tankalife「人生を1mmでもよくしたい」の第37回(「受容」の第8回)です。今回は「「しょうがない」から始めよう」と題して、あきらめることについて見ていきます。
以前の投稿記事「【短歌×人生】人生を1mmでもよくしたい 【行動⑤】あきらめる瞬間までは失敗ではない」では、あきらめなければ失敗ではないと書いてきましたが、長い人生においては、あきらめる必要が場合も出てくるでしょう。
ただ、それが自分にとってどうしてもあきらめてはいけないことなのか、ただの執着なのかをもう一度判断する必要があるでしょう。どうでもいいことといっては語弊があるかもしれませんが、あきらめてしまっても後悔しないことについては、執着せずさっさとあきらめた方がいいこともあると思います。その分、自分に空きができて、何か新しいことが入る余裕ができるでしょう。
「あきらめる」とは、通常「断念する」という意味で使用されますが、「明らかにする」という意味ももっています。物事がうまくいかない原因をはっきりと見極める意味合いもあるのです。また、あきらめることによって、新たな余白が鮮明になりますし、ひとつのことに執着して前に進まない事態を避けることもできるでしょう。
ですから、今取り組んでいることについて、あきらめることなのかどうかをもう一度見つめ直してみるのが大切なのっではないでしょうか。
私は、「しょうがない」という言葉が嫌いではありません。「しょうがない」と聞くとネガティブなイメージがあるかもしれませんが、決してそうともいい切れないません。
「しょうがない」には、自分の力だけではどうしようもない現状を受け入れる覚悟のようなものがあります。そして、気持ちを次に切り替えていこうとする力を感じるのです。
「しょうがない」は、簡単なあきらめではありません。あれこれと取り組んだ結果、どうにもならないときに執着を手放し、次のステップへ前向きに進むための言葉が「しょうがない」だと思っています。
どうにもならないときこそ、「しょうがない」から始めてみるのもいいのではないでしょうか。
それでは、あきらめや「しょうがない」を詠った短歌を見ていきたいと思います。
諦むるにもやや慣れてゆうらりと上水沿ひにおのれを運ぶ 矢部雅之『友達ニ出会フノハ良イ事』
昔から「できるだけあきらめずに頑張りなさい」とよくいわれてきました。あきらめずに頑張ることは美徳のように考えている人も多いと思います。
しかし、ときにはあきらめざるを得ない場合もあるでしょう。果たして、あきらめることは駄目なことなのでしょうか。また、あきらめることに慣れるのも駄目なことなのでしょうか。
あきらめることに慣れるのを、「あきらめグセ」のようなイメージで捉えると決してプラスという感じはなく、「またあきらめてしまったのね」といったマイナスイメージがつきまといます。したがって、あきらめることは仕方ないけれど、あきらめることに慣れ過ぎてしまうのはあまり感心しないと考える人が多いのではないでしょうか。
この歌では、「諦むるにもやや慣れて」と詠い出されています。主体自身も、本当はあきらめたくなかった出来事があったのかもしれません。これまでに何度も取り組んできたのかもしれません。しかし、なかなかうまくいかないことが繰り返されて、やがてあきらめることが続いてしまった状況を想像します。
あきらめることに慣れてしまった自分を、どのように感じているのでしょうか。完全否定しているわけではなさそうに感じます。それは「ゆうらりと上水沿ひにおのれを運ぶ」のゆったりとした雰囲気がそう感じさせてくれるのかもしれません。
あきらめに慣れてしまった自分を、ある程度は受け入れているのではないでしょうか。大切なのは、あきらめを繰り返してきた過去ではありません。今ここからどうするのかということです。これまでのあきらめがまったく無駄だったということはないでしょう。あきらめを経たからこそ得たものもあると思います。では、その経験をもってここからどうしていくのかに集中することが、今後を好転させていくことにつながるのではないでしょうか。
諦めて何か無限に諦めている小雨降る道歩きつつ 松木秀『5メートルほどの果てしなさ』
