tankalife「人生を1mmでもよくしたい」の第45回(「存在」の第6回)です。今回は「しぶとく、懸命に生きる」と題して、今を懸命に生きることについて見ていきます。
生きていくときの態度や姿勢に、真面目さや懸命さが求められるときがあるかもしれません。いや、求められるというよりも、真面目や懸命に生きていこうという強い意思が自分の中に芽生えるときがやってくるといった状況でしょうか。
このような意思はどんなときに湧き上がってくるのでしょうか。問題が振りかかってきたときでしょうか、壁にぶち当たったときでしょうか。やはり物事が順調に進んでいるときよりも、一筋縄では解決できないような状況において強い意思が現れるように感じます。
生きることはつらく苦しいことだと思う必要は決してありませんが、多少の問題や課題に直面したことが、懸命に生きてやるといった思いが湧き上がってくるきっかけになることもあると思います。
それでは、懸命に生きる様子を感じる短歌を見ていきたいと思います。
高架下を歩いていたら高架上を電車が走る しぶとく生きる 柴田葵『母の愛、僕のラブ』
人は上か下かを思いのほか意識する生き物です。職場の役職、成績の順位、年齢、あるいはマンションの住んでいる階でさえ、上下を意識して過ごしている人もいるのではないでしょうか。
さまざまな状況があるため、上がいいとか、下がいいとかは一概にはいえませんが、何となく下よりも上がいいと見てしまうケースが多いのも否定できないことでしょう。
この歌には高架が登場しますが、高架上があれば、対になるかたちで高架下が存在します。頭上を走る電車はすいすいとスムーズに進んでいるのかもしれません。一方の自分は、高架下の薄暗い中を歩いています。
勝ち負けについては何も書かれていません。しかし、この高架上と高架下とのこの対比から、高架下の自分が何となく負けてしまったような気に感じられるのです。いや、負けてしまったような感じは、単に上か下かという高低の違いと、「走る」に対して「歩く」というスピードの差だけなのかもしれません。でも、この対比が主体の心にもたらすのは、見た目にわかる状況だけではないのではないでしょうか。だからこそ「しぶとく生きる」という強い思いが湧いてきたのではないでしょうか。
高架上を電車に乗って快適に移動していれば「しぶとく生きる」は出てこなかったかもしれません。そういう意味では、高架下を歩いていて、かつそのとき高架上を電車が走った状況が「しぶとく生きる」という思いを導き出してくれたといえるのではないでしょうか。
「しぶとく生きる」には、高架下の暗さをも吹き飛ばすような力強さを感じます。
ふとんを蹴り、かけられて蹴り、かけられて 一人で生きる力をもらう 雪舟えま『はーはー姫が彼女の王子たちに出逢うまで』
ふとんってついつい蹴ってしまうものなのですね。蹴っている本人は寝ているから自覚はないのでしょうが、暑いからなのか、重たいからなのか、朝起きたらふとんをかぶってないということは多々あります。寝る前は確かにふとんをかぶっていたはずなのに…。
家族か恋人か、ふとんをかぶっていない状態を見て、やさしさでかけてくれたのでしょう。でも、かけ直してくれたのに、また蹴ってしまってもう一度かけ直してくれるのです。でもまた蹴ってしまう…。それを何度も繰り返しているのでしょう。
「一人で生きる力をもらう」と詠われていますが、ふとんを蹴ることが一人で生きる力に通じるという意味合いでしょうか。受け入れるだけでなく、抵抗することができるなら、もう立派に一人で生きていけるでしょう。
ふとんを何度も蹴る姿、そして「一人で生きる力をもらう」からは、現状に対して懸命に生きようとする姿が立ち上がってくるように感じる一首です。
懸命に生きてる 丁寧じゃないけど払っているよ国民年金 上坂あゆ美『老人ホームで死ぬほどモテたい』
国民年金保険料を毎月納めることは国民の義務となっています。義務とはいっても、毎月の保険料は決して安くはありませんし、結構な負担といえば負担です。ただ、将来老齢年金を受給するためには、毎月納めることもやむを得ないと感じている人もいるでしょう。少子高齢化が進む中、将来受給できる年金額は、現在の受給金額よりももっと少なくなっているかもしれません。将来の受給がどうなるかわからない中では、本音をいえば、年金保険料を毎月支払うことに疑問を感じているかもしれません。
