたに生きむとゴムに束ねぬ
| 作者 | 佐伯裕子 |
| 歌集 | 『あした、また』 |



朝起きてすぐの髪の毛の状態を「豆の葉」と形容している歌です。起きたばかりですから、寝ぐせもついているかもしれません。とにかく豆の葉のように散り散りな様子の髪の毛が浮かんできます。「ひたに生きむ」が地味ながら、歌の中でとてもいい役割を果たしていると思います。その髪の毛をゴムで束ねたのですが、束ねる手にも力がこもっていたでしょうし、六月を「ひたに」生きようとする力強い意思も感じます。六月の朝の引き締まった姿が感じられる一首です。
六月の転居のまぎわ贖いし紅しょうがなり使いおわりぬ
| 作者 | 阿部久美 |
| 歌集 | 『ゆき、泥の舟にふる』 |



六月に引越しをしたのですが、引っ越す前に「紅しょうが」を買ったこと、そして引越しの後使い終わったことを詠った歌です。「まぎわ」ですから、引越しの前日かあるいは当日かわかりませんが、もうすぐ引っ越すという直前で買われたことが窺えます。そして、その紅しょうがは転居前には使い切ることはなく、転居先へそのまま残りをもっていたのです。転居後、もってきた紅しょうがを使い終わったという事実を詠っただけといえばそれまでですが、味わいのある歌です。転居の前と転居の後をつなぐものが「紅しょうが」であったというのも面白いと思います。この紅しょうがをよすがとして、この六月の転居は将来また思い出されることでしょう。
どう見ても人形だから六月の花嫁はみんなはだし
| 作者 | 倉阪鬼一郎 |
| 歌集 | 『世界の終わり/始まり』 |



「六月の花嫁」といえばジューン・ブライド。ウェディング会場で、花嫁たちは全員裸足になっているということでしょうか。一時的に裸足になるようなスタイルの結婚式もあるでしょうが、謎めいているのは上句の「どう見ても人形だから」です。「どう見ても」なので、花嫁を色々な角度からどのように眺めても人形にしか見えないということでしょうか。あるいは人間ではなく、花嫁姿の人形そのもののについてを詠っている可能性もあるでしょう。いずれにしても、人間の体温を感じる花嫁というよりは、人形的なあるいは人形そのものとしての花嫁の像が浮かんでくるのではないでしょうか。そのような人形的花嫁であるため、裸足になっているということのようですが、人形だから裸足というのも不思議といえば不思議でしょう。下句が「花嫁はみんなはだし」は字足らずというよりも破調であり、定型に乗らないリズム感も不穏な雰囲気を醸し出す要因になっているのではないでしょうか。
六月にわが手の触れし赤柱 半年たたず灰となりしか
| 作者 | 吉川宏志 |
| 歌集 | 『雪の偶然』 |



歌集において、この歌の次には〈青龍の刺繡をなぞる 首里城に買いし帽子は焼けざりし一つ〉の歌があり、この歌も首里城について詠った歌だと思われます。首里城は2019年10月31日に火災が発生し、正殿を含む多くの建物が消失しました。「六月」というのは同年の六月、まだ火災が起こる前に首里城を訪れたときを指すのでしょう。その六月から半年も経たずに焼け落ちてしまったことに、心が揺さぶられている様子が窺えます。火災の報を聞き、六月に触れた赤柱の記憶、手触りが改めて思い出されたのではないでしょうか。「半年たたず」という時間的制限に、やりきれない思いが込められ、「灰となりしか」にもう巻き戻すことのできない無念さのようなものが滲み出ている一首ではないでしょうか。
立ちのぼる水の匂ひに六月の林道の中つむじをひらく
| 作者 | 梶原さい子 |
| 歌集 | 『リアス/椿』 |



歌集において、この歌が収められた一連には野球部の子どもたちが登場します。ですから、この歌からは一人ではなく、野球部の複数の子どもたちの姿を想像しました。六月の林道の中をみんなで歩いていた場面かもしれません。「立ちのぼる水の匂ひ」は近くを流れる小川の水の匂いでしょうか。あるいは、林全体から伝わってくる湿気を帯びた空気を水の匂いとして感じているのかもしれません。この歌の二首前に〈開会式に立つ子どもたちひとりづつの中に満ちたる水を揺らして〉という歌があり、子どもたち自身が内に抱える水の存在が匂うということも考えられるでしょう。「つむじをひらく」は聞き慣れない表現ですが、かぶっていた野球帽を脱いで、光、風、水、空気などをつむじで感じ、自然と一体化するようなイメージとして受け取りました。魅力的な表現だと感じますし、開放的な印象をもたらしてくれる一首ではないでしょうか。
なんとなくものぐるおしくわが佇つとなみだ六月の地平にみてり
| 作者 | 村木道彦 |
| 歌集 | 『天唇』 |



