tankalife「人生を1mmでもよくしたい」の第46回(「存在」の第7回)です。今回は「内面を丁寧に生きる」と題して、外面より内面を見つめることについて見ていきます。
生きていく上でより大切なことは、外面的なものではなく、内面的な思いではないでしょうか。
お金がたくさんある、広い家や土地がある、車を何台も所有しているといった外面的な豊かさを否定するつもりはありません。外面的な豊かさが、内面的な豊かさにつながることはあるでしょう。ただ、いくら外面的なものが充分であったとしても、内面的な思いが満たされていないと生きていくのがつまらないのではないでしょうか。
外面的なものが充分あろうとなかろうと、心の底から豊かさを感じられるように生きていければ、それはとても幸せなことでしょう。そして、生きることに対して積極的に向き合うことによって「生きたい」という思いが湧き上がってくれば、生きていることが楽しくなってくるでしょう。
外面的な状況がどうあれ、「生きたい」という思いが強ければ、生きていくことはできると思います。
外面的なものは、いずれこの世に置いていかなければなりません。お金も、家も、車もいくら多く集めたところで、死後の世界にもっていくことはできません。
そう考えると、人生が終わる瞬間に人が振り返り見つめるのは、外面よりも内面なのではないかと想像するのです。
ですから、外面ばかりを追うのではなく、内面を見つめて、内面を丁寧に生きることを意識していきたいと感じるのです。
それでは、内面を見つめて生きていると感じられる歌を見ていきたいと思います。
ソ、レ、ラ、ミと弦を弾いてああいずれ死ぬのであればちゃんと生きたい 笹川諒『水の聖歌隊』
「なぜ生きるのか」という問いは、生きていれば何度もぶち当たることでしょう。その答えはすぐには見つからないかもしれませんが、「どのように生きるのか」は自分で決定することはできそうです。
でたらめに生きることもできれば、「ちゃんと生きる」こともできるでしょう。各々の選択次第で「どのように」という部分はどうとでもなるのです。
人はやがて死にますが、「死」という終わりがあるからこそ、現在の「生」が貴重で輝くのではないでしょうか。この歌では「ああいずれ死ぬのであればちゃんと生きたい」と詠われていますが、死という終わりまではせめてちゃんと生きていこうという思いが感じられます。それは外面的なものがあるとかないとかといった理由ではなく、もう少し内面的な思いによって「ちゃんと生きたい」が表出されているように思います。
ソ、レ、ラ、ミと弦を弾く姿が、余計な思考が洗い流されて純粋なひとりの輪郭を明瞭にしていく様子が感じられる歌ではないでしょうか。
上手くとも要領よくとも思わないただ丁寧に生きていきたい 犬養楓『前線』
「人生順風満帆」「一点のミスもなく完璧だ」といえる人はおそらくほとんどいないでしょう。
生きていれば、どこかしらうまくいかないことや失敗したなあと感じることも少なくありません。とはいっても、うまくいかないことを嘆いたり、天を恨んだりしても、何の解決にもならないでしょう。むしろ、うまくいかないことさえも認めてみる、受け入れてみるという気持ちが大切なのかもしれません。受け入れてしまえば、生きることが随分と楽になります。
この歌から感じるのは、生きていくのにうまさや要領のよさを求めている姿ではありません。下手で要領が悪いこともある程度受け入れてきたのでしょう。ただし、「丁寧」に生きていくことだけは、ひとつの芯として、ぶれずにもち続けてきたのだと思います。
結果的にうまくいかないこともあるでしょうが、丁寧さを心がけることは今すぐにでもできるでしょう。丁寧に生きることは意識の問題であって、どのような出来事やどのような結果に対しても、丁寧に生きていくことはできるのです。
「ただ丁寧に生きていきたい」という、飾らないストレートな表現が美しく伝わってくる一首です。
ていねいに生きてください姿煮の骨はしゅくしゅく皿にならべて 田中ましろ『かたすみさがし』
こちらも丁寧に生きることが焦点になっている歌です。
魚を食べている場面です。最近は骨なしの魚の切り身なども売られていますが、通常魚に骨はありますし、姿煮ですから尚更でしょう。魚料理は骨から身を剝がしながら食べるのも醍醐味のひとつだと思いますが、魚の骨をとるのが面倒であるという気持ちもわかります。小骨があったり、骨の数が多かったりして、一気にすべて剝がせるというものではありません。
ですから、「姿煮の骨はしゅくしゅく皿にならべて」には、どうしても丁寧さを感じてしまうのです。雑にこのようなことはできないでしょう。
そして、この下句が上句の「ていねいに生きてください」につながるのです。誰かに対して贈るような言葉でしょうか。あるいは誰かからいわれた言葉でしょうか。それとも、自分で自分にいいきかせている言葉でしょうか。色々と想像はできるでしょう。ただ、いずれにしても、骨を並べる具体的な行動からもたらされる丁寧さが、「ていねいに生きてください」に実感を与えていることは間違いないと思います。