でも、この主体は支払っているのです。義務ですから、当たり前といえば当たり前なのですが、条件によってはさまざまな免除制度もある中で、きちんと支払っているのです。「丁寧じゃないけど」に、正直さが如実に表れているように思います。保険料を払っても、なお生活できる分くらいは稼ぎながら懸命に生きている姿が浮かび上がってこないでしょうか。決して優雅に悠々と生きている姿ではありません。死に物狂いとまではいかないまでも、必死さが伝わってくるのではないでしょうか。
将来どうなるかわからないのは、何も年金だけではありません。主体の人生そのものも同じかもしれません。しかし、「懸命に生きてる」に、今まさにこの瞬間を生きようとする意思が強く現れていると感じます。
今日という日を懸命に生きてゆく蟻であっても僕であっても 萩原慎一郎『滑走路』
蟻と自分を比較して、今日という日を懸命に生きていく姿は共通なんだと再度確認しているのでしょう。蟻の動きを眺めていると、蟻が懸命に生きている姿を感じたのだと思います。
「今日という日を懸命に生きてゆく」ことに、身体の大きさは関係ありません。言葉を話せるかどうかも関係ありません。寿命も関係ありません。ここにあるのは、今日を懸命に生きること。それだけですが、それこそが明日につながっていくのでしょう。
注目したいのは、「蟻であっても人であっても」ではなく、「蟻であっても僕であっても」と詠われているところです。「蟻」と「人」という単純な生物比較ではありません。「人」ではなく「僕」と表現されているところに、生きていくことを素直に、そして強く自分に引きつけていることが感じられ、痛切に響いてきます。
ばたあしで生きる うかばず沈まずにただよう夜のそこは静かだ 塚田千束『アスパラと潮騒』
「ばたあしで生きる」からは、きれいに生きようとしている姿は見られません。
ばたあしを止めてしまったら、沈んでいってしまうのでしょうか。沈まないように生きていくために、きっとばたあしなのでしょう。いいと思います。ばたばたとあがいているように、人から見られても構わないのではないでしょうか。人からどう見られようが、何より大切なことは生きていることです。ばたあしだろうが何だろうが、生きていこうという思いが伝わってきます。
浮かびもしないけれど、沈みもしない。そして、人生という夜の水に漂っているのでしょう。ばたあしの必死さと相対するように、主体がいる場所はとても静かな場所として伝わってきます。その静かさは、ばたあしで生きている結果として、主体に感じられる心の平穏そのものなのかもしれません。
ばたあしの見た目は必死さが伴いますが、その必死さを経たがゆえの穏やかさとでもいうべきものでしょうか。懸命に生きているがために得られる境地というものがあるのではないかと感じます。
ばたあしで生きることは、素敵なことかもしれません。
多すぎたラー油をお酢で薄めつつ意地でも生きてやろうとおもう 小俵鱚太『レテ/移動祝祭日』
「意地でも生きてやろうとおもう」がいいですね。
何があったのかはわかりません。でも、何かがあったことはわかります。人生を左右するような大きな出来事だった可能性もあります。そうでないと「意地でも生きてやろう」とはなかなか思わないのではないでしょうか。
興味深いのは「多すぎたラー油をお酢で薄めつつ」です。餃子でも食べようとしている場面でしょうか。取り皿にラー油を入れたけれど、思いのほか多く入ってしまったのでしょう。ラー油だけを取り除くのは難しいので、別のもの、すなわち酢を足して薄めることで、バランスをとろうということです。
あまり深読みする必要はありませんが、ラー油の辛さが人生の刺激、あるいは上で述べた「何か」なのかもしれないと想像してしまいます。それを酢で薄めるという行為が、抵抗の姿、つまり「意地でも生きてやろう」と思うにつながる心意気なのかもしれません。
的確できれいな手段をとろうということではないでしょう。何としてでも生きてやるという強い気持ちが伝わってきます。
「意地でも生きてやろう」という重大事と、ラー油と酢という日常の食事の場面とのアンバランスなところも惹かれる要素ですが、このような日常にこそ懸命な姿というのは現れるものなのかもしれません。
とは言えど走って走って走り抜く若さ眩しと思うときあり 三枝昻之『遅速あり』
「若さ」とはまぶしいものなのでしょうか。
