tankalife「人生を1mmでもよくしたい」の第47回(「存在」の第8回)です。今回は「人生を問い続けることがすでに豊かに生きること」と題して、なぜ生きるのかを問いながら生きることについて見ていきます。
なぜ生きているのでしょうか。生きる意味は何でしょうか。
私は、生きている中で「人生って何なんだい?」という問いかけをずっと昔からもっていました。その問いかけは今も続いています。
一般的には、「人は幸せになるために生きている」ということはできるでしょう。それは確かにそう思います。それでいいのかもしれません。ただ、この問いかけに対して、それだけではどうも何か足りないような気が常にしているのです。ですから、いつまでも「人生って何なんだい?」の問いが止むことがないのでしょう。
結局、答えはわかりませんし、今後も見つからないかもしれません。そもそも、「なぜ生きているのか」とは、正解がない問いかけだと思いますし、それゆえにどのような答えらしい答えをもってきても、満足いかないだけなのかもしれません。
答えが見つからないからといって、問いかけずにはいられないのも事実です。つまるところ、生きるということは、問い続けるしかないのかもしれないとも思うのです。
以前カフェにいったとき、隣の席に家族連れが座っていました。両親と赤ん坊でしたが、その赤ん坊のぐずる声が度々聞こえてきました。そのとき、赤ん坊は何を思って生きているのだろうかとふと思いました。何も考えずに生きているのだろうか、人生に悩むのはある程度年齢を重ねてからなのだろうか、と。
長く生きれば生きるほど、「なぜ生きる」に対する答えに近づくかといえば、そうとも限りません。むしろ、余計にわからなくなっているような気もします。
ただ、生きることそのものを問いかけ続けてみることは決して無駄なことではなく、自分が生きていく上でちょっとしたヒントを生み出すこともあるかもしれません。
結局、人生とは問いそのものなのかもしれません。
人生とは問いであり、問いの連続が人生そのものともいえるでしょう。数学とは違って、明確で誰にでも共通するような答えがたちまち見つかるということはないでしょう。ただ、自分に対して問いを投げかけることが大切なのだと思います。人生そのものを問いかけダイレクトに見つめることが、生きていることであり、豊かに生きることそのものなのではないでしょうか。
それでは、人生への問いかけを感じさせる短歌を見ていきましょう。
生きてみることが答えになるような問いを抱えて生きていこうね 木下龍也『オールアラウンドユー』
まさに、人生の問いと答えについて、三十一音でいいきってくれたような一首です。
「生きてみることが答えになるような問い」と聞いて、どのような問いを想像するでしょうか。
ここでいう「問い」は、人生そのものに対する問いかけ、生きていることに対する問いかけだと捉えたいと思います。その「答え」は今すぐ出てくるものではないのでしょう。
「生きてみることが答えになるような問い」と詠われていますが、反対にいえば「問いの答えは生きてみること」という意味に採れるでしょう。
つまり、この「問い」に対する答えは「生きてみる」以外にないのです。生きてみなければ、問いの答えがわからないのです。問いが人生そのものに対する問いであれば、答えも人生そのものを生きることなのです。
そのような問いを抱えて生きていこうねといっている相手は誰でしょうか。親しい誰かに対してかもしれませんし、自分自身に対してかもしれません。
とにかく生きてみなければわからないのだから生きてみようという、前向きな印象が感じられ、人生に悩んだときに思い出したい一首です。
人間に生まれてよかった? と、たとえば、夏のまばゆい石ころに訊く 大森静佳『ヘクタール』
もし「人間に生まれてよかった?」と訊かれたら、どう答えるでしょうか。よかったと答える人もいるでしょうし、別のものに生まれたかったという人もいるでしょう。
今自分が認識できるのは、人間という今の自分しかいないわけで、別の生き物やものに生まれていたらどうなっていたのかは想像するしかありません。したがって、人間に生まれてよかったかどうかは、あったかもしれない別の人生との比較ではなく、あくまで今の自分の人生がどうかで答えるしかないように思います。
「人間に生まれてよかった?」という問いかけは、採りようによっては、人生そのものを肯定にも否定にもし得る究極の問いかけです。
石ころに訊いても答えてくれないのはわかっています。そもそも石ころは人間ではないので、そのように訊かれても困るでしょう。でも、訊かずにはいられなかったのではないでしょうか。「たとえば」なので、石ころでなくてもよかったのかもしれません。誰かや何かに尋ねたかったのだと思います。ただ、答えを求めて訊いたのではないでしょう。答えが返ってこないとしても、訊くこと自体が、自分の中にあるもやもやをわずかでも解消する方向に向かわせてくれる行為そのものだったのだと感じます。
