「7月の短歌」と題して、7月に関わる短歌を現代短歌を中心にピックアップしてみました。7月に詠まれたと思われる歌もあれば、別の月に詠まれている歌もあります。
7月といえば、夏のイメージが強いでしょう。各地で海開きが行われ、海水浴でにぎわいます。また、七夕、花火大会などのイベントもある月ですね。
7月の異称は「文月」。名称の由来はさまざまありますが、田んぼの稲の穂が実り始める時期であることから「稲穂が含む月」つまり「穂含月」が変化したという説、あるいは書物を広げて詩歌や書道の上達を祈る「文披月」の説などがあるようです。「文月」という語を取り入れて詠まれた歌も多くありました。
二十四節気では「小暑」「大暑」の季節です。
小学生、中学生、高校生などが7月の短歌をつくったり、鑑賞したりする際の参考にもなればと思います。
7月の短歌
雨ふたたび降りはじめれば七月の傘おもむろに咲いてゆく街
| 作者 | 荻原裕幸 |
| 歌集 | 『リリカル・アンドロイド』 |
tankalife非常に好感のもてる歌です。「雨ふたたび降りはじめれば」と、初句からやわらかさを感じながら展開していきます。「ふたたび」「降り」「はじめれば」の語頭のH音の連なりがリズムよく響いてきます。「ふたたび」とあり、一旦雨は止んでいたのでしょう。そのとき傘を差している人はいなかったのですが、再度降り始めたときに傘がひとつふたつと順に開いていった様子が伝わってきます。「おもむろに」がとてもよく、街にまさにゆっくりと傘が咲いていくイメージが広がっていきます。一首全体を通して、慌てずに展開されていき、一首の時間がとてもゆったり流れていくところに魅力を感じ、読んでいて心が落ち着く一首です。
さよならの声弾けとぶ 七月の最後のホームルームであれば
| 作者 | 千葉聡 |
| 歌集 | 『海、悲歌、夏の雫など』 |



七月とあり、夏休みに入る直前の最後のホームルームでの場面でしょう。「さよならの声」は、生徒の声でしょうか。それとも教師である主体の声でしょうか。その両方かもしれません。クラスメイト同士、また教師と生徒との間に「さよならの声」は折り重なって幾重にも交わされたのだと思います。「弾けとぶ」という表現が、クラスの活気を物語っており、生徒らは本当に夏休みを楽しみにしているのではないでしょうか。それと同時に、一旦クラスメイトや教師と別れる期間を残念にも思っているのかもしれません。「七月の最後」という限定が、このときのホームルームを特別な時間にしているのだと思います。夏休みが終われば、再会することも含めて、幾層もの意味を含んで「さよならの声」は弾けていたのではないでしょうか。
七月の月光なればみどりいろに人体透けてあゆむしたたり
| 作者 | 渡辺松男 |
| 歌集 | 『雨る』 |



この歌を誰もがわかる実景として捉えることは中々難しいのではないでしょうか。光を指す「月光」と、水を想起させる「したたり」が同時に詠み込まれており、また「みどりいろ」と「人体」と「透けて」とあり、こちらも日常目にするような光景ではないでしょう。しかし、一概に想像の歌といってしまうわけにもいきませんし、作者にとってはこのとき、この歌のような光景が見えたのかもしれません。「みどりいろに人体透けて」というところが、やはりこの歌に特異なイメージをもたらしているでしょう。七月の月光を浴びて人体が透ける、しかも「みどりいろ」に透けるという点が、人体が得体の知れない何かに変異するようなイメージがあります。そして「したたり」と続き、「みどりいろ」に透けた人体から、体を構成していた液体のようなものが滴り落ちる像が浮かびます。その液体のようなものは「みどりいろ」かもしれません。この歌がどのような状況を意図して詠まれたものが想像しにくいのですが、あまり実景に引き寄せすぎず、かといって荒唐無稽とは捉えず、歌に展開された言葉をひとつずつ拾っていき、そこから各々が想像するイメージをそのまま感じるのが歌の読みとしてはいいのではないでしょうか。何か得体の知れない感じに引き込まれる一首です。
ハロハロの冷たさ夜の陽の長さ君のしょっぱさすべてが七月
| 作者 | 上坂あゆ美 |
| 歌集 | 『老人ホームで死ぬほどモテたい』 |



「今年の七月の印象ベスト3は何ですか?」と聞かれて、その3つを答えたような一首。1つ目は「ハロハロの冷たさ」。ハロハロとはフィリピンの代表的かき氷のことで、まさに冷たさそのものの象徴のように詠われています。2つ目は「夜の陽の長さ」です。陽が落ちてからが夜なわけですから、この言葉を読んだとき違和感がありますが、一日の昼間の時間が長いという意味でしょう。語順から生まれる違和感も含めて提示されているのだと思います。そして3つ目は「君のしょっぱさ」であり、ここでようやく「君」という人間が登場します。「しょっぱさ」とあるので、主体と君との関係は甘いだけのものではなく、むしろ君は主体と一定の距離感を保って接しているのかもしれません。1つ目、2つ目の内容も合わせると、七月の18時か19時頃、主体と君はハロハロを食べたことがあるのかもしれません。そして君との関係は「しょっぱさ」を含んでいるのです。そういうすべてをひっくるめて七月の記憶がつくりあげられているのでしょう。同じ七月はもう来ないかもしれません。そう考えると、ひとつひとつの具体物が愛おしくなるような一首に感じます。
バグパイプのくきやかな音を聴きながら七月は縦の季節と思う
| 作者 | 笹川諒 |
| 歌集 | 『水の聖歌隊』 |



季節に縦と横があると想像する捉え方がとても面白く感じます。主体は七月を「縦」の季節と捉えているのです。そのきっかけとなるのが「バグパイプのくきやかな音」。七月のある日、バグパイプの力強く大きくはっきりとした音を聴く機会があったのでしょう。その音を聴いたとき、主体は、ああ「縦の季節」だと感じたのです。横の季節と比べて、縦の季節はどこかシュッとした印象があります。その印象は「くきやかな」に通じるものがあるでしょう。七月の暑さもだらだらとしたものではなく、強さを伴った暑さに感じ、それも「縦」に関連するように思います。「縦の季節」という表現が非常に魅力的に感じられる一首です。
逢うたびに抱かれなくてもいいように一緒に暮らしてみたい七月
| 作者 | 俵万智 |
| 歌集 | 『チョコレート革命』 |



