自賛する言葉は卑しかりしかどそれにしも支へらるる生もありなむ
大辻隆弘『汀暮抄』
大辻隆弘の第七歌集『汀暮抄』(2012年)に収められた一首です。
「自賛」とは自分で自分を褒めることを意味します。
人から褒められることはいいことだが、自分で自分を褒めることをあまりよしといない、みっともないと考える人もいることでしょう。
掲出歌は、自賛する行為が卑しいといっているのではなく、自賛する「言葉」が卑しいと詠っています。しかし、歌はここで終わりません。下句の「それにしも支へらるる生もありなむ」が、この歌で核となる部分でしょう。
自賛する言葉を卑しいと感じようが何だろうが、その言葉に支えられる人生があるのであれば、それはそれでいいのではないかと、きっと主体は感じているのではないでしょうか。
「自賛する言葉」の卑しさよりも、「支へらるる生」があることを優先的に考えているのだと思います。
「卑しかりしかど」と詠ってはいますが、実際は言葉を心底信用しているのでしょう。信用しているがゆえに、生を支えることがあると感じているのだと思います。
「自賛する言葉」は本当に卑しいものなのでしょうか。卑しいと感じているのは、自賛した本人でしょうか、それとも自賛している人を見た他の人でしょうか。ひょっとすると、周りの人だけが卑しいと感じているのかもしれません。
「自賛する言葉」によってその人の人生が支えられるのであれば、その言葉は決して卑しいものではなく、その人にとって素晴らしい言葉であるようにも思います。
上句の「卑しかりしかど」は、下句を読む頃にはもうすでに遠い彼方に消え失せてしまうような、それほど「それにしも支へらるる生もありなむ」が印象深く残ります。
言葉が生を支えることがあることを改めて感じさせてくれる歌ですが、自賛という行為を通して、自賛する言葉の強さを感じる一首ではないでしょうか。


※名字の「辻」の字は、正しくは1点しんにょうです。