「9月の短歌」と題して、9月に関わる短歌を現代短歌を中心にピックアップしてみました。9月に詠まれたと思われる歌もあれば、別の月に詠まれている歌もあります。
9月といえば、雨の多い季節のイメージがあります。実際、年間を通しても9月は降水量の多い時期です。また秋の始まりとして、読書の秋、食欲の秋、芸術の秋の時期でしょう。
9月の異称は「長月」。長月という名称は、一説には、秋になり夜がだんだん長くなる意味の「夜長月」が略されて名づけられたことに由来するようです。
二十四節気では「白露」「秋分」の季節です。
小学生、中学生、高校生などが9月の短歌をつくったり、鑑賞したりする際の参考にもなればと思います。
9月の短歌
花柄のタオルケットで半袖の九月まぶしい腕を隠せり
| 作者 | 山崎聡子 |
| 歌集 | 『青い舌』 |
tankalife幼児でしょうか。自分の子どもが昼寝をしている場面を想像しました。子どもは半袖のシャツを着たまま寝ているのでしょう。主体は、子どもが風邪を引かないように、タオルケットをかけ直してあげたのですが、「半袖の九月まぶしい腕を隠せり」という表現が魅力的です。このまぶしさは、子の腕そのもののまぶしさもそうでしょうし、九月という時期を全開で生きている姿や時間そのもののまぶしさも表しているでしょう。子はタオルケットを蹴飛ばしていたのかもしれません。それをそっと半袖から出た腕が隠れるくらいにかけてやるときの主体の思いはいかばかりだったでしょうか。「花柄」も手伝って、このひとときはなかなか何物にも代えがたい時間だったのではないでしょうか。子を見つめる主体のやわらかなまなざしが感じられる一首です。
「九月まで」言いかけ口をつぐむ君 祭りのような日々のさなかに
| 作者 | 東直子 |
| 歌集 | 『春原さんのリコーダー』 |



主体にとって「君」は大切な人を指すのでしょうか。そして「君」は何をいいかけていたのでしょうか。「九月まで」の次に続く言葉を色々と想像してしまいますが、口をつぐんだことから考えれば、いおうとしていたのはあまり芳しい内容の言葉ではなかったのではないかと思います。しかも「九月まで」を一層さびしく感じさせるのは、「祭りのような日々」において、君がこの言葉を発したからでしょう。君が何をいおうとしたのかは示されていませんが、祭りのような盛り上がりの中、口をつぐむひとときがあったという事実が伝えてくれるのは、後退、限定、保留、終焉のような予感なのではないでしょうか。一度発せられた言葉をいわなかったことにできないように、一度伝わってしまったこの場の雰囲気はもう元々の祭りの雰囲気には戻れないのかもしれません。夏から秋へと移行する九月という時期も具体的で、季節も互いの関係も移り変わらずにはいられない、そのような印象のある一首です。
九月某日やすらかにしてテレビだけが喋りつづけてゐる荻原家
| 作者 | 荻原裕幸 |
| 歌集 | 『永遠よりも少し短い日常』 |



九月のある日、特に見るでも見ないでもないような状態のテレビが流れているのでしょう。ひとりでいるのかと思いましたが、歌集において、この一首が収められた一連には「妻」も登場しているので、この歌の場面においても妻は家にいると想像できます。ですから、「テレビだけ」が声を発していると詠われていますが、主体と妻はしっかりと家にいるのです。なのにテレビの声だけしか聞こえないということは二人は黙っているのでしょうか。黙ってはいますが、喧嘩をして互いに喋らないぞと意固地になっている状況では決してありません。それは「やすらかにして」から読み取れるでしょう。互いに喋らなくても、二人は穏やかに時間と空間を共有できる間柄となっていることが窺えます。世の中には沈黙が苦手、喋り続けていないと落ち着かないという人もいると思いますが、この歌における「荻原家」はそんなことはなく、安らかな空気で充たされている様子が伝わってきますし、読み手のこちらまで安らかさを感じさせ落ち着かせてくれる一首です。
熱燗に傾いてゆくこころありもう九月かと誰かつぶやく
| 作者 | 田村元 |
| 歌集 | 『昼の月』 |



居酒屋の一場面です。お店には何人か見知らぬ客や、常連もきているのでしょう。九月といえば、まだ夏の暑さが残っている季節ですが、日によっては、特に夜は少し肌寒く感じる日もある頃でしょう。夏の暑い時期は、冷酒を飲んでいたのかもしれません。しかし、暑さが少し和らいできた九月だからこそ、熱燗がおいしそうだなと心が揺れている感じでしょうか。ひょっとすると、客の誰かが熱燗を注文していたのかもしれません。そして客の誰かが「もう九月か」とつぶやいたことで、より一層九月が実感され、その実感から熱燗の魅力が主体の心に湧き上がってきたのだと思います。日常のちょっとした何気ない場面ですが、季節の移り変わり、そして主体のお酒に関わる気持ちの推移が、熱燗という具体物を通してよく表れていると感じる一首です。
長針と短針糸でくくりつけ九月の海にしずめてしまえ
| 作者 | 伊波真人 |
| 歌集 | 『ナイトフライト』 |



九月に海を訪れた場面でしょうか。誰か親しい人とやってきたのでしょう。このひとときがとてもかけがえのないものであり、できれば永遠に続いてほしいとすら感じているのかもしれません。ですから、長針と短針を糸でくくりつけて海に沈めるというのは、時間がこれ以上進まないでほしい、もう時間のことを気にしないで今この瞬間を思う存分味わいたい、そんな思いの表れなのではないでしょうか。今を見つめて生きようとする熱い思いを感じます。海に沈めてしまえば、もうその時計は止まってしまい、沈めた瞬間の時刻を永遠に差し続けることでしょう。現実としては、時間が止まることはなく、このひとときはやがて時間の経過とともに記憶として残っていくのでしょうが、今この瞬間の思いだけは、主体の心に一瞬として、そして永遠として刻み込まれたのではないでしょうか。
コスモスは真心だから九月でもきみの名前に桜を入れる
| 作者 | ほんだただよし |
| 歌集 | 『パパはこんなきもち。~こそだてたんか~』 |
| 詞書 | 娘の名前はママと相談して決めた。 息子同様、古風にしたいパパの思いがかなり強いけど。 |



二人目の子どもである娘が生まれて名前をつけたときを詠んだ歌です。コスモスを漢字で書けば「秋桜」。「コスモスは真心だから」というのは、花言葉か何かでしょうか。とにかく、コスモスに対して主体が抱いているイメージが真心なのでしょう。子の名前の一部に「秋桜」から「桜」をとって名づけたのです。「九月でも」と挿入されているのは、「桜」の一字だけであれば通常春をイメージするので、そういっているのだと思います。実際は秋桜からの名づけなのですね。名前というのは、自分と一生つき合っていくものですから、大切にしたいですし、愛着をもっていたいものでしょう。子の側からすると、いつか名づけの由来を知るときに、それまで以上に自分の名前を好きになるかもしれません。この歌がいつか子に届く日が楽しみに感じられます。
教室の黒板の上に賞状を飾る 九月の明るい壁に
| 作者 | 千葉聡 |
| 歌集 | 『海、悲歌、夏の雫など』 |



歌集において、この歌が収められた一連には学校の文化祭の出し物の歌が登場します。したがって、掲出歌の「賞状」は、その文化祭のときにもらった賞状だと思います。教室のどこに賞状を飾るかを考えるとき、邪魔にならず、みんなから一番見えやすい位置が選ばれるのではないでしょうか。この教室では、黒板の上が一番みんなの視線の届く場所として、そして賞状を飾りたい場所として選ばれたのでしょう。「九月の明るい壁に」とありますが、窓から光が射し込んでいるのでしょうか。壁本来がもつ色の明るさもあるでしょう。そして何より、賞状が飾られたことで、ただの壁がただの壁ではなくなったことにより、教室全体が一層明るく感じられるようになったことが伝わってきます。この賞状はただの紙としてそこにあるのではなく、そこに込められた時間や思いの凝集として光を放っているように感じます。
吾児がわが母にほのかに似てくるを九月の朝のさざなみとなす
| 作者 | 黒瀬珂瀾 |
| 歌集 | 『ひかりの針がうたふ』 |



