tankalife「人生を1mmでもよくしたい」の第44回(「存在」の第5回)です。今回は「自分だけの「生きるための攻略本」をもつ」と題して、万人共通の攻略本がない中でどう生きていくのかについて見ていきます。
書店にいけば、勉強の仕方、資格の取り方、面接の攻略法、業務効率化のコツなど、あらゆる「方法」に関する本が多く置かれています。これらの本に書かれていることは再現性が高く、同じ手法をとれば同じように結果がうまくいく傾向があるということでしょう。
しかし、「生きる」そのものとなるとどうでしょうか。
生きることそのものに関する本というのは少ないでしょう。つまるところ、生きるということは人それぞれ状況は異なりますし、それにどう対応していくかということも、万人共通の対処の方法というものはないといえるでしょう。
もちろん、生き方に関するヒントを書いた本は色々と出ています。しかし、生きるヒントはあっても、万人に共通する「生きるための完璧な攻略本」は存在しないのです。万人共通の完璧な攻略本が存在しなくても、我々は生きていかなければならず、よりよく生きるためにどうするかをいつも模索しながら生きているのです。
このシリーズ「人生を1mmでもよくしたい」も、まさによりよく生きることを見つめて書いてきていますが、万人共通の完璧な攻略本にはなり得ません。
であれば、共通の攻略本ではなく、自分だけのオリジナルの攻略本をもつしかないと思います。
ただし、何もないところからいきなりオリジナル攻略本をつくろうと思っても大変ですから、まずはさまざまな生きるヒントを参考にしていくのがいいでしょう。そして、徐々に、生きるための自分だけのオリジナル攻略本の精度を上げていけばいいのだと思います。
どう生きていくのかを考える場合、本を読むこと、人に会うこと、そして旅に出ることが勧められることがあります。
ライフネット生命創業者の出口治明氏も、社会人の教養は「本・人・旅」であるといっています。出口氏は教養といういい方をされていますが、これら三つは狭義の教養という範囲に留まらず、人生を生きるための攻略方法であり、生きることそのものに関わるものといっていいでしょう。
私も、生き方のヒントになる本は色々と読んできました。最近はインターネット上で本のレビュー評価が簡単に見ることができるようになりましたが、レビューがすべてではありません。どの時点でどの本が自分に刺さるかわかりません。ですから、ピンときたものは、レビューは一旦置いておいて読むのがいいと思います。本を読むというのは、ある意味で著者との対話なのだと思います。その著者が今目の前にいなくても、過去の人物ですでに実在していなくても、本を通して対話が可能なのです。
人に会うことについても、青年海外協力隊員として活動していたときは、現地の人も日本人も両方ですが、日本にいれば絶対知り合わないだろう人たちと知り合うことができました。そのうち、同時期に活動していた別の隊員で、任期終了後にアフリカに戻り、レストランを経営している知り合いがいます。その人とは、青年海外協力隊員時代、馬鹿な話も真剣な話も色々した仲ですが(私が一方的にそう思っているだけかもしれませんが)、時折見せる真面目な態度や発言に惹かれていました。このような人たちの生き方に触れて、私の考えも影響を受けたと思っています。
青年海外協力隊参加前と参加後では、随分と自分の考え方や人生観も変わったと感じています。もちろんいい意味でです。私にとっては、この二年間の活動が長い旅だったように思います。
また、帰国後に勤めた職場での人との出会いも大きかったと思います。本当にさまざまな職種の人がいるところでしたので、多くを学ぶことができました。
このような出会いや対話を通して、自分だけの「生きるための攻略本」がだんだんとブラッシュアップされていって、厚みを増していくのだと思います。
万人共通の人生攻略本は、世の中には売っていません。でも、だからこそ自分だけのオリジナル人生攻略本をつくる楽しさがあるのかもしれません。
本サイトでは短歌を多く取り上げていますが、短歌においても、一首一首がまさに生きることをそのものを伝えてくれる、そんな歌も多く存在します。自分が生きていくための指針となるような歌にどこかできっと出会えると思います。