「ものぐるおしく」とは気が変になってしまいそうな状態を指しますが、「なんとなく」という、あるかないかわからないような状態の表現とのミスマッチ感が興味深く感じられます。六月の地平を前にして立っているのでしょうか。そんな自分に、自然と涙があふれてきたのでしょう。泣きたいと思って涙を流したのではなく、感情のままに流れてきたのだと思います。「なみだ六月の地平にみてり」が、大袈裟といえばそうなのですが、涙があふれて、目の前に広がる地平そのものが涙に沈んでいくように感じられたのではないでしょうか。立っているひとりの姿と涙のあふれてくる様子に焦点が当たり、地平の広大さとの兼ね合いに引き込まれる一首です。
六月の鯨うつくし墨色の大きなる背を雨にけぶらせ
| 作者 | 松村由利子 |
| 歌集 | 『大女伝説』 |



季節は六月。海を泳ぐ鯨を見ている場面でしょうか。ホエールウォッチングかもしれません。鯨の背の色を「墨色」と捉えているところが独特であり、墨色は雨にけぶる様子とマッチしているように感じます。この歌を読むと、静的な鯨の図ではなく、動的な鯨の生命力を感じます。海面から鯨の背が浮き上がってくるようであり、そこに動きを感じるのです。鯨を「うつくし」と見ていますが、それはこの日の雨の景色と関連していることはもちろん、鯨の見た目はもとより、鯨そのものがもつ生き物としての存在感がとても美しく感じられたのではないでしょうか。六月という限定が、このときのこの場所のこの鯨だったことを特徴づけ、一層美しさが伝わってくる一首だと感じます。
死んでゆく最明寺川みづあまく螢とびかふ六月の夜
| 作者 | 吉岡生夫 |
| 歌集 | 『草食獣 隠棲篇』 |
| 備考 | 正式には、吉岡生夫の「吉」は上の横棒が短い漢字です。 |



調べてみると「最明寺川」は、兵庫県を流れる猪名川支流の川のようです。「死んでゆく」というのは、環境汚染などにより川が汚れていく様を指しているのでしょうか。それでもまだ「みづあまく」、つまりきれいな水域が残されているのかもしれません。螢は水のきれいな場所にしか生息しませんから、螢が見られるくらいの水質は保持されているのではないでしょうか。以前と比べ、最明寺川は見た目にきれいではなくなったのかもしれません。少なくとも主体にはそのように映ったのではないでしょうか。しかし、六月の夜に螢が飛ぶ様子が見られた場面を想像しました。つまり、最明寺川の環境は手放しで喜べるほどではないけれど、螢が飛ぶという事実をもって、まだ救われているのかもしれないと感じているのではないでしょうか。しかし、水質汚染が進めば、いずれこの螢を見ることもなくなる可能性があります。螢が飛び交うこの美しい夜を、いつまでもここに留めておきたいと感じる姿が浮かんではこないでしょうか。
不在長き君の机に六月の桜青葉の影がふるえる
| 作者 | 馬淵のり子 |
| 歌集 | 『そっと置くもの』 |



歌集において、この歌の前後の歌から想像するに、ここで詠われている「君」は孫にあたる人物ではないかと思われます。その「君」が学校の教室の机にしばらくついていないということでしょうか。いきたくてもいけない理由があるのか、何かの事情で学校の教室に入れない日々が続いているのではないかと想像します。その机に「六月の桜青葉の影」が揺れているのでしょう。「ふるえる」とありますが、その影の揺れは「君」の心の揺れそのものなのだと感じます。「不在長き」状態ではありますが、「君」が机に座る日はもうまもなくでしょうか。そのとき、机にはまだ桜青葉の影は落ちているでしょうか。それとももう季節が変わってしまっているでしょうか。そのような時期の移り変わりと心の移り変わりなど色々と考えさせられる一首です。
ユーミンの招待券業界的特権として六月、さても
| 作者 | 藤原龍一郎 |
| 歌集 | 『嘆きの花園』 |



