「8月の短歌」と題して、8月に関わる短歌を現代短歌を中心にピックアップしてみました。8月に詠まれたと思われる歌もあれば、別の月に詠まれている歌もあります。
8月といえば、やはり夏真っ盛りでとにかく暑いイメージが強いのではないでしょうか。夏祭りや盆踊り、花火大会が盛んに行われる時期でもあります。
また8月は原爆忌や終戦記念日がある月であり、戦争を詠った歌が多く見られます。
8月の異称は「葉月」。葉月という名称は、一説には、旧暦の8月(現在の9月〜10月頃)は、実際に木々の葉が色づき、落葉が始まる秋の入り口にあたる時期であったことに由来するようです。
二十四節気では「立秋」「処暑」の季節です。
小学生、中学生、高校生などが8月の短歌をつくったり、鑑賞したりする際の参考にもなればと思います。
8月の短歌
流線型の鳥たち過ぐる八月の空に無数の筋のこりたり
| 作者 | 横山未来子 |
| 歌集 | 『花の線画』 |
tankalife鳥は空気の抵抗を最小限に抑え、効率よく飛ぶために流線型の体をしています。ハヤブサやカワセミなどは特にその傾向が強いでしょう。空気抵抗を考える場合、鳥の流線型は新幹線などの技術にも応用されるほど重要なフォルムです。さて、八月の空に鳥たちが飛んでいた場面です。その滑らかな飛行は、滑らかな軌跡を描いたことでしょう。その様子を「無数の筋のこりたり」と表現しているところがとても魅力的に感じます。無数ですから、同時に多くの鳥が飛んでいたのかもしれません。また、ある程度の時間的な長さを考えた場合、同時ではなくても、見上げた空をこれまで通過していった鳥の軌跡が幾重にも重なって感じられたのかもしれません。「流線型」という滑らかさが八月の空に心地よく映し出されるような一首です。
八月のバス停でポケットが全部うらがえり魚だとばれてる
| 作者 | 我妻俊樹 |
| 歌集 | 『カメラは光ることをやめて触った』 |



バス停でバスを待っている場面でしょうか。八月の暑さは否応なく体に影響を与えます。「ポケットが全部うらがえり」は自然とポケットが裏返った実景というよりは、この暑さに耐えられず、ポケットが裏返るしかないような身体感覚に襲われたと捉えてみてはどうでしょうか。几帳面にポケットを整えていたのに、この暑さのせいで、次々と全身のポケットが裏返ってしまったイメージを想像するのが楽しいですね。主体は魚であることを隠して生きていたのに、如何ともしがたい暑さによって、魚だとばれてしまったという状況がとても面白く感じます。ポケットを元に戻そうとしても裏返る力が強すぎて簡単には元に戻せない状況が伝わってくるようです。いわれてみるとポケットのかたちは鱗に似ていなくもありません。そもそもバス停でバスを待っていたのは人間だったのでしょうか。魚だったのかもしれません。バス停だから魚がいるわけがないとどうしていえるのでしょうか。この世は不思議なことが多いので、ここに魚そのもの、あるいは魚人間が紛れ込んでいてもまったくおかしくないでしょう。「八月のバス停」という現場が臨場感をもって迫ってくる一首です。
八月をすぐ遠景にしてしまう日暮れの舟のしずかな離岸
| 作者 | 服部真里子 |
| 歌集 | 『行け広野へと』 |



歌集において、湖を背景とした一連にある歌であるため、この舟は海や川ではなく、湖に浮かぶ舟なのでしょう。表記が船ではなく舟ですから、大人数が乗る大きな観光船ではなく、割と小さな舟だと思います。日暮れにその舟が岸を離れていく場面ですが、「しずかな離岸」という表現から、その場が本当に静かに感じられ、あまり人目にもつかない感じで舟は離れていったのではないかと思います。その光景は、八月という期間をどこか遠い存在として感じさせるのでしょう。「すぐ」という言葉からも、もう取り戻せない雰囲気が出ており、この八月はもう主体の手中に留めておくことはできないのではないでしょうか。ただ舟の離岸を眺めるしかなさそうですが、一方で時間や出来事というのはそのように過ぎ去ってしまうものだという達観に似たような思いも感じられ、もの悲しくもどこか穏やかさがあり、離岸の美しさがとても印象に残る一首です。
八月のマツモトキヨシは冷えていて簡易検査の箱はなおさら
| 作者 | 柴田葵 |
| 歌集 | 『母の愛、僕のラブ』 |



「マツモトキヨシ」はドラッグストア名、そしてここでいう簡易検査は妊娠検査薬のことです(作者自身が妊娠検査薬とXで言及していました)。さて、八月の暑い時期、ドラッグストアの店内はクーラーが効いていて助かりますね。「冷えていて」は文字通り、店内の室温が冷えているということでしょう。またそれと同時に「簡易検査の箱」も冷えた存在として店内に置かれているように感じられたのでしょう。「なおさら」とあるので、店内は冷えているのはもとより、その中に置かれている妊娠検査薬の箱も冷えているのです。箱が冷たいのもそうですが、それ以上にその存在自体が冷えているということでしょう。その冷えは、妊娠検査薬を買おうとしている自分の今の状況の表れかもしれません。別に何も悪いことは一切ないのですが、風邪薬を買うような気軽な気持ちと、普段あまり接することのない妊娠検査薬を買うときの気持ちはやはり異なると思います。主体のそのような気持ちが箱の冷えを通して読み手に伝わってくるようで、触覚を刺激する一首だと感じます。
八月の蛇口すべてが空をむき神様さえも撃ちぬくように
| 作者 | 田中ましろ |
| 歌集 | 『かたすみさがし』 |



蛇口がたくさん並ぶ八月の場面といえば、学校やプール、海水浴場などを思い浮かべます。顔や目を洗いやすいように、蛇口の向きが上向き、つまり「空」を向いているのでしょう。それ自体は特段珍しいことではありませんが、その蛇口を銃に喩えて「神様さえも撃ちぬくように」と捉えたところに独自の視点が感じられます。そもそも神様を撃ちぬくという発想自体、罰が当たりそうな気がしますが、お構いなしの様子です。蛇口の向きと空との関係から自然と浮かび上がってきた想像なのかもしれません。「ように」ですから、蛇口をもってして、実際神様を撃ちぬくことはできませんが、八月という暑い一日のこの一時の想像として愉快に感じられる一首ではないでしょうか。
水道代がそれほどかさむこともなくどこかせつなくきしむ八月
| 作者 | 荻原裕幸 |
| 歌集 | 『リリカル・アンドロイド』 |



八月に水道代があまりかさまなくなるのはなぜでしょうか。他の月と比べての違いは何でしょうか。例えば、夏は湯舟にお湯を溜めずにシャワーで済ますことが考えられます。また着る服も半袖一枚などとなり、洗濯物の量が少なくなることも考えられるでしょう。そのため、全体的な水道の使用量が減り、結果的に水道代が大きく膨れないということになるのではないでしょうか。上句はこのように水道代の実態について詠っていますが、興味深いのは下句の「どこかせつなくきしむ」です。水道代がかさまなくなったことは家計の上では助かりますが、上に挙げたようなちょっとした生活の変化と無関係ではありません。水道代が減るような過ごし方がが、日々の生活を必ずしも豊かにするとはいいきれないのです。違和感とまではいいませんが、何ともいえない微妙な日常の変化は、心境の変化へとつながり、切なく感じられたということではないでしょうか。「きしむ八月」に、どこかしっくりこない感じが滲み出ているように感じる一首です。
届かない乾杯みたいに手をふって電車のなかで終わる八月
| 作者 | 岡野大嗣 |
| 歌集 | 『音楽』 |



誰か思いを寄せる相手と一緒に、八月のこの一日を過ごしてきたのかもしれません。楽しい一日は終わり、二人は電車に乗って帰るところで、相手が先に降りた場面でしょうか。あるいは自分だけ電車に乗って相手は電車に乗らずにそこでそれぞれの帰路につく場面かもしれません。どちらにしても、相手とは直接手が届く距離ではなかったのでしょう。それを「届かない乾杯みたいに手をふって」と表現しているのだと思いますが、この喩えが非常に巧みで、二人の届かなさを存分に表しているのではないでしょうか。宴会の乾杯の席では、少し離れた人とは直接グラスを合わせることはできず、互いがややグラスを傾け乾杯した格好だけをして乾杯に代えることがあります。そのときの何ともいえないもどかしさというか、不完全な感じがこの歌によく出ているのではないでしょうか。一旦届かない乾杯で済ませてしまった場合、その人ともう通常の乾杯をすることはないように、このときももう再び会うことはない未来が訪れるのだろうと想像されます。はっきりと示された「終わる」が痛切に響く一首です。
つり橋をゆっくり渡る八月がデイパックからこぼれないよう
| 作者 | 伊波真人 |
| 歌集 | 『ナイトフライト』 |



「つり橋」と「デイパック]から、ハイキングや森の冒険のような状況をイメージしました。ひとりかもしれませんし、友人たち数人かもしれません。子どもの頃を思い出しているのかもしれません。八月とあるので夏休みを思い浮かべてもいいでしょう。色々想像はできますが、幼い頃の友達同士の探検の場面を思い浮かべるのが一番しっくりくるように思います。注目したいのは「八月がデイパックからこぼれないよう」です。デイパックには服、道具、おもちゃ、ご飯、お菓子など色々なものが詰め込まれているのでしょう。それら諸々を「八月」そのものと表現することで、このときだけの八月の楽しさ、愉快さ、ワクワク感が感じられます。その八月がこぼれないようにですから、つり橋を渡ることを含めた、この探検のひとときが、もう本当に楽しくてしかたないものだったのだと感じます。恐る恐るつり橋を渡るような様子も感じられ、渡る行為の慎重さとデイパックのあふれる様の対比が同時に迫ってきて、魅力的な一首となっているのではないでしょうか。
カメムシを棒でつついて雨ふらす辰爺のいた八月の村
| 作者 | 笹公人 |
| 歌集 | 『念力ろまん』 |



「八月の村」は主体がずっと住んでいた村でしょうか。それとも旅で訪れた村でしょうか。子どものころに関わった村かもしれません。また「辰爺」とは誰でしょうか。主体の身近な存在の人でしょうか。それとも偶々出会った人でしょうか。色々と謎はありますが、「辰爺」という名前自体がもつ独特の雰囲気みたいなものが感じられます。しかも「カメムシを棒でつついて雨ふらす」ということが本当にできるとしたら、それができる辰爺は村では特別な存在でしょうし、魔術めいたもののもち主なのかもしれません。一般的にカメムシが大量発生すれば雨が降るといういい伝えがあるようですが、そのあたりをこの歌は下敷きにしているのかもしれません。「辰爺のいた」ですから、もう辰爺はこの村には、あるいはこの世にはいないのではないでしょうか。「カメムシを棒でつついて雨ふらす」という具体的であり、不思議な能力を思わせる行為と、辰爺という名前が相乗効果をなして、この八月の村の体験の輪郭が鮮やかに浮かび上がってくるように感じます。
そばをゆでて食べた話を人にする 七分袖着てあるく八月
| 作者 | 永井祐 |
| 歌集 | 『日本の中でたのしく暮らす』 |