「一緒に暮らしてみたい」とある通り、現在主体と相手は一緒に暮らしているわけではありません。しかし、一緒に暮らしてみたいと思うような関係なのです。一緒に暮らせないのに、逢うたびに抱かれるような関係。なかなか複雑な関係なのでしょう。さて、「逢うたびに」がポイントで、一緒に暮らしてしまえば「逢うたびに」という状況が存在しなくなってしまうのです。一緒に暮らした後、抱かれることはあっても「逢うたびに」抱かれることはなくなります。主体は「逢うたびに抱かれ」ることを望んでいるのでしょうか。「抱かれなくてもいいように」とあり、どちらかといえば、逢うたびに抱かれることを望んでいないのかもしれません。正確にいえば「逢うたびに」が望んでいない部分なのでしょう。七月のとある日、「一緒にくらしてみたい」と主体は思ったわけですが、それも「見たい」止まりで、一緒に暮らせないことがわかっている、そんな心境が伝わってくる一首です。
七月は動く歩道のスピードで気づけば夏の真ん中にいる
| 作者 | 水野葵以 |
| 歌集 | 『ショート・ショート・ヘアー』 |



時間が経過する速度は、人それぞれ感じ方が違いますし、同じ人にとっても状況や場面、季節が変われば、感じる速度も変わってきます。主体はこの夏「七月は動く歩道のスピード」と感じたわけです。動く歩道は決して早くはありません。またムラがなく、一定のスピードで進んでいきます。知らず知らずのうちに七月になり、気づけば七月もだんだんと経過して、夏の真ん中にいるという気持ちになったのでしょう。ムラなくゆっくりと七月が終わろうとしているところに、起伏のない夏を過ごした様子も窺えるのではないでしょうか。夏が来る前はあれもこれもとイベントや予定があったのかもしれません。しかし、気づいてみれば、特にこれといった盛り上がりもなく、夏の真ん中にいる自分だけがそこにいたのかもしれません。わずかに寂しい感じもしますが、まだ夏は半分残っています。後半戦の夏のスピードはどのように変化していくのか、その変化の楽しみは残されているように思います。
七月のハローワークで待つ人のしづけさの上の呼び出し標示
| 作者 | 染野太朗 |
| 歌集 | 『初恋』 |



歌集において、この歌は「求職者給付」という一連に収められています。離職してハローワークを訪ねた場面だと思います。ハローワークでは、職を探している人々が多く、順番待ちの番号札をとって待っているのでしょうか。それら待つ人々の上に呼び出し標示があり、次に案内される人の番号が表示されているのかもしれません。この歌では「しづけさ」という部分が印象に残ります。ハロワークを訪れた人々は、互いに知り合いではありません。このような場で面識のない人と話すことはあまりないので、その場が静かであることは何ら不思議ではありません。しかし、この「しづけさ」は単に会話がないというだけに留まらないでしょう。それはハローワークという場が物語っている通り、職を探している人々が集まっているがゆえの「しづけさ」だと思います。もちろん悲痛な思いで来ている人ばかりではないでしょうが、中には切羽詰まった状態でハローワークを訪れている人もいるでしょう。この「しづけさ」にはそうした人々の背後が滲んで見えるような静かな様が表れているように感じられてなりません。七月の暑さとは対比的な「しづけさ」が印象に残る一首です。
真剣にフォトフレームを選んでいる背に七月が質量を増す
| 作者 | 櫻井朋子 |
| 歌集 | 『ねむりたりない』 |



フォトフレームを選んでいるのは誰でしょうか。詠い方に客観的な視線を感じるため、選んでいるのは主体自身ではないように思います。フォトフレームを選んでいる相手の「真剣」な様子が示されていますが、フォーカスはその人の顔や眼差しではなく、「背」なのです。その背中には七月の暑い光が当たっているのでしょうか。「質量を増す」と表現されていますが、太陽の光の明るさや熱量を、重さという尺度に換えて伝えているところが魅力的だと思います。重くなれば重くなるほど、つまりは七月の光が背中に燦燦と降り注いでいるということなのでしょう。「真剣」「背」「質量」の語頭のS音も、「七月」のS音から派生した関連語として、この歌では機能しているように感じます。フォトフレームと背、そして七月の明るい光が際立つ一首ではないでしょうか。
観覧車の向こうの夕焼けみつめいる君の髪を吹く七月の風
| 作者 | 小島なお |
| 歌集 | 『乱反射』 |



「君」は直接観覧車を見つめているのではありません。「観覧車の向こうの夕焼け」を見つめているのです。観覧車ではなく、その向こう側にある夕焼けを見つめる心の在り処とはどのようなものなのでしょうか。「君」の心の中を想像しつつ、主体は「君」を見つめています。その君の髪を「七月の風」が吹き抜けていくのです。このように、この歌には二つの眼差しが感じられます。ひとつは「君」の眼差し、そしてもうひとつは主体の眼差しです。「君」は夕焼けを、主体は「君」を見つめ、主体、君、夕焼けがひと連なりになるようなイメージを浮かべることができるのではないでしょうか。七月の風は、君にも主体にも吹き抜けていったのでしょう。君の心の中、そして主体の心の中にはどのような思いが兆しているのか、あれこれと想像してしまう一首です。
いつもいつも季節は急にそこにいる房州枇杷のならぶ七月
| 作者 | 笹本碧 |
| 歌集 | 『ここはたしかに 完全版』 |