季節は六月。ユーミンこと松任谷由実のコンサートか番組のチケットでしょうか。その招待券が手に入った場面かと思います。歌集において、同じ一連には〈ニッポン放送制作部副部長藤原某―たかが名刺にわが名刺されて〉の歌も収められています。つまり、放送業界に身を置く関係から、招待券の恩恵に与ることになったのでしょうが、そのことを「業界的特権」と表現しているのでしょう。「招待券」を「インヴィテーション」と読ませるところに、特異な状況であることを示す雰囲気を感じます。結句の「さても」が効果的に働いていて、この状況をどう受け入れるべきだろうかという逡巡が窺えるのではないでしょうか。
ホームからの深夜の電話に怯えゐし六月 されど母在りし日々
| 作者 | 栗木京子 |
| 歌集 | 『新しき過去』 |



母が亡くなった後に詠われた歌でしょう。六月のある深夜に、母の状態が思わしくないという電話がかかってきた場面を回想しているのでしょうか。ホームというのが、駅のプラットフォームなのか、老人ホームなどのホームなのかがはっきりしませんが、後者の方が状況には合っているかもしれません。かけてきたのは施設の職員かもしれません。そのときは、まだ母が存命中だったことがわかります。「されど」にこのときの主体の感情が現れているのではないでしょうか。そのときは怯えていたのですが、今母が亡くなった後では、もう怯える電話がかかってくることもないと思うと、六月のそのときの電話も貴重なひとときだったと思い出されるのでしょう。「母在りし日々」に母が生きていたことの実感がより強く伝わってくるように感じられます。こういう記憶とともに母の存在していた時間、存在の大きさを思わずにはいられないのではないでしょうか。
啼き交はし声は重なり揃ひたる郭公の谷、六月の旅
| 作者 | 大口玲子 |
| 歌集 | 『ザベリオ』 |



歌集においては「鳥の至福 朗読オペラ「若山牧水 みなかみ紀行」~わたしは鳥~」という一連に収録された一首です。したがってこの「六月の旅」は群馬県のみなかみへの旅を指していると思われます。みなかみの谷において、郭公の鳴き声を聞いたのでしょう。一羽ではありません。複数の郭公の声が同時に響いていたのだと思います。その声は重なり合いながら、ある瞬間をもってやがてだんだんと鳴き声が揃っていったのです。声を軸にして、谷という大きな空間がひとつの谷として結束を固めていくようなイメージがもたらされるのではないでしょうか。「郭公の谷、六月の旅」は見た目も音的にも対をなしていますが、体言止めであることで歌が引き締まって感じられ、郭公の声が揃っていく様子に合致しているように感じられます。
蜜の味知りすぎしかば六月の葉蔭に蝶はまどろみて老ゆ
| 作者 | 蒔田さくら子 |
| 歌集 | 『紺紙金泥』 |



あちこちで花の蜜を吸った蝶が老いていく姿が美しく詠まれています。六月の葉蔭で蝶はほとんど動かずにいたのでしょう。「まどろみて」から、とても気持ちよさそうに、一方で活力をなくしたように老いていくのではないでしょうか。老いるのは、蜜の味を知りすぎたためです。知りすぎたというのは、多くの蜜を味わってきたということでしょう。ひとつの特定の花の蜜を味わったとも採れますが、いくつかの種類の花の蜜の味を色々と知った状況ではないでしょうか。この歌は、蜜をお腹いっぱい吸ったためにまどろんでいる食後の歌とも読めますが、結句にある「老ゆ」が蝶の一生を表す言葉であり、単にお腹いっぱいの状況を詠っただけの歌ではないと思います。それよりも蝶の一生と花の蜜との生命のやりとりのような関係を感じないでしょうか。実際に葉陰の蝶を見たところかの着想かもしれませんが、語の選択や言葉の流れ、読んだときのリズムなどから、実景を超えて、蝶の美しさと儚さが同時に表現された一首なのではないでしょうか。
水無月の短歌
6月は6月でも、「水無月」という表現に関わる短歌を取り上げています。
ほないこか青虫ふんでもええやんか水無月のこの陽ざしをさけて
| 作者 | 江戸雪 |
| 歌集 | 『駒鳥』 |