「そばをゆでて食べた話」というのは、特別に珍しいことではないでしょう。これがもし自分で蕎麦を手打ちしているということなら、相手に少し驚かれるかもしれませんが、茹でて食べるくらいは日常のよくある光景として受け取られると思います。ただ、この話をした相手は、蕎麦を茹でて食べたという些細な会話ができるような関係性の相手でしょう。ですから、初対面の相手とか、ほとんど話をしたこともない相手ではなく、ある程度よく知った間柄の相手だと思います。一方「人」といういい方が、相手と若干の距離感を表しているようにも思いますので、恋人や家族といった密接な関係というのとも違うように思います。さて、下句では「七分袖」が登場します。八月の暑さですから、七分袖ではなく、半袖シャツや袖なしシャツを着てもよさそうです。八月に七分袖のシャツを着ているところが何ともいえない微妙な感じを滲ませているのではないでしょうか。半袖でも長袖でもない、中途半端といえば中途半端な七分袖。この微妙さが、上句の「そばをゆでて食べた話」と関連があるような、ないような感じがします。上句と下句を無理に関連づける必要はないのでしょうが、上句も下句も日常の光景に焦点を当てながら、どちらもどこか表立っていない、影の薄い題材のような感じがするのです。華やかな一大イベントでもありませんし、一方で自分ひとりだけがわかる独りごとというのでもありません。目立たないけれど、どこか気になる日常の場面が掬いとられたような印象のある一首です。
八月のこの日、帰りにスーパーでビーフジャーキーただひとつ買う
| 作者 | 千葉聡 |
| 歌集 | 『海、悲歌、夏の雫など』 |



歌集において、この歌が収められた一連を読むと、飼い犬が亡くなった昔を思い返している状況が詠われていることがわかります。「八月のこの日」はこの犬の命日なのだと思います。家に帰っても、犬を見ることも触れることも一緒に遊ぶことももうできません。でも、スーパーでビーフジャーキーを買って帰ったのです。それは犬に食べてもらうためではなく、お供えに近いものとして買ったのではないでしょうか。あるいは、犬はもういなくなってしまったけれど、自分と犬とをつなぐ接点としてのビーフジャーキーなのかもしれません。「ただひとつ買う」に、犬を思う気持ちが滲み出ているように感じます。この犬はビーフジャーキーが大好物だったのではないでしょうか。一緒に過ごした楽しい時間も思い出されることでしょう。毎年訪れる八月のこの日に、主体はこれからもビーフジャーキーを買い続けるのだと思います。ビーフジャーキーを買い続ける限り、ずっと犬と心を通わせることができるのではないでしょうか。主体の気持ちが直接詠われているわけではありませんが、何ともいえないやさしさのような思いを感じさせてくれる一首ではないかと思います。
八月の阿蘇中岳の火口へと振りかぶって投げ込む抗鬱剤
| 作者 | 染野太朗 |
| 歌集 | 『あの日の海』 |



阿蘇を訪れたときの歌でしょうか。「抗鬱剤」とありますが、歌集においてこの歌を含む一連には、医師や薬の話が出てきており、この「抗鬱剤」は主体自身が処方されたものだと想像されます。見どころは「火口へと振りかぶって投げ込む抗鬱剤」でしょう。これは実景というより、比喩として捉えたいと思います。この抗鬱剤はもう主体にとって不要になったため投げ込むのでしょうか。それとも、まだ抗鬱剤を必要とする自分だという認識はあるのですが、もう抗鬱剤に頼りたくないという気持ちで投げ込むのでしょうか。どちらかといえば後者ではないでしょうか。「振りかぶって」や「投げ込む」に、今の状況に対する納得のいかない感じが出ているように感じるからです。それにしても、抗鬱剤という深刻な状況を詠っているにもかかわらず、阿蘇中岳の火口へ投げ込むという壮大さが魅力的であり、かえって清々しさすら感じさせてくれる一首ではないでしょうか。
空っぽの水族館は八月の脳ミソそこで「ごめん」って言う
| 作者 | 木下侑介 |
| 歌集 | 『君が走っていったんだろう』 |



「空っぽの水族館」のイメージを「八月の脳ミソ」のイメージと関連づけています。「空っぽの水族館」とは何でしょうか。魚がいない水族館でしょうか。あるいは客も飼育員もいない水族館でしょうか。水槽の水さえもないのかもしれません。そこには水族館とわかるだけの器はあるのですが、中身が何もないイメージが浮かんできます。一方の「八月の脳ミソ」も謎めいています。「八月の」という限定があることで生まれるイメージは何でしょう。時期の限定に特に意味はないのかもしれませんが、しいていうなら、八月の暑い時期にはあまり色々と緻密なことは考えられないということでしょうか。暑すぎて思考能力が低下するようなイメージをもちました。脳があまり働いていない感じが、空っぽの水族館とつながるような感じもします。「空っぽの水族館」も「八月の脳ミソ」もどちらも暗がりではっきりと見えないという共通のイメージも浮かんでくるでしょう。そのような状態でいう「ごめん」は、誰に対してかも何に対してかもわかりませんが、何となく本心からの「ごめん」ではなく、空っぽの感じから導き出された「ごめん」なのかもしれません。「ごめん」に重さがないといいますか、どこか空虚な感じがします。現実からやや離れた印象のある歌ですが、軽さや空っぽ感だけは手触りをもって感じられる一首なのではないでしょうか。
待たせている気がして今も待っている合わせ鏡の果ての八月
| 作者 | 櫻井朋子 |
| 歌集 | 『ねむりたりない』 |



待ち合わせでしょうか。それとも、かつての知り合い同士が互いに心惹かれながらも、今は離れ離れになっているような関係性を詠っているのでしょうか。お互いが会うという行為は、片方がもう一方に歩み寄らなければ成立しません。そこには待たせる側と待つ側が生まれる場合もあるでしょう。この歌では、相手を「待たせている気」がしているのですが、同時に自分が「待っている」立場でもあると詠われています。待たせると待つが同時に進行していく様子を「合わせ鏡」と表現しているのでしょう。八月の合わせ鏡に映る姿は、相手でもあり自分でもあり、また過去でもあり現在でもあり、待たせる側でもあり待つ側でもある。そのような複層的な関係が互いに絡み合う様子が印象的な一首です。
過去のなき空間のごとく光りおり八月の朝のコンビニの中
| 作者 | 小島なお |
| 歌集 | 『乱反射』 |



八月の朝に感じたことは、コンビニの中が「過去のなき空間」のように光っていることだったのです。コンビニは電灯がついていますから、夜でも明るいですが、陽の光が射し込む場所にある朝のコンビニは尚更明るく感じられたのかもしれません。では「過去のなき空間」とはどのようなイメージをもてばいいでしょうか。過去がないということは、今現在がそこにあるということでしょう。コンビニという存在は常に今を映し出す鏡のようなものなのかもしれません。人はものが必要になったとき、手軽に、準備せず、ましてや過去を振り返ることなく、コンビニを訪れるでしょう。今必要だから今コンビニにいくのです。主体にとって、この八月の朝のコンビニを見て、自分は常に新しい今の瞬間を生きているということがふっと心に兆し、新鮮に感じられたのかもしれません。コンビニという空間が、明るさと絡み合い、今現在にフォーカスする意識につながっていった、そのような感じではないでしょうか。「過去のなき空間」という把握が興味深く感じられる一首です。
いかにしてわが二十代を語るべし八月の陽はどこかが闇で
| 作者 | 永田淳 |
| 歌集 | 『1/125秒』 |



歌集において同じ一連には〈夕空にほつれしごとく雲のあり三十代の始まりの日の〉という歌があり、三十代になってから二十代をどう語るかについて見つめた歌です。二十代といってもその期間は十年間あり、二十歳と二十九歳とでは、生活も環境も考え方もおそらく違うものになっていたでしょうから、二十代といってもひとことで語ることはなかなか難しいのではないでしょうか。ひとことで語れないからこそ「いかにして」なのでしょう。「八月の陽」は一般的に暑く明るいイメージがありますが、「どこかが闇で」と詠われているところから、ひょっとすると主体の二十代のどこかにも「闇」を感じる部分があったのかもしれません。その「闇」をあまり語りたくないのかもしれませんが、その「闇」を語らなければ、主体の二十代を語ったことにはならないのではないでしょうか。いい面だけを繕って語ったところで、それは表面的な二十代の語りであり、本当の「わが二十代」にはなり得ないのかもしれません。「闇」という言葉が導き出す翳りを想像せずにはいられない一首です。
海坊主のような雲わく八月のビーチの砂に埋められていた
| 作者 | 吉岡生夫 |
| 歌集 | 『草食獣 第八篇』 |
| 備考 | ※正式には、吉岡生夫の「吉」は上の横棒が短い漢字。 |



家族か友人か、複数人で海水浴にきたのでしょう。海水浴は、海で泳ぐ楽しさだけでなく、ビーチの砂で遊ぶ楽しさもあります。この歌で詠われているのは、砂埋めでしょうか。とにかく主体が砂に埋められた場面です。おそらく顔だけ出して首から下はすべて砂に埋められたのでしょう。砂の重さが結構あるので、一旦埋められると自分の力ではなかなか抜け出すことができません。仰向けに埋められると、自ずと視線は空を向くことになります。そこには八月の雲が広がっていたのですが、「海坊主のような雲」という形容が面白く感じられます。海坊主といえば坊主頭の巨大な妖怪ですが、大抵上半身だけが現れた状態で描かれることが多いでしょう。もくもくと湧いていた雲も地表から上部が膨らんでいるような巨大なもので、海坊主を想像してしまったのでしょう。雲の形容はもとより、砂に埋められている自分、そして海にきていて海坊主というあたりが色々と関連していて楽しい一首です。
なにもない八月を恥じている日々のどの表情も鍋に似ている
| 作者 | 虫武一俊 |
| 歌集 | 『羽虫群』 |



八月の自分を振り返っている場面でしょうか。「なにもない」は、自分がこの八月に何も成し遂げていないということを指しているのだと思います。その状況を「恥じている」わけですが、過ごした八月のどの日々の自分の表情も「鍋に似ている」と詠われています。人の表情と鍋を並べて面白おかしく詠っていますが、主体は鍋のようなのっぺりした表情にならざるを得なかったのかもしれませんし、歌の滑稽さとは異なり、主体自身は決して笑える状況ではなかったのではないでしょうか。何か自分で納得いく成果があれば、八月はまた違った八月になっていたのかもしれません。しかし結果は鍋に似た表情をもつ八月となってしまったわけです。ただ、そのような状況を歌にできるところが、この八月の唯一の救いなのかもしれないと感じる一首です。
夜のセミ、鈴虫の声、八連敗 八月よまだ行かないでくれ
| 作者 | 池松舞 |
| 歌集 | 『野球短歌 さっきまでセ界が全滅したことを私はぜんぜん知らなかった』 |
| 詞書 | 8月17日× |



2022年8月17日の阪神タイガースのプロ野球の試合について詠われた歌です。結果はこの日も負けで、八連敗の状況なのでしょう。「夜のセミ」「鈴虫の声」と並んで「八連敗」が登場することによって、「夜のセミ」「鈴虫の声」がどこかさみしく感じる存在として浮かび上がってきます。「八月よまだ行かないでくれ」に本音がこぼれていると感じられ、もうこの連敗が早く終わってほしいと願っているのでしょう。「八連敗」から「八月」という「八」つながりで展開していくところに、歌としての面白さがありますが、「八連敗」という現実は、応援する側にとってはもうそれどころではないのかもしれません。
踏切の警報くっきり色づいて八月を乗せた急行がゆく
| 作者 | 笹本碧 |
| 歌集 | 『ここはたしかに 完全版』 |



「踏切の警報」は、赤く光ってカンカンとなる警報機を指しています。あの赤色のランプは、いわれてみれば確かにくっきりとしています。遠くからでも目立ちますし、間近で見ればどこか怖いくらいの鮮明さと音の大きさを感じるものです。そのような場面で、「八月を乗せた急行がゆく」が夏の一風景の広がりを感じさせてくれるのではないでしょうか。乗客や荷物を乗せたという表現であれば当たり前ですが、詠われている「八月を乗せた」は夏のあらゆるものや出来事を目いっぱい乗せて走っている姿を想像させます。この急行はただの金属の塊としての電車ではなく、どこかワクワク感に似た気持ちすら感じさせる八月という大きな存在を乗せた電車となって過ぎていくのです。この世界を広く捉え、スケールの大きさを感じさせてくれる一首ではないでしょうか。
今日よりは八月となり退屈の孫らはいづこにゆきしか静か
| 作者 | 池田はるみ |
| 歌集 | 『亀さんゐない』 |