主体は、人間に生まれたことを否定したくなかったのだと思います。だからこそ、この問いかけを石ころに投げかけたのでしょう。石ころは直接答えもアドバイスも返しはしませんが、「夏のまばゆい石ころ」を選んで訊いたところに明るさを感じ、主体は肯定的な何かを受けとったのではないかと想像しますが、いかがでしょうか。
生きててもつまらないから生きている 室蘭は焼き鳥の街だし 松木秀『5メートルほどの果てしなさ』
この歌を読むと、生きるということがふっと楽に感じられるような印象を受けます。
生きることを考えるとき、何か必死に生きることであったり、何かを成し遂げることが生きることにとって大切だと感じたりすることも多いと思いますが、この歌はそんな必死さや前向きさとはほど遠いところにいるようです。
それは「生きててもつまらないから生きている」という、どこか問答のようなフレーズによるものでしょう。「生きている」理由が「生きててもつまらない」というのはねじれており、考えれば考えるほどおかしな気がしてきますが、「つまらない」からこそ生きていけるということなのだと思います。その力の抜けたような提示こそ、この歌のポイントだと感じます。
下句の「室蘭は焼き鳥の街だし」は、上句だけでは観念的になりがちなところを具体例を用いて補強する役目を負っているのでしょう。
上句との照合を考えた場合、場所が「室蘭」である必然性も、食べ物が「焼き鳥」である必然性もなく、別の場所や食べ物でもいいとは思いますが、この限定には主体自身が目にした光景や経験が反映されているように感じられます。仮に違う場所や食べ物が詠み込まれていたとしてもそれはそれで納得するかもしれませんが、この歌の場合、場所や食べ物がどこかということよりも、このように具体的に示されることが大切なのだと思います。
ただ「室蘭は焼き鳥の街だし」といういい方は、上句の「つまらない」感じをちょうどよく表しているようにも思われるので、そういう意味では効果を上げているのかもしれません。
生きていることはそれだけですばらしい。何かを成し遂げる必要もなく、おいしい焼き鳥でも食べて、「人生つまらないなあ、面白いことでもないかなあ」などとつぶやきながら生きていく、案外そういう状態の方が早死にせずに長生きできたりするものかもしれないと感じます。
生きることがつらくなったときは「生きててもつまらないから生きている」を思い出したい、そんな一首です。
吾子のため、否、吾子に会ふわれのため乾杯のみで帰る宴席 大松達知『ゆりかごのうた』
宴の席に呼ばれたのでしょう。ただし、乾杯だけで帰っていったのです。乾杯だけで帰るのであれば、出席しないという選択もあると思いますが、自身に関わりのある人の大切な宴席なのか、出席はしたのです。
さて、乾杯だけで切り上げた理由ですが、「吾子」すなわち自分の子どものためだったのです。
子どもが生まれたばかりなのでしょうか。子どもの様子を見たり、世話をしたりするために、早めに家に帰る必要があったのだと思います。
ですから、「吾子のため」と詠われています。しかし、すぐその後で「否、吾子に会ふわれのため」といい直しているのです。
吾子がいなければ早めに切り上げることもなかったでしょうから、「吾子のため」というのは本当のことでしょう。ただ、「吾子のため」というだけでは完全ではなくて、取りこぼしている思いがあるのでしょう。心の中を深く見つめていけば、本当の理由は「吾子に会ふわれのため」だったのです。
もしかすると、乾杯だけで帰る際、周りの人たちに「吾子のため」を説明していたのかもしれません。「子どもがいて世話をしてやらないといけないんですよ」などといっていたと想像できるでしょう。でも、実際は早く子どもに会いたかったというのが本心だったのです。さすがに、宴席の場で「子どもに早く会いたくてしかたないんですよ」とはいわなかったと思いますが、突き詰めると「吾子に会ふわれのため」だったのです。
ここに正直な「われ」の気持ちが現れているのではないでしょうか。
「吾子に会ふわれのため」には、「なぜ生きるのか」に対するひとつの答えのようなものが滲み出ているように感じます。「吾子のため」では、吾子とわれとの距離感が感じられますが、「吾子に会ふわれのため」は自分に引きつけて、なぜ早く帰るのか、なぜこのように行動をするのか、すなわちなぜ今このように生きるのかを問いかけているように感じるのです。
おそらく帰るときの足取りも軽かったのではないでしょうか。「なぜ生きるのか」という問いかけへの返答は、まさにこのような人生の瞬間が存在することにあるのではないかと感じさせてくれる一首です。
ただ生きてゆくことだけを意識して生きる折り畳み傘を持たずに 川島結佳子『感傷ストーブ』