小雨が降る道を歩きながら、自分自身を見つめている場面でしょう。
何かをあきらめていると感じているわけですが、「無限に諦めている」が痛切に響きます。あきらめているものが、ひとつではないのです。過去から今まで幾度もあきらめてきたことをいっているのと同時に、今この瞬間にも同時に数えきれないくらいのものをあきらめているということでしょう。
あきらめてもあきらめても、次から次にあきらめなければならないものが湧いてくるようなイメージでしょうか。この場合、「無限」がもたらす思いは、あまりにも切なく感じます。
しかし、今「無限に諦めている」からといって、今後どう考えていくかは変えることができるでしょう。明日に成れば、小雨も上がって晴れ渡っているかもしれません。そのときに改めて見つめる自分は、あきらめに対する感じ方が今までと変わっていることだってあり得るでしょう。
あきらめを完全否定し、拒否するのではなく、むしろ受け入れて抱き締めてしまえばいいのかもしれません。その心もちになったとき、あきらめに対する何かが変わると思います。
無限にあきらめていることを起点として、新たな展開が訪れることを期待したいと思います。
花束の花ふりこぼしふりこぼしいろんなことをあきらめてきた 西橋美保『うはの空』
こちらも「いろんなことをあきらめてきた」とある通り、さまざまなあきらめを経験してきたことが詠われています。
花束に対して悪いイメージをもつ人は少ないのではないでしょうか。花束をもらうと大抵の場合、うれしくなります。花束には多くの色々な種類の花が集められていることでしょう。そのような花束の花を「ふりこぼしふりこぼし」してきたのです。
「ふりこぼし」には、風や振動によって自ずとこぼれ落ちる意味がありますが、この歌の「ふりこぼし」からは意図してこぼしてきた様子が感じられます。「あきらめてきた」にその一端が窺えるのではないでしょうか。
花束に収まった状態の花は、美しさを保っていて輝いていることでしょう。花がふりこぼされるということは、その輝きを失うことです。それが、あきらめそのものに映ったのではないでしょうか。「いろんなことをあきらめてきた」という表出は、本当にさまざまなことをあきらめてきた感じがしみじみと伝わってきます。
一度こぼれた花は、もう一度花束に戻って美しく輝くことはないでしょう。同じようにあきらめてきた数々のことは、もう取り戻せないことかもしれません。
しかし、花束の花をふりこぼしたとしても、まだ花束に残っている花があるのではないでしょうか。すべてがこぼれ落ちたわけではないのではないかと思うのです。多くの花は落ちてしまったかもしれませんが、今この状態の花束からスタートさせることもできるわけです。
まだ、花束は手にしっかりと握られているでしょうか。いくら花が落ちたとしても、花束が手にある限り、今後の展開の可能性はまだ残されているのだと思います。
ひとつことあきらめきつてこの朝のわれはぐんぐん雲海を飛ぶ 小島ゆかり『さくら』
「雲海を飛ぶ」とあるので、雲海を眼下に見ながら、飛行機に乗って移動している場面でしょうか。
「ひとつことあきらめきつて」とありますが、主体は何かひとつのことをあきらめたのでしょう。「あきらめきつて」とあるので、単にあきらめたという以上に、もう本当にあきらめきったという感じが伝わってきます。
それほどの思いがあるということは、本当はあきらめたくなかったのかもしれません。その「ひとつこと」には、それほど意識が向けて注力していたのだと思います。しかし、あきらめるという決断を下したわけです。
あきらめきったこの朝からは、残念そうな気持ちがあまり感じられません。むしろ、清々しさすら感じられるのです。それは「あきらめきつて」や「ぐんぐん」から感じられる清々しさなのではないでしょうか。
あきらめるという決断は何もマイナスなことばかりではないと気づかせてくれます。次のステップにいくために必要な通過点だったということもあるでしょう。
「われはぐんぐん雲海を飛ぶ」ことによって、今後さらに素晴らしい場所に向かうのではないか、そんな予感を感じさせてくれる歌です。