「今日よりは八月となり」とありますから、八月一日のことでしょう。夏休みの期間に、孫が遊びにきていたのでしょうか。孫はひとりではなく複数集まっていたのでしょう。孫がいるということは、その親、つまり自分から見ての子もいるでしょうから、にぎやかな状態であることが想像できます。孫たちは普段とは違う場所、すなわち主体の家だと思いますが、その家の中にいても特にやることがなく時間をもて余していたのではないでしょうか。気がつけば、孫たちはどこか外出していったのでしょう。その後に残るのは「静か」です。孫たちがくる前と同じ状態に戻っただけなのですが、一旦孫たちのいるにぎやかさを味わうと、その後に訪れる静かな空間は、それ以前にもまして静かに感じられるのではないでしょうか。にぎやかさと静かさの落差が巧く表現された一首だと感じます。
八月の僕だけがいる教室の机のかどではじけたひかり
| 作者 | 土岐友浩 |
| 歌集 | 『Bootleg』 |



今この教室にいるのは「僕」ひとりだけです。八月ですから夏休みの教室でしょうか。授業はありませんが、何か理由があってか、特に理由はなかったのか、「僕」ひとりが教室を訪れたのではないでしょうか。誰もいない教室に普段の騒がしさはなく、とても静かだったのでしょう。単なる静かを通り越して、静かすぎる状態ともいえるでしょう。教室という場所におけるこの静けさは、自分自身を見つめ直すのに最適な時間かもしれません。それはこれまでのことかもしれませんし、今生きていること、今後どうしていきたいのかなのかもしれません。「机のかどではじけたひかり」からは、自分を見つめた結果、今後に向かっての希望のようなものが感じられはしないでしょうか。光に充たされた教室に「僕」がいる、そのことだけで何か尊さのようなものが感じられます。八月の日差しの明るさと、そこに立つ僕の存在が印象に残る一首です。
八月はマイクロネシアの島に立ち蛾の心臓の鼓動を聴けよ
| 作者 | 山田富士郎 |
| 歌集 | 『羚羊譚』 |



「マイクロネシア」はミクロネシアともいわれ、太平洋の西部に広がる島々を指します。北半球にある島々なので、日本同様八月は夏に当たります。日本からは遠い島なので、マイクロネシアの島に立つという状況自体がなかなかないでしょうが、さらに面白いのは「蛾の心臓の鼓動を聴けよ」です。他人の心臓の鼓動を聴くこともあまりない状況であるのに、人間よりもはるかに小さい蛾の心臓の鼓動を聴くのはなおさら難しいでしょう。いや、本当に聴けといっているのではないかもしれません。暑い八月、島であるマイクロネシア、蛾の心臓の鼓動という組み合わせが、短歌としてひとつの強烈なイメージを立ち上がらせ、読み手はそれを存分に味わえばいいのではないでしょうか。島に立って蛾の心臓の鼓動を聴くとは何とも愉快ではないでしょうか。「聴けよ」という命令とも呼びかけとも採れる表現に、読み手を引き込む力強さを感じる一首です。
エスカレーター振り向きざまに八月のいつ見ても光りたての眼球
| 作者 | 大森静佳 |
| 歌集 | 『ヘクタール』 |



自分と相手がエスカレーターに乗っている場面でしょうか。隣に並んで立っているのではなく、上りのエスカレーターで相手が上側、自分が下側に立っていて、相手が振り向いた状況を想像しました。「光りたての眼球」は相手の眼そのものを詠っていると同時に、八月そのものの光り輝くようなまぶしさも表していると感じます。例えば外の日差しが射し込む場所にあるエスカレーターであれば、上りの場合ちょうど相手の奥から八月の光が射し込んでくるような感じではないでしょうか。やはり「八月の」がポイントで、単に人間の眼球に留まらず、八月そのものが眼球をもつようなイメージが浮かびます。しかも「光りたて」であるところに、新たに始まった八月の新鮮さのようなものも感じられます。光と眼球の重ね合わせられたイメージがいつまでも残り続ける一首です。
八月はずっと手放さないほのおその熱さごと手が忘れない
| 作者 | 安田茜 |
| 歌集 | 『結晶質』 |



歌集において一首前には〈みずからのみぎてとひだりてをつなぐこれがいちばんわかりやすい火〉の歌が置かれています。掲出歌の「ほのお」もこの火に近いものと考えると、自分の手が抱える熱をもった炎ということになるのではないでしょうか。この「ほのお」は、松明やトーチのようなものを手にもっていてその熱さを詠っているとも採れます。しかし、「八月はずっと手放さない」とあるので、そのような実際の炎というよりも、自身の内面が生み出した炎と捉えた方がしっくりくるように感じます。それは熱量や活力、意志のようなものを指しているのかもしれません。この「ほのお」の熱は内面に留まらず、人間の先端であり日々よく動く手という存在の触感をもって知覚されているのです。八月の暑さと「ほのお」の熱が絡み合い、心と体の両面で生きる力を感じるような一首です。
八月の死者を遙かに思へどもひとりの自死の鎮め難きも
| 作者 | 内藤明 |
| 歌集 | 『薄明の窓』 |



「八月の死者」と聞いてまず思い浮かぶのは戦争で亡くなった人たちです。ここでいう「八月の死者」はそのような多くの戦死者を指しているのかもしれません。「遙か」は距離的にも離れていますが、時間的にも離れた、つまり遠い過去に思いを馳せているのではないでしょうか。戦争で亡くなった人の中には自決をした人たちもいたでしょう。「自死」を選ばざるを得なかった人たちのたった「ひとり」でさえも、鎮めることは難しいと詠っています。戦争によって命を奪われた多くの人々に鎮魂の祈りを捧げることを行ったとしても、その多くの人々の中のたったひとりの魂さえも鎮めることができていないのではないかという思いが表出しています。現在を生きる我々にできることは、祈りを捧げることや、再び戦争を起こさない世の中を維持していくことですが、「ひとりの自死」の魂を如何ともしがたい現状に自身の無力感が出ているように感じます。ただ、たとえ無力であったとしても、祈りを続けることを始め、できることを行っていくことは大切なことではないかと考えさせられる一首です。
兄逝きし日さへもつひに八月の記憶のうちに均されゆくも
| 作者 | 水沢遙子 |
| 歌集 | 『空中庭園』 |



兄は八月に亡くなったのでしょう。それは今起こったことではなく、兄が亡くなってからもう何年も経っているのだと思います。人間は自分に起こったすべてのことを覚えておくことはできません。記憶は日々忘れられていきますし、場合によっては記憶が事実そのままではなく、時間の経過とともに変化していくこともあるでしょう。「兄逝きし日」の当日に感じていた思いと、今その日を振り返って思い出す記憶はまったく同じとはいえないのでしょう。「つひに八月の記憶のうちに均されゆくも」にさみしさを感じずにはいられません。記憶を同じ状態でずっと保持することは難しいでしょうが、兄が逝った日でさえも、日常の多くの記憶の中に均され埋もれてしまうのかと思うと何かやりきれない思いを感じてしまいます。一方で、記憶が均されたことによって、兄が亡くなったという悲しみが徐々に和らいだとも捉えることはできるでしょう。均されることのさみしさと安らぎがないまぜになって伝わってくる一首ではないでしょうか。
八月の記憶もうなし厚切りの鮪は舌の舌触りして
| 作者 | 石川美南 |
| 歌集 | 『架空線』 |



「厚切りの鮪」は刺身の鮪でしょうか。分厚くカットされた鮪は、その色合いも大きさも、いわれてみれば確かに人間の舌に似ているようにも思います。鮪の切り身は舌を使って食べますが、このように詠われると、鮪を食べているのか、舌を食べているのか、よくわからなくなる、そんな感じがしてきます。「舌の舌触り」が何とも生々しく伝わってきます。さて「八月の記憶」とは何でしょうか。「もうなし」なので、主体にとってもその記憶が何だったのか、もう思い出せないのでしょうから、読み手はなおさらその記憶を知ることは難しいでしょう。記憶はないけれど、今確かにここにあるものといえば「舌触り」なのです。考えてみれば、記憶というのは舌触りのような触感に比べれば、どこか曖昧で不確かなものかもしれません。「舌の舌触り」という生々しい実感だけがいつまでも残り続ける印象的な一首です。
もつともつと欲しがる力 はちぐわつの積乱雲かがやきにけり
| 作者 | 大松達知 |
| 歌集 | 『ゆりかごのうた』 |



一歳の子どもを詠んだ歌です。「もつともつと欲しがる力」は子どもがさまざまなことに興味を示していることを詠っているのだと思います。家の中ではおもちゃや食べ物に興味を示し、外では植物、砂、遊具などに関心を示して、手で触ったり遊んだりしている様子が浮かんできます。「はちぐわつの積乱雲」の壮大でくっきりとした姿は、そのような「欲しがる力」に通じる力強さを備えているのではないでしょうか。「サンダーヘッド」といういい方も鋭くかっこよく、積乱雲がこれ以上なく、八月の大空に輝いているように感じます。子どもの成長は本当に早いものです。雲がたちまち成長していくように、わずかな期間に子がぐんぐんと育っていく姿が見えるような一首です。
狂ってる?それ、褒め言葉ね。わたしたちは跳ねて、八月、華のハイティーン
| 作者 | 青松輝 |
| 歌集 | 『4』 |



「ハイティーン」とあるので、10代後半の人たちの気持ちが表出されている歌ではないかと思います。「狂ってる?」は字義通りに採れば、褒め言葉ではありませんが、仲間内でいう場合、特に他者とは段違いに違うことを行う人に対しては、若干の尊敬を含んだ褒め言葉なのでしょう。この歌の一番の魅力は、頭韻とリズムです。「跳ねて」「八月」「華」「ハイティーン」の語頭はいずれも「は」の音で統べられており、読んでいるときは、まさに跳ねているようにワクワク感と上昇していくような心地よさが感じられます。「華の」で一旦屈むようにして力を溜めるようなリズムの感じも変化があって素敵な印象があります。丹念に意味を追うよりも、この頭韻やリズム感から生まれる十代後半特有の雰囲気があるようで、それを第一に楽しみたい一首です。
八月以外の十一か月の広島にしずかな声の雨は降りくる
| 作者 | 谷村はるか |
| 歌集 | 『ドームの骨の隙間の空に』 |



八月の広島と聞けば、八月六日の原爆投下を思い浮かべてしまいます。八月は毎年巡ってきますが、広島にとって八月は他の月と違って特別な意味をもった月として迫ってくるのです。歴史的背景によって広島の八月が注目されますが、「八月以外の十一か月」とあるように、八月が特別に注目されてしまうがゆえに、その反動で八月以外の月は静かに感じられるのかもしれません。「しずかな声の雨は降りくる」は、八月とそれ以外の月のまさにこのような対比を詠っているのではないでしょうか。八月だけが殊更に注目され、それ以外の月はまるで何もなかったかのような風潮に違和感を覚えているのかもしれません。八月であろうとそうでなかろうと、原爆の影響を受けた人々や関わっている人々は住み続けているわけですし、原爆投下という事実は時間の断絶なくずっと残り続けています。「しずかな声」は決して沈黙ではありません。大きな声ではありませんが、「しずかな声」の方がかえってその底に秘められた強い思いを感じさせ、いつまでも「声」が響き続けているような一首だと感じます。
八月の坂のうえなる信号の青をスバルより濃くしてください
| 作者 | 杉﨑恒夫 |
| 歌集 | 『パン屋のパンセ』 |



青色で「スバル」と聞けば車を思い浮かべる人もいるかもしれませんが、歌集においては一首前に〈八月は傷心の季節ペルセウス流星群を空にかかげて〉が置かれており、この歌の「スバル」は星の昴(プレアデス星団)を指していると思われます。八月の坂の上に信号が見えています。坂の上ですから、やや見上げる感じの位置に信号があるのでしょう。その信号の奥には夜空が広がっているのでしょう。信号の青色と星のスバルの青色を比較して、スバルより濃くしてほしいと願っているところがとても興味深く感じられます。「濃くしてください」は神様に向かっていっているのか、はたまた宇宙や夜空そのものにいっているのか、あるいは具体的に誰かにお願いするというよりも、自分の願望が漏れ出た結果としてこのようないい方になったのか、色々と考えられると思います。信号とスバルが関連づけられて詠われることによって、ひとつの物語が誕生するような、そんな一首ではないでしょうか。
いっせいに髪なびかせて少女らが着る八月の不安な私服
| 作者 | 早坂類 |
| 歌集 | 『風の吹く日にベランダにいる』 |