千葉県南房総は枇杷の産地として知られ、ここで収穫される枇杷は「房州枇杷」と呼ばれています。長崎県の茂木枇杷と並び、日本二大産地のひとつとされているようです。さて、主体は七月に房州枇杷が並ぶ光景を見かけたのでしょう。毎年房州枇杷が並ぶ光景を見てはいるのでしょうが、今年もまた同じように枇杷が並んでいるところを見たのです。そのときに感じたことは「いつもいつも季節は急にそこにいる」ということ。その年で枇杷が並ぶ最初の機会というのは、いつも一度きりであり、主体がその年枇杷を初めて見る機会も一度きりです。ですから、「急に」というはある意味当然といえば当然のことなのです。しかし、ここで表れているのは、主体は不意を衝かれたということだと思います。そろそろ枇杷が並ぶかなと予測しながら日々店頭や市場を見ていれば、「急に」という表現がなされることはなかったでしょう。房州枇杷の存在が意識の外にあったときに、眼前に房州枇杷が並ぶ光景が現れたからこそ「季節は急にそこにいる」という思いが立ち現れたのだと思います。また「いつもいつも」とあり、この感じは何も房州枇杷に限ったことだけではないのかもしれません。果物に限らず、また食べ物に限らず、季節感を感じるものすべてが急にそこにすっと滑り込むようにして存在感を示しているということなのではないでしょうか。急に現れる季節が、房州枇杷の色彩や存在を鮮やかに描き出している一首だと感じます。
人に会う度に体調大丈夫かとまず尋ねてた七月、京都
| 作者 | 大前粟生 |
| 歌集 | 『柴犬二匹でサイクロン』 |



ここでいう「人」とは特定の人を指すのでしょうか、それとも特定の人に限らない複数の人々を指すのでしょうか。とにかく「人」に会う度に「体調大丈夫か」と尋ねていたようです。「体調大丈夫か」と尋ねるということは、体調に関して気にかかることがあるからなのでしょう。主体自身の体調がいまいちであるとか、あるいは別の誰かが体調を崩して大変な目をしたとか、色々なことが考えられます。「まず」という短い語が、体調を第一に重要視している様子を伝えてくれています。季節は七月、場所は京都という提示が具体性を示しており、一般論に陥らずに、リアリティをもって詠われている歌だと感じます。
七月の朝が来てるよ船ひとつ塗りかえられるほどの青さで
| 作者 | 服部真里子 |
| 歌集 | 『遠くの敵や硝子を』 |



七月のまばゆい朝の青さが全面に迫って感じられるような一首です。その青さはどのようなものかというと「船ひとつ塗りかえられるほどの青さ」なのです。ここでいう船は小舟ではなく、豪華客船のような巨大な船を想像したいと思います。豪華客船を塗り替えることを真面目に考えると、その工程はとてつもなく膨大なものになるでしょう。何人もの作業員が何日もかけて、いや何か月もかけてやっと塗り替えることができるのかもしれません。しかし、七月のこの日の朝の青さは、たった一瞬で船を塗り替えてしまうほど、それほど強烈な存在感をもった青さだったのです。詠い出しは「七月の朝が来てるよ」という、大仰でなく、どちらかといえば優しく語りかけるような口調ですが、それとは対比的に、この日の朝の青さの存在感はとてつもなく大きなものとして示されているでしょう。もしも青色がいかに青いかを説明することがあるとすれば、清々しくどこまでも心地よい青さを詠いあげた歌としてこの歌の右に出るものは他にないかもしれません。
きみの引く蛍光ペンのような夢ただ七月に海の日のある
| 作者 | 平岡直子 |
| 歌集 | 『みじかい髪も長い髪も炎』 |



蛍光ペンの明るさを伴った色のイメージと、「海の日」から喚起される夏のイメージが重なり合う一首です。「きみの引く」という動きから、この「夢」は例えれば、写真ではなく、動画のように一定時間を伴った夢として感じられます。最初から最後まで書いた蛍光ペンの線が続いていくように、夢は終始、蛍光の明るさを湛えたまま、心地よさを伴って続いているような印象を受けます。ここで登場する海の日は、記念日というほどの特別な一日であるような感じはあまり受けませんが、海の日という名称が、さわやかに海そのものの五感を連れてくるような感じがします。蛍光ペンと海の日の相乗効果が印象的な一首です。
七月の初めに買へる文庫本茂吉歌集は汗に夏越ゆ
| 作者 | 山田富士郎 |
| 歌集 | 『アビー・ロードを夢みて』 |



七月の初めといえば、もうすでに暑さ本番といえる時期ではないでしょうか。七月の初めに斎藤茂吉の文庫本の歌集を買ったのでしょう。何度も何度も読み込んだのかもしれません。七月の暑さでは、手に汗も滲んでくるでしょう。繰り返し読む「文庫本茂吉歌集」には、手の汗も少しずつ沁み込んでいったのではないでしょうか。ひと夏を終えたとき、文庫本茂吉歌集には、主体のひと夏の汗が随分と沁み込んでいた様子を想像します。しかし、沁み込んだ汗の量が、文庫本茂吉歌集に対する主体の愛情の表れでしょう。夏の暑さの中で幾度も開かれた文庫本茂吉歌集の存在が際立って印象深い一首です。
早送りボタンためらひなく押してもう七月の汗だくの恋
| 作者 | 石川美南 |
| 歌集 | 『架空線』 |
| 詞書 | July |



「早送りボタン」といえば、録画したTV番組を早送りする場面か、音楽を再生するときの早送りが思い浮かびます。しかし、この歌でいう「早送りボタン」は実際のボタンというよりは、喩えとしての「早送りボタン」なのではないでしょうか。「七月の汗だくの恋」というところに、どこか焦燥感というか、冷静さをわずかに欠いたような、焦りのような印象を受けるのです。それが「早送りボタン」と呼応していると思います。つまり、この恋は「じっくりゆっくり冷静に」といった恋ではなく、七月の暑さを巻き込んだ勢いの恋なのではないかと想像されるのです。「ためらひなく押して」には、意識的に早送りボタンを押したイメージが浮かび、「汗だくの恋」に突っ走る主体の覚悟のようなものが見える一首ではないでしょうか。
さるすべり白こそよけれ七月のそらの真青を鋭く照らす
| 作者 | 近藤かすみ |
| 歌集 | 『雲ケ畑まで』 |



さるすべりの花の色ではピンクや白をよく見かけます。いくつか色がある中で、主体は「白こそよけれ」と詠いきっています。もちろんピンクや赤などのさるすべりも素敵なのですが、ここでは晴れた七月の場面として「白」が推されているのです。「七月のそらの真青を鋭く照らす」から、空の青とさるすべりの白との対比が浮かびます。夏の真っ青な空に輪郭のくっきりとした白い雲が浮かぶ景をよく見ることがありますが、ここでいう空の青と白いさるすべりもそのような色の対比における関係性を示しているのでしょう。白であることで空の青が際立ち、空が青ければ青いほど、反対にさるすべりの白も際立ってくるのだと思います。青と白の鮮やかさ、そして七月の暑さが相まって、空とさるすべりの存在感が増して感じられる一首です。
話し言葉は消えてっちゃうから良いねって消えていってた なながつだった
| 作者 | 青松輝 |
| 歌集 | 『4』 |