自分の子が成長とともに、自分の母にだんだんと似てくると感じている主体がいます。直接の親子ではないにも関わらず、子と親よりも、子と祖父母の方が似てくるといったことは充分あり得るでしょう。注目したいのは、だんだんと似てくるさまを「九月の朝のさざなみとなす」と捉えている点です。ここでいう「さざなみ」は、わずかに穏やかではないイメージを伴った漣ではないでしょうか。もしも「吾児」と「わが母」が似てこなければ、この「さざなみ」が湧いてくることはなかったでしょう。似てくることが別に悪いことではないと感じているでしょうが、親に似てくるよりも、「わが母」の方に似てきたことに対して、全面的納得感をもてない心情が表れているのかもしれません。ただ「さざなみ」はやがて引いていくかもしれません。今後、子がどのように成長していくのか、この朝のさざなみはいずれいい思い出として思い出されるのか、など色々と想像できる一首です。
宵闇の九月にめざめヒガシマルうどんスープが味方でいること
| 作者 | 上坂あゆ美 |
| 歌集 | 『老人ホームで死ぬほどモテたい』 |



九月のある日、宵闇に目覚めた場面ですが、昼寝でもしていたのでしょうか。もちろん毎日この時間に目覚めている場合も考えられますが、この歌の印象からすると、どうもこの一日は偶々宵闇の時間帯に目覚めたというふうに採るのがいいように思います。何となくいつもと違う時間に目が覚めてしまったときの体のだるさといいますか、心のだるさといいますか、とにかく何かぼおっとしてしまう感じが表れているのではないでしょうか。そのときに一番身近にいてくれたのは家族でも恋人でもなく、「ヒガシマルうどんスープ」だったのでしょう。このうどんスープは普段飲んでももちろんおいしいのですが、このようなだるさの中で味わうと、格別においしく、そしてやさしく感じられると思います。「味方」はまさに的確な言葉で、このひとことで「ヒガシマルうどんスープ」の存在の偉大さが強烈に立ち上がってきます。九月の歌としても、固有名詞を詠んだ歌としても興味深い一首です。
九月なおつよき日の射す江ノ電に泡立っているアメリカ英語
| 作者 | 染野太朗 |
| 歌集 | 『あの日の海』 |



この歌のある歌集において、同じ一連に由比ヶ浜の歌が登場するので、この歌は江ノ電に乗って浜に向かっている場面だと想像します。九月でもまだ暑さが残り、江ノ電の窓からは強い日差しが射しているのでしょう。電車にはアメリカ人も乗車していたのでしょうか。アメリカ英語が耳に入ってきたのでしょうが、それを「泡立っている」と捉えているところが面白く感じます。泡が次から次に増えてくるように、主体の耳に入る英語も次から次に留まることなく聞こえてきたのではないでしょうか。まるで、言葉が九月の強い日差しによって泡立てられたような錯覚もあり、江ノ電という具体的場面と九月の日差しの関連が、この場におけるアメリカ英語の存在を際立たせていて、興味深く感じられる一首です。
覚めぎはに聴いたのは九月の椎の実を踏み帰る足音、たしか
| 作者 | 魚村晋太郎 |
| 歌集 | 『銀耳』 |



結句の「、たしか」に、覚め際の不確かな感じがよく出ている歌だと思います。夢とも現実ともいえない、その境界のような時空において、「足音」を聴いたのでしょう。その足音は「九月の椎の実を踏み帰る」音でした。歌全体の不確かな感じに対して、どんな音だったかは非常に具体的で鮮明な印象を受けます。つまり、結句の「、たしか」は、音の内容が不確かというのではなく、音そのものを聴いたかどうかが不確かだったよな感じとして表れているのだと思います。音の内容の鮮明さと、その音自体を聴いたかどうかの不鮮明さとのちぐはぐ感が、この一首を一層不確かなものとしているのではないでしょうか。考えれば考えるとほど、何が確かで何が不確かなのかがわからなくなっていきますが、そのわからなさもこの歌の魅力なのだと感じる不思議な一首です。
九月はもう秋の終りの雲が浮く娘が旅をするフィンランド
| 作者 | 大辻隆弘 |
| 歌集 | 『景徳鎮』 |
| 備考 | 名字の「辻」の字は、正しくは1点しんにょうです。 |



主体の娘がフィンランドを九月に旅しているのでしょう。一緒に同行するわけではなく、フィンランドから遠く離れた地、おそらく日本から、今頃あのあたりを旅しているだろうかなどと思いを馳せている場面ではないでしょうか。ふと見上げると空には雲が浮かんでいたのでしょう。年中雲を見ることはできますが、秋の終りの雲は秋にしか見ることはできません。それは自分が秋の終りの雲だと思って眺めるから、秋の終りの雲になるのかもしれません。雲は年中どの季節に見ても雲は雲だろうという人は、秋の終りの雲という特別な雲を見ることはできないのです。この時期だからこそ感じられる雲の表情があるはずで、今この瞬間を見つめようとする主体の姿が浮かび上がってきますし、子を思うやさしさのようなものも立ち上がってきて、印象に残る一首です。
「ああ、こんなになっちゃった」と父は指差す九月の向日葵
| 作者 | 花山周子 |
| 歌集 | 『屋上の人屋上の鳥』 |



八月は勢いよく咲いていた向日葵が、九月になって枯れてしまった場面ではないでしょうか。「ああ、こんなになっちゃった」は残念な方を意味する「こんな」ですが、夏の日差しに全開で咲いていたときは「こんな」になることは想像していなかったのでしょうか。いや、花も永遠には生きられませんし、いずれ萎れて枯れてしまうことは、これまで毎年向日葵を見ていたら想像できるでしょう。そして、今回も同じように枯れてしまうことは想像していたでしょう。しかし、実際目の前で「こんな」姿になった向日葵を見ると、つい「ああ、こんなになっちゃった」という声が父の口からこぼれ出たのだと思います。「こんな」になったからといって、もうどうすることもできませんが、向日葵とそれを見た父の眼を通して、後戻りはできない季節の移り変わりを突きつけられる一首ではないかと感じます。
見開きのわたしで会いにゆくからね九月の風はめくれ上がって
| 作者 | くどうれいん |
| 歌集 | 『水中で口笛』 |



親しい相手に会いにいく場面でしょう。「見開きのわたし」が魅力的な表現で印象に残ります。ここでいう「見開き」はふたつ想像できます。ひとつは、見た目や服装の「見開き」です。「九月の風はめくれ上がって」とありますが、ワンピースのような風に靡きやすい服を、風が通り抜けるような心地よさが感じられます。もうひとつは、主体の心の「見開き」です。あなたに会いにいくときは心を閉ざした自分ではなく、隠しごとも遠慮もしない、心を開いてありのままの「わたし」で会いにいくというイメージが感じられるのではないでしょうか。「見開きのわたしで会いにゆくからね」を直接相手にいったかどうかはわかりませんが、もしいわれたとすれば、いわれた側はドキッとするのではないでしょうか。会いにいく側の「わたし」もおそらく心を躍らせているのでしょう。「見開き」の語の通り、九月の風が包む「わたし」の姿が開かれて感じられる一首です。
カンフーアタック 体育館シューズは屋根にひっかかったまま 九月
| 作者 | しんくわ |
| 歌集 | 『しんくわ』 |