八月の屋外に並んで立っている少女らに、風が吹いている場面を想像しました。この歌の注目は下句の「八月の不安な私服」でしょう。単に「八月の私服」であれば普通かもしれませんが、「不安な」が挿入されることで一首に起伏が生まれています。さあこれから未来に向かっていこうという感じではなく、どちらかといえば、これでいいのかな、これで大丈夫かなという気持ちの表れが「不安な私服」として提示されているのではないでしょうか。「私服」は制服と違い一律ではなく、各自が自分で選ぶことができます。選べるということは選択肢があっていいように思えますが、裏を返せば自分で決める必要があるということです。指示された制服であれば、あまり考えずにいわれた通りに従っていればよかったのでしょうが、私服となると誰も決めてくれる人はいないでしょう。そのように自分で選択するという状況が訪れたのは、ある意味成長したといえますが、その状況に少し不安を抱いているのかもしれません。音の面では「八月」「不安」「私服」にはいずれもH音が含まれていて、その点も工夫された一首だと感じます。
雲ひとつなく八月の太陽の熱核融合反応続く
| 作者 | 香川ヒサ |
| 歌集 | 『ヤマト・アライバル』 |



とても暑い一日だったのでしょう。雲ひとつない空に照る八月の太陽が、地上に熱をもたらします。太陽の熱がなければ地球上の人類が生きていくことはできませんが、太陽の熱が強すぎてあまりに暑すぎると、それはそれで疲れてしまうのも事実です。夏の最高気温が更新され、かつては存在しなかった猛暑日や酷暑日などという言葉が誕生したことも、夏の暑さが年々増してきていることの証でしょう。さて、そのような八月の暑さを「太陽の熱核融合反応続く」という表現で、太陽の側の科学的な現象として冷静に表現しているところがこの歌の魅力だと思います。遠い将来太陽が星としての寿命を終えるまで、核融合反応が止まることはないでしょう。地球が存続できるのも太陽の存在があるからということが改めて認識させられます。このような視点が提示されることで、ただ単に八月は暑いなあといっているだけの狭い視野ではなく、宇宙の体系といった大きな視野へ引っ張り出されるような心地よさがある一首だと思います。
ギンヤンマじぐざぐに飛び八月の天地かすかに引き締まりゆく
| 作者 | 小島ゆかり |
| 歌集 | 『純白光』 |
| 備考 | 本歌集は短歌日記シリーズの一冊。各ページには日付と日記が付されている。掲出歌には以下の記載あり。 8/13 ロンドンオリンピック閉幕。今日から規則正しい生活をしよう。 そして、体を鍛えよう。 |



ギンヤンマが八月の空間を飛ぶ様子を詠っています。「じぐざぐに」というところに、ギンヤンマの描く軌道を注視している目があり、この表現によってギンヤンマの飛行に立体感が出ています。注目したいのは「天地かすかに引き締まりゆく」という下句。ギンヤンマが飛行し、通過することによって、これまで目の前に見ていたはずの天地という壮大な空間が一段違うように見えたのでしょう。ギンヤンマが目の前を飛ばなければ、主体は天地自体を特別意識することはなかったかもしれません。しかし、ギンヤンマの飛行によって、天地が意識され、しかも天地が緩みなく引き締まっていく様を感じたのでしょう。「かすかに」も過剰さがなく、ギンヤンマと天地を媒介する程度として効果的に働いていると思います。ギンヤンマというひとつの小さな生命から、天地という広大な存在への飛躍が魅力的に感じる一首です。
コヲクニヲミライヲ守ル策モナク真夏日だけがつづく八月
| 作者 | 森井マスミ |
| 歌集 | 『まるで世界の終りみたいな』 |
| 詞書 | 二〇一二年、名古屋の真夏日は七十六日、大阪は七十五日 |



上句がカタカナを多用して詠われているところが印象的な一首です。漢字とかなで表記するとすれば「子を国を未来を守る策もなく」となるでしょう。子を守ること、国を守ること、未来を守ることが、今の日本あるいは地球全体に果たしてできるのだろうかと憂いているのだと思います。子どもたちの環境の変化、考え方の変化、国の情勢、将来に対する不透明感など色々と不安要素を数え上げればきりがないでしょう。詞書にある通り、真夏日が昔と比べ多い現代となってしまいました。真夏日が続くことで体調を崩す人もいるでしょう。気温が高くなったのは、温暖化を含め、さまざまな要因はあるでしょうが、八月の真夏日からさえも守り切れていないのではないかという思いも表れているように感じます。八月の暑さが継続する日々において、不安かつ不穏な雰囲気がじわじわと迫ってくる、そんな一首ではないでしょうか。
急にピントが合ったみたいだきみが髪を切った8月
| 作者 | 伊藤紺 |
| 歌集 | 『気がする朝』 |



この歌は全部で27音しかありません。五七五七七のリズムそのままというわけにはいかない歌です。そこで三句欠落の歌として見てみてはどうでしょうか。「急にピントが」の七音、「合ったみたいだ」の七音、「きみが髪を」の六音、「切った8月」の七音として、三句が欠落した歌として読めば、初句・二句・四句・五句は定型のリズムにやや近くなるかもしれません。さて、八月に「きみ」が髪を切った場面ですが、そのときの様子を「急にピントが合ったみたいだ」と表現しています。これまでは、カメラのピントが合わないように、どこかぼやっとした感じで「きみ」を見ていたのかもしれません。あるいは特に意識をしていなかったのかもしれません。それが、「きみ」が髪を切った途端に、カメラのピントが合うように「きみ」の輪郭がはっきりと主体の目に映ってきたのです。ここには、「きみ」に対する見方が変わり、ハッとさせられた驚きが表れているのではないでしょうか。三句欠落は、この落差を表現するのに一役買っているように感じる一首です。
八月の試着室いたく涼しくて白夜の国に続きゐるべし
| 作者 | 栗木京子 |
| 歌集 | 『新しき過去』 |



八月の屋外はとても暑いですが、商業施設などの建物内は空調が完備されていて、心地よく過ごせます。この歌は屋内の試着室について詠っていますが、「いたく涼しくて」とあり、暑い八月とは思えないほど快適な試着室だと感じたのでしょう。面白いのは下句で、あまりにも涼しく感じられることから「白夜の国に続きゐるべし」と発想を飛躍させているところです。白夜の国とは、一日中太陽が沈まない季節がある国を指しており、緯度が高い北極圏や南極圏、北欧の国を想像すればいいでしょう。試着室の涼しさは、白夜の国の寒さにつながっているのでしょう。試着室から白夜の国へと続く秘密の抜け道のようなものを想像してしまいます。試着室という小さく閉じられた空間というのもポイントで、そのような空間であるからこそ、白夜の国へのルートがあるかもしれないという納得感が読み手に伝わってくるのではないでしょうか。
八月のはちすにほへるこの国はアジアの孤島ざわざわと朝
| 作者 | 坂井修一 |
| 歌集 | 『アメリカ』 |



歌集において、この歌の一首前には〈不忍の弁天堂前すなぼこりつどひては散るひとのこゑ聞く〉の歌が置かれています。したがって「八月のはちす」は、東京上野不忍池の蓮を指しているのだと思います。蓮の花の匂いを感じている初句二句から、三句以降「この国」という大きな存在へ飛躍していきます。日本国は島国ですが、それを「アジアの孤島」と称し、どこか不安定な状況、また隣国との関係性などを踏まえたうえで「ざわざわと朝」と詠っているところに、心落ち着かない様子が表れているのではないでしょうか。蓮が池一面に広がる様子は美しいといえば美しいのですが、見方によってはこれほど密集している様子は怖ろしいといえば怖ろしい状況とも捉えられるかもしれません。蓮の様子と、日本国という存在の対比が魅力的に映る一首ではないでしょうか。
届きたる写真に雲のとどまりて「八月終わる頃」と名はあり
| 作者 | 阿部久美 |
| 歌集 | 『ゆき、泥の舟にふる』 |



誰かから自分宛に写真が送られてきたのでしょうか。その写真には空が映っていて、空には雲が浮かんでいたのだと思います。雲がメインの写真だったのか、あるいはそうではなかったけれど主体にとっては雲に注目した写真だったのか、どのような写真だったのかは色々と想像する余地がありそうです。さて、その写真には「八月終わる頃」と記されていたのだと思います。誰かから送られてきた写真であれば、その誰かが記載したものなのでしょう。動画と違って写真であるので、雲が動き出すことはありません。「雲のとどまりて」とありますが、写真上では留まるほかないでしょう。現実ではやがて消えてしまう雲を、写真は永遠に留まらせ続けるのです。この八月のこの日は、写真という物体を通して、今後いつでも振り返ることのできる景色として残り続けるのでしょう。たった写真一枚ですが、さまざまな物語を想像させてくる一首ではないでしょうか。
八月をソルジェニツィン逝き母が逝き有名無名に死はゆるぎなし
| 作者 | 島田修三 |
| 歌集 | 『蓬歳断想録』 |



「ソルジェニツィン」は旧ソビエト連邦の小説家で、2008年8月3日に逝去しました。歌集において、この一首前には〈さういへば赤塚不二夫も死にしかな露草咲きそむ夕べの路傍に〉の歌が置かれていますが、漫画家の赤塚不二夫は2008年8月2日に亡くなっています。同じ八月に母もこの世を去ったのでしょう。人の死はあくまでその人ひとりの死であって、通常人の死を誰かと比較したり、並べたりすることはありません。ですが、この歌では名の知られた人物と母の死を同時に詠むことによって、「有名無名に死はゆるぎなし」を説得力をもって読み手に伝えているのです。確かに、死は死であって、それは生前有名な人であっても、無名な人であっても変わることはありません。人という存在で共通している限り、誰にも均しく死は訪れるのです。死が訪れるという当たり前のことを、この歌は改めて浮き彫りにしているのではないでしょうか。死ぬ瞬間において有名か無名かは役立つことなく、また死に抗うこともできず、有名無名以上に、いかに死にゆく人と関わり合ってきたのかの方が見送る側にとって大切なのではないか、そのような思いも込められているように感じます。
降りてきた電線工の中年の顔を流るる汗が八月
| 作者 | 高野公彦 |
| 歌集 | 『河骨川』 |



観察眼の鋭い一首だと感じます。電線工事をしている中年の人を見ている場面でしょう。もし電線工事をしている現場を通りすぎる機会があったとしても、特に注意して見なければ、電線工事をしている人が作業している程度の把握で終わってしまうでしょう。しかし、ここではその電線工が降りてくる動作を捉えたうえで、その人の顔をしっかりと見ています。さらに、その顔を流れる汗に注意を向けているのです。このように「汗」という小さな部分が捉えられることによって、八月の暑さがひしひしと伝わってきますし、暑さの中で行う電線工の作業の大変さや、必死に取り組んでいる様子も感じられるのではないでしょうか。
ためらはずふくらみ断てばあふれたり海鞘の臓より八月の海
| 作者 | 梶原さい子 |
| 歌集 | 『あふむけ』 |