夏日にて桜の樹下に入りたるもあきらめてきしものの明るさ なみの亜子『ばんどり』
「夏日」ですから、日差しが強く暑い一日だったのでしょう。まだ桜が咲いている春の一日でしょうか。
暑さを避けるように、桜の木の下に入ったのです。そのとき、ふと心に兆したのが「あきらめてきしものの明るさ」だったのでしょう。
あきらめてきたものをこれまで「明るさ」として捉えてはいなかったのかもしれません。どちらかといえば、「暗さ」に近いイメージで見ていたのではないでしょうか。それが、樹下に入ったことをきっかけにして「明るさ」として思えてきたという状況ではないでしょうか。
何か明確な理由があったわけではないと思います。ただ、桜の樹下に入り、桜を見ていると、夏日の日差しと桜の花びらの輝きが相まって、主体に明るさをもたらしたのではないでしょうか。
「あきらめてきしものの明るさ」が表現のうえでも、物事の捉え方のうえでも魅力的です。あきらめてきたものを明るいと思えるのは、ある程度時間が経過したからかもしれません。あきらめた当時は明るさを感じられなかったのだと思います。時間を経て、この日に「あきらめてきしものの明るさ」を全身で感じているような主体に、感慨深いものを感じます。
陽の光、桜を背景として存在する主体の姿が、本当に明るさに充ちているように感じられる歌ではないでしょうか。
「しょうがない」この一言の安らぎを知らなかったはず 二十歳のわたし カン・ハンナ『まだまだです』
「しょうがない」について詠われた一首です。
「しょうがない」に「安らぎ」を感じている、今現在の「わたし」がここにはいます。しかし、「二十歳のわたし」は「しょうがない」の言葉に「安らぎ」を感じていなかったのではないかと、振り返っている場面でしょう。
二十歳当時の「わたし」は、「しょうがない」に対してあまり肯定的には捉えられていなかったのではないでしょうか。「しょうがない」という言葉は、あきらめにつながる要素をもっているため、「二十歳のわたし」は「安らぎ」よりも、あきらめへの抵抗の方が強かったかもしれません。
しかし、今ならわかるのでしょう。「しょうがない」という言葉が必要なときも、この言葉がネガティブな面ばかりではないことも、「しょうがない」はむしろ前へ進むために「安らぎ」をもたらしてくれるフレーズであることも…。
「しょうがない」に「安らぎ」を感じるには、さまざまな経験を経る必要があるのかもしれません。時間もかかるでしょう。でも、歳を重ねるほどに「しょうがない」のもつプラスの面に意識が向いていくのではないでしょうか。
「しょうがない」と声に出せば、心が軽くなるように感じませんか。現状に執着し、滞る状態をつくるよりは、「しょうがない」のひとことがもたらす「安らぎ」を感じてみるのも悪くないのではないでしょうか。
あつけなく諦めに凭るやさしさのそんならしやうないなあと言ひつつ 大辻隆弘『汀暮抄』
「しやうないなあ」は、「しょうがない」ということです。このいい方が味わいがあっていいですね。
これは自分自身のあきらめではなく、誰か他者のあきらめについて詠った歌ではないかと思います。
「あつけなく諦めに凭る」と詠われている通り、その相手は割とあっさりとあきらめる傾向があるのかもしれません。しかし、そのことを主体は責めているわけではありません。「あつけなく諦めに凭る」のは「やさしさ」であると捉えているのです。
ここでは「やさしさ」が平仮名で書かれていますが、二つの意味を含んでいるのではないでしょうか。ひとつは「優しさ」、そしてもうひとつは「易しさ」です。
あっけなくあきらめることは簡単なこと、つまり「易しさ」かもしれません。また同時にそこには「優しさ」を感じたのではないでしょうか。抵抗、執着、強情といった方向ではなく、受容という言葉がふさわしいような姿に、相手の物事に対する向き合い方の優しさがあったのかもしれません。
そのような姿に、主体も思わず「そんならしやうないなあ」といわずにはいられなかったのでないでしょうか。もちろん、あっさりとあきらめてほしいわけではないでしょう。もう少し粘ってほしいと感じる部分もないとはいえないと思います。しかし、「あつけなく諦めに凭る」潔さみたいなものは感じられるのではないでしょうか。あきらめに至ったその相手の姿を否定することなどできない、そして否定したくない雰囲気がここには現れているのではないでしょうか。