カンフーの真似事をしてクラスメイトと遊んでいたとき、体育館シューズが脱げて、体育館の屋根にひっかかった場面でしょうか。体育館の中でふざけていたのであれば、体育館の屋根の外側ではなく内側の天井の鉄骨の入り組んだところに挟まったのかもしれません。そのシューズは簡単にとることができず、放置されていたのでしょう。学校でのよくある光景かもしれませんが、この歌の面白いところは、一字空けで三つのパートに分かれている点です。五七五七七のリズムで読もうとするとうまくいきませんが、一字空けを手がかりにパートごとに塊として読んでいくと、結果として短歌のように感じられるから不思議です。全体の音数三十二音は意識してつくられていると思います。三つのパートは場面がパッパッと転換していくような印象があり、この展開が興味深く感じます。特に最後の「九月」が何ともいえない郷愁を誘います。カンフーアタックと、体育館シューズが屋根にひっかかった状況から、このときにしか味わえない九月が表出されているのではないでしょうか。この九月はなかなか印象に残る九月に感じます。
続編のように九月はきて磁器の欠けた部分へ唇あわす
| 作者 | 千種創一 |
| 歌集 | 『砂丘律』 |



続編があるということは、前作があったということになりますが、この九月はひとつの区切りだったのかもしれません。季節、時間、人生を考えると、それらは途切れることのないひと続きのイメージがありますが、この歌を読むと、いい悪いは別にして九月から新たなステージに突入したような印象を受けます。磁気の欠けた部分は欠落感の象徴のようであり、そこへ唇を合わす動作は欠落を埋めようとする行為なのではないでしょうか。続編が前作と比べ、決してパワーアップして訪れるとは限りません。ある意味では、続編の始まりというのはいつも欠落から始まるのかもしれません。その欠落を補完していくうちに、続編は続編としての展開を加速させていき、やがて前作以上の盛り上がりを見せるのではないでしょうか。この歌の段階ではまだ盛り上がりは見られない代わりに、磁気の欠けた部分へのやさしいまなざしが感じられ、九月の静かさにおける唇の触感が印象的な一首だと感じます。
それはまだなまぬるい九月の風で誰かがもう名前を付けていた
| 作者 | 平出奔 |
| 歌集 | 『了解』 |



風の名前といえば、春一番、青嵐、木枯らしなどが浮かびますが、この歌の「九月の風」もそのようにすでに名前がつけられた風だったということでしょう。ただ、すでに名前がついた風だからといって、その風について万人が同じ感じ方をするとは限りません。主体は「なまぬるい」と感じたのですが、別の誰かは違う感触をもった可能性もあるでしょう。名前があるということは、現象をわかりやすく括ることができますが、その風を感じるときに名前に安住してしまうと、その人だけの本当の感じ方が失われてしまう可能性も否定できないのではないでしょうか。この歌では「なまぬるい」と実際に感じているところに、手触りが感じられ、その手触りは名前よりも優先して実感されるのではないでしょうか。主体は本当はこのときこの場で感じた「なまぬるい九月の風」に自分だけの名前をつけたかったのかもしれません。ただ名づけ云々以前に、主体はもうこの風を充分に感じているわけですから、その方がとても大事なことのように思えてきますし、読み手にも触感が伝わってきます。触覚と名づけという取り合わせが興味深く感じられる一首です。
それなりに所有をしたいおれの眼に九月の青空はうすく乗る
| 作者 | 虫武一俊 |
| 歌集 | 『羽虫群』 |



「所有をしたい」とありますが、所有したいものは何でしょうか。お金でしょうか、車でしょうか、家でしょうか、あるいは人間関係でしょうか。この歌が収められた一連では異性の歌も登場するので、恋人相手を求めているのかもしれません。色々想像できますが、「それなりに」というところが控えめで面白く感じます。贅沢はいわないけれど、まったく何ももたずにシンプルに生きるということもできないので、他人に自分の所有を示せる程度には所有したいという感じでしょうか。そんな気持ちでいるところ、「九月の青空」が目に入ってくるのですが、「うすく乗る」という表現が興味深く感じられます。九月の青空も日によっては暑い空でしょうが、八月の空とはまた違って感じられるでしょう。そんな青空が眼に全開に映るのではなく、うっすらと乗っているというのです。「うすく乗る」には、青空という万人に開かれた自由なものでさえも「おれ」には所有させてくれないといった雰囲気が出ているように感じます。「それなりに所有をしたい」と「うすく乗る」がどことなく呼応しているような気がして、興味を惹かれる一首です。
いつまでも暑い九月の坂道を降りたところに立っている蔵
| 作者 | 土岐友浩 |
| 歌集 | 『Bootleg』 |



温暖化の影響で、最近は九月といっても八月と変わらないような暑い日になることもあります。九月になってもまだ暑い日の坂道の場面です。坂道を降りたところに蔵が立っていて、それに注意を向けているのですが、この蔵はこのとき初めて見る蔵でしょうか。それとも普段見慣れた蔵でしょうか。この歌の感じからすると、いつも通る坂道であり、これまでに何度も見たことのある蔵ではないかと想像します。ですから、坂道を降りたところに蔵が立っていることは知っているわけです。この蔵も夏の暑さの中、毎日毎日立っていたんだろうなと思いめぐらしているのかもしれません。蔵は人と違って、その場を動きたくても動くことができません。主体は坂道を下ったり、蔵のある場所へ到達することはできますが、蔵の方から主体の側へやってくることは決してないのです。そう考えると、いつもいつも主体から蔵のある場所へ赴いていることになります。別にそれが何か特別なことかといえばそうではありませんが、このような日常の中にも主体と蔵との関係が生まれており、しかも九月の暑さがそこに加わることで、他の月とは違った兼ね合いが生まれているように感じさせられる一首ではないでしょうか。
陰鬱に蔦植物の這う柵を間遠に過ぎて九月のみどり
| 作者 | 生沼義朗 |
| 歌集 | 『関係について』 |



柵に蔦植物が所狭しと這っている光景を見ながら通り過ぎた場面でしょう。主体は蔦が這う様子を決して好意的に感じているわけではなさそうです。「陰鬱に」がそれを物語っているでしょう。ですから、「間遠に」通り過ぎたのではないでしょうか。蔦の這う柵すれすれを歩くのは好まなかったのだと思います。しかし、離れて通り過ぎてしまえば、陰鬱と思われた蔦も、「九月のみどり」であることが感じられたのでしょう。「九月のみどり」の表現には陰鬱さは感じられず、むしろ九月を彩る瑞々しい緑として伝わってくるのではないでしょうか。歌のポイントは「間遠」で、蔦と自分との距離感が示され、その距離感によって蔦に対する感じ方がどのように表れるかが非常に興味深く示された一首なのではないかと思います。
よい晩夏だったねえとか言いながら雨の九月を並んで歩く
| 作者 | 田村穂隆 |
| 歌集 | 『湖とファルセット』 |



雨の九月を並んで歩いているのは誰でしょうか。誰であるかは明示されていませんが、「よい晩夏だったねえ」といういい方から、若い感じはせず、むしろ年齢を重ねたおじいさんとおばあさんをイメージしました。歩いているのは主体と相手でしょうが、それは今現在の場面が詠われているのではなく、遠い将来もし二人で歩いているとしたらと想像したときの場面が詠われているのだと思います。「とか」という曖昧な表現がそれを物語っているでしょう。将来ももしこの相手と一緒なら、いやおそらく一緒にいて、きっと並んで歩いているのだろうなという想像が主体の中にごく自然に生まれてきたのではないでしょうか。「よい晩夏だったねえ」といいながら一緒に歩く現実はこの時点でまだ訪れていませんが、その現実はきっと訪れるような気がしますし、二人が微笑んでいる光景が浮かんできます。雨の九月というのも風情があるではありませんか。未来の先取りのような歌で、時間を超えてイメージが膨らむ一首です。
東京は酷暑の九月食肉目猫科オセロットにあひ詩人にあはず
| 作者 | 山田富士郎 |
| 歌集 | 『羚羊譚』 |