言葉について気づかせてくれる一首です。話し言葉と書き言葉があるとして、話し言葉のメリットは「消えてっちゃう」ことだと詠われています。逆にいえば、消えていくことがデメリットだと感じる場合もあるかもしれません。一方、書き言葉のメリットは、記録に残ることでしょうか。こちらも逆に見れば、残ることがデメリットになる場合もあるでしょう。話し言葉が消えるからいいというところから、言葉の一回性の尊さのようなものを感じます。消えていくからこそ、その瞬間にしか味わえないものですし、よくも悪くもその瞬間だけであるから価値があり救われるということでしょう。「なながつだった」といういい方も、このときの話し言葉が消えていった一回性をよく表していると思います。また話し言葉にはアクセントやイントネーション、ためない、口調などさまざまな要素が現れるでしょう。その点も一回限りを増強する要素として存在するのではないでしょうか。主体が相手に対して、何か大切なことをいった場面かもしれません。残り続けることがいい場合もあれば、残ってほしくないという場合もありますが、この歌は話し言葉のいい面を押し出している、そんな一首だと思います。
地下鉄の中に誰かの連れてきたあおいととんぼとべる七月
| 作者 | 谷村はるか |
| 歌集 | 『ドームの骨の隙間の空に』 |



地下鉄のホームでしょうか。それとも車両の中でしょうか。「あおいととんぼ」が飛んでいるのを見つけて、しばらくそれを見ている場面です。イトトンボといえば、水辺や草はらといった場所を飛んでいるイメージがありますが、もちろんそれ以外でも飛んでいることはあるでしょう。ただ地下鉄に「あおいととんぼ」が飛んでいるという状況はあまり見ないかもしれません。ここで興味深いのは、「あおいととんぼ」がただ飛んでいるなあで終わるのではなく、「誰かの連れてきた」という物語を見い出している点ではないでしょうか。物語といえば大袈裟かもしれませんが、誰がが連れてきたと思うことで、ただのトンボではなく、背景をまとったユニークな「あおいととんぼ」がここに誕生することになるです。実際、「あおいととんぼ」が誰かについてきたと思えば、楽しいではありませんか。夏の雰囲気から「あお」と「七月」もどことなく呼応しており、日常の一コマでありながら、微笑ましい一首だと感じます。
日照のうすき七月朝顔の市たちて紺の風をなびかす
| 作者 | 雨宮雅子 |
| 歌集 | 『昼顔の譜』 |



曇り日でしょうか。陽の照りがあまりない七月のある一日のようですが、「朝顔の市」が立ったのです。快晴の日ではなく、「日照のうすき」日の朝顔の市であるところに趣を感じます。紫、赤、ピンク、白、黄色など、朝顔のさまざまな鮮やかな色合いが目に浮かびますが、ここでは特に「紺」の朝顔が主体の関心を引いたのだと思います。紺色の朝顔を見ていると、朝顔が揺れたのでしょうか。元々風に色はありませんが、「紺の風」とあり、紺の朝顔を通り抜けた風をそう表現しているのでしょう。風になびくという表現はよく耳にしますが、ここでは朝顔が主で風の方をなびかせているという捉え方が魅力的に映ります。殊更大きなイベントが起きている歌ではなく、どちらかといえば日常の一コマといった歌ですが、場面や状況、そして色彩などが丁寧に詠われており、味わい深さを感じる一首です。
七月の遠い人よグリーンの星まぜごはんを炊いてください
| 作者 | 杉﨑恒夫 |
| 歌集 | 『パン屋のパンセ』 |



「七月の遠い人よ」と始まりますが、「遠い」とあるので地球からかなり距離のあるであろう「グリーン」星の住人に呼びかけている状況をイメージしました。「グリーン」星は実在の星ではなく、架空の星だと思います。下句に移り「まぜごはん」が登場するところで、ああ「グリーン」はグリンピース、つまりえんどう豆のことだとわかってきます。グリンピースのまぜごはんのイメージと、緑色をしているであろうと想像される星のイメージを重ね合わせている歌でしょう。音数は、五・六・五・八・七と字足らずが気になりますが、二句の「遠い」は”とおいい”に近づけて読めば七音にならないこともありません(実際作者は〈ジュラ紀にも梅雨があったかもしれないこうもり傘の遠いい記憶〉という歌を詠んでいます)。大きな緑の星と小さなグリンピースの対比および重ね合わせが印象的な一首です。
遍在の《われ》はおそろし七月の通夜は死者より生者がおほく
| 作者 | 吉田隼人 |
| 歌集 | 『忘却のための試論』 |



「遍在」とは、あまねく広く存在することを意味する言葉ですが、《われ》があらゆる場所に立ち現れるようなイメージでしょうか。そんな《われ》を「おそろし」と感じているのです。下句の「通夜は死者より生者がおほく」は、いわれてみると確かにその通りで納得させられます。通夜において生者の方が多いとは通常意識することはありませんが、確かにひとつの通夜に対して死んだ者は大抵ひとりであり、その死者を取り囲むように多数の生者が入れ替わり立ち替わり、通夜の場に存在しているのです。死者より生者が多い通夜は、別に「七月」に限りませんが、「七月の」という限定がされていることによって、今まさに目の前の七月の通夜において、死者よりも生者が多いという認識が一層立体感をもって迫ってくる感じがします。ひょっとすると「遍在」は、いくつもの通夜に度々参列している《われ》をも表していて、いくつもの通夜にいる《われ》を《われ》自身が怖れている、そんな様子なのかもしれません。
七月の青空うつるショーウィンドーに水玉模様の服侵入す
| 作者 | 小島熱子 |
| 歌集 | 『りんご1/2個』 |



