tankalife「人生を1mmでもよくしたい」の第48回(「存在」の第9回)です。今回は「言葉が人生を盛り上げる」と題して、言葉が人生をよりよくするかもしれないことについて見ていきます。
言葉というものはとても大きな力をもっていて、言葉ひとつで人生を変える力があるといっても過言ではないでしょう。
マザー・テレサに次の言葉があります。
思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい。それはいつか運命になるから。
初めの二行で思考と言葉、言葉と行動との関係がいわれています。言葉をマイナスの方向に使うのか、それともプラスの方向に使うのかによって、その後の展開は大きく変わってくるでしょう。どうせなら、プラスの方向に影響が出るようにしたいものです。
日々、言葉に触れる中で、自分の好きな言葉に出会うかもしれませんし、その言葉が人生を変えるかもしれません。
短歌も言葉でできています。
このウェブサイトtankalifeで触れてきた短歌も、私の人生に対する考え方に影響を与えてきたものが多数あります。そういう短歌や言葉にどれだけ出会えるかも、人生を充実して生きていくためには大きく関わってくるのではないかと感じています。
それでは、今回は人生と言葉との関わりを感じさせる短歌を見ていきたいと思います。
死ねって叫びたいとき逆に生きろって叫べば商店街に春風 小坂井大輔『平和園に帰ろうよ』
言葉そのものがクロースアップされた一首です。
「死ねって叫びたいとき」というのは、誰しも一度は経験したことがあるのではないでしょうか。それは相手に対して腹が立つことがあったのかもしれませんし、自分自身の不甲斐なさに対してかもしれません。本当に死んでしまっては困るのですが、抑えられない感情が「死ねっ」という強い言葉に表れています。
しかし、この歌は思いもよらない展開を見せてくれます。
「死ねっ」と叫びたいときに、反対に「生きろっ」と叫んだのです。これはなかなかできないことではないでしょうか。
怒り、憎しみ、苛立ち、不満、悔しさなど、負の感情を抑えられず「死ねっ」と叫びたい状況において、「生きろっ」と叫ぶのは並大抵のことではありません。
主体は言葉の力を知っているのかもしれません。言葉がもつ力を知っているからこそ、このような状況において「生きろっ」と叫ぶことを選んだのではないでしょうか。
「死ねっ」ではなく「生きろっ」、言葉ひとつの選択というわずかな違いではありますが、そのわずかな違いこそがやがてより大きな違いとなって、その人のその後をかたちづくっていくのだと思います。
「生きろっ」と叫び終えたとき、春風を感じたのです。もし「死ねっ」と叫んでいれば、春風を感じる余裕すらなかったかもしれません。「生きろっ」と叫んだからこそ、気づいた春風。商店街を通り抜ける春風が、何とも清々しいではありませんか。
言葉ひとつで人生は変わる可能性があるといっても、すべての場面でうまくいくとは限らないでしょう。しかし、この歌からは、言葉ひとつで人生が好転する予感のようなものを感じることができ、心に残る一首です。
「生きろ」より「死ぬな」のほうがおれらしくすこし厚着をして冬へ行く 虫武一俊『羽虫群』
この歌も「生きる」「死ぬ」に関わる言葉が詠み込まれている一首です。
「生きろ」より「死ぬな」の方が「おれ」らしいと詠われていますが、「生きろ」と「死ぬな」の違いはどのようなものでしょうか。
これらの言葉はどちらも生きる側に属しています。つまり、生きるか死ぬかでいえば、生きる側にいてくださいということです。ただ、「生きろ」の方が「死ぬな」に比べて、より肯定的で積極的な印象を受けるでしょう。それは生きる側に対して「生きろ」という同じ方向をもった言葉で、力強くいっているからではないでしょうか。
一方「死ぬな」は、生きる側を望んでいるけれど、言葉自体はその反対方向の「死ぬ」をベースにつくられています。すなわち「生きろ」には「生きる」がベースにあるけれど、「死ぬな」には「死ぬ」がベースにあるのです。死というベースラインがあって、それより下へいってはならないというイメージでしょうか。ですから、「死ぬな」には、どちらかといえば消極的や回避的なイメージが感じられるのではないでしょうか。