海鞘の旬は夏。海鞘はその見た目が独特ですが、名前の由来は「ランプシェード」つまり火屋にかたちが似ているところから名づけられたようです。その見た目から、人類で初めて食べた人は結構勇気が入ったのではないでしょうか。さて、この歌は海鞘を調理する場面ですが、海鞘の膨らんだ部分に包丁を入れて切り裂いたところでしょう。「ためらはず」に主体の思いきりの気持ちと若干の逡巡がないまぜになって表れているように感じます。魚介類を調理する場合は、野菜などと違って、たとえ死んでいたとしてもややためらう場面はあると思います。それは魚介類のかたちが生きていた姿そのままに残されているためでしょうし、例えば魚の頭を落とすときもまったく抵抗がないかといえば、そういう人は少ないかもしれません。海鞘のふくらみを切る場合に、主体はそのようなためらいを一瞬感じたからこそ「ためらはず」とわざわざ意識したのではないでしょうか。もしも本当にためらわないのであれば、ためらわないことすら意識にのぼらないと思います。刃は海鞘の内臓にまで達し、その内から海水がこぼれ出たのでしょう。それを「海鞘の臓より八月の海」と表現したところに魅力があり、海鞘という命、とてつもない海の広がり、八月の暑くきらめく海面が伝わってくる一首ではないでしょうか。
ひと気なき八月半ばつねながら浄きひかりを反すアベリア
| 作者 | 花山多佳子 |
| 歌集 | 『草舟』 |



白いアベリアでしょうか。八月中旬に人の気配があまりない場所にいる場面です。昼間の公園かもしれませんし、あまり人が通らない道かもしれません。そのような場所でアベリアが輝いて咲いていたのでしょう。夏の日差しが射し込んで、アベリアの花びらを照らしている様子が浮かびます。その様を「浄きひかりを反す」と表現しているところに、アベリアの花が神聖なもののように感じられます。人の気配がない状況によって、アベリアに焦点が当たり、一層効果を上げています。「つねながら」はいつも通りという意味ですが、この「つねながら」は「ひと気なき八月半ば」にも「浄きひかりを反すアベリア」にも両方にかかっているように思います。この日のこのタイミングだけではなく、いつもひと気のないところで「ひかりを反すアベリア」が存在しているのだと思います。何かイベントが起こる歌ではありませんが、アベリアの存在が際立って感じられる一首だと思います。
炎ゆるごとき老衰あれよ八月の紫陽花立ち枯れて惑星狭き
| 作者 | 川野芽生 |
| 歌集 | 『星の嵌め殺し』 |



「老衰」という衰退へ向かう状態に対して、まるで正反対であるような「炎ゆるごとき」という喩えが詠われているところに、まず驚かされます。特定の誰かの老衰でしょうか、あるいは全世界のあらゆる老衰を指しているのでしょうか。今現在の話ではなく、自分自身の将来の老衰を詠っているのかもしれません。さて下句へいけば、紫陽花の見頃は六月であり、八月には枯れてしまった様子を「紫陽花立ち枯れて」と表現しています。そして「惑星狭き」とありますが、この惑星は我々が住む地球のことだと思います。紫陽花の球形のかたち、その色合いから、惑星が導き出され、立ち枯れる紫陽花は老衰と呼応しているように感じます。しかし、「炎ゆるごとき」ですから、単純な衰退傾向ではありません。紫陽花が六月付近に最大限開花する一方で、時期が過ぎれば枯れてしまうように、一瞬活動が活発になって活力を伴ったのち、やがて衰退していくような、そんな老衰をイメージするのです。「老衰」も「紫陽花」も「惑星」も、それぞれの語単位で見れば、その意味も存在もわかる言葉ですが、この歌のように詠われると、それぞれの語は単体の枠を超えてイメージと化し、それらが互いに関連し、イメージとイメージの融合によって一首の雰囲気がつくり出されているのでしょう。この歌から感じるのは、具体的な目の前の老衰ではなく、もう少しイメージに近い老衰であり、それによって不安感や窮屈さ、また怖れのようなさまざまなものがないまぜになってこちらに伝わってくるように思います。この歌に具体的な何かを求めるのではなく、歌を読んだときに感じる心のざわつきを素直に楽しめばいいのではないでしょうか。
陰暦の八月みたいにずれている二十五歳の父であること
| 作者 | 吉川宏志 |
| 歌集 | 『夜光』 |



陰暦の八月は、現在の暦では九月上旬から十月上旬頃に当たります。ですから、八月といっても陰暦の八月であれば、暑さは少し和らいで秋の装いがやってくる時期を指します。主体は二十五歳で子どもがいて、父となっています。本人は父という存在に少し違和感というか、慣れない感じを抱いているのではないでしょうか。それを「陰暦の八月みたいにずれている」と表現したところに面白さを感じます。八月は八月だけど気候がずれているみたいに、父は父なんだけど、父親全開という意識をまだもつことができていないといった感じでしょうか。何となくふわふわした気持ちなのかもしれません。陰暦の八月の方はこれからも、現在の暦の八月と合致することはありませんが、父としての立場は今後時間が経てば、やがてだんだんとずれがなくなってくるかもしれません。数字が具体的で効果的に使われた一首です。
八月の午後の光よ人殺め人孕ませる焦点がある
| 作者 | 川本千栄 |
| 歌集 | 『青い猫』 |
| 詞書 | 戦争証跡博物館 |



詞書にある通り、ベトナムのホーチミンにある戦争証跡博物館を訪れたときの歌です。「人殺め人孕ませる焦点」とは何でしょうか。この焦点はさまざまな焦点を表しているのではないでしょうか。ひとつは当時戦争の渦中にいた人たちの焦点でしょう。記録された写真や展示品にも、実際に当時の人々の目が映っていたことでしょう。そして、今博物館にきて証跡を見ている主体の焦点でもあると思います。また、この博物館自体が、戦争に対する、時代に対する焦点そのものであるともいえるでしょう。「人殺め人孕ませる」には、人の死と生が両方関わっています。しかし、それは人から喜ばれるべき死と生でなく、殺めるも孕ませるも望まない死と生なのです。「八月の午後の光」は希望の光となるのでしょうか。それとも、当時のつらい状況を表す光のままなのでしょうか。暑い八月の午後の光が痛々しく刺さって感じられる一首です。
たくさんの草八月の公園に立つ自転車は隠されている
| 作者 | 吉野裕之 |
| 歌集 | 『ざわめく卵』 |
| 備考 | ※正式には、吉野裕之の「吉」は上の横棒が短い漢字。 |



八月のある公園において、多くの草が生い茂っていたのでしょう。その公園には自転車が停められていたのだと思います。あるいは、放置された自転車だったのかもしれません。「立つ」とあるので、自転車は横倒れにはなっていなかったとわかります。一台でしょうか、それとも複数台の自転車でしょうか。「たくさんの草」とあるので、複数台の自転車が隠れるほどの草だったと想像してみたいと思います。主体の位置から草が邪魔になって自転車が見えなかっただけかもしれません。それとも、意図的に自転車が草の中に隠されていたのでしょうか。「隠されている」という言葉が、この歌を不思議な光景の歌として立ち上がらせているのだと思います。何気ない八月の公園の場面ですが、読めば読むほど謎が深まるような一首だと感じます。
最近はもう大体がリボ払ひルルルと言うてしのぐ八月
| 作者 | 町田康 |
| 歌集 | 『くるぶし』 |



リボ払いは毎月の支払額が一定額になりますが、手数料が高いところが難点でしょう。「大体が」とあるので、リボ払い設定にして購入するものが大半を占めるのでしょう。クレジットカードにおける支払いは、現金払いと違い、後で引き落とされます。したがって、現在商品相当のお金が手元になくても購入が可能です。「しのぐ」というのは、このあたりの事情を加味していっているのかもしれません。買うときと支払うときのタイミングがずれるので、買うときはいいのですが、支払うときに困ることもないとはいえません。面白いのは、「ルルル」といって凌いでいるところでしょう。まるで鳥が啼くような感じではありませんか。現実を逃避しているようでもありますが、一方でどこか余裕も感じさせてくれます。「リボ」「ルルル」といったR音をベースとした音の関連を楽しむこともできる一首ではないでしょうか。
カーテンの隙間から見た八月の喧嘩のことを今でも話す
| 作者 | 北山あさひ |
| 歌集 | 『ヒューマン・ライツ』 |



カーテンですから窓際にかけられているでしょう。カーテンの隙間から見ていたのは部屋の外でしょうか、それとも部屋の中でしょうか。部屋の内側から、外で行われている喧嘩を見たとも読めますし、窓とカーテンの間に隠れていて、部屋の中で起こっている喧嘩を見た状況とも採れるでしょう。どちらかは明確ではありませんが、いずれにしても、カーテンの隙間から覗いている主体の目の印象が強烈に読み手に迫ってくるのではないでしょうか。それは、カーテンの隙間という限定された部分に焦点が当てられているからでしょう。この八月の喧嘩は主体にとっては、強く心に残り続けている場面なのだと思います。ですから、当時の喧嘩のことを「今でも話す」のでしょう。そのような状況から、見知らぬ人の喧嘩というよりも、身近な人たちにおける喧嘩だったのかもしれません。これまでも今でも繰り返し話すことで、このときの記憶を忘れないようにしているともいえるでしょう。喧嘩を覚えていたいという人は稀かもしれませんが、主体にとっては覚えておきたい、忘れたくないというよりは、忘れてはいけない場面だったのかもしれません。「今でも話す」に主体の思いが表れているようで印象深い一首です。
八月の旅ははるけく窓枠にしづくしてゆく冷凍蜜柑
| 作者 | 大辻隆弘 |
| 歌集 | 『汀暮抄』 |



八月の旅ですが、窓枠が詠われており、その窓枠に冷凍蜜柑が置かれているのでしょう。蜜柑を置くことができる窓枠ですから、ある程度スペースのある窓枠でしょう。ですから、電車やバスでの移動ではないかと想像します。新幹線かもしれません。また「はるけく」とあり、距離的に離れている場所への旅だと思います。この冷凍蜜柑は、旅の途中で食べようと思って用意してきたものでしょう。「しづくしてゆく」ですから、まだ食べずに窓枠に置いたままなのです。急いで食べてしまうのがもったいないのでしょうか。もう少し旅の風情を味わってから、じっくり食べようという気持ちかもしれません。冷凍蜜柑といえば、昔給食で出たことを思い出しますが、常温の蜜柑と違い、冷凍というだけでどこか特別な感じがしたものです。また夏に食べるには冷えている状態が最高にうれしく美味しく感じたものです。八月の旅の冷凍蜜柑に焦点が当たっている歌ですが、冷凍蜜柑という存在がもたらすイメージから、その背後には主体が旅に思う気持ちや、旅の時間などさまざまなものが立ち上がってきて、非常に広がりを感じる一首です。
グリーンのサテン地10メートル買う少女に並んで八月尽
| 作者 | 田中有芽子 |
| 歌集 | 『私は日本狼アレルギーかもしれないがもう分からない』 |



歌集では「【く】」と題された、「く」から始まる歌ばかりが配置された一連の中の一首です。八月尽ですから、八月の終わりに布地を買おうとしてレジの列に並んで会計を待っている場面でしょう。「グリーンのサテン地10メートル」を自分が買ったのか少女が買ったのか、「買う」と「少女」を切って読むかつなげて読むかでどちらが買うのかが変わりますが、ここでは少女が買ったと読みたいと思います。自分の前に並ぶ、あるいは今会計中の少女の手元には「グリーンのサテン地10メートル」が見えたのでしょう。少女はドレスでもつくるのでしょうか。八月の終わりに何か特別な意味があるのでしょうか。そのあたりは明かされていませんが、それを想像するのも楽しいでしょう。また、ここで自分が何を買うかは明示されておらず、前に並ぶ少女が買おうとしている布地が上句いっぱいに使って示されています。10メートルという長さと、それを示すために上句を全部使って表現している部分がマッチしていると感じます。「グリーン」「サテン地」「10メートル」という具体的な提示によって、レジに並ぶときの実感が強く感じられるのではないでしょうか。
冷や麦をゆでる八月平和とはわたしでいること家系図途絶えて
| 作者 | 菊竹胡乃美 |
| 歌集 | 『心は胸のふくらみの中』 |