「オセロット」とはあまり聞き慣れない言葉ですが、主に中南米に生息するヒョウ柄模様のネコ科の動物です。まだ暑さの残る九月のある日、主体は東京でこのオセロットを見かけたのでしょうか。動物園かどこかで見たのでしょうか。ただ、オセロットを日本で見るのはめずらしいことなので、あるいはヒョウ柄の洋服を着た人間をオセロットと喩えている可能性もあるでしょう。いずれにしても、オセロットという名詞を歌に組み入れたところが魅力的ですが、もうひとつ興味深いのは「詩人にあはず」です。会わなかった人のことをあえて提示するところに詩人の姿が逆に浮かび上がってきます。しかも結句に置かれることで、オセロットのイメージで脳内が埋め尽くされたところに詩人が登場するため、そのかち合いが一層インパクトを高めて伝わってくるところが興味深い歌ではないでしょうか。
柩なのだから行かせてやりなさい日傘の骨のきしむ九月を
| 作者 | 服部真里子 |
| 歌集 | 『遠くの敵や硝子を』 |



「行かせてやりなさい」は柩そのものに対していっているのでしょうか。それとも柩は比喩であり、誰かを柩に喩えていっているのでしょうか。なかなかに読み取るのが難しい歌です。柩は本当に死者を入れたそのものを指しているのかもしれませんし、これから旅立とうとする生きている誰かを誰かが見送る場面かもしれません。いずれにしても、柩といっているのは、その旅立とうとしている人の心はもうどうすることもできない状態の表れのように感じられます。ですから「行かせてやる」しかないのではないでしょうか。「日傘の骨のきしむ」からは、内面の苦しさのようなものが滲み出ているように感じます。「きしむ」ですから、崩壊はしていないけれど、ずっと抱え込んでいる如何ともしがたい思いのようなものがあるのかもしれません。その思いを抱えるのは旅立つ側か見送る側か、あるいはその両方でしょうか。きしみを抑えられないまま、見送ることしかできない状況だけが、この歌にはずっと残り続ける、そんな印象のある一首です。
母ありし昨年の九月よ夜の空の雲わたりゆく下を帰りき
| 作者 | 水沢遙子 |
| 歌集 | 『空中庭園』 |



母が亡くなったときの歌です。昨年の九月は、母がまだ健在だったのでしょう。そのとき、主体は歩いていました。おそらくひとりでしょうか。雲が広がっている夜空の下を歩きながら、家に帰っていく途中だったのでしょう。その日は特に何ということのない一日だったのかもしれません。いつも通り帰路に着いたのかもしれません。しかし、現在母が亡くなってしまったことがきっかけで、なぜかその日が思い出されるのではないでしょうか。もしまだ母が生きていたら、昨年の九月を殊更思い返すこともなかったかもしれません。母が亡くなってしまった事実が、昨年の九月の記憶を思い起こさせたのではないでしょうか。「母ありし」日が思い出されることで、今は母がもういないことが強く意識され、かなしみを深く感じざるを得ない様子がひしひしと伝わってくるような一首です。
からからと木のハンガーに音のあり九月の朝のホテルより去る
| 作者 | 吉川宏志 |
| 歌集 | 『石蓮花』 |



ホテルの部屋には、服をかけるハンガーが用意されているケースがほとんどでしょう。確かにいわれてみると、ホテルのハンガーは木製のものが多いように思います。小さな洋服ダンスの小さな棒に、木のハンガーがいくつかかけてあります。夕べかけておいた服をハンガーから外して着た後、木のハンガーは何もかけるものがなく、「からから」と音を立てたのでしょう。そしてホテルの部屋から出ていったという場面ですが、あまり誰も注目しない木のハンガーの音に焦点を当て一首として成り立たせているところが非常に巧みだと感じます。朝、ホテルの部屋から出る空っぽの感じが、からからという音とともてマッチしていると思います。いわれてみるとそうなのですが、歌にされないと気づかないこのようなひとときは、歌を読むことで思い出したり想像したりすることができ、日常の非常に些細な場面ですが、その些細なところへの注目が魅力的な一首です。
金木犀の気分よければこのままでいいような気もしている九月
| 作者 | 俵万智 |
| 歌集 | 『チョコレート革命』 |



金木犀の香りが漂ってきているのでしょうか。香りを含め、そのときの金木犀の存在そのものを「金木犀の気分」と表現しているところがとても面白いと思います。気分がいいかどうかは、金木犀の側にはなくて、主体がどう感じているかによるでしょう。つまり、「金木犀の気分よければ」と詠っていますが、実際は主体の気分がいいのです。そして、気分がいいから「このままでいいような気もしている」のではないでしょうか。気分がよくなるきっかけは金木犀の香りだったかもしれませんが、気分をよくしていったのは主体自身なのだと思います。今の事情は色々とあるのでしょうが、こうでなければ駄目だといった感じはまったくなく、「このままでいい」という緩やかな感じが落ち着いて感じられる一首です。
カーテンを揺らさず入り来しづかなる九月のよるの銀河からの風
| 作者 | 高野公彦 |
| 歌集 | 『水苑』 |



九月の夜に窓を開けていたのでしょう。その窓から心地のよい夜風が入ってきたのだと思います。通常、風が入ってくるときカーテンが揺れますが、このときの夜風にカーテンは揺れなかったのです。確かにゆっくりゆっくり入ってくる風の場合、カーテンの揺れはほとんどないかもしれません。でもそれほどゆっくりと弱い風だと、風が入ってきたこと自体気づかないかもしれません。ここでは風が入ってきたことには気づいています。そう考えると、このときの風はどこか神秘めいたものではないかという想像をかきたてられます。「銀河からの風」という表現も相まって、どこか通常の風ではない、遠くの宇宙のからきた特別な風のように感じられないでしょうか。神秘的な雰囲気の漂う魅力的な一首です。
波引きし間際の砂にのこりつつ九月の空 無残なる蒼
| 作者 | 村木道彦 |
| 歌集 | 『天唇』 |



海岸の砂浜でしょうか。波がいったりきたりしていますが、波が引いた瞬間の海水と砂浜との境界を詠っているのだと思います。「間際の砂にのこりつつ」とありますが、砂に残っているのは一体何でしょうか。「砂が」ではなく「砂に」となっているので、砂が残ったということではないと思います。では残っているのは何でしょうか。海水でしょうか、九月の空でしょうか、それとも主体自身でしょうか。いずれとも採れなくはありませんが、どれかひとつというよりもそれらが入り交じったような雰囲気があり、ここでは主体自身が間際の砂に残って空を見上げている場面を想像しました。広がる空は、客観的に見れば青く輝いているのでしょうが、主体の目には「無残なる蒼」として映ったのです。決して空の側が「無残なる蒼」を提示しているのではなく、空は単に空がもつ色を提示しているのです。それをどのように解釈するかは主体の側にあるわけですが、「無残なる」と捉えざるを得ない主体の心の圧迫感のようなものを感じずにはいられません。海、空という広大な空間におけるひとりの人物のどうしようもない心の内が溶け出していくような一首ではないでしょうか。
別に誰もみていないけど休載をしますと書いた九月のブログ
| 作者 | 郡司和斗 |
| 歌集 | 『遠い感』 |