主体は、自分には「死ぬな」の方が似合っていると認識しているのです。「すこし厚着をして冬へ行く」という状況も「死ぬな」を選んでいる姿に合っているように感じます。決して生きるためではなく、死なないために、厚着をしているのかもしれません。また「冬へ行く」という表現も魅力的で、冬という巨大な存在そのものの中へ吸い込まれていくような雰囲気が出ているのではないでしょうか。
「生きろ」に比べて「死ぬな」は消極的に感じますが、「死ぬな」が決して間違っているとか駄目というわけではありません。自分にとって、どちらの言葉がしっくりくるのかを感じとることが大切なのだと思います。
「がっかり」は期待しているときにだけ出てくる希望まみれの言葉 枡野浩一『毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである 枡野浩一全短歌集』
言葉は捉え方次第だと教えてくれる歌です。
一般的なイメージとして「がっかり」と聞けば、落胆している様子が浮かびます。期待が外れてしまい、気持ちが落ち込んでいる姿を表すのが「がっかり」でしょう。
しかし、この歌では「がっかり」をそのようにマイナスの言葉としては捉えていません。「期待しているときにだけ出てくる希望まみれの言葉」と捉えているのです。この捉え方は、本当の素敵ですね。確かに、期待しているからこそ、その結果が思わしくなかったときに出てくるのが「がっかり」なのだと思います。
特に「希望まみれの言葉」が何とも気持ちを明るくしてくれる表現です。マイナス方向の言葉だと思っていた「がっかり」が、途端にプラス方向に転じるような爽快感が感じられるのではないでしょうか。
言葉は本当に捉え方ひとつで、自分にとっていかようにも働くのだと感じます。その捉え方を教えてくれるのも、また言葉なのです。
「希望まみれの言葉」を胸に集めて生きていきたいと思います。
ふざけあう言葉のひとつひとつから明日の生まれることがいとしい 田中ましろ『かたすみさがし』
今日の世界、あるいは明日の世界をつくりあげていく基になるものは何でしょうか。
今日、明日という世界はあらかじめ用意されたものかもしれませんが、意識的にその世界を捕まえにいかないと、今日や明日という世界はただの箱のようなものとしてしか存在し得ないのではないでしょうか。
たとえば「明日」という世界をかたちづくるということは、すなわち明日という枠組をどう認識するかということと同じことなのではないかと思います。
自ら「明日」を認識しようとアクションを起こさなければ、「明日」という世界はただの空虚な箱のような存在のままとなるでしょう。
世界を認識するには「言葉」が必要です。言葉でいい表せないものは、存在しないといっても過言ではないかもしれません。いってみれば、言葉がなければ世界を認識することはできず、言葉があるからこそ、その世界は存在しているともいえるのではないでしょうか。
この歌は、言葉から明日が生まれることをいとしいと感じている歌ですが、その言葉が堅苦しい言葉ではなく、「ふざけあう言葉」であるところに、明日が生まれるに至る経過にわくわくするような感情があふれでてきているように感じます。
それも特定のひとつの言葉から明日が生まれるのではなく、たくさんの「ひとつひとつの言葉」から明日が生まれるというのです。無数の明日が生まれるような印象もありますし、同時にそれら無数の小さな明日が集まって、ひとつの明日をかたちづくっていくような感じもします。
「明日」をいとしんでいるのではなく、「明日の生まれること」をいとしんでいるところも見逃せないポイントでしょう。
歌意として、主体と誰かが明日の予定を話し合っていて、その予定から明日の一日の行程や輪郭が立ち上がってくるという、どちらかといえば日常的な場面のようにも採れると思います。しかし、そのように採るよりも上に述べたように、言葉そのものから明日そのものが生まれるということを詠っていると採った方が、明日という世界が立ち上がるダイナミックさのようなものを存分に味わえるのではないかと感じます。
人は言葉なしに生きていくことは難しいのではないか、言葉があるからこそ世界に向き合うことができるし、その世界を生きることができるのではないか、そんなことを考えさせられる一首です。
むらぎものこころに点るしづかなる言葉の一つ 今日は明日の過去 高野公彦『渾円球』
「むらぎもの」は心にかかる枕詞ですが、元々は体内の臓腑の意味をもつ言葉です。
「こころに点るしづかなる言葉の一つ」ですから、他にも忘れられない言葉がいくつかあるのでしょう。そのうちのひとつがこの歌に詠まれた言葉「今日は明日の過去」です。主体の心の中にはこの言葉が、まるで灯明のように点り続けているのでしょう。