「ほないこか」という関西弁が、やわらかさとともに何とも元気になりそうな響きをもって伝わってきます。「青虫ふんでもええやんか」と続いていくわけですが、「ええやんか」も「ほないこか」と呼応しているように思います。普段生活しているとどうしても法やルール、慣習などの縛りを自らに課してしまいがちですが、この歌からはもっと自由でもいいのではないかという思いが滲み出ているように感じます。青虫を踏んでもいいという許しは、そのような縛りから我々を少し解放してくれるように思います。「水無月のこの陽ざしをさけて」いくのですが、果たしてどこに向かっていくのでしょうか。陽ざしをさけるということは暗がりの方へ向かうのでしょうか。暗がりの中では、青虫も見えにくいのかもしれません。だけど、青虫を踏まないように注意深く進むのではなく、踏んでもいいから思い切りいこうじゃないかという、そんな雰囲気が伝わってきて、気持ちのよい一首です。
家族といふ命いつまで水無月の田を鷺は飛ぶ首をすくめて
| 作者 | 黒瀬珂瀾 |
| 歌集 | 『ひかりの針がうたふ』 |



子育ての日々を送る中で詠われた一首です。人の命はいつ絶えるのかはわかりません。特に幼い子どもに対しては、今日も生きていてくれるだけでとてもありがたく感じるものです。ここで詠われているのは、命は命でも「家族といふ命」です。命は個々がそれぞれもっているものですが、そのそれぞれが家族という関係で結ばれることでひとつの大きな命として捉えられています。ですから、家族がみな健在であり、誰も欠けることなく、ここに在るということが「家族といふ命」を生きているということに他ならないでしょう。鷺が田を飛ぶ様が描かれていますが、鷺は「家族といふ命」を知ってかしらずか、首をすくめて飛んでいるのです。命の永続性に対して、鷺が飛ぶ日常性との対比が、より一層「家族といふ命」のかけがえのない様子を示していると感じる一首です。
藪蔭の淵より出でてしらじらと青水無月の空映す水
| 作者 | 沢田英史 |
| 歌集 | 『異客』 |



陰暦六月は一般的に水無月といいますが、青葉が生い茂る時期を指すことから、青水無月とも表現されます。歌集において、この歌が収められている一連には川や滝を詠った歌があり、この水はその川の水を指しているのでしょう。「藪蔭の淵」から川の流れが現れて、その水の流れは主体の眼前に存在感を示しているいるのだと思います。「しらじらと」とあり、光を受けた水が白く輝く様子を想像します。そして白さと光あふれる水にも、よく見れば「青水無月の空」が映っているではありませんか。白と青、光と空など、色彩と明るさ、そして自然が美しく融合するような印象を覚える一首で、「青水無月」という言葉がその美しさを底支えしているように感じます。
水無月の竹林を降る葉もあらぬしずけさにかんと一本の鳴る
| 作者 | 大下一真 |
| 歌集 | 『即今』 |



水無月の竹林。葉が降る様子もない竹林は静けさに満たされているのでしょう。それはとても静かであり、本来空気が満ちている空間に、空気の代わりに、まるで「しずけさ」が満ちているような、そんなことを想像させる「しずけさ」です。そのような静けさの中で音が鳴りました。「かん」と鳴ったのですが、何の音でしょうか。竹同士がぶつかった音かもしれませんし、気圧や気温の変化により竹の内部が変化して出た音なのかもしれません。一本とあるので後者かもしれません。「かん」という音はとてもよく響いたのでしょう。静かであればあるほど、相対的に「かん」という音はその存在感を大きくしていくのです。「かん」だけが静寂の中のひとつの突起物のような存在となり、主体の心を捉えてしまった様が描かれる一首だと思います。
水槽へ午前のみづを充たしゆく水無月に来し金魚のために
| 作者 | 川本浩美 |
| 歌集 | 『起伏と遠景』 |



夏祭りか何かの金魚すくいで得た金魚でしょうか。金魚を泳がすために、水槽へ水を充たしていく場面です。「午前のみづ」という限定がよく、やや冷たさを帯びた水を想像します。読んでいて音の統一が図られている点も見過ごせません。「みづ」「充たしゆく」「水無月」の「み」の音が心地よく連鎖し、「来し」「金魚」の「き」の連続もそれに続きます。リズムよく読める滑らかさは、水槽の中を金魚がスムーズに泳いでいく様子へつながっていくようでもあります。さりげない場面ですが、この歌のような詠い方によって、光景がとても鮮やかに立ち現れる一首なのではないでしょうか。
シートベルトしづかに外すみなづきを統ぶる法典にそむきつつ 雨
| 作者 | 川﨑あんな |
| 歌集 | 『さらしなふみ』 |