年齢的にもう若くないと自分が感じたとき、そこから見える「若さ」とはまぶしく見えるものなのかもしれません。あるいは「若さ」というとき、まぶしいものであってほしいという思いがあるのかもしれません。
そのまぶしさはどこから生まれるのでしょうか。「走って走って走り抜く」、その姿からきっと生まれるものなのでしょう。そうであれば、年齢的に若くなくても、走って走って走り抜く姿を保ちつづけることができれば、その人はまぶしい状態であるといえるかもしれません。
ここでふと、次のフレーズを思い出しました。
青春とは人生のある期間ではなく、
心の持ち方を言う。サムエル・ウルマン「青春」(『青春とは、心の若さである。』)
若さや青春を年齢的なものとして捉えてしまうのは、もったいないのではないでしょうか。心の持ち方、走り抜く姿は、年齢を超えた「若さ」を示すでしょうし、まぶしいものでしょう。
この歌の初句に戻れば、「とは言えど」とあります。初句としてインパクトのある入り方ですが、「とは言えど」の前には何も置かれていませんので、何に対してなのかは想像するしかありません。
主体の今の立ち位置から見ると、若さというのは勢いだけは優勢であるが、やや甘く映るところがあるのかもしれません。しかし、「走って走って走り抜く」姿は、今の自分にはできないものであり、まぶしく映るのでしょう。
この「若さ」は誰か他人を見てそう感じているとも採れますし、かつての自分というふうにも採れると思います。
走って走って走り抜くことをしなくなった位置から見えるもの、それはしなくなったがゆえに、あるいはできなくなったがゆえに、まぶしく見えるものなのかもしれません。
以上、懸命に生きる姿が感じられる歌を見てきました。
懸命に生きる姿には、力強さが現れていると改めて感じました。ただ、真面目に生きよう、懸命に生きようと思うことはすばらしいのですが、あまりに真面目や懸命を追求しすぎてしまい、追求がいきすぎた結果、真面目や懸命にがんじがらめにされてしまうと、それはそれでかえって生きづらくなってしまいます。
一生は長いといえば長いものです。それを最初から最後まで、ずっと懸命で生きなければならないと想像してしまうと、生きるのが大変になってこないでしょうか。そんなときは、もう少し身近で目の前にある物事に集中して取り組んでいけばいいのだと思います。
例えば、次の質問をされたらどのように答えるでしょうか。
大きな象一頭を食べ切るにはどうすればいいでしょうか?
これは「エレファント・テクニック」といわれる目標達成の思考法に出てくる問いかけです。一応答えは用意されていて、その答えとは「一口ずつ食べる」です。つまり、どんな大きな象でも一口ずつ食べていけば、やがて一頭まるまる食べ切ることができるということ。目標達成の観点からは、どんなに大きくて圧倒されるような目標も、小さく細分化してこなしていけば、やがて達成できるということです。
目標達成とは少しずれるかもしれませんが、人生もこれと同じなのではないかと思います。長い人生を大きな象一頭だと仮定して想像すれば、人生を一気に解決してやろうとするのではなく、瞬間瞬間の人生を懸命に生きていくしかないのではないでしょうか。その結果として、人生という道のりが形成され、振り返ればさまざまなことを経験してきたと感じることができるのだと思います。
大きな夢を描きましょうと聞いて想像ができなかったり、打ちのめされるなるくらいなら、一旦目の前の今できることに集中して、懸命に取り組んでみるのもいいでしょう。例えば、何か興味のあることに関連する本を読んでみるのはどうでしょう。そして、その本一冊を全部読むシーンを想像してみましょう。本を一冊全部読むのが大変だと感じるなら、とりあえず本を開いてみるのはどうでしょう。本を開くくらいであれば、何とかできそうですね。もしかしたら、本を開いた後に読みたいという気持ちになるかもしれません。
最初から、一度に大きなことを実行しなければと考えたり、全部をやりきらなければならないと思うから大変なのであって、まずは目の前に集中することが大切なのだと感じます。細かい手順に分割して、今目の前にできることに向き合っていくことが、懸命に生きることにつながるのではないかと思います。
一気に大きな何かを成し遂げるのは難しいですから、まずは今この瞬間をしぶとく、懸命に生きていこうとする気持ちをもつのはどうでしょうか。そのように生きていくことの連続が、やがて人生という長い道を生かしてくれるのかもしれません。