「今日は明日の過去」とは、いわれてみればその通りなのですが、あまり聞き慣れない言葉ではないでしょうか。例えば「昨日は今日の過去」であれば、当たり前のように感じますし、「明日は今日の未来」であっても特に不自然な感じはしないでしょう。
しかし、「今日は明日の過去」といわれたとき、何か今まで聞いた感じではない、いい意味での引っかかりがあるように感じられはしないでしょうか。それは、明日を起点にして、「今日」と「過去」が結びつけられているからでしょう。通常、起点は今日にして、過去は昨日と、未来は明日と見るのが無理のない見方ですが、それをあえてずらした「今日は明日の過去」といわれたとき、ハッとしないでしょうか。
一般的に過去は変えられないといいます。でも、明日から見れば今日は過去であり、過去であるはずの今日に今自分は立っているのです。そうであれば、明日の過去である今日はいかようにも変えることができるのではないでしょうか。どのようにも生きることができるでしょう。その結果として明日が生まれるのであれば、もっと今日を見つめて大切に生きてみてはどうかと、「今日は明日の過去」の言葉は伝えているのではないでしょうか。
もし「明日は今日の未来」であれば「明日」に焦点が当たっていますが、「今日は明日の過去」の場合は「今日」に焦点が当たっているのです。
この言葉を心に秘めて大切にしている姿は、今を見つめて生きていこうとする姿そのものなのではないかと感じる一首です。
人生は楽しむためにあるという一語を小さな錘となして 川本千栄『樹雨降る』
なぜ生きているのかに対する答えは共通のものはありませんし、一生納得のいく答えは得られないかもしれません。
ただ、納得のいく答えが見つからないからといっても、人生は日々進んでいきますし、生きていかなければならないでしょう。そのときに、何か拠りどころとなるものや言葉があれば、人は何とか今日を生きていけるのかもしれません。
この歌では「人生は楽しむためにある」という言葉が、そのような拠りどころとなっているのではないかと感じます。「小さな錘となして」には、常に自分自身の心に、この言葉を吊り下げているような印象があるでしょう。
生きていれば、気持ちがぐらぐらとあっちにいったりこっちにいったりすることがあると思います。そういうときに、本当は自分はどのように生きていきたいのかを思い出させてくれるところに戻ってくるために、この「小さな錘」が必要になってくるのです。
生きる意味は、究極「楽しむため」でいいのかもしれないと思います。あるいは「幸せになるため」です。楽しまない人生と楽しむ人生のどちらを選択するかと訊かれたら、迷わず楽しむ人生を選択するでしょう。楽しむのは何も悪いことではありません。むしろ、楽しむことこそすばらしいのではないでしょうか。
「楽しむ」に関していえば、孔子の有名な言葉を思い出します。
之を知る者は之を好む者に如かず。之を好む者は之を楽しむ者に如かず。
(『論語』)
論語の場合は、主に学問に取り組むときの心構えを意識しての発言かもしれませんが、人生そのものについても同じことだと思います。結局は、楽しむ者が一番なのです。
人生は甘いものではない、つらく苦しい道を歩むことが人生だという考え方もありますが、そういうときこそ「人生は楽しむためにある」という言葉を思い出したいと思います。
自分にとっての「小さな錘」となる言葉は何なのか。それぞれが考え、大切にする言葉を見つけていけたら、それはとてもすばらしいことではないでしょうか。
以上、言葉と人生の関わりを感じる歌を見てきました。
短歌もそうですし、ここまで書いてきたこの文章もそうですが、すべて言葉なくしては伝えられなかったものです。
言葉に触れることで、言葉に出会うことで、新たな考え方や生き方につながる何かが見つかることもあると思います。それがきっかけで、人生がよりよくなったといえれば最高ですね。自分だけのお気に入りの言葉に出会うことができれば、それはきっと幸せな出会いになるでしょう。



全48回にわたり「人生を1mmでもよくしたい」をテーマに書いてきましたが、今回が最終回でした。このシリーズ記事は、一旦一区切りにしたいと思います。これまでご覧いただきました方々、本当にありがとうございました。
なお、これまでの投稿記事は以下のページに一覧化してありますので、初めての方、見直してみたい方など、よろしければどうぞご覧ください。





