それぞれの記憶を混ぜて傘立ての水受けはなに映し出すかな
佐佐木定綱『月を食う』
佐佐木定綱の第一歌集『月を食う』(2019年)に収められた一首です。
連作「雷鳴」の中の歌ですが、この一連を読むと、掲出歌の「傘立て」は自宅の傘立てというよりは、外出先の傘立てを指しているように思われます。カフェ、公共施設、あるいはコンビニなどに置かれている傘立てを思い浮かべました。
さて、「傘立ての水受け」の役目は、雨に濡れた傘から垂れる雨滴を受け取ることです。
雨に濡れた傘というのは考えれば、面白いものです。例えば、カフェや公共施設に入る前までは、それぞれの傘は、各人が手に握って差していたでしょう。しかし、これらの屋内に入る際には、その傘のほとんどが入口付近の傘立てに集約されるのです。
つまり、屋内に入る前までは、ばらばらに点在していたそれぞれの傘が、屋内に入る際には、傘立てという一か所に集められてしまうのです。別に誰かが、傘を傘立てに集めようと声掛けをしたわけではありません。しかし、雨に濡れた傘は、自ずと傘立てに集まっていってしまうのです。
共通の傘立てに傘を置くことが好きで好きでたまらないという人は稀でしょうが、多くの人は好悪を考えず、ただ傘を置く手段として傘立てを利用しているでしょう。しかし、そのようにただ単に傘を置く場としての傘立てだからこそ、さまざまな傘が集まるのです。
傘立てに入れられた傘の中には、もち主の思いが込められた傘も少なからずあるでしょう。自分で購入して、長年愛用されている傘もあれば、贈り物としてもらった傘などもあるでしょう。形見の傘などというのもあるかもしれません。
この歌には「それぞれの記憶」というフレーズが登場しますが、傘の一本一本に記憶が宿るとすれば、それは傘のもち主の記憶が宿るということでしょう。
友人、恋人、家族、学校、仕事、休日、外食、旅行、公園、買い物など、一本の傘にまつわる記憶は人それぞれ違うでしょうし、濃淡も思い入れもさまざまだと思います。
そのようなさまざまにある記憶を、水受けは一手に引き受け、混ぜ合わせてしまうのです。そこには、ひとりの人間、一本の傘からでは到底表し得ないほどの、複層的な記憶の混在が生まれることでしょう。
その結果としての水受けは、一体どんな景を映し出すのでしょうか。
人の手を一旦離れた傘だけが集まる場としての傘立て。「記憶」という言葉がもち込まれることで、傘立て自体から生まれる物語があるように感じられ、興味を惹かれる一首です。