状況としては、ショーウィンドーに水玉模様の服が飾られていたということだと思います。そのショーウィンドーには七月の青空も映っていたのでしょう。日常のありふれた場面といえばそれまでですが、この歌の最大のポイントは、この状況の捉え方です。主体には、最初、ショーウィンドーには青空だけが見えていたのかもしれません。歩きながら移動すると、自分とショーウィンドーとの角度に変化が起こり、ショーウィンドーの中に元々飾られていた水玉模様の服が目に入ってきたのだと思います。それを「水玉模様の服侵入す」と詠い上げたところに、唐突感と驚きが存分に表現されているのではないでしょうか。「侵入す」として、水玉模様の服を行動の主にすることで、状況の鮮やかさが一層増して伝わってくる歌だと感じます。
いつか誰かが与えてくれるまでを待つ七月 雨のふりこむプール
| 作者 | 中津昌子 |
| 歌集 | 『遊園』 |



「与えてくれる」とありますが、一体何を与えてくれるのでしょうか。「何か」は明確にされていません。それどころか「いつか」とあり、時期も不明ですし、「誰か」とあり、誰から与えてくれるのかもわかっていません。ここからわかるのは、とにかく何かがいつか誰かから与えられるという予定がおそらくあるのだろうということ、あるいは与えてほしいという願望があるということだけです。七月のある日、プールに雨が降り込む様子を見ながら、与えてくれるものを想像しているのだと思います。しかし、与えられるかどうかはどうも確実とはいえないように感じます。「雨のふりこむプール」からは、その不確実性を後ろ支えしているような印象を受けます。でも、「待つ」しかないのでしょう。不確実とはいいながらも、与えられることに対して、わずかに期待感を感じさせてくれる、そんな一首だと思います。
カレンダーのなかに歩けば良い音のする床があり七月になりて
| 作者 | 河野美砂子 |
| 歌集 | 『無言歌』 |



「歩けば良い音がする床」とは何でしょうか。「床」から真っ先に想像したのは廊下ですが、それなら「廊下」とはっきり示されるような気もします。そこで「七月」という点から、京都の夏の川床をイメージしました。「カレンダーのなかに」とあるので、川床にいく予定があるのかもしれません。あるいはまったく川床とは関係ないかもしれません。例えば、カレンダーの七月に使われている写真が「床」の写真だったということも考えられるでしょう。「カレンダー」と「床」をはっきりと紐づける確かなものはないように思いますので、読み手が想像するしかないかもしれません。読みが難しいのですが、ひとついえるのは、この歌を読むと少し弾んでいる雰囲気があり、わずかに喜びが伝わってくるような感じがして、心地よく感じます。
空を見に湖畔に行かな七月が七月尽に墜つる朝を
| 作者 | 島田幸典 |
| 歌集 | 『no news』 |



「七月尽」は俳句の季語でもありますが、七月の最終日や夏の終わりを意味します。つまり、「七月が七月尽に墜つる」というのは、もう夏が終わってしまうということでしょう。夏が終わる前に「空を見に湖畔に行かな」と感じているわけです。歌集において、同じ一連には〈琵琶湖西七月尽の夜語りに青田を靡く風の音せり〉という歌があるので、この「湖畔」は琵琶湖の湖畔を指しているのだと思います。湖畔にいくのですが、湖畔を見にいくというよりも「空を見に」いくことが主たる目的なのです。それな七月だからこそ見ることができる空であり、七月だけの七月の空なのでしょう。「七月」のリフレインが、一度きりの空を強調している一首だと感じます。
夭逝、と書けば生まれる七月の孤独なひかりを泳ぐカゲロウ
| 作者 | 小俵鱚太 |
| 歌集 | 『レテ/移動祝祭日』 |



「カゲロウ」は昆虫の蜉蝣を指しているのでしょう。カゲロウの寿命は数時間から数日と非常に短く、儚いものの喩えとしてしばしば用いられます。若くして亡くなる「夭逝」もまた儚さそのものといえるでしょう。主体の知り合いに、近しい人に、あるいは面識はないものの心を寄せていた人に「夭逝」した人がいたのかもしれません。「夭逝」と書くことで、そこに立ち現れたのは「七月の孤独なひかりを泳ぐカゲロウ」だと詠われています。このカゲロウからは、とても苦しい感じを受けます。「ひかり」と明るくは詠われていながらも、どこか溺れているように感じるのです。それはカゲロウの短い寿命に対する極としての、まぶしい「ひかり」はかえってカゲロウの儚さを際立たせてしまうような感じすら覚えます。「夭逝」「孤独なひかり」「カゲロウ」が互いにリンクしながら、儚さを湛えていて印象に残る一首です。
とれさうな母の釦をつけなほす七月のあをい銀河の底で
| 作者 | 小島ゆかり |
| 歌集 | 『雪麻呂』 |



母親の服のボタンをつけなおしている場面でしょう。ボタンをつけなおす状況を詠っただけでは歌としての印象は弱いですが、この歌を屹立させているのは下句です。「七月のあをい銀河の底」と突然大きな視点が登場します。ボタンという円状の小さな物体と、球体が浮かぶ銀河という果てしもない空間との対比にインパクトがあり、ボタンをつけなおす日常のありふれた行為がとても特別なことのように感じられます。銀河が「あをい」と表現されていますが、地球という水惑星のようなイメージも広がる一首です。
竹林にしぶきてそそぐ七月の雨はおどかす雷を従う
| 作者 | 岡部桂一郎 |
| 歌集 | 『坂』 |



七月の雨が竹林に降り注いでいます。「しぶきて」とあるので、風を伴った雨が激しく降っているのでしょう。ただ激しい雨が降るだけではなく、雷が轟いたのです。「雷」だけでも充分その響きは伝わるのですが、「雷」には「おどかす」という語が駄目押しのようにつけられており、このときの雷の響きがとてつもなく大きなものだったことを物語っているでしょう。主体はその雷に驚いたことがはっきりと詠み込まれているわけです。「雨はおどかす雷を従う」という表現が魅力的で、驚いたのは雷の方であっても、歌の中で主となるのはあくまで「雨」の方なのです。雨があってこそ雷は現れたのであり、この歌においては竹林に降り注ぐ雨を主として味わいたい一首です。
隕石のごときあなたと7月をせいいっぱい手をひろげ迎える
| 作者 | 正岡豊 |
| 歌集 | 『四月の魚』 |