もしこの歌が三句以降だけの内容であれば、特段変わったところはなく通常の報告だと思うでしょう。しかし「別に誰もみていないけど」が加わることによって、主体の心が表れた一首となっているのではないでしょうか。ブログを休載するという知らせを書くとき、読者がいるからその知らせを書くのであって、もしもひとりも読者がいなければ、その知らせを書く必要はないでしょう。書いても誰も見ないわけですから。しかし、主体は誰も見ていないと思いながら、あるいは実際に一時的なブログ訪問者がゼロだった可能性もありますが、休載の知らせを書いたのです。このときの気持ちはどのようなものでしょうか。読者不在の場での知らせは読者のためというよりむしろ発信者自身のためといえるかもしれません。休載することをはっきりと示すことで、自分の発信にけじめをつけるような感じでしょうか。いや、そこまで明確な意思をもって書いたかどうかはわかりません。読者不在にわざわざ休載の知らせを書くという行為そのものが、本来おかしな状況でもあり、この歌は何ともいえない味わいを醸し出しているのではないでしょうか。「九月」という具体的数字が実感を伴って伝わってきます。
花カンナ九月の風に咲くさまの優しき背丈、明るき歩幅
| 作者 | 阿部久美 |
| 歌集 | 『ゆき、泥の舟にふる』 |



オレンジ色や赤色の鮮やかな姿が浮かぶカンナですが、九月の風吹く中にしっかりと地に根づいて咲いている様子が浮かんできます。そのカンナの咲く様子に似ているとして、「優しき背丈、明るき歩幅」と人物の姿が描かれています。これは自分自身でしょうか。それとも別の誰かを指しているのでしょうか。どちらとも採れますが、背丈や歩幅を見るという点からいえば、自分よりも誰か別の人物を見てそのように感じたと捉えるのが自然かもしれません。背丈に対して「優しき」、歩幅に対して「明るき」とあり、一般的な形容と若干ずらされているところが注意を引き、カンナの鮮やかなイメージと呼応するように感じます。「優しき背丈」と「明るき歩幅」とリズムよく並べられている点も声に出したときすっと入ってきて、印象的な一首です。
フランス行き何時の間にやら仕組まれて従いてゆくだけ九月を待てり
| 作者 | 宮英子 |
| 歌集 | 『青銀色』 |



フランスへの旅行が決まった場面でしょうか。「何時の間にやら仕組まれて」とあるのが面白く、おそらく家族がフランス旅行を計画し、主体はその旅行が決定事項であることを告げられたのでしょう。「従いてゆくだけ」とありますが、主体は嫌々このフランス行きに従いていくのでしょうか。おそらくそんなことはないでしょう。「仕組まれて」「従いてゆくだけ」といいながらも、その裏返しとして心のどこかでこのフランス行きを楽しみにしているのではないでしょうか。本当にいきたくないなら断ってしまえばいいでしょう。結句の「九月を待てり」に、主体の少しワクワクするような気持ちが垣間見えるように感じます。
からっとしたかなしみをわれ知りそめて香椿の木に葉の鳴る九月
| 作者 | 渡辺松男 |
| 歌集 | 『歩く仏像』 |



「香椿」とはあまりなじみのない言葉ですが、中国原産のセンダン科の落葉高木のようです。高級食材として食べることもあるとのこと。さて、そんな香椿の木の葉が鳴っている九月を詠った歌ですが、歌全体としては少しさびしい雰囲気が漂います。歌集において、この一首の収められた一連には、死、遺族、遺骨といった歌が散見されることから、「からっとしたかなしみ」というのはそのような人の死に関するかなしみを指しているのかもしれません。「知りそめて」とあるのは、単なる「かなしみ」を初めて知ったのではなく、「からっとしたかなしみ」を初めて知ったということでしょう。じめじめとしたかなしみはこれまで主体も感じたことはあったのかもしれませんが、「からっとした」のは初めてだったのでしょう。「からっと」「かなしみ」「木」「九月」とK音が含まれていますが、香椿の葉の鳴る乾いた音と、「からっとしたかなしみ」の乾いた感じがどこか響き合うようで、かなしみを詠いながらも風通しのよい一首になっていると感じます。
ふはふはとチーズスフレの焼きあがりさながら九月のわが深呼吸
| 作者 | 小島熱子 |
| 歌集 | 『りんご1/2個』 |



フランス語でスフレは「膨らんだ」という意味がありますが、その意味が表す通りの「ふはふは」の「チーズスフレ」を自分で焼きあげたのでしょう。興味深いのは、そのチーズスフレのふわふわとした感じを「九月のわが深呼吸」に喩えているところです。深呼吸ですから、ゆっくりと、そしてゆったりと、時間をかけて行われている呼吸を想像できます。吸って吐いての繰り返しによって、膨らむ肺の様子がまるでスフレのふわふわ感に重なるようではありませんか。浅い呼吸ではなく、深呼吸であるところがポイントなのでしょう。また慌ただしい日常ではなく、チーズスフレをじっくりと焼きあげる時間的余裕があることも、ふわふわ感と深呼吸に通じるものがあると感じます。チーズスフレと深呼吸をつなげた着眼点に驚きますが、とても魅力的な一首です。
逆向きに時間の流れているような九月ひとりのコインランドリー
| 作者 | 小俵鱚太 |
| 歌集 | 『レテ/移動祝祭日』 |



通常の時間の流れが過去から現在、現在から未来とすると、「逆向き」は未来から現在、現在から過去という流れを指しているのでしょうか。九月のコインランドリーで洗濯が終わるのを待っている場面でしょうが、コインランドリーには他の客は誰もいないひとときだったのでしょう。ランドリーの音以外何もなく、秋の穏やかでひと気のない雰囲気が、時間の逆行を主体に感じさせたのかもしれません。ランドリーの回る様子も時計のそれを想起させるかもしれません。洗濯が完了するまで待つ時間は、手持ち無沙汰な感じがしますが、そのような一見無駄に思える時間こそが実はとても大切なのではないでしょうか。時間を予定で埋めつくしたり、急いだりする状況とはまるで正反対のコインランドリーでのひとときからは、主体の慌てずゆっくりとした姿勢が垣間見え、そのゆるやかな雰囲気に惹かれる一首です。
夏休み以前のことは去年とふ子は軽やかに駆け出す九月
| 作者 | 山添聖子・葵・聡介 (掲出歌の作者は山添聖子) |
| 歌集 | 『じゃんけんできめる』 |



暦の上で去年と今年を分けるのは、12月31日までか1月1日からかですが、この歌では「夏休み」の以前以後がその境界となっています。子は夏休み以前を去年と呼んでいるところが独特で面白さをもって感じられます。それほど夏休みというのはひとつの大きなイベントであるのでしょう。学校の授業とはまた違った時間が流れ、学校とは違った出来事との向き合いがあり、子の中では、夏休み以前以後で何かが変わる感覚があるのでしょう。夏休み以前を去年ということは、突拍子のないことのように思えるかもしれませんが、そこには夏休みを全力で体験した子だからこそ感じられる何かが表れているようで、とても興味深い一首です。
百年前に死んだ私だから九月の空がこんなにも青い
| 作者 | 倉阪鬼一郎 |
| 歌集 | 『世界の終わり/始まり』 |



上句は五七五の定型から外れているようなリズム感ですが、音数はきっちり十七音となっています。それにしても不思議な歌です。「死んだ私」なのに「私」を認識しているのも謎ですが、「私だから」「九月の空がこんなにも青い」という順接も謎めいています。なぜ「死んだ私」なら空が青いのでしょう。論理的に細かく意味を考え続けるのはこの歌の望むところではないでしょう。むしろ提示された九月の空の青さを素直に感じとるのがいいと思います。空の青さへ没入していくと、この空の青さは、私の誕生や死と無関係ではないのではないかという思考へ近づいていくのかもしれません。また時間認識についても、通常の過去から未来という認識ではなく、過去現在未来が入り交じったような時間認識をもつ世界観として堪能した方が歌の魅力を存分に味わえるのかもしれません。歌集においては一首前に〈百年に一度ひらく窓の向こうにうっすらとたたずむわたし〉があり、この歌とも無関係ではないでしょう。通常の物差しでは説明が難しい一首ですが、その難しさや不思議さこそがこの歌の面白さなのではないでしょうか。
蝶々が溺れもせずに飛んでいる九月の空がひろい黒谷
| 作者 | 中津昌子 |
| 歌集 | 『むかれなかった林檎のために』 |