「みなづきを統ぶる法典」とは何でしょうか。ここでは、具体的に何かの法典や法律を指しているというよりも、もう少し広い意味での秩序のようなものを意味しているのではないでしょうか。水無月には水無月の秩序のようなものがあり、それに背くことはすなわち、シートベルトを外す行為に象徴されるのかもしれません。「雨」は恵みの雨でしょうか、それとも法典に背いたことによる罰則としての雨でしょうか。そのような区別すらおそらく不要なのでしょう。そこにはただ雨が降っている状況を捉えればよく、その雨に対して恵みだ罰だと判断を下すこと自体が怖れ多いことなのかもしれません。「シートベルト」「しづかに」「統ぶる」「そむきつつ」といった語頭のS音の連なりが、読んでいてとても心地よく、意味を味わうよりもまず音を前面に味わった方がいい一首ではないでしょうか。
声なく泣きて疲れたる朝 現し身のきみは水無月の雨に目ざめむ
| 作者 | 横山未来子 |
| 歌集 | 『水をひらく手』 |



朝から泣いているのはなぜでしょうか。歌集において、この歌の一首前の歌は〈目覚むればわれは泣きをり生まれ落ちし瞬間の心細さに充ちて〉であり、心細い気持ちになったことが泣いている理由なのだと思われます。「声なく泣きて疲れたる」とあり、声を抑えてはいるけれども、どうしても泣きやむことができず、ずっとそのように泣いていたことから疲れてしまったのでしょう。三句に「きみ」が登場しますが、主体の隣で眠っていたのでしょうか。「現し身」とは現在生きている身のことであり、「きみ」は実体をもって提示されますが、泣いている主体と異なり、もうすぐ「きみ」は「水無月の雨」に目覚めるのです。水無月の雨の潤いによって、そしてやわらかな降雨の音によって、目覚めることの美しさが湛えられているように感じます。目覚めた後の「きみ」は、果たして主体を癒すことができるのでしょうか。水無月の雨が二人の間を滑らかに媒介していくことが想像できる、そんな一首ではないでしょうか。
労働に溺れてないか水無月は雨降るよりもながく曇れり
| 作者 | 島田幸典 |
| 歌集 | 『no news』 |



水無月は降雨の多い季節だと思いますが、雨の降っている時間と曇っている時間を比べると、曇りの時間の方が多いのかもしれません。何となく雨が多いという印象で捉えがちですが、物事を丁寧に見ていけば、実際は曇りの方が多いという新たな発見が生まれます。水無月は雨より曇りが多いという状況を把握した上で、「労働に溺れてないか」という問いが主体に兆したのです。ここでの溺れるは、自ら望むかたちで没頭するという方向にも採れなくはないですが、どちらかといえば望んではいないけれど知らずしらずのうちに労働に飲み込まれてしまっている状況を指しているのではないでしょうか。やがてワーカーホリックになってしまうかもしれません。没頭と中毒は違います。その線引きを自覚していないと、人はたちまち労働に溺れることになるのでしょう。労働の本来の姿、水無月の本来の状況を、本当に見つめているのか、そんなことを問われているような一首だと思います。
夕立のつづく水無月雨やみしのちも葉を打つ風響きをり
| 作者 | 菅原百合絵 |
| 歌集 | 『たましひの薄衣』 |



耳というのは不思議なもので、ずっと鳴っていた音が突然遮断されると、もう音は鳴っていないのに、まだその音が継続しているように感じることがあります。この歌においては、しばらく夕立が続いていたのでしょう。夕立は樹々の葉を打って降っていました。夕立が止んだ後、主体には葉を打っている音がまだ聞こえ続けたのではないでしょうか。夕立後に聞こえたのは、正確には雨ではなく「葉を打つ風」の音であり、雨の音が続いていたわけではありません。しかし「葉を打つ」とあるので、夕立が葉を打っていた音がそのまま継続されるような感じを受けます。そもそもこの風は本当に実在していた風なのでしょうか。風の音が響いていたのでしょうか。風が葉を打っていると思っている音は、実は幻聴なのではないでしょうか。雨が葉を打っていた音がずっと続いていたことにより発生した幻の雨の音なのではないでしょうか。「雨やみしのちも葉を打つ」という表現がそんな不思議なことを感じさせてくれ、印象に残る一首です。
仙人掌の棘やはらかき水無月の金平糖の色のいろいろ
| 作者 | 山科真白 |
| 歌集 | 『鏡像』 |