なかなかにどう言葉にすればいいのか難しい歌です。もしこの歌の「隕石のごとき」がなければ、「7月」という輝かしい季節をあなたと迎える直球で前向きな歌として捉えることはできると思います。しかし「隕石のごとき」があることで、歌は途端に別の様相を見せてきます。もちろん「隕石のごとき」がこの歌を歌として立たせていることは間違いないでしょう。普通にとれば「隕石のごとき」は「あなた」に掛かるでしょう。「隕石のごときあなた」とはどういった「あなた」なのでしょうか。急に現れ、とてつもない勢いのあるイメージがそこには浮かびます。止めようとしても、意見しようとしても、すべては無視され、「あなた」はあなたの思う通りに突き進んでいくような感じでしょうか。しかし「隕石のごときあなた」が唐突すぎるとすれば、「あなたと」が挿入されていると考え、「隕石のごとき」が「7月」に掛かるとする見方もかろうじてできるかもしれません。その場合、ノストラダムスの大予言(7の月)のような世界の終末をイメージしてしまいます。いずれにしても「隕石のごとき」が強烈な喩として初句二句で提示され、そのエネルギーを終始感じながらも、「せいいいっぱい手をひろげ迎える」主体は果たして受け止められるのだろうか、とそんなことを想像してしまう一首です。
七月の空気つめたくあさがほののびゆく蔓のとどこほりたる
| 作者 | 花山多佳子 |
| 歌集 | 『木立ダリア』 |



気温があたたかいときには、朝顔の蔓が順調に伸びていたのかもしれません。しかし、七月に入ってから、あるいはここ数日は空気が冷たく、朝顔の蔓の成長も止まっている様子が詠われています。日常のごくありふれた場面ですが、朝顔の蔓がどのくらいの速度で伸びているかは、日々朝顔を見ていないとわからないでしょう。また、何気なく過ごしていれば、あるいは一日中家の中に籠っていれば、空気の冷たさもそれほど敏感に感じることはないでしょう。この歌は、蔓の伸びが滞っているときだけに焦点が当たっていますが、この歌の奥から感じるのは、日々朝顔を見つめてきた主体の姿と、向き合ってきた時間の経過なのです。朝顔の蔓の伸びという自然に対する視線が、時間の経過という豊かさの中でやさしく感じられる一首です。
七月の異称「冷月」「涼月」を知りてにわかに会いたき人ぞ
| 作者 | 阿部久美 |
| 歌集 | 『ゆき、泥の舟にふる』 |



「冷月」も「涼月」も七月の異称として使われますが、どちらも涼し気な雰囲気をまとった言葉でしょう。主体はこれらの異称を、あるタイミングで知ったのでしょう。その言葉を知ってから、急に会いたい人が思い浮かんできたのだと思います。それは、涼しさと関係があるのでしょうか。七月といえば暑い季節ですが、「冷月」「涼月」と聞けば、どこか涼しく肌寒く感じられるのではないでしょうか。その涼しさが人恋しさへとつながっていったのかもしれません。理由は明示されていないので、読み手は想像するしかありませんが、単に七月というだけでは、生まれてこない雰囲気が「冷月」「涼月」にはあることは確かです。ただ、理由云々よりも、自分が今まで知らない言葉に出会うことで、別の思いへ至る経路が開かれるという点が最も興味深く感じられますし、「冷月」「涼月」という名詞が効いた一首だと思います。
七月のちょうど真ん中の夜にチームは三位に浮上しました
| 作者 | 池松舞 |
| 歌集 | 『野球短歌 さっきまでセ界が全滅したことを私はぜんぜん知らなかった』 |
| 詞書 | 7月15日○ |



歌集において「セントラル・リーグ再開」という一連に置かれた歌で「7月15日○」という詞書がついています。応援しているチームは阪神タイガースです。「○」は試合に勝利したということであり、勝ってセ・リーグ三位に浮上したという歌です。そのままの事実を表した歌ですが、喜びと安堵感がセットになって感じられるのではないでしょうか。面白いのは「七月のちょうど真ん中の夜に」という表現です。7月15日といえばいいところを、このようにまどろっこしくも思われるような表現をすることで、かえってこの日の夜という時間の貴重さが印象づけられるような感じがします。「ちょうど真ん中の夜」という区切りのような夜に勝利したことが何か特別な雰囲気をもたらしてくれるのではないでしょうか。
久しぶりに会ひたいといふ手紙よりさきに七月の台風が行く
| 作者 | 澤村斉美 |
| 歌集 | 『夏鴉』 |



「久しぶりに会いたい」ですから、旧知の間柄であることがわかります。親族でしょうか、恋人でしょうか、友達でしょうか。久しく直接会っていないけれど、会いたくなり手紙を書いて投函したのだと思います。少し離れた地域に住む人かもしれません。手紙が相手に届くにはある程度の日数がかかるでしょう。投函から到着までの数日の間に、先に台風が相手のもとにいってしまった状況でしょう。七月の台風が手紙を追い越していったようなイメージです。本来、手紙と台風は全然別物であり、比較する対象として捉えることはあまりないと思いますが、ここではその別物を「移動」という点で比較しているところがとても興味深いと思います。台風がきてしまったことで、久しぶりに会うのは少し延期になるのでしょうか。いや、手紙より先に台風がいったので、台風が通り過ぎた後に手紙が相手に届くのでしょう。そこから会う日を決めるとすれば、すでに台風後なので、会うことについて台風の影響はまったくないでしょう。しかし、この歌の面白いところは、会いたいという手紙と台風が同時に描かれることで、一瞬台風の影響が浮かんでしまうところではないでしょうか。電話であればまた違った展開になったのでしょうが、手紙であるところに、相手との距離感やライムラグが感じられる一首であると感じます。
釣りし鮎掌に載せ愛づる釣り人の腰まで浸す七月の水
| 作者 | 高野公彦 |
| 歌集 | 『甘雨』 |



七月の川で鮎釣りをしている釣り人を詠った歌です。おとりの鮎をつけて釣る友釣りの場面だと思います。鮎釣りは川の中まで入っていき、おとりの鮎を上手に泳がせる必要があります。岸からでも狙えなくはありませんが、本格的に鮎を狙おうとする釣り人はウェットスーツを着て釣りを行います。「釣り人の腰まで浸す七月の水」がまさに鮎を狙う釣り人の釣りの姿を端的かつ的確に表現して、情景が浮かびます。この釣り人は鮎を釣り上げたのでしょう。その鮎を水面ぎりぎりで掌に載せて、釣り上げた喜びと鮎の体の美しさを愛でているのです。また鮎が泳ぐ川の清らかさ、心地よさが伝わってくるように感じます。三十一音という短い言葉の中に、川、鮎、釣り人、そして鮎釣りという一連の時間的経過を伴った行為が不足なく詠われた一首ではないでしょうか。
湿っぽい恋ならするな七月の燕のように飛べよ我が妻
| 作者 | 奥田亡羊 |
| 歌集 | 『亡羊』 |