黒谷和紙で知られる黒谷町や、京都市内の岡崎周辺など、「黒谷」と呼ばれる場所はいくつかありますが、この歌の黒谷もどこかの地名を指していると思われます。「九月の空がひろい」とあるので、周りが高い建物で囲まれた場所ではなく、空の面積が大きく見える、上方に見晴らしのよい場所での場面です。蝶々が飛んでいますが、興味深いのは「溺れもせずに」でしょう。通常溺れるか否かは、水に関連して表現される言葉であり、水以外の空間を飛ぶ場合に使われません。しかも蝶々は飛んでいるのですから、もちろん溺れるわけはありません。しかし、蝶々の飛行に対して、あえて「溺れもせずに」と示されることで、蝶々に対する我々の一般的な認識が揺さぶられます。普段何も考えず蝶々が飛んでいるなあと当たり前のように捉えていますが、それは人間側の勝手な決めつけであり、実際蝶々の側からすれば、あれは溺れないように必死にもがいて飛んでいるのかもしれません。一般的に溺れないものに対して、「溺れもせずに」といわれることから生まれるねじれのような感覚が魅力的に感じられる一首です。
七曜のめぐりにはつか風冷えて梨のおもたき九月となりぬ
| 作者 | 河野美砂子 |
| 歌集 | 『ゼクエンツ』 |



季節の移り変わりがよく実感できる一首です。「七曜」とは日曜から土曜まで、つまり一週間の七日間の曜日を表す言葉ですが、「七曜のめぐりに」に、各曜日が順に日を重ねていくさまがよく表れていると感じます。日が経つごとに風の冷たさが増して感じられたのでしょう。そして、秋の果実である梨が充分に実って食べ頃を迎えているのです。「おもたき」から、掌に梨を載せて梨の重量を感じているのでしょうが、単に目で見るだけでなく、手で重さを感じるという触覚に訴えかけてところに、この歌の実感があふれ出ているように感じます。九月という季節を、単にカレンダー上の移り変わりで済ますのではなく、梨という具体物を通して、体全体で九月への移行を感じているような、そんな一首ではないでしょうか。
飛行機雲がきれぎれとなりて散る九月 地下書庫の狭き窓より仰ぐ
| 作者 | 日置俊次 |
| 歌集 | 『ノートル・ダムの椅子』 |



地下書庫の小さい窓から、九月の空が見えるのでしょう。窓の向こうに広がる空には飛行機雲が白線を引いていたのでしょうが、その飛行機雲も時間が経てば、やがて「きれぎれ」になって消えていってしまうものです。地下書庫という閉ざされた空間から空を仰ぐという光景は、地上で空を仰ぐのとはまた違った印象があり、それがこの歌の雰囲気をつくりあげているでしょう。実は、歌集においてこの歌の次には〈ビン・ラディンまだ生きてゐる惑星の垣根にからすうりは実りぬ〉の歌があり、もしかするとこの九月の飛行機雲の散る様子には、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件における旅客機の衝突が重なって見えていたのかもしれません。いずれにしても、地下書庫の窓と飛行機雲の散る様子の組み合わせが独特の雰囲気を出している一首だと感じます。
夕闇の濃くなる九月キッチンにオレンジ色の焔が立てり
| 作者 | 馬淵のり子 |
| 歌集 | 『そっと置くもの』 |



日中の時間帯が最も長い日は夏至ですが、それ以降はだんだんと日が暮れる時間帯が早くなっていきます。九月の夕闇も初夏や夏に比べれば、随分と早く暗く感じられるのではないでしょうか。キッチンに立った「オレンジ色の焔」はろうそくの灯りでしょうか。それとも蛍光灯や白熱灯の灯りを焔に見立てているのでしょうか。夕闇が濃ければ濃いほど、このオレンジ色は際立って存在感をもって現れたことでしょう。歌集において、この歌が収められている一連には〈キッチンに赤いパプリカ二つ置く夏の終わりの灯りのように〉の歌も詠われています。そう考えると、ろうそくや蛍光灯ではなく、キッチンに置かれた食材を「オレンジ色の焔」として見ていても不思議はありません。ですから、掲出歌の「焔」には色々な意味が複層的に含まれているのかもしれません。キッチンという場が夕闇に包まれることで立ち上がってくるオレンジ色の明るさが印象的な一首です。
食事の手とめてメールを打っている九月の光しずかなときを
| 作者 | 永井祐 |
| 歌集 | 『日本の中でたのしく暮らす』 |



食事中にテレビを見たり、スマホをいじったりすると、食事そのものへの意識が分散され、食事への集中が疎かになってしまいます。とはいっても、忙しさの増す現代において「ながら食事」のような光景はよく見るでしょう。さて、この歌は食事中にメールを打っている場面ですが、片手で食べながら片手でメールを打っているのではなく「食事の手」を一旦止めているところが興味深く感じられます。それは下句の「九月の光しずかなときを」が強く関連していると思いますが、この静かさにおいてはあれもこれも同時に色々こなすのはあまりふさわしくないような雰囲気を感じないでしょうか。ひとつひとつの動作を順番にこなす丁寧さが滲み出ているような気がします。メールを打った後はまた食事に戻るでしょう。九月の静かな時間と、主体の所作の穏やかさが感じられる一首です。
星のふる9月の野はら たいせつな自分ばかりでいっぱいでした
| 作者 | 早坂類 |
| 歌集 | 『黄金の虎』 |



歌集において、「少年の歌」と題された一連の中の一首です。ですから「たいせつな自分」は少年期の姿を思い浮かべました。自分自身をつい責めがちな人が多い中で、肯定できる自分がいることはとても幸せなことかもしれません。たとえそれがかつての自分であったとしても、「たいせつな自分」を心の中にもち続けることは今を生きていく上でもきっとプラスに働くのでしょう。「星のふる9月の野はら」の情景も美しく感じられます。このとき、主体は星空を見上げていたのでしょうか。星が降る様子を見て何を感じていたのでしょうか。星の輝きがこのときの「自分」のかけがえのなさに通じるように感じます。無数の「たいせつな自分」が野はらに充ちあふれていくようなイメージが印象的な一首です。
置き去りにされた眼鏡が砂浜で光の束をみている九月
| 作者 | 穂村弘 |
| 歌集 | 『シンジケート』 |



砂浜に置き去りにされた眼鏡。なぜ置き去りにされたのか興味をそそられます。単にもって帰るのを忘れただけなのか、海で遊んでいるときになくしてしまったのか、あるいはもっと別の何かとんでもない理由によって置き去りにされたのか、色々と想像することができるでしょう。さて、その眼鏡に九月の光が強く当たっているのでしょうが、それを眼鏡を主として「光の束をみている」と表現したところが巧いと思います。あくまでも主役は眼鏡なのです。ただ、眼鏡が見ているのは光の束だけではないかもしれません。眼鏡は、置き去りにされたときの光景さえも映し出しているのではないでしょうか。置き去りにされた理由は、今となってはもうこの眼鏡だけが知っているのかもしれません。眼鏡と光と状況の組み合わせの強烈さによって、光があふれた瞬間がいつまでも続いていくようであり、時間感覚が停止するような印象を覚える一首です。
前橋にゆく楽しみは九月にて野分の後の駅を思いぬ
| 作者 | 吉野裕之 |
| 歌集 | 『ざわめく卵』 |
| 備考 | ※正式には、吉野裕之の「吉」は上の横棒が短い漢字。 |