仙人掌の棘のやわらかさに注目している歌です。棘というのは、通常尖っているから棘なのですが、ここでは「やはらかき」と捉えられています。それは水無月の雨による湿気の多さも影響しているのでしょうか。また水無月という時期そのものがもつ雰囲気というか、乾いていない印象が、仙人掌の棘をやわらかく感じさせているのかもしれません。そのような上句に対して、下句では「金平糖の色のいろいろ」が登場します。金平糖は確かにカラフルであり、さまざまな色が寄り集まっている光景に美しさを感じることがあります。この「水無月の」はちょうど三句に配置され、仙人掌にも、金平糖にも両方にかかる役割を果たしています。金平糖の色の鮮やかさは水無月に限ったものではありませんが、このように詠われると水無月の雨や水のイメージと、金平糖の色の美しさとが共鳴するようにも思います。また仙人掌に棘があるように、金平糖にも角があり、仙人掌の棘から金平糖の角への突起のイメージの関連が響いている一首だと感じます。
水無月の色彩のなかを泳ぎいるメダカに餌を朝ごとにやる
| 作者 | 永田淳 |
| 歌集 | 『光の鱗』 |



家の水槽でメダカを飼っているのだと思います。朝がくるたびに餌をやっているのでしょう。下句だけであれば、日常の何気ない場面が浮かびます。特徴はやはり上句です。「水無月の色彩のなかを泳ぎいる」がこの歌に鮮やかさと輪郭を与えていると感じます。「水無月の色彩」が何色かはわかりませんが、泳ぐメダカが見る水槽内の色なのでしょう。水無月の光が水槽内に射し込んでいるのかもしれません。それによって、水槽の水は水無月だけの色彩に充ちた水になるでしょう。この把握が楽しいと感じます。いつもと変わらぬ水槽ではなく、水無月だけの水槽の雰囲気を味わおうとする姿に、季節を敏感に感じる姿が浮かんできますし、メダカへの愛着も感じられるのではないでしょうか。「水のなか」ではなく「色彩のなか」を泳ぐという表現も魅力的に感じます。
水無月の余光をたたへ揺るる湯に浸かればほんのり海の味して
| 作者 | 紺野万里 |
| 歌集 | 『星状六花』 |



「水無月の余光」とはどういう意味でしょう。水無月を旧暦六月と見れば、七月上旬に六月の余韻をもってという意味に採れるでしょう。また水無月を水の月と採り、実際の月の光をイメージすることもできるかもしれません。どちらの意味も含んでいる可能性もあるでしょう。また「ほんのり海の味して」とありますが、なぜ湯に浸かると海の味がするのでしょうか。海辺近くの湯なのでしょうか。それとも水無月が終わり、これから夏の季節へ移行していくからでしょうか。考えれば考えるほど謎めいている歌ですが、全体の雰囲気としてはそのわからなさも含めて惹かれるものがあります。「余光」「揺るる」「湯」のY音の連なりの心地よさも印象に残ります。
深紅の薔薇水無月ひかる蒼穹を全反射して今朝咲きいでぬ
| 作者 | 米川千嘉子 |
| 歌集 | 『一夏』 |



深紅の薔薇が今朝咲いた様子を詠っています。注目すべきは「水無月ひかる蒼穹を全反射して」の部分です。水無月のこれほどない青空を、薔薇の花びらは全反射して咲いているのでしょう。いや、花びらだけではないかもしれません。茎も葉も含めて、薔薇全身で蒼穹を反射しているのです。実際、薔薇は鏡とは違いますから、空の青を受けたままそっくりそのまま跳ね返すということではないでしょうが、蒼穹の光も熱も全身に浴びて一心に咲いている様子が浮かび上がってこないでしょうか。深紅の薔薇の色は一層輝きを増し、生命力みなぎる薔薇の姿が印象に残る一首です。
三戸郡地獄原よりのリポートの添削終へて水無月となる
| 作者 | 大森益雄 |
| 歌集 | 『歌日和』 |