歌集において、この歌に続く歌として〈妻の住む部屋を探しぬ我が妻と二人で為せることの最後に〉と〈ふたたびは座ることなき場所としてお前が残す家具のない部屋〉が置かれています。この歌は妻との別れを詠った歌でしょう。「湿っぽい恋」は、自分ではない別の誰かとの恋を指しているのだと思います。妻が別の誰かに恋をするのは仕方ないが、湿っぽい恋はするなということでしょう。どうせなら「七月の燕のように飛べよ」といっているのです。燕が夏空を勢いよく飛ぶ姿が想像されます。そのような勢いをもった恋をしてくれということではないでしょうか。決して望んでいるわけではないでしょう。しかし、このような状態となった今、いえるのは「七月の燕のように飛べよ我が妻」なのです。諦め、後悔、感謝、冷静、応援など、とてもひとことではいい表せない思いがここには込められていると思います。通常燕は軒先などにつくった巣に何度も戻ってきますが、七月の燕になった妻はもう戻ってくることはないでしょう。それでも、その飛翔を見つめ続けるしかない主体の姿が何ともいえず胸に響く一首です。
白驟雨走る七月〈三越〉のライオン一匹入り口に静か
| 作者 | 松平盟子 |
| 歌集 | 『うさはらし』 |



「白驟雨」とはにわか雨のことで、「白」の文字は雨が激しく降りしきる様子が白く煙って見えることを表しています。七月の激しいにわか雨の中で、百貨店〈三越〉の入り口に置かれているライオン像に注目した一首です。ライオンは生きているわけではなく、像ですから、当然喋ることもありませんし、動くこともありません。ですから、喋らない、動かない点から「静か」というのは当然といえば当然でしょう。しかし、この「静か」には、何というか主体の見つめる心が反映されているようにも感じます。ライオン像であるから静かというのはもちろんですが、そこに静かさを見る気持ちが、ライオン像を静かな存在として改めて認識しているようなイメージでしょうか。ライオン像は雨を見ているのでしょうか。そして、そのライオン像を見る主体は、ライオン像の目を通して雨を見ているのかもしれません。ライオン像と主体の存在が一体化して、雨の眼前に位置しているような印象があり、興味深い一首です。
七月の海にゆかむとうながして麦藁帽子かぶらしめたり
| 作者 | 篠弘 |
| 歌集 | 『昨日の絵』 |



「海」「麦藁帽子」と聞けば、寺山修司の有名な一首〈海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり〉を想起してしまいます。この歌も寺山の歌と同じように、自分と相手が登場します。心を寄せる相手と一緒に、七月の海にいこうとしているのでしょう。そして、麦藁帽子をその相手にかぶらせたのです。「ゆかむとうながして」とあるので、帽子をかぶらせたこの場面は、海にいく前の場面です。しかし、不思議なことにこの歌を読んだときに浮かび上がってくる景色は、すでに海にきていて、麦藁帽子をかぶっている人の姿なのです。海という語、麦藁帽子というアイテムが、海辺の景を想像させるには充分すぎるのかもしれません。主体の心の中でも、すでに、麦藁帽子をかぶって海辺に立つ相手の姿がありありと浮かんでいたことでしょう。「かぶらしめたり」に幾分強引な部分が窺えますが、いく前から麦藁帽子をかぶって海にいくことが半ば必然であるかのような印象を受ける一首です。
雷鳴の近づきてくる七月の夕暮にして果敢無き孤愁
| 作者 | 藤原龍一郎 |
| 歌集 | 『ノイズ』 |



「果敢無き」(はかなき)も「孤愁」もどちらも、笑顔、楽しさ、ワイワイガヤガヤといったイメージとは対極に位置するような言葉でしょう。これらの語が単独でも、どこかさびしげな様子を醸し出すにも関わらず、「果敢無き」と「孤愁」が二つ重ねられているところに、一段と孤独感が強まっているように感じます。それは七月の夕暮れであることと、雷鳴が近づいてくる状況の影響もあるのでしょう。「雷」が近づいてくるのではなく、「雷鳴」が近づいてくるというところも、視覚よりも聴覚に焦点が合わされた表現に感じます。雷鳴の響きと相まって、体の内側に、そして心の内側に「果敢無き孤愁」が響きわたるような印象がもたらされるのではないでしょうか。雷鳴から逃れることができないように、逃れようのない孤の思いが感じられる一首です。
石灰が果てまで匂う七月をふりきるための そのための助走
| 作者 | 安田茜 |
| 歌集 | 『結晶質』 |



石灰が匂う七月。石灰が匂うということは、畑でしょうか、あるいは建築現場でしょうか。かつては学校で白線を引くためにも使われていましたが、そのような回想の場面でしょうか。場面がはっきりわかりませんが、石灰の存在だけが初句から迫ってきます。軽く匂っているだけではありません。「果てまで匂う」に逃れられないような状況が暗示されているように思います。けれども主体は、石灰が匂う七月を振り切りたいと思っているのでしょう。ただ、まだ振り切ってはいないのです。「そのための助走」とあるので、まだ助走段階であることが想像できると思います。走り幅跳びのような状況を想像しました。まだ跳んではいないけれど、遠くへ跳ぶための助走段階であると。七月をなぜ振り切りたいのかは書かれていませんが、主体はタイミングよくジャンプできたのでしょうか。そして、この七月を跳び越えることができたのでしょうか。振り切るために行う助走する姿が印象深く迫ってくる一首ではないでしょうか。
遠いところ遠いところに手を置いて背泳の七月がありたり
| 作者 | 梶原さい子 |
| 歌集 | 『あふむけ』 |