旅行でしょうか。出張でしょうか。誰かに会いにいくのかもしれません。現在はまだ九月にはなっていないと思われます。九月にいく前橋を想像してワクワクしている場面ではないでしょうか。「野分」は秋に風く強い風ですから、それが吹き終わってからの前橋の駅を思い浮かべて楽しみにしているのでしょう。「前橋」という具体的な地名、「九月」という時期、そして季節を表す「野分」という言葉が印象的で、これらがこの歌を立体的にしていると感じます。祭と、祭の準備期間の関係ではありませんが、前橋にいくことを想像している今このときが一番楽しいのかもしれません。九月に実際に前橋の駅に着けば、それはそれで楽しいのでしょうが、それ以上にそのときが訪れるのを待っている今のワクワクがとてもよく表現されている一首だと思います。
スマホにて『翁の発生』読み直す九月尽にゆく島のため
| 作者 | 勺禰子 |
| 歌集 | 『月に射されたままのからだで』 |



歌集において、この歌が収められた一連は「斎場御嶽」と題されており、九月の終わりにいく島は沖縄本島を指していると思われます。『翁の発生』は、民俗学者であり国文学者の折口信夫の著作です。『翁の発生』の中には、折口信夫の沖縄の島渡りの著述がありますが、主体がこれから沖縄本島、そして斎場御嶽を訪れる前に、改めて折口信夫の文章に触れておこうとしたのでしょう。関連書籍を読み直すこと自体は特段めずらしいことではありませんが、興味深いのは紙の書籍ではなく、スマホで読み直しているところでしょう。古代の信仰や芸能について触れている内容の本と、スマホという現代のデジタル機器の取り合わせのミスマッチ感が何とも面白く感じられるのではないでしょうか。ただ、スマホがあったからこそ、このように簡単に過去の著作や内容に時間を超えてつながれたと考えれば、媒介者としてスマホの果たす役割は大きいのかもしれないと感じます。
ほよほよと風が渡らふ朝の野にすすきほほけて呆けて九月
| 作者 | 永井陽子 |
| 歌集 | 『てまり唄』 |



風が吹く様子を表すのに「ほよほよ」というオノマトペが用いられていることに驚きますが、この音感が読んでいて心地よく感じられる一首です。「ほよほよ」から、強くもなく、急いでいる感じでもなく、どちらかといえばゆったりと楽しげに吹いている、そんな風を想像します。九月の朝の野で風に吹かれているのは「すすき」です。「ほよほよ」の風に、すすきも呆けてしまったのでしょうか。すすきがゆらゆら揺れて風に靡いている感じを「ほほけて」といっているのだと思いますが、「ほほけて呆けて」と繰り返されることにより、すすきはもう本当にすべてを風にお任せするといった雰囲気が出ているのではないでしょうか。「ほよほよ」「ほほけて」に見られる「ほ」の字面も印象的であり、視覚的にも聴覚的にも魅力的な一首だと感じます。
受け皿もなくあふれては流される愛は九月の川に似ていた
| 作者 | 木下龍也 |
| 歌集 | 『あなたのための短歌集』 |
| 題 | とても大切なやり場のない気持ちを、供養する思いでエッセイを書きました。そのエッセイをお題として、短歌を詠んでください。 |



一般から寄せられたお題をもとに詠まれた一首。題にある「やり場のない気持ち」が「受け皿もなくあふれては流される愛」として表れているのではないでしょうか。そのような愛が「九月の川に似ていた」と詠われていますが、九月という季節が絶妙なのかもしれません。川遊びが行われる真夏の川でもなく、雪が降り込む冬の川でもなく、秋の入り口の九月の川だからこそ、愛を流すことが似つかわしく感じるのではないでしょうか。秋彼岸と供養のイメージの関連も、九月に意図されているかもしれません。流されるといえば、もう取り戻すことができない状況を想像しますが、供養であるからこそ、これでいいのだと感じます。たとえ、どれだけ流されても愛はとめどなくあふれてくるのでしょう。この九月の川はまさに愛にあふれた川としていつまでも留まることなく流れ続けていくのではないでしょうか。
藍染めの皿に九月の冷奴 死ぬことすこし近づいて来る
| 作者 | 小島ゆかり |
| 歌集 | 『希望』 |



藍染め皿の藍色と、冷奴の白色の対比が鮮やかな一首です。九月の夕食でしょうか。皿にのった冷奴のしんとした静けさが伝わってきます。そのような状況において、ふと心に兆したのでしょう。「死ぬことすこし近づいて来る」と。人間は生まれたときが最も死から遠く、時間が経過するほどに死に近づいていく生き物です。ですから、死に近づくというのは生きていればごく自然なことですし、死に近づくことを避けることはできません。しかし、この歌は「近づいてゆく」ではなく「近づいて来る」と詠われています。微妙な差ですが、「近づいて来る」は、死の方が自分に近づいてくるというイメージが強く感じられ、まさに遠くから死がこちら側へ忍び寄ってくるような感じがします。冷奴の白さと静けさが、遠い死と無縁ではないような雰囲気を醸し出していて、ひんやりとした手触りの伝わる一首ではないでしょうか。
この枝で初めて鳴いたと樅の木と語りてをらむ九月の蟬は
| 作者 | 栗木京子 |
| 歌集 | 『新しき過去』 |



「九月の蟬」は、一生でいえば終盤を迎えている蟬なのではないでしょうか。そんな蟬の気持ちを想像しているのでしょうがが、蟬と樅の木が語り合っているのではないかという状況が面白く感じられます。いわれてみれば当たり前だと気づくのですが、蟬は何も一生一本の木だけで鳴くわけではなく、いくつもの木や電柱をとっかえひっかえしては鳴き続けるのです。ですから、蟬にも初めて鳴いた木があるのです。「この枝で初めて鳴いた」と樅の木と語り合っているのです。それはまるで人間が死期が近づいたときに、幼い頃の思い出を振り返るようなものかもしれません。この蟬はおそらく九月中に死んでしまうでしょう。一方の樅の木はまだしばらく生き続けることになるでしょう。この蟬が最後に鳴くのは、果たして同じ枝なのでしょうか。蟬と樅の木の語り合い、そしてこの後蟬がどう行動するのかが非常に興味深く想像される一首です。
問ひかけたらかけたでひとは憂き目にあふやうな豫憾してながつきは
| 作者 | 川﨑あんな |
| 歌集 | 『さらしなふみ』 |



何を問いかけるのでしょうか。その人の人生の根幹に関わるような何かでしょうか。問いかけるまではまだ憂き目にはあっていないようです。となれば、その人が憂き目にあうかどうかは、主体が問いかけるかどうかという判断ひとつに委ねられているといっても過言ではないかもしれません。結局予感がしたので主体は問いかけをためらっているのでしょう。そのような予感は長月だから特別に感じられる予感なのかもしれません。四句が六音になっていますが、この字足らずがもたらす不足感が、憂き目と呼応しているように感じます。読むときに「豫憾」の後に一音分の空白を空けて読む感じになるかと思いますが、この一音分の間が、まさに憂き目にあうのではないかという予感を感じさせ、問いかけをためらうような雰囲気を醸し出す効果をあげていると感じます。具体的な問いかけの内容は全くわかりませんが、そうではないからこそ普遍的な何かがこの歌からは感じられるような印象があり、興味深い一首です。
ナイターの風はすっかり冷たくて九月の終わりが込み上げてくる
| 作者 | 池松舞 |
| 歌集 | 『野球短歌 さっきまでセ界が全滅したことを私はぜんぜん知らなかった』 |
| 詞書 | 9月27日○ |



2022年9月27日の阪神タイガースのプロ野球の試合について詠われた歌です。歌集において、10月1日のページにはクライマックスシリーズの選出が決定したとあり、この9月27日はまさに出場できるかどうかの佳境にさしかかっていたのではないでしょうか。詞書に「9月27日○」とあるので、試合には勝利したのです。9月下旬の夜となれば風が冷たく感じられ、試合の盛り上がりや応援の熱と、夜風の冷たさとの対比が浮かび上がってきます。「込み上げてくる」は風が吹き上がってくるような感じ、9月の終わりが近づく様子、そして何位に食い込むかといった阪神タイガースへの思い入れがないまぜになって込み上げてくる感じではないでしょうか。その日、その場にいたからこそ感じられる触覚を伴った一首です。
長月、その他の短歌
9月は9月でも、「長月」という表現、あるいは9月の異称や英語名に関わる短歌を取り上げています。
「なぜだろう、鳥の死体って見ないね」長月の坂道はとても長く
| 作者 | 九螺ささら |
| 歌集 | 『ゆめのほとり鳥』 |