「三戸郡地獄原」は青森県にある地名のようです。かつて火山活動や温泉に関わる事柄があった名残から、このような名前がつけられたのかもしれません。このインパクトのある地名から「リポート」が届いたのでしょう。主体はそのリポートを添削する立場にあるのです。その添削を終えると、水無月になったというのです。日常の場面として特に大きなイベントが起こったわけではありませんが、初句から登場する「三戸郡地獄原」という具体的かつ特徴的な地名のもたらす効果により、この一首は独特の雰囲気をもった歌として感じられるのではないでしょうか。
かみは苦を ほとけは悲をばたまふとぞしればあをかる みなづきの ゆき
| 作者 | 吉田隼人 |
| 歌集 | 『忘却のための試論』 |



上句は、神様は苦しみを、仏様は悲しみをお与えになるという意味です。苦しみや悲しみは、人間にとってできれば避けたいもののひとつですが、「たまふ」といわれれば、何か貴重なものを与えられたように感じられます。特に神様や仏様から与えられるものを受けとらないのは、どこかもったいないとすら感じてしまいそうです。さて上句のようなことを知ったとき、水無月の雪が現れたということでしょうか。「あをかる」は青いという意味でしょうが、この青は雪の青というよりも、水無月のイメージにより近いかもしれません。「みなづきの」を引き出すための言葉としての「あをかる」のように感じます。さて、雪を実景と捉えると、水無月の時期に平地で雪は降らないでしょうから、緯度の高い地域や標高の高い山における雪を想像するのがいいでしょう。あるいは、実景と捉えず、想像の中の「みなづきの ゆき」をイメージしてもいいのではないでしょうか。内容に反して、歌全体から受ける印象として、不思議と悲壮感は感じられません。読んだときの滑らかさによるものでしょうか。あまり意味ばかりを求めすぎず、韻や音のリズムを楽しむことを主とした方がいいようにも思います。「かみ」「苦」のK音、「ほとけ」「悲」のH音、「をば」「しれば」の「ば」、「みなづき」「ゆき」の「き」などの統制が心地よく響いてくるのではないでしょうか。
渓流にかじかの声がまじりたり水無月尽の会津の宿に
| 作者 | 三枝昻之 |
| 歌集 | 『遅速あり』 |



福島県の会津を訪れたときの歌でしょう。水無月の終わりに会津の宿に泊まったのだと思います。宿の傍の渓流が風情を彩ります。渓流ですから、宿自体も山間部に位置していたのでしょうし、自然のあふれる中に流れる水はとても澄んでいる情景が浮かんできます。その渓流の流れる音を聞きながらいると、その中にカジカガエルの鳴く声が交じって聞こえてきたのです。その鳴き声は、美しく響いていたのではないでしょうか。宿という非日常空間においてではありますが、どこか心落ち着く雰囲気が漂っている感じがします。騒がしすぎず、静かすぎず、渓流とかじかの鳴き声がちょうどよい塩梅で届けられる、そんなひとときを感じる一首です。
水無月の空のおもてにとどまりて沈思の鳶が影をたためり
| 作者 | 三島麻亜子 |
| 歌集 | 『水庭』 |



鳶を詠った歌ですが、たたずまいのある美を感じる一首です。まず「水無月の空のおもて」という表現ですが、単に「空」といわず、「空のおもて」というところに丁寧さを感じ、空の広がりと空間が一層感じられます。「沈思の鳶」も魅力的で、寡黙な哲学者のような鳶を想像しました。その鳶が空を飛んでいるのですが、「空のおもてにとどまりて」から、まるで静止しているような印象を受け、「沈思」と呼応する姿が浮かんできます。「影をたためり」に至り、拡散していた思考が収斂していくような感じがし、空と鳶の静寂な時間と空間がいつまでも漂っているような、そんな一首ではないかと思います。
水無月に早や咲き初めし百日紅あめに濡れつつ花房かかぐ
| 作者 | 秋山佐和子 |
| 歌集 | 『豊旗雲』 |



百日紅は大体7月以降に咲くことが多いと思います。夏の陽光が照る中で、白やピンクの花が輝いている景色を見ると、夏がきたなあと感じることが多いものです。この歌では「水無月」、ここでは六月のイメージでしょうが、雨の多い時期に早くも咲いた百日紅に注目しています。雨に濡れながら、花房を掲げている百日紅の美しさを見つめる視線が感じられるのではないでしょうか。晴天の暑い日の百日紅は夏そのものといった感じですが、こちらの雨に濡れる水無月の百日紅も、夏本番の百日紅とはひと味違った趣が感じられる一首です。

