(はじめから間違いだとしてひきつづき間違うとしても)生きなければね
野樹かずみ『路程記』
野樹かずみの第一歌集『路程記』(2006年)に収められた一首です。
“なぜ生きているのか”。
人生において、この問いを自分自身に投げかけたくなるのは、うまくいかないときや悩んだとき、迷ったときなど、むしろ順調ではないときではないでしょうか。
掲出歌では「生きなければね」という結句が強く響きます。
括弧書きで「間違い」ということが詠われていますが、何が「間違い」なのかは明示されていません。しかし「生きなければね」というフレーズと合わせて読めば、「間違い」なのは生きること、人生そのものを指していると捉えるのがごく自然ではないでしょうか。
括弧書きは心の声を表しているのでしょうか。括弧がなくても成立すると思いますが、四句までと「生きなければね」との対比を明確にするための工夫として括弧が用いられているように思います。
さて、生きることは「はじめから間違い」といい、「ひきつづき間違う」と続いています。
生きることは、コンピュータのようにプログラム化され、ひとつのミスもなく進んでいくものではないでしょう。どちらかといえば、うまくいくことの方が少ないと感じている人も多いのではないでしょうか。
それを「間違い」といってしまえばそうなのですが、「間違う」こともまた人生の一面だと思います。間違いのない人生はないでしょうし、間違うから人生に幅が生まれるのでしょう。
「はじめから間違い」には生まれたこと自体、エラーのようなものかもしれないという思いが感じられますが、そういう錯覚や勘違いのようなものも含めて人生なのだと思います。
したがって、生きていること自体が間違いと感じても、これからいくらでも間違うとしても、それが人生であり、どのような結果になったとしても、生きていかなければならない、そんな主体の声が結句に集約されているでしょう。この「生きなければね」が強く強く響いてくるのです。
ここにはある覚悟が感じられます。生きたくないと感じる瞬間もあるでしょうが、「生きなければね」は人生に対する諦念以上に、今後の人生に対する意志を感じます。
「間違い」ではないといい切る主体ではありませんが、「間違い」を認めつつも生きていこうとする主体の思いが伝わってくる一首ではないでしょうか。