日常、鳥の死体を見ることはあまりありませんが、皆無かというとそうでもないでしょう。ただ、普通に生活していて頻繁に鳥の死体を見るようなことはありませんし、もし頻繁に見るようであれば、それは特殊な場所を行き来しているようなケースかもしれません。しかし、この歌では鳥の死体を見ないことに対して「なぜだろう」と疑問を投げかけているのです。鳥の死体を見ることはめずらしくないという前提に立っての問いかけなのかわかりませんが、この上句に妙に惹きつけられます。殊更この問いかけだけがピックアップされると何か深い意味があるのではないかと想像してしまうのです。そうなると、「長月の坂道」が長いことも何か不穏な雰囲気を醸し出してくるのではないでしょうか。日常のひとコマとも採れますが、どこか異空間に迷い込んだような佇まいもあり、謎めいた一首に感じます。
長月はふかきねむりの果てしなくこのまま覚めぬもよろしきか、否
| 作者 | 小谷陽子 |
| 歌集 | 『ねむりの果て』 |



長月の眠りがあまりに深く感じられたのでしょう。このまま目覚めないと思われるほど深い眠りなのかもしれませんが、そのあまりの深さに「このまま覚めぬもよろしきか」と一旦は問いかけています。しかし、直後で「否」と否定し、いくらこの眠りが深く心地よかったとしてもやはり目覚めたいという思いが伝わってきます。それにしても、この問いかけは眠りの中で行われたのでしょうか。目覚めの際に行われたのでしょうか。誰が誰に問いかけたのでしょうか。そのあたりを考え始めるととても曖昧で不思議な気がします。歌集において、この歌が収められている一連には〈長月はふかきねむりの果ての朝いづくのだれとわれに問はずや〉という、掲出歌とまるで双子のような歌が詠われています。これらの歌は眠りと目覚めの境界があいまいで、地続きのような印象があり、その未分化なイメージが不思議な心地よさを感じさせてくれるのではないでしょうか。
裏庭にジンジャーの花白く咲く姑ありし家をおもふ長月
| 作者 | 蒔田さくら子 |
| 歌集 | 『標のゆりの樹』 |



姑は今はもういないのでしょうが、その姑がいた頃を懐かしく思い出している場面でしょう。姑がかつて住んでいた家には裏庭があり、長月の頃になると、その裏庭には真っ白なジンジャーが咲いていたのです。歌集において、この歌の一首前には〈かぐはしとジンジャーの花を持ちきたる友あり我にはおもひ深き香〉があり、友がもってきたジンジャーの花の香りから、姑の家の裏庭のジンジャーが思い出されたのだと思います。姑はもういませんが、記憶の中ではいつまでもジンジャーの白と姑とがつながっており、姑を思えばジンジャーが、ジンジャーがを思えば姑が、たちまち互いを連れてくるのではないでしょうか。思い出とは何かを改めて考えさせられ、ジンジャーの白さが強く印象に残る一首です。
子は闇よおとなは光よ長月のみづから焼いた肉に塩ふる
| 作者 | 山木礼子 |
| 歌集 | 『太陽の横』 |



「子は闇」「おとなは光」という対句のような詠い出しに驚かされます。「おとな」とありますが、大人全般ではなく、子の親を指していると思って読みたいと思います。闇と光は、コインの裏表のように表裏一体であり、どちらかが欠ければ互いの存在感はなくなってしまうことでしょう。子が闇ということは、大人が子を照らす存在だということでしょうか。大人の側から見れば、子の内面は計り知れないほどの深さであり、ときには闇のように見通せないこともきっとあるのでしょう。それでも大人は光のような存在として、今この場で見守っているのに違いありません。子と親は互いに相容れない部分もあるのかもしれません。どうしようもない日もあるでしょう。そのような不確かな日々を重ねていくのかもしれません。しかし、そのような日々でも自分で焼いた肉に塩を振るという行為だけは確かなことのように思われます。塩を振っているのは子でしょうか、それとも大人でしょうか。きっとそれぞれがそれぞれの肉に塩を振っているのだと思います。ひょっとすると塩は何かの象徴なのかもしれません。象徴であってもなくても、塩のまぶしさだけは伝わってくるように思います。闇と光が溶けあう空間に、塩のしょっぱいきらめきが迫ってくる一首ではないでしょうか。
長月のあめ楓葉を打つ方へ煙草のけむり急ぎ出でゆく
| 作者 | 花山多佳子 |
| 歌集 | 『空合』 |



長月の雨が楓の葉を打っています。あまり強く打ちつけている印象はありませんが、絶え間なく降り続いているような感じがあります。さて、その方向へ煙草の煙が流れていった場面でしょう。煙草を吸っているのは自分でしょうか。別の誰かでしょうか。場所は外でしょうか。あるいは建物の中で、窓の内から外へ煙が流れていったのでしょうか。「急ぎ出てゆく」とあるので、窓や戸、壁といった境界を越えて流れていった様子が想像できますが、急いでというところに着眼の鋭さを感じます。元々雨も楓も煙草の煙も互いに無関係なものですが、ここではそれらが互いに関連しあい、まるで雨に打たれた楓の葉が、煙を誘っているような様子が感じられ、そのイメージが歌を立体的に膨らませているように思われる一首です。
雨の日は好きと言ひけるその声をよみがへらせよ長月の雨
| 作者 | 時本和子 |
| 歌集 | 『運河のひかり』 |
| 詞書 | 思い出すこと 森岡先生二首 |



詞書にある「森岡先生」とは、作者の元々の師匠である歌人森岡貞香を指しています。かつて森岡貞香が「雨の日は好き」といっていたのでしょうか。森岡貞香はもうこの世にはなく、その声を再び聞くことができません。ですから「その声をよみがへらせよ」なのでしょう。人を思うとき、ときには視覚よりも聴覚として強く思い出されることがあります。この歌もまさにそうなのでしょう。長月の雨を見ているとふいに声が思い出されるのでしょう。雨が降る音の中に、主体は森岡貞香の声を聞いたでしょうか。雨を媒介者としても、そのときの声はよみがえることはありませんが、主体の心の中にはいつまでも残り続けているのだと感じます。もう一度その声を直に聞きたという主体の思いが強く表れている一首です。
セプテンバー・ブルーの少年 人生の漠たる哀愁知つてしまひぬ
| 作者 | 香川ヒサ |
| 歌集 | 『The quiet light on my journey』 |



「セプテンバー・ブルー」とは、夏休みなどの楽しい季節が終わり、日常の生活に戻るときに感じる無気力感や憂鬱な気分を指す言葉です。たとえば夏休み直後の二学期は、どことなくやる気が出ない子どもたちも少なくないかもしれません。「人生の漠たる哀愁」が何ともいえず、ものがなしさを漂わせる表現で、「知つてしまひぬ」もまた避けようのない流れでこの感情に巻き込まれたような雰囲気が感じられるのではないでしょうか。しかし、ここで詠われているのは何も喪失だけではないでしょう。「人生の漠たる哀愁」を知ることは、別の角度からいえば、成長ともとれるわけです。少年は憂鬱な気分になっているのでしょうが、その憂鬱さを通して、これまで向き合わなかった自分と向き合う機会が得られるかもしれません。少年の憂鬱さと新たな自分への脱皮とがないまぜになって伝わってくる一首ではないでしょうか。