ここでは、人生と攻略やヒントの関連を感じさせる短歌を見てみたいと思います。
傾向と対策としての生を知らず両手にぬるい風受けるだけ 谷村はるか『ドームの骨の隙間の空に』
生きることに対しても、受験勉強のような「傾向と対策」を適用できれば、いくらかはうまく生きられるようになるのかもしれません。しかし、残念ながら生きることに対しては、受験勉強のようなわかりやすい「傾向と対策」はないといっていいでしょう。
人生には本当にさまざまな予期せぬ出来事が起こりますが、起こったことに対して、その時々で対応していく必要があります。主体が手に受けるのは熱くもなく冷たくもない「ぬるい風」です。もっとはっきりした解答がほしいのに、この瞬間の風は「ぬるい」をもってしか吹いてくれません。それでも、ぬるい風を受けながら、生きていくしかないのでしょう。
ただ、一般的な「傾向と対策」だけで乗り切れる人生だとすれば、少し味気ない気もします。「傾向と対策」だけではどうにもならない人生だからこそ、人生は面白いのかもしれません。その出来事が起きるたびに、そこから得た気づきを、自分だけのオリジナル人生攻略本に書き加えていけばいいのでしょう。攻略本を振り返れば、このとき受けた「ぬるい風」の手触りがありありと思い出されるのではないでしょうか。
光とは波であること Wikipediaから教わった生きるヒント 安田茜『結晶質』
科学の世界で、光は粒子か波かといった論争が長い間行われてきましたが、現代では光は粒子と波の両方の性質をもつことが定説とされています。
インターネットが普及して以降、調べものをしたり、解決法を探したりするのに、GoogleやWikipediaは随分と活用されてきました。最近では、AIの台頭により、また新たなステージに進んでいると思います。
この歌では「Wikipediaから教わった生きるヒント」が詠われています。「光とは波であること」が「生きるヒント」となったのでしょうか。ここから想像されるのは、生きることについても「波」のような性質を意識してもいいのではないかということではないでしょうか。
光は粒子でもあるわけですが、同時に波でもあるのです。ですから、専門的な研究を別とすれば、日常生活においては、光を粒子と捉えてもいいですし、波と捉えても支障はないでしょう。粒子のような硬いイメージではなく、波のような柔軟なイメージで捉えてみるのもいいのではないかということを、Wikipediaから教えられたと感じたのではないでしょうか。
このWikipediaの「光とは波であること」という情報を、主体以外の別の人が読んだとしても、心に響かなかったかもしれません。そして「生きるヒント」だとは思わなかった可能性もあります。しかし、主体にとっては、このときに知り得た情報が「生きるヒント」として吸収されたのです。
このヒントは、やがて主体の生きる姿そのものに反映されていくかもしれません。そう考えると、世の中に存在するあらゆるものが、生きることへ影響を与えるでしょうし、その人にとっての攻略本の種になり得るのだと感じます。
生きるとは何を残すかではないと父は言う 何も残さないと言う 田中ましろ『かたすみさがし』
「生きる」を定義する端的な言葉は何でしょうか。「生きる」とは何かと問われれば、何と答えるでしょうか。
ここに登場する父は、生きるとは「何も残さない」ことだといっています。
長い人生を考えた場合、生きていくことは何かを積み上げていくというイメージで捉える人は多いでしょう。そして、死ぬときには、これまで積み上げてきた何かが生きてきた証であり、それが後世に残せる何かになると考えている人もいると思います。
この歌で詠われているのは、そういった考え方とはまったく反対の考え方といっていいでしょう。「何も残さない」ことが生きることであり、何かを残すことが生きることではないと捉えています。とても潔い考え方だと感じます。
人は生きていく中でさまざまなものを所有していきます。それはお金だったり、モノだったりしますし、また地位や名誉、思考のような目に見えにくいものもあるでしょう。しかし、それらは死ぬときにはすべてこの世に置いていかざるを得ません。