決して表面的なだけではなく、内面的に丁寧に生きる様子が感じられる一首だと思います。
何故僕があなたばっかり好きなのか今ならわかる生きたいからだ 早坂類『風の吹く日にベランダにいる』
力強さを感じる一首で、「生きたいからだ」という言葉が何度も胸に響いてきます。
なぜ生きるのか、なぜあなたが好きなのか、それは生きたいからなのです。生きるという実感を味わうことができるのは、あなたがいるからなのでしょう。生きたいからあなたが好きで、あなたが好きだから生きたいのです。
「今ならわかる」からは、僕とあなたとの間に流れてきた時間の積み重ねを感じます。「あのとき」はわからなかったけれど、「今」だからわかるのです。また「あなたばっかり」の「ばっかり」に、あなたへの思いの強さ、そして生きることへの思いの強さが現れているように感じます。
「生きたいからだ」は、自分の内面を見つめた結果として、その底から自然に出てきた思いなのではないでしょうか。まっすぐで飾りものではない「生きたいからだ」が強く迫る一首です。
トーストを朝なさな置く丸皿を洗はず捨てるやうに生きたい 山木礼子『太陽の横』
「朝なさな」は毎朝という意味の言葉ですが、毎朝トーストを丸皿にのせているのでしょう。自分が食べる分か、それとも家族が食べる分を用意しているのでしょうか。
毎日トーストを丸皿に置くという行為を繰り返しているのでしょうが、その繰り返しにおいて「丸皿を洗わず捨てるやうに生きたい」という思いが湧き上がってきたのだと思います。
丸皿を使うたびに洗えば繰り返し使えますが、丸皿を洗わず捨ててしまえば、トースト一回の食事につき、丸皿も一回しか使用できません。毎回捨てれば、毎朝新しい丸皿を使うということになりますが、今日の朝は昨日の朝とは違った場面、新たな朝の始まりを予感させはしないでしょうか。
トーストを丸皿に置くという行為が日々繰り返されるということに、正直うんざりしているのかもしれません。どこかでこの繰り返しを止め、何か新しい毎日を求めているのかもしれません。しかし、丸皿を一回使用しただけで捨てるということは現実的ではないでしょう。それゆえ「丸皿を洗はず捨てるやうに生きたい」というのは、丸皿を毎朝捨てるという行動が実際に行われる可能性は少なく、具体的な行動が行われないために、そのように生きていくことも、どこか希望の世界だけに留まってしまっているのではないかと感じます。本当はそうしたいのだけれど、やはり現実はそうはなっていないという状況が、尚更「丸皿を洗はず捨てるやうに生きたい」を導き出していると思えてなりません。
けれども、この歌に悲壮感は漂っておらず、現実化するかは一旦置いておいて、むしろ明るさを伴った印象を感じるのです。それは朝という一日の始まりであることも影響しているでしょうし、その朝に関連してどのように生きたいかが表現されていることによって感じる明るさなのでしょう。色々な読み方があるかもしれませんが、自身の内面としっかりと向き合っていて、求める生き方を興味深い比喩を使って表現した一首だと思います。
どんなふうに生きてもよくてイボオコゼどんなふうに生きてもさびし 小島ゆかり『憂春』
一生は、どのように生きてもいいのかもしれませんが、つらいなあと感じながら生きるより、できれば楽しく生きていきたいと思います。
「どんなふうに生きてもさびし」と詠われていますが、このように詠われると、その言葉通りさびしい気がします。けれどもそのように感じるのは、人がイボオコゼを見てどう思うかであって、イボオコゼ自身にとっては案外楽しく生きているのかもしれません。
どう生きるか、どう生きているように見えるかは、他人からあれこれいわれるものではなく、やはり生きている自分自身が自分の内面をどのように見つめて、どう思いながら生きていくかということが一番大切になってくるのではないでしょうか。
以上、内面を感じる歌を見てきました。
外面と内面というものを考えてみると、他人についてすぐ見えるものは外面です。したがって、外面がどうかということでその人がどういう人であるかを計りがちになってしまいます。それは他人が自分を見るときも同じでしょう。
しかし、充実して生きるというこを考えた場合、外面以上に大切になるのが内面だと思います。他人の内面は、周りからは簡単にはわかりませんし、同様に自分の内面も他人からは見えないものでしょう。ですから、自分の内面を見つめるのは、やはり自分自身しかいないと思います。
自分がどう感じ、どう考え、どう生きていくのかを自分自身に問いかけることが大切なのではないかと思います。
内面を丁寧に見つめて生きることは、本当の意味での豊かさに充ちた、よりよい人生へつながる道筋なのではないでしょうか。