歌集において、この歌は、妊娠や子どもについて思いを巡らした一連の最後に置かれています。「家系図途絶えて」とありますから、今この時点で子孫を残さない方向に気持ちは傾いているのかもしれません。家系図という意識があることは、家族や周囲との関係を感じさせ、自分ひとりの問題ではなく、他者との関係においての問題でもあるという認識をおそらくもっているのでしょう。さて、そのような状況や思いにありながら、冷や麦を茹でているのです。さまざまに考えることはあるのでしょうが、この歌で確固としていることは「平和とはわたしでいること」です。「わたしでいること」とは、端的にいえば自分に正直に生きているかということではないでしょうか。「わたし」が「わたし」であれば、それは心が安らいで生きているということなのではないでしょうか。「家系図途絶えて」という重たい状況が詠われているにしても、「平和とはわたしでいること」にこれでいいという強さを感じる一首です。
してみると切り絵がゆびにうつくしい動きをさせると知った八月
| 作者 | 郡司和斗 |
| 歌集 | 『遠い感』 |



「してみると」という初句が独特で注意を引く導入だと思います。この導入によって、初句の段階では一体何を「してみると」なのだろうと読み手は考えます。続いて「切り絵」が登場しますから、「してみると」は「切り絵」を「してみると」なのかなと思いながら読み進め、一首の最後まで読んだときにやっぱり切り絵だったと思うのではないでしょうか。この歌は切り絵自体の図柄や美しさに焦点が当たっているのではなく、切り絵をするときの、自分自身の指使いについて注目して詠っているところが興味深く感じられます。カッターナイフなどで紙を丁寧に切っていくわけですが、線に沿って切っていくときのカーブの感じや、滑らかな感じを「切り絵がゆびにうつくしい動きをさせる」と表現している点が魅力的だと思います。自分が美しい動きをしているのではなく、切り絵がそうさせているという見方に発見が感じられるのではないでしょうか。「してみると」がまさにそうであり、実際自分で体験したからこそ感じることができた「うつくしい動き」なのだと思います。
灼くる日を溜めたる小石ひろひたりただ森閑と八月の午後
| 作者 | 小島熱子 |
| 歌集 | 『ぽんの不思議の』 |



八月の暑さの増す午後に、小石をひとつ拾ったのでしょう。道端に落ちているような、特に何ということのない小石だと思います。場所は、ひと気の少ない小路だったかもしれませんし、森の中だったかもしれません。この歌で注目されているのは、その小石の色やかたち、軽さや重さではなく、小石に触れたときの温度です。「灼くる日」は、朝からずっと降り注いでいた太陽の熱を指しているのであり、「溜めたる」からその場でその瞬間に差していた陽に留まらず、時間的に長い間小石が太陽の熱を浴びていたことがわかります。小石を拾い上げてみると、小石には熱が感じられたのでしょう。「森閑と」とありますが、小石を拾い上げたとき、ひっそりと静まりかえっている時間が主体に訪れたのです。この小石に特別な力があったわけではないでしょう。しかし、八月の午後であること、小石が「灼くる日」を溜めていたこと、主体が拾い上げる行為をしたことなど、それらが重なりあって、この「森閑」はこの場に生まれたのだと思います。八月の午後の静寂だけがいつまでも残り続けるような感じがする一首です。
銃後という言葉について考える男児を生みし我八月に
| 作者 | 山添聖子・葵・聡介 (掲出歌の作者は山添聖子) |
| 歌集 | 『じゃんけんできめる』 |



「銃後」とは、戦場の後方を意味し、戦争時において、直接の戦闘に加わらず、前線の背後にあって戦争を支援する国民を指す言葉です。日本においても戦時中は、軍需物資の生産や兵士の慰問などが国民に広く求められました。当時、戦争の前線に立って戦闘を行うのは主に男性でした。戦闘に参加せず残された男性や女性は後方で戦争を支える役目を負っていたのです。さて、この歌は男の子を出産した経験のある主体が、八月に「銃後」という言葉について思いを巡らせているのです。もしも戦時中に自分が子どもを産んでいたとしたら、そしてそれが男の子であったとしたら、自分の子どもは前線で戦闘していたのだろうか。あるいは銃後としての支援に回っていたのだろうか。前線の戦闘という危険な配置になるよりも、銃後の方がまだマシだったのではないだろうか。いや、そもそも銃後云々より、戦争そのものに対して関わらなければならない状況とどう向き合うのだろうか。そのようなさまざまを子どもが生まれたことによって、考えざるを得なかったのではないでしょうか。八月は原爆忌や終戦記念日のある月ですが、だからこそ一層銃後について考えさせられるきっかけとなったのでしょう。出産という喜ばしい出来事を起点に、銃後という重たい出来事へ展開していきますが、それにより改めて戦争の悲惨さや命の尊さを考えさせられる一首なのではないかと思います。
ゆうらりと生れて影在る八月のかなかな、わたし、隣家の仔猫
| 作者 | 佐伯裕子 |
| 歌集 | 『あした、また』 |



「ゆうらり」はゆらりに近い意味を感じますが、ゆらりよりもさらにゆっくりしているような印象を与えてくれるでしょう。「生れて影在る」とは、この世に命をもって誕生したというイメージでしょうか。誕生することはすなわち影を存在させるという目のつけどころがとても鋭く感じられます。そして「八月のかなかな、わたし、隣家の仔猫」の三つがその存在の代表として提示されています。「八月」が「かなかな」だけにかかるのか、それとも三つ全部にかかるのかが不明ですが、「八月の」が三句にあり、ここで一呼吸置く感じで読んで下句にいくので、三つにかかっていると見るほうがいいのもしれません。「かなかな」と「仔猫」はこの八月に生まれたと捉えることができるでしょう。注目すべきは、間に挟まれた「わたし」です。他二つは主体から見た生き物であり、これら二つと「わたし」が並べられている点が何とも不思議な感じがします。この歌は、「かなかな」や「仔猫」を引き合いに出しながら、実は「わたし」自身を一番に意識している歌なのではないかと思います。自分という存在は何なのか、自分はなぜ生きているのか。そのような問いがこの歌から滲み出ているようで、八月の影の存在を認識しながら、改めて自分について考えている姿が浮かんでくる一首なのではないでしょうか。
ガルテンのその裏庭の八月は汗ばみながら酷くあかるい
| 作者 | 川﨑あんな |
| 歌集 | 『さらしなふみ』 |



「ガルテン」とはドイツ語で「庭」を意味する言葉で、英語でいえばガーデンに当たります。文字通り採れば、庭の奥に裏庭があるという状況です。その裏庭は八月の暑さに充ちているのでしょう。「汗ばみながら」が体感としての暑さを表し、「酷くあかるい」が視覚的な暑さを表しているのではないでしょうか。イメージとしてですが、裏庭というとどこか隠れたような、影になったような場所を想像します。ただ、この裏庭は陰の要素よりも、陽の要素が勝っているような場所としての裏庭ではないかと感じます。最初に「ガルテン」は庭を意味する言葉だと述べましたが、この歌の初句を「庭」と表現するのと「ガルテン」と表現するのとでは、歌から受ける印象はかなり異なるでしょう。「ガルテン」という、日本人にはあまり耳慣れない語が登場することで、この「ガルテン」は一般的な庭ではなく、このときこの場所にある唯一的な存在としての「ガルテン」になっているように感じます。そのガルテンを契機として展開される裏庭だからこそ、この裏庭の印象も一般的な八月の話ではなく、主体にとっての特別な八月の光景として迫ってくるのではないかと感じる一首です。
ゆら、と夾竹桃揺れて大阪の午後二時半八月は混濁
| 作者 | 勺禰子 |
| 歌集 | 『月に射されたままのからだで』 |



詠み込まれた場所、時間、数字が印象的な歌です。「大阪」「午後二時半」「八月」がぎゅっと凝縮されています。音やリズムに注目すると、全体のリズムは五七五七七ぴったりではなく、結構ずれています。初句から結句は、四、九、五、六、九と区切れるかもしれません。ただ、全体を通して読むと何となく五七五七七にかなり近い印象を受けるから不思議です。八月の大阪の午後の屋外にいたのでしょうか。「夾竹桃揺れて」は風のせいでしょうか、それともあまりの暑さに空気が揺らぐような感じがして、風は吹いていないけれど夾竹桃が揺れたように感じられたのかもしれません。「混濁」という表現が、すっきりとしたひとときではなく、人も物も気温も湿度も、あらゆるものが整理されずに混ざり合っているような、そんな印象を受けます。そのように感じられるきっかけが「ゆら、と夾竹桃揺れて」なのかもしれません。具体物や具体的時間が詠まれながら、雑多な感じが同時に混じり合う感じが印象に残る一首です。
八月の山の稜線をさなしと正しきことをきみは言ひ出づ
| 作者 | 阪森郁代 |
| 歌集 | 『ランボオ連れて風の中』 |



どこから山の稜線を眺めているのでしょうか。地上から遠くの山を見ているとも考えられますが、ここでは実際に山を歩いている場面として捉えたいと思います。八月は山登りで人気の季節でしょう。特に日本アルプスの高山は、夏であれば快適に登ることができ、暑さから解放されるひとときになるでしょう。八月の山の稜線は、冬の山の稜線と比較すると幼いということでしょうか。「正し」は事実であるという意味です。「きみ」が「八月の山の稜線をさなし」といい出したわけですが、主体はその発言は確かに事実であると受け止めているのです。ただ、確かにその通りなのですが、この発言をした「きみ」に対して主体はどのような思いを抱いているのでしょうか。今回だけではなく「きみ」はいつも「正しきこと」をいう人なのかもしれません。本当は「正しきこと」ではなく、もっと別の話を聞きたかったのかもしれません。正しきことではなくても、もっと突拍子もない面白い話をしてほしかったのかもしれません。「きみは言ひ出づ」あたりに、「きみ」の人となりが見えるのですが、「正しき」というあまり使われない語が詠み込まれているところに、正しきではない何かを求める気持ちが主体にあったのではないかと想像させられる一首です。
大粒の雨うちそそぐ八月の黒き葵に人の素肌に
| 作者 | 小池光 |
| 歌集 | 『廃駅』 |



「黒き葵」は黒いタチアオイでしょうか。あるいは葵の花の色が黒ではなく、影となって黒く見えたのかもしれません。八月といえば暑く晴れる日が多く、雨が降る日の方が少ない印象があります。夕立でしょうか。「大粒の雨」なので勢いのある激しい雨だったのでしょう。「降る」ではなく、「うちそそぐ」という表現がされていますが、この表現も、雨の勢いを一層強めているでしょう。この雨に「黒き葵」が打たれている光景ですが、同時に「人の素肌」にもこの雨は強く降り注いでいるのです。葵の黒色に対して、素肌の白色に近い色合いの対比が印象的ですが、そのいずれにも強く雨が打っているのです。雨を防ぐ術がないように、どこか逃れがたい何かが滲み出ており、一旦はそれを受け容れるしかない、そのような印象がもたらされる一首だと思います。
はちぐわつのきみと触れたりきみはもう存在するとは別の仕方で
| 作者 | 吉田隼人 |
| 歌集 | 『忘却のための試論』 |



歌集において、二首後には〈おしばなの栞のやうなきみの死に(嘘だ)何度もたちかへる夏〉の一首が置かれています。したがって「きみ」はもうこの世に存在しないのだと想像できます。掲出歌で「きみ」に触れたのは、おそらく「きみ」の死後だったのでしょう。「きみはもう存在するとは別の仕方で」という表現が痛切に響きます。「きみ」に触れるという行為自体は「きみ」が生きていようと死んでいようと変わりはないのに、「きみ」が存在するかしないかの違いによって、触れるという意味が変わってしまったのです。そして、「きみ」が存在しない今、それは片方しか、つまり存在しない方でしかもう選択することができないのです。触れるという確かな手触りがありながらも、存在するとはどういうことなのかを改めて考えさせられる一首です。
八月の空に青葉のあお満ちて〈戦争は白黒ではない〉と気づく
| 作者 | 鈴木加成太 |
| 歌集 | 『うすがみの銀河』 |