いずれ手放し「何も残さない」と考えるとき、今自分がもっているものはどれくらい自分にとって必要なものなのかが改めて見えてくるのではないでしょうか。残すか残さないかという視点も、生きていくうえで大きな影響を与えるのかもしれません。
生きてゆく自主練として繰り返し夢で尿意を我慢している 川島結佳子『感傷ストーブ』
この歌は、少し変わった角度の歌でしょう。
「夢で尿意を我慢している」という状況はよくわかります。夢の中で、放尿したいのだけれど、なぜかトイレにはいかず、夢の中で我慢している状況でしょう。この尿意は、現実の尿意と夢の中で感じる尿意が入り交じっているような感じがあります。
さて面白いのは上句の「生きてゆく自主練として」でしょう。なぜ夢で尿意を我慢しているのかのといえば、「生きてゆく自主練として」だと詠われています。
確かに、生きていく中では、ときには尿意を我慢しなければならない場面もあるでしょう。でも、我慢しなくてもいい状況であれば我慢する必要はないでしょう。しかし、この歌では「繰り返し」我慢しているのです。それは誰かに強要されたから我慢しているのではありません。なぜなら「自主練」だからです。自ら望んでその我慢を選びとっているのです。
ここに、主体の生き様のようなものが滲み出ているのではないかと感じます。命令された練習であれば、仕方なく受け入れるほかありませんが、「自主練」ですから、あくまで本番ではないけれど、きたる本番に備え、尿意を我慢するという状況を繰り返しているのです。
生きていくということは、常にぶっつけ本番なわけですが、夢の中では「自主練」が可能ということかもしれません。生きるための唯一の練習場所が、夢の中なのではないでしょうか。
そんなことを考えながら、夢の中の自主練は、生きていくためのひとつの攻略法なのではないかと気づかされた一首です。
巨大花火上がってきっと思い出す
わたしという生き方のすべて 伊藤紺『気がする朝』
普段生活しているときに、「わたしという生き方」を常に意識しているわけではないのでしょう。しかし、何かがきっかけで、これまでの自分の生き方はどういうものだったかを思い出すことがあるのかもしれません。主体の場合、それは「巨大花火」なのです。
「きっと思い出す」ですから、まだ思い出していないのかもしれません。「巨大花火」も打ちあがっていないのかもしれません。あるいは巨大花火があがった瞬間であり、ああ今からきっと思い出すだろうなあと感じている場面かもしれません。
では、巨大花火をきっかけにして思い出される「わたしという生き方のすべて」はどういうものを指しているのでしょうか。生まれてから今まですべての人生の時間のようなものでしょうか。「生き方」とあるので、生きてきた時間というよりは、ある程度自分で認識している人生に対する思考のようなものの方が近いかもしれません。
とにかく、「わたしという生き方のすべて」を知っているのは、唯一「わたし」だけなのではないかと思います。その一端を知っている人は他にいるかもしれませんが、「すべて」知っているのは「わたし」だけでしょう。
そう考えると、「わたしという生き方のすべて」は、生きることそのものともいえるのではないでしょうか。これまでも「わたしという生き方」が「わたしの人生」をかたちづくってきたでしょうし、これからも「わたしという生き方」によって「わたしの人生」が展開されていくのだと思います。
巨大花火の打ち上げ以前と以後で、「わたしという生き方」に変化は訪れるのでしょうか。それはわかりませんが、「わたしという生き方」に対して、主体自身はそれを受け入れているし、信頼している様が伝わってくる一首です。
以上、人生と攻略やヒントを感じさせる歌を見てきました。
生きることは常に本番で、リハーサルはありません。ですから、うまくいかないこともあれば、失敗だと思うような展開になることもあるでしょう。そのたびに落ち込んでいては身がもちませんが、生きていくための攻略本があれば、少しはそのマイナスの展開を回避できるのではないでしょうか。
「生き方」は「生きる方法」であり、「生きる」ことと同義ではありません。しかし、方法を知ることが、生きることを手助けしてくれることもあると思います。
万人共通の生きるための攻略本はありませんが、自分だけのオリジナルの人生攻略本をつくりあげ、それを片手に、人生をよりよく、楽しく進んでいくのはいかがでしょうか。