「そんならしやうないなあ」と相手を思いやる主体の向き合い方に惹かれる一首です。
空を突き抜けずに落ちる噴水のあきらめ方はこんなにきれい toron*『イマジナシオン』
この歌は、人のあきらめではなく、噴水のあきらめについて詠った歌です。
噴水は屋外で、特に公園でよく見かけます。ですから、噴水の頭上にはいつも空が広がっています。噴水は、空を突き抜けるつもりで噴き上げているのでしょうか。
空を突き抜けるつもりはないかもしれませんが、できるだけ高く噴き上げることが噴水の使命のようにも感じます。なるべく高い位置まで噴き上げようとしますが、噴き上げれば噴き上げた分だけ、自身が落ちていくことを知っているのでしょう。外側から見ている我々からすると、噴水は落ちるものという前提で見ていますが、噴水もそれを感じているのだと思います。
やがて落ちてくることが前提の噴き上げは、あきらめを前提としての噴き上げであり、だからこそ、「こんなにきれい」として映るのでしょう。
「あきらめ方」を知らないまま噴き上げると、噴水の水しぶきは美しさを失い、秩序なく飛散してしまうかもしれません。そうであるがゆえに、噴水はある時点であきらめるのではないでしょうか。それは、ずっと水を噴き上げることに専念してきたからこそ、決して空を突き抜けることはできないという思いに達したからではないでしょうか。突き抜けられないのであれば、突き抜けられないことを前提として、どう振る舞うのが一番ふさわしいのかを噴水はよくわかっているのでしょう。
人の場合も同じなのかもしれません。あきらめるときがきた場合、どうすることが自分の人生を次に進めていけるのか、輝かせられるのかを、この歌は教えてくれるように感じます。
以上、あきらめを詠った歌を見てきましたが、いかがでしょうか。
あきらめることは、決してネガティブな面ばかりではありません。あきらめることによって、次の展開が開かれていくなど、ポジティブに働くこともきっとあると思います。
どうしようもないときは「しょうがない」といって、現状を受け入れてしまうことも、次へいくためには必要なことかもしれません。
ここで見てきた歌に登場するような人生という大きな存在と比較すると、非常に矮小でつまらない例ですが、以前こういうことがありました。
かなり前ですが、友人二人と一緒に和歌山県に位置する熊野古道の中辺路を歩いたことがあります。最初は順調に歩いていたのですが、この日は天気があまりよくなく、午後に入ってから大雨が降ってきました。それでも雨の中を歩いて何とかその日の目的地まで歩き通したいと考えていました。ところが、この大雨が予想以上の豪雨で、山道に流れ込んでくる水量が一気に増えてきたのです。無理をすればもう少し進めそうでしたが、日没までの時間的なこともあり、三人で相談して、そのまま進むのをあきらめました。歩いてきた道を少し戻って、バス停からバスに乗って目的地の宿に向かいました。
結局、このとき中辺路を歩き通すことをあきらめてしまったわけです。また歩き通すチャンスはいつでもあるし、危険を冒してまで無理に豪雨の中を歩くこともないという判断になったのでした。「しょうがない」といえば、しょうがありません。しかし、バスで移動することによって、結果的には宿に早く着くことができ、宿に泊まっていた別の客と交流をもつことができました。その客は地元のことに詳しくて、その地域の自然や気候について色々と教えてくれて楽しい時間となりました。
このように、歩き通すことは「しょうがない」とあきらめてしまったわけですが、その「しょうがない」が、宿での素敵な時間をもたらしてくれたのだと思います。
どうにもならないときは、その状況を「しょうがない」といって受け入れることも、次なる展開にとっては大切な場合があると思います。「しょうがない」を否定するのではなく、「しょうがない」のいい面をもっと見ることが大切だと思います。
「しょうがない」からつながる展開がきっとあると信じています。