戦争を思い浮かべるとき、つい白黒の映像で思い浮かべていないでしょうか。「戦争は白黒ではない」はいわれてみれば当たり前のことなのですが、実際に戦争を体験した者でない場合、情報のみを介して、その当たり前に気づかない場合があります。この歌は八月の空を見上げたときに「戦争は白黒ではない」と気づいたのです。空の青さが「青葉のあお満ちて」と表現されているところに、ただの青色ではなく、青葉の生命力のようなものが感じられるでしょう。この生き生きとした「青葉のあお」が、単なる情報としてしか認識していなかった戦争から、もっと生々しいものとしての戦争へ、現実と無関係ではない戦争へと認識を新たにさせられたのではないでしょうか。上句の表現も魅力的で、色彩の対比から導き出される気づきが印象に残る一首です。
あるときははらはらとふるかなしみの胡椒としての八月の雨
| 作者 | 松木秀 |
| 歌集 | 『5メートルほどの果てしなさ』 |



八月の雨を眺めている場面でしょうか、あるいは雨に濡れている場面かもしれません。注目したいのは「はらはらとふるかなしみの胡椒として」です。雨自体は特にかなしいとかうれしいとかの感情をもちながら降っているわけではないでしょう。雨に「かなしみ」を見るのはいつも人間の側です。このとき主体は、雨に「かなしみ」を見いだしたのでしょう。「胡椒」というのは、やや刺激があるといったイメージでしょうか。単に沈んでいくだけのかなしみではなく、主体に何かを気づかせてくれるようなかなしみなのかもしれません。「あるときは」ですから、八月の雨がいつもそうであるという状況ではなく、そう感じるときがあるということでしょう。「かなしみの胡椒」という表現が印象に残る一首です。
青い舌みせあいわらう八月の夜コンビニの前 ダイアナ忌
| 作者 | 山崎聡子 |
| 歌集 | 『青い舌』 |



ダイアナ元英国皇太子妃が亡くなったのは1997年8月31日です。その日の出来事を思い出している場面でしょうか。コンビニで買ったかき氷かアイスを食べて青く染まった舌を互いに見せ合っている様子を思い浮かべました。コンビニの前で笑う自分たちがいる一方で、別の場所で誰かが亡くなってしまう現実。主体とその人とは直接的な関係はないけれど、そのニュースをまったく意識の外に放り出せないでいる主体がいるのではないでしょうか。外部の情報を無視できないのは、勝手に舌が染まってしまう状況と通じるものがあるのかもしれません。そう考えると「青い舌」になっているのもどこか不気味というか、暗さを感じさせるように思います。歌集名にもなっている印象的な一首です。
吾をさらいエンジンかけた八月の朝をあなたは覚えているか
| 作者 | 俵万智 |
| 歌集 | 『サラダ記念日』 |



歌集において同じ一連の別の歌に「吾」のルビとして「あ」が振られているので、この歌の「吾」も「あ」と読みたいと思います。八月のある朝の出来事は、主体にとっては印象に残っていて忘れられない記憶となっていますが、「あなた」にとってはどうなのでしょうか。ひょっとすると「あなた」はもう忘れてしまっているのかもしれません。主体と「あなた」は別の人間ですから、そのときの記憶の深さも強度もまったく同じになることは難しいでしょう。しかし、主体は「あなた」にこの八月の朝を、自分と同じように大切なひとときとして覚えていてほしいのではないでしょうか。「吾をさらい」ですから、二人の関係性が一気に近づいた朝だったと想像できます。それゆえなおさら覚えていてほしいのでしょう。しかし、「あなたは覚えているか」には、もうあなたは自分と同じようには覚えていないかもしれないという、どこか相手との距離感を感じるような問いかけにも思えます。音の面でいえば、「吾」「エンジン」「朝」「あなた」「覚えて」「いるか」のア行音が集中的に取り入れられており、相手との距離の広がりは感じつつも、そこに対する未練よりも、諦めというか、すっきりとした心情をもった問いかけとなっているのかもしれないと感じる一首です。
八月へさよならを言え、鞄にはルーズリーフの束つめこんで
| 作者 | 千種創一 |
| 歌集 | 『砂丘律』 |



「八月へさよならを言え」は、相手に対して告げているのでしょうか。それとも自分自身に対して、鼓舞するような感じでいっているのでしょうか。あるいはその両方かもしれません。八月に起こった諸々の出来事に対する区切りをつけたい気持ちの表れのように思います。鞄につめこむルーズリーフの束は、これから使われるものというよりは、もう必要のなくなったルーズリーフのように感じます。ルーズリーフはバインダーに次々に足していけるものですが、ここではもう足す必要がないように、さよならをいうこの八月は、今後思い出されることもない、思い出す必要がない八月となるのかもしれません。さよならをいう対象が八月という大きな季節の括りであるところに、歌の奥行きと広がりを感じ、主体の固い決意が垣間見えるような一首だと思います。
八月の日差しに生るる濃ゆき影 自死を選びし理研センター長
| 作者 | 秋山佐和子 |
| 歌集 | 『豊旗雲』 |



2014年、新たな万能細胞として注目を集めたSTAP細胞を巡る騒動で、当時の理化学研究所発生・再生科学総合研究センターの副センター長が八月に自死する痛ましい出来事がありました。歌では「理研センター長」となっていますが、おそらくこの副センター長のことを指していると思われます。「八月の日差しに生るる濃ゆき影」は、当時の騒動や報道の過熱、そしてその結果、自死という影が生まれてしまったことに対する何ともいえない思いが表出されているように思います。特に「濃ゆき」に、ひとつの命がなくなってしまったこと、もう取り戻せない無念さが滲み出ているように感じます。八月の日差しが強ければ強いほど、その影が濃くなるように、当時のSTAP細胞発見の盛り上がりからの不正疑惑に至る転落が、この光と影に表れているのではないでしょうか。
正月の笑みはさておき八月も微笑せり皇室カレンダー
| 作者 | 小川真理子 |
| 歌集 | 『母音梯形』 |



「皇室カレンダー」は宮内庁の許可を得て発行されているカレンダーで、天皇皇后両陛下を始め皇室の方々の写真が掲載されています。その写真の一月の写真と八月の写真を見て、どちらにも微笑が写されていたことに違和感を覚えたのだと思います。一年の始まりである一月の笑みは特に問題ありません。謹賀新年、今年もいい年にしましょうの笑顔はいたって普通です。しかし、八月となるとどうしても戦争をイメージしてしまいます。責任の議論は置いておくにしても、開戦と終戦、また戦中においても皇室は戦争と無関係とはいえないという思いが主体には兆していたのではないでしょうか。カレンダーはあくまでカレンダーなのですが、八月という月だからこそ、その写真に皇族の微笑が写っていることがやはり引っかかったのだと思います。大きな抵抗というのではなく、ほんの些細な心の揺れのようなものだと思いますが、皇室カレンダーという具体物を通した心の動きが表れた一首なのではないでしょうか。
八月の樹の根なるかな地の面にあらわれているところ渦まく
| 作者 | 渡辺松男 |
| 歌集 | 『歩く仏像』 |



この一首だけを見れば、山中奥深くにそびえる大樹の根が地面に茂っている様子を思い浮かべるかもしれません。しかし、歌集においてこの歌は「風船爆弾」と呼ばれる一連に置かれています。この一連は戦争について詠われており、掲出歌も戦争を背景とした歌のひとつと見れば、単に自然を詠った歌ではないと思われてくるでしょう。そのように考えると、この歌は爆弾が爆発した場面を詠っているのではないかと想像します。八月ですから原子爆弾について詠っているのかもしれません。投下された爆弾が爆発し、地上を広がっていく様を「地の面にあらわれているところ渦まく」と表現しているように感じます。樹の根が生命力をもって地面に広がるように、爆弾の熱と爆風はその威力が衰えることなく、たちまちに周囲に広がっていったのではないでしょうか。具体的に「原爆」や「爆弾」という言葉は使われていませんが、そのような言葉を直接的に用いないからこそ生まれる怖さがあり、特に「渦まく」に怖ろしさが凝縮されているように感じる一首です。
八月に見あげた空よ いちめんの綿の海原、波のない海
| 作者 | 岸原さや |
| 歌集 | 『声、あるいは音のような』 |



八月の海辺にきた場面でしょうか。空の青色、そして海の青色が目の前いっぱいに広がっている光景が浮かんできます。「綿の海原」はあまり聞き慣れませんが、海を意味する「わたのはら」や「綿津海」から導き出されたことばでしょうか。波がなく穏やかな海が一面にひらけているのでしょう。全体の構造を三つのかたまりに分けてみるなら、空、海、海というかたまりになります。まず空の広さが提示され、その次に一面の海が提示されます。そして、結句でもう一度「波のない海」と海が改めて示されるのです。そう考えると結句の「波のない」というところに焦点が収斂していくような印象を受けますが、この海の穏やかさは、主体そのものの今の心の穏やかさの表れなのではないかと思えてきます。どこまでも、そしていつまでも一面の海が広がり続けるような一首です。
沖からのゆっくりと迫る大波を乗りこなしたき八月である
| 作者 | 犬養楓 |
| 歌集 | 『救命』 |



新型コロナウイルス流行時の第五波(2021年7月1日~9月30日)に関して詠われた一首です。救急の医師として診療にあたる作者は多くのコロナウイルス感染患者と接してきたのでしょう。それは第五波以前もそうですが、ここで再び「波」がやってきたのです。第五波を「沖からのゆっくりと迫る大波」と表現していますが、この第五波を乗り越えられるかどうかはこの時点でははっきりとしていないのです。そこにはこれまでの流行の波を乗り越えてきたという自負と、まだ全貌が見えない波を乗りこなせるだろうかという不安とがないまぜになって伝わってきます。後から振り返れば、原因についても結果についてもいくらでもいうことができますが、渦中にいるときはそのときその場で得られる情報や考えをもとに判断するしかないのです。救急の現場だからこそ、そしてこのときだからこそ生まれた一首だと思います。
八月は驟雨の中に始まりぬ木々の裸体はひた打たれつつ
| 作者 | 松平盟子 |
| 歌集 | 『プラチナ・ブルース』 |



八月は雨の少ないイメージがありますが、驟雨つまりにわか雨は見られるでしょう。この八月は驟雨に始まったようですが、「驟雨に」ではなく「驟雨の中に」と表現されていて、八月が丸ごと驟雨全体に包まれているような感じがします。驟雨の内側から始まったという印象が強く出ていると思います。「木々の裸体」という表現も魅力的で、雨が樹皮に直接降りそそぐ情景が浮かびます。「ひた」は直接、ひたすらという意味ですが、これらの表現によって驟雨は単なる脇役ではなく、存在感が増して伝わってくるように感じます。驟雨に包まれたこの八月はどこか時間をもたない空間のように感じられ、その分雨の滴や木々の手触りなどが実感をもって読み手に伝わる一首になっていると思います。
丈高きクルドの男も混じり来て解体始まる葉月つごもり
| 作者 | 春日いづみ |
| 歌集 | 『地球見』 |



歌集において、家の建て替えについて詠われた一連に置かれた一首です。八月三十一日に家の解体が始まったのでしょう。建て替えに関わる大工や建築業者が出入りするその中に、クルド人の男性がいたのです。家の建て替えの作業を行うに当たり、国籍は問いませんが、日本でクルド人を見ることは珍しかったのかもしれません。確かに欧米人に比べて、日本でクルド人を見ることは少ないのではないでしょうか。しかも「丈高き」とあり、他の人たちと比べて身長が一段高くかなり目立っていたのではないでしょうか。この男性が解体開始のきっかけというわけではないでしょうが、「混じり来て解体始まる」という詠われ方に、この男性が解体開始の合図になったような感じを一瞬受けるのも面白いと感じます。家の建て替えをしなければ、また実施するにしてもこのタイミングでしなければ、出会うことのなかったかもしれないことを考えると、本当に出会いとは偶然がもたらす不思議なものだと感じます。
八月のあぢさゐ末枯れ戦争の色に灼けをり けふ原爆忌
| 作者 | 伊東一如 |
| 歌集 | 『蓬莱橋』 |