プールでしょうか、海でしょうか。背泳をしている場面です。「遠いところ遠いところに手を置いて」に実感があります。手の稼働範囲はせいぜい知れており、どちらかといえば「近い」うちに入るでしょう。しかし「遠いところ」といわれるとき、手をできるだけ遠くに置く意識が生まれます。「遠いところ」の繰り返しも効いていて、今自分にできる最大限に泳ぎたいという気持ちが伝わってくるのではいでしょうか。一旦「背泳」に焦点が当たった後、「七月がありたり」へと展開することで、最終的には「七月」という大きな時間と空間の存在が一首に広がり、夏の暑さや水のさわやかさなどが全体にあふれてくるような一首だと感じます。
道浦さんに会える七月日曜日笹の葉さらさら街には揺れて
| 作者 | 大田美和 |
| 歌集 | 『きらい』 |



歌の中で人名が出てくる場合、歌人が登場することも多いでしょう。特にフルネームで書かれておらず、名字だけの場合はそのケースが多いように思います。ですから「道浦さん」は、歌人の道浦母都子を指すのではないでしょうか。七月の日曜日は七夕でしょうか。「笹の葉さらさら」が音として読んでいて心地よく響きます。笹の葉が揺れる街中を歩く主体の姿は、きっと笹の葉がさらさらと揺れるように、人とぶつかることもなく、滞りなく、スムーズに、そして何より道浦さんに会える喜びに充ちていたのではないでしょうか。
文月の短歌
7月は7月でも、「文月」という表現に関わる短歌を取り上げています。
永遠とは十代の修辞 名も知らぬ少女にあくがれいたる文月
| 作者 | 永田淳 |
| 歌集 | 『1/125秒』 |



「永遠とは十代の修辞」というきっぱりとした詠い出しが魅力的です。何歳になっても、「永遠」を論じても見つめてもいいわけですが、やはり「永遠」は「十代」にこそ最もふさわしいと思わされます。「修辞」とあり、十代だからこそいい表したり感じたりできるものがあるのでしょうが、年齢を重ねた後から振り返ってみると、幼さや過剰な部分というものも含まれているのかもしれません。さて、主体はかつて少女に憧れた文月があったのでしょう。、知己の人ではなく、「名も知らぬ少女」だからこそ憧れるのかもしれません。知らない部分が多ければ多いほど、謎に満ちており、知らない部分は自らが想像するのみであり、想像とはいってみれば無限の可能性を秘めているともいえるでしょう。無限の可能性が憧れを呼ぶのです。直接関係はありませんが、「永遠」や「名も知らぬ少女」という表現に、寺山修司の〈海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり〉を想起してしまいました。
走り書きほどの約束いく度もおもひかへして文月を終ふ
| 作者 | 横山未来子 |
| 歌集 | 『樹下のひとりの眠りのために』 |



「走り書き」とは筆を走らせて急いで書いたメモのことです。そのような「約束」ということですから、しっかりと交わした約束ではなかったのではないでしょうか。何となく約束してしまうことはありますし、こちらは約束だと思っていても、相手はそう思っていない場合もあるでしょう。次いつ会おうか、今度どこどこにいこうといった些細な約束も果たされないままになることもあります。そのような約束を文月に思い返している場面だと思います。思い返したところで、もうその約束が達成されることはきっとないのでしょう。それゆえに「いく度も」思い返すのではないでしょうか。文月が、約束を思い返すことのみに費やされてしまったような印象を覚え、どこかさびしさを漂わせる一首だと思います。
朝潜り夜に潜りて卯年文月日常となる生駒トンネル
| 作者 | 勺禰子 |
| 歌集 | 『月に射されたままのからだで』 |



歌集においては同じ一連に〈快晴に青々と湧く生駒山生まれて初めて県民となる〉という歌が収められています。「生駒山」は大阪府と奈良県の県境に位置する山ですが、「県民」とあるので、奈良県に引っ越してきたのだと思います。そして、「生駒トンネル」を普段利用するような生活になったのでしょう。朝と夜に利用しているようですから、ひょっとすると通勤かもしれません。「朝潜り夜に潜りて」という表現に、トンネルに入っていく実感が表れているのではないでしょうか。面白いのは「卯年文月」という年月の挿入です。それまでもトンネルを通ったことはあったのでしょうが、まだ「日常」と呼べるほどの利用ではなかったのでしょう。この月を境にして「日常」になったという感じがして、主体と生駒トンネルとの距離感が縮まった様子が伝わってくるように思います。
昼夜なく薬師もとむる文月を次第に部屋に溜まりゆくもの
| 作者 | 紺野万里 |
| 歌集 | 『星状六花』 |



歌集においては同じ一連に〈自宅での最後の夜をくるしみのなき最初の夜を冷房つよく〉〈霊柩車のなかの広さよわたくしは姓が違へば手ぶらにて乗る〉という歌が収録されています。家族が自宅で臨終を迎えようとしている場面ではないでしょうか。時期は文月。家に薬剤師を度々呼び出したのだと思います。「次第に部屋に溜まりゆくもの」とは何でしょうか。目に見えるものとしては薬かもしれません。しかし、それだけではなく、主体の気持ちであったり、臨終前の家族の息であったり、そういう目には見えないさまざまが部屋に溜まっていくことを感じとっているのではないかと思います。「昼夜なく」に、時間など関係なく、この場所そして家族に向き合う姿が感じられ、この部屋というひとつの存在が力強くこちらに迫ってくる歌ではないでしょうか。
文月の四条通りを振り返る稚児ならずとも少年は神
| 作者 | 小川佳世子 |
| 歌集 | 『水が見ていた』 |



「文月の四条通り」「稚児」から、京都の三大祭りのひとつである祇園祭を思い浮かべました。祇園祭は七月一日から末日まで一か月間開催されます。中でも山鉾巡行が有名で、巡行のスタートで注連縄切りの大役を司るのが「稚児」です。この歌は、「稚児ならずとも少年は神」と詠われており、その稚児を詠いながらも、本当にいいたいのは稚児そのものではなく、その他大勢の少年なのです。稚児は神の使いとされていますが、稚児でなくても神といいきっているのです。つまり、山鉾巡行には稚児以外にも多数の少年が参加していますが、その誰もが神であると見つめているのです。祭で稚児に注目がいくのは当然でしょう。ただ、稚児かどうかに関わらず、少年というのはひとりひとりがすばらしい存在なのだという思いが伝わってきます。神であるのは何も祭の間だけではありません。祭が終わったとしても、少年たちはかけがえのない存在としてそこにおり、そのように少年を見つめる目にあたたかさを感じる一首です。