生きることについて、「何のために」を求めすぎるとつらくなることがあるかもしれません。そういうときは、「なぜ生きるのか」「何のために生きるのか」という問いを真正面から受けるのではなく、少し脇に置いておくことも必要なことではないでしょうか。
この歌は「ただ生きてゆくことだけを意識して生きる」と詠われています。「何かのために」ではなく、生きていくことだけに集中するのです。それは、ある意味で生きることに対する純度の高い生き方なのではないでしょうか。
「折り畳み傘を持たずに」とありますが、折り畳み傘というものは、雨が降ったときに困らないようにあらかじめ準備しておくものでしょう。いつも鞄に入れている人も多いと思います。しかし、あえてこの折り畳み傘をもたずに生きるというのです。
それは将来起こり得るかもしれない雨という事象に対して、準備をしないという生き方でしょう。前もって計画的にならないともいえるかもしれません。対処方法を用意しないともいえるでしょう。つまり、今後どのような出来事が発生するかわかりませんが、そのときどきで起こる出来事をそのまま受け入れようという向き合い方なのではないでしょうか。
折り畳み傘をもたずにただ生きていくことを意識して生きるのは、将来のあれこれは色々あるにちがいないけれども、それよりも今目の前、今この瞬間をどのように生きていくのかに焦点を当てている生き方なのだと思います。
「ただ生きてゆくことだけを意識して生きる」に、芯のぶれない意思を感じると同時に、生きるとは何なのかにやがて通じるような姿がここにはあるのかもしれないと感じられる歌ではないでしょうか。
まひるまにほろほろと雪 生きている意味などすっ飛ばして生きたい 柴田葵『母の愛、僕のラブ』
冒頭で、生きる意味を問い続けることは人生そのものではないかということを述べました。
ただ、生きる意味を問い続けてばかりいると、だんだんと自分が何なのか、人生とは何なのかがわからなくなってくることもありますし、生きる意味の追求が、今生きていることを疲弊させてしまうこともあると思います。
先ほどの歌もそうでしたが、この歌も、生きる意味や目的とがっぷり四つに組まないことによって、かえって自分自身の生き方ができている姿が現れている歌なのかと感じます。
「生きている意味などすっ飛ばして生きたい」が、とても爽快で清々しいですね。意味を論理立てて丁寧に説明するよりも、ごちゃごちゃいうくらいなら、いっそすっ飛ばしてしまった方が早いのではないかといった感じを受けないでしょうか。
「まひるまにほろほろと雪」の情景も、すっ飛ばして生きたいと思わせる後押しをしたのでしょう。雪の降る地域において、真昼間に雪が降ることはよくあることでしょうが、この場面の舞台はひょっとすると普段雪が降らない地域なのかもしれません。そう考えると「まひるまにほろほろと雪」はかなり珍しい光景だったのではないでしょうか。
その景は、もちろん美しかったのでしょうが、単に美しいというだけでなく、主体の心の奥深くに沁み込んでくるような強烈な何かがあったのだと思います。それは、「生きている意味などすっ飛ばして生きたい」という主体自身がうすうす感じていた心底の思いを表に出すには充分すぎるほどのものだったのではないでしょうか。
「生きている意味などすっ飛ばして生きたい」もまた、「なぜ生きるのか」のひとつの答えなのかもしれません。
「生きている意味」云々よりも、今目の前に雪を見ているこの瞬間の方がどれほどかけがえのないものなのかを、実感として、この歌は伝えてくれているように感じます。
以上、人生への問いかけや、なぜ生きるのかを感じる歌を見てきました。
「なぜ生きるのか」について考えるとき、いつも思い出す歌詞があります。
それは、シンガーソングライター松山千春の曲「君を忘れない」の次の一節です。
「どうして生きているの?」 君は僕に尋ねたけど
答えを急ぐことはない やがてわかるから
ひとりでいるときや、家の中にいるとき、この歌をよく口ずさんでいます。
冒頭でも書きましたが、「なぜ生きるのか」や「生きる意味は何か」に対する答えというのは、今すぐ簡単に答えられるものではないと思います。まさに、この歌詞の「答えを急ぐことはない」だと思います。
結局、自分が人生の時間を重ねていく中で、だんだんとその答えらしきものが見えてくるのかもしれません。それはみんなに当てはまる絶対的な答えではありません。人が、それぞれの人生を生きる中で、「なぜ生きるのか」を問いかけ続け、その問いに対して、それぞれの答えがあるのだと思います。
ただ、ひとついっておきたいことは、そういう問いかけを行いながら生きるということが、すでに人生を豊かに生きていることそのものなのではないかということです。
「なぜ生きるのか」を見つめることは、今なぜこの瞬間をこのように生きているのかにつながると思います。今まさに生きている姿そのものが人生であり、この瞬間を本当に納得して生きているなあと感じられれば、とてもすばらしいことだと感じます。