歌集において、次の一首に〈「映像の世紀」見をればつくづくと人間たるが嫌になりたり〉が詠われています。掲出歌も、NHKのテレビ番組「映像の世紀」を視聴した影響を受けてつくられたのかもしれません。「原爆忌」ですから、8月6日か8月9日です。紫陽花はすでに最盛期を過ぎ、すっかり色あせてしまっているでしょう。その彩りのなさを「戦争の色」と表現しています。「戦争の色」と聞いて思い浮かべる色は人それぞれでしょうが、鮮やかな色を思い浮かべる人は少ないのではないでしょうか。今日が原爆忌であるという意識が、紫陽花の末枯れた色を、主体にとっての「戦争の色」に映し出したのです。「八月のあぢさゐ」はもう色鮮やかに咲き直すことはないでしょう。紫陽花のもう咲き戻ることのない状況が、原爆投下後の消失した街に重ね合わさり、痛ましさやはかなさを感じずにはいられない一首です。
八月の空かき暗し降る雨に紫電あり、はた紫電改あり
| 作者 | 島田幸典 |
| 歌集 | 『no news』 |



「かき暗し」はあたり一面が暗くなることですが、雨が降っていて空が暗くなっている場面です。「紫電」は太平洋戦争期につくられた大日本帝国海軍の戦闘機の名称です。それを改良した戦闘機が「紫電改」です。戦争当時の空を飛んだであろう紫電および紫電改を想像しているのでしょうか。本来空を飛ぶことは憧れの象徴ですが、戦闘機となれば話は別で、まさに暗い空を飛んだのではないかと思い浮かべているのです。戦争のこと、紫電や紫電改に搭乗した人たち、それを見送るしかなかった家族など、さまざまなことに思いは及びます。通常、改良と聞けばいいように捉えられますが、「紫電」から「紫電改」への改良は純粋に喜べる改良ではありません。その背景には、そしてその結果には戦争という惨禍がつきまとわざるを得ないでしょう。具体的名詞を提示するのみにして感情を前面に出さない詠い方だからこそ、逆に主体の深い思いが感じられる一首ではないでしょうか。
八月のケチャップ農場収穫のトマト火達磨となりて転がる
| 作者 | 馬場あき子 |
| 歌集 | 『阿古父』 |



宮崎県を訪れた際の一首です。ケチャップ農場ですから加工用のトマトを数多く栽培しているのでしょう。この農場に、トマトが「火達磨」のように真っ赤に燃え上がって転がっている様子を目の当たりにしたのだと思います。トマトが元々もつ赤さはもちろんのこと、八月という炎天下における暑さが「火達磨」という比喩に抜群に合っているでしょう。人間も暑さにやられますが、ケチャップ農場のトマトも暑さに灼かれてしまっている様子が伝わってきます。転がっているのは収穫間近のためでしょうか、それとも本当に八月の暑さにやられて落ちて転がってしまったのでしょうか。そのあたりを想像するのも面白く感じられる一首ではないでしょうか。
葉月の短歌
8月は8月でも、「葉月」という表現に関わる短歌を取り上げています。
葉月はやおどろくばかり青き空のぼりゆくものすべて拒みて
| 作者 | 江戸雪 |
| 歌集 | 『駒鳥』 |



葉月の空が真っ青に広がっている様子が伝わってきます。「おどろくばかり」は、空の青さが驚くほどに青いという状態を指しているのではないでしょうか。「のぼりゆくものすべて拒みて」が少しわかりにくいのですが、「青き空」へのぼってゆくものが何もないという意味でしょうか。空が、のぼってくるものすべてを受け入れていないという状態なのではないかと想像します。では、空へのぼるものといえば何が考えられるでしょうか。例えば、飛行機やヘリコプターのような飛行物体、煙、あるいは雲もそうかもしれません。とにかく、このときの「青き空」は何かを受け入れるとその青さが損なわれてしまいそうで、何も受け入れがたいほど青く広がっていたのではないかと想像します。青い空の存在が前面に押し出されて感じられる一首です。
葉月尽いとしいひととふるさとと青には青の挨拶がある
| 作者 | 井上法子 |
| 歌集 | 『永遠でないほうの火』 |



歌集では度々「青」が登場し、この歌の「青」のイメージもそのような全体の方向性の中のひとつとしての「青」なのだと思います。時期は八月の終わり。愛しく思う人と、ふるさとに思いを馳せているのでしょうか。実際その場にその人がいるかもしれませんし、いないかもしれません。ふるさとに立っているわけではなく、遠くからふるさとを思っている場面かもしれません。「青には青の挨拶がある」というどこか捉えがたい表現が、実景というよりも、不思議でかつ心地よい空間へ誘ってくれる、そんな印象のある歌です。海、空、雨など「青」を連想できる現象や存在はさまざまありますが、この歌の「青」をそれらのどれかに置き換えてしまうことは、歌から感じられるエネルギーや広がりを狭めてしまうことになるのではないでしょうか。やはりここは「青」は「青」のまま受け取り、この一首を感じるのがいいように思います。「青の挨拶」が何であるのかを言葉でもって説明するのは難しいのですが、説明できないところにこの歌の魅力があり、何か具体的には伝えられませんが、「青」との接触や交流のようなイメージを思い浮かべればいいのではないかと思います。「青」という言葉がもつ射程範囲の広さを存分に味わいたい一首です。
永遠に白き葉月の午後 蟬の声を残して世界は終はる
| 作者 | 黒瀬珂瀾 |
| 歌集 | 『空庭』 |



蟬は夏を象徴する生き物のひとつであり、蟬と聞いてまず思い浮かべるのは命のはかなさのようなものではないでしょうか。人間の尺度から測れば蟬は短命ですが、蟬自身にとっては必ずしも短命だと感じていないかもしれません。しかもひっそりと死んでいくのではなく、「蟬の声」は非常に力強く、耳にも記憶にも残るほどの声で啼いています。「永遠に白き葉月の午後」は、夏の光のまぶしさに、まるで世界が白そのものに見えるようなイメージを思い浮かべます。その光景は、世界の終焉として主体の目には映ったのでしょうか。視界には白が続く世界があるばかりで、残るのは「蟬の声」だけなのです。世界が終わった後も聴覚だけは生きているのでしょうか。フォーカスされる「蟬の声」が、永遠に消えることのない時空として在り続けるように感じられる一首です。
透けながらひるがへりながらからみあふ魚の尾葉月のひかりのなかに
| 作者 | 中津昌子 |
| 歌集 | 『芝の雨』 |



川でしょうか。魚が泳いでいる姿が見てとれますが、水がとても清らかで透明度のある川なのだと思います。葉月の陽の光が川の中へ射し込んでいるのでしょう。「透けながらひるがへりながらからみあふ」には、きらきらと光があふれる様子、夏の川の流れの様子、清らかな様子、魚の生命の躍動感がすべて詰め込まれているように感じます。魚は尾を揺らしながら泳いでいて、その身はまるで光に透き通っていると思われるほど美しく輝いており、光の中に生き生きと泳ぐ姿が浮かび上がってきます。「からみあふ」のは複数の魚同士が絡み合っているのかもしれませんが、それよりも、その中の一匹一匹の魚と光が絡み合っているというイメージの方が強く感じられるのではないでしょうか。葉月における光と生命のきらめきを感じる一首です。
生まれ月葉月にあれば葉を揺らし葉を濡らしつつもの思ふなり
| 作者 | 佐藤モニカ |
| 歌集 | 『白亜紀の風』 |



作者は八月生まれであることから、これは自分自身のことを詠っているのだと思います。八月の異称「葉月」は、木の葉が紅葉して落ちる月という意味が最も一般的のようですが、その由来はともかく、葉月に「葉」という語が含まれているところを起点としてこの歌は展開していきます。「葉を揺らし葉を濡らしつつ」からは、風に吹かれる葉、雨に濡れる葉をイメージし、そのような葉の様子を自分の姿そのものに重ねているのです。「もの思ふ」には日常の些細なことから、人生における深刻なことまで幅広い「もの思ふ」を含んでいると思いますが、葉という具体的なものを媒介することで「もの思ふ」行為に輪郭と立体感が生まれているように感じられる一首となっているのではないでしょうか。
長男はロケット次男はパラシュート葉月初めのある夜の寝相
| 作者 | 本多稜 |
| 歌集 | 『游子』 |



子どもの寝相を詠った歌です。寝始めは布団に入って真っ直ぐ寝ていても、夜中や明け方に見ると、子どもは布団の端にいったり、反対向きになっていたりするものです。特に葉月つまり八月の暑さにおいては、寝苦しくて寝相が乱れるのもうなづけるのではないでしょうか。面白いのはその寝相を「ロケット」と「パラシュート」という空に関わるものに喩えているところです。「ロケット」は、両手を頭の上にあげて三角形の先端をつくっているような寝相でしょうか。「パラシュート」は、両足を曲げて、両手はパラシュートの紐をつかんで飛んでいるような姿なのでしょうか。おそらく二人はぐっすり寝ていて、ひょっとするとロケットやパラシュートの夢を見ているのかもしれません。「ロケット」「パラシュート」という語から導き出される寝相を想像するところが楽しく、そのような姿に寝ている長男と次男がとても微笑ましく感じられる一首です。
蟬の死が落ちてくるなり地の上に死の音がせり真昼、葉月
| 作者 | 小谷陽子 |
| 歌集 | 『ねむりの果て』 |



蟬の命は短く、八月になると蟬の死骸を路上でよく見かけます。ただ、死骸を見ることはあっても、蟬が死ぬまさにその瞬間を見た人というのはほとんどいないのではないでしょうか。「蟬の死が落ちてくるなり」は、蟬が落ちてくるのではなく、「死」が落ちてくるところに焦点が当たっています。落ちてくるとき蟬はすでに死んでいるのかもしれません。死んだから落ちてきたともいえるでしょう。蟬という物体が地上に落ちたときの音を聞いた真昼なのでしょうが、この歌が示している音は、蟬という物体が落ちた直接の音ではなく、「死の音がせり」とあるように、死が落ちてきた音だったということを表しているのです。死の音が響いた後の真昼には、その後の読点の効果も相まって、どこか静寂が感じられるのではないでしょうか。概念としてではなく現実として蟬が死ぬということはどういうことなのかを改めて感じさせてくれる一首です。
捨てるたび捨てられゆくは何ならむ葉月の花がまだひらきゐる
| 作者 | 山木礼子 |
| 歌集 | 『太陽の横』 |



歌集では一首前に〈晴れた日に抱つこ紐を捨つ麺カッター搾乳機鼻水吸引機捨つ〉の歌が収められています。したがって「捨てるたび」の「捨てる」は、子どもが小さかった頃に使用したものの数々でしょう。子どもが小さい一時期しか使わないことはわかっていても、買ったり譲ってもらったりしないわけにはいかないものは色々あります。これらのものを捨てるときの主体の気持ちはどのようなものだったのでしょうか。それは単にモノを捨てるというだけに留まらず、そのモノを使用した時間なり思い出なりを一緒に手放してしまうことなのではないかと感じているのかもしれません。もちろんモノを捨てたからといっても思い出が消えるわけではないのですが、そのモノへの直接の愛着というより、そのモノを使用して子どもと過ごした時間への愛着があるため、何の抵抗やためらいもなく捨てるということができなかったのかもしれません。それが「捨てられゆくは何ならむ」という表現として表れたのではないでしょうか。葉月の花について触れられていますが、八月も終わりに近づく頃、花は季節が変われば枯れてしまいます。そういった季節や時間の境目においてモノを捨てることによって、自分自身に対してひとつの区切りをもたらそうという意識があったのかもしれません。ただ葉月の花はまだ開いているのです。花が開いていることは、自分に対してもう一度捨てたもの、捨てられたもの、捨てなかったもの、捨てられなかったものが何かのを問い直してみる時間を与えてくれているのではないでしょうか。

