【短歌×人生】人生を1mmでもよくしたい 【受容⑦】負けて得られる柔軟さ

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【短歌×人生】人生を1mmでもよくしたい 【受容⑦】負けて得られる柔軟さ
tankalife

人生を1mmでもよくしたい」の第36回(「受容」の第7回)です。今回は「負けて得られる柔軟さ」と題して、負けることについて考えていきます。

以前の投稿記事「【短歌×人生】人生を1mmでもよくしたい 【行動⑤】あきらめる瞬間までは失敗ではない」では、あきらめなければ失敗ではないと書いてきましたが、実際のところ、人生すべてがうまくいくことは大変難しいものです。もちろん人生簡単にあきらめる必要はありません。ただ、常に勝ち続けることが難しいことも事実でしょう。

常勝が難しいとなればどうするのかというと、思い切って負けてしまうことです。一回の勝負に固執するのではなく、ときには長い一生でトータルで見てどうかを考えることも大事になってくるでしょう。

直木賞作家として知られる色川武大の著作『うらおもて人生録』に九勝六敗の思考があります。少し長くなりますが、この考え方について見てみたいと思います。

本当に一目おかなければならない相手は、全勝に近い人じゃなくて相撲の成績でいうと、九勝六敗ぐらいの星をいつもあげている人なんだな。

一目置く人物について、大相撲の初日から千秋楽の十五日間の勝負に例えています。大相撲において、九勝六敗ではなく一見全勝の方がいいように思います。全勝優勝などともてはやされることもある中、力士にとって十五戦全勝を夢見ることは何ら不思議ではありません。しかし色川氏は、全勝よりも九勝六敗の人に一目置いているのです。これはいったいどういうことなのでしょうか。

色川氏はギャンブルの専門家であることはよく知られています(阿佐田哲也の筆名で麻雀小説を広く浸透させました)。そんな彼が考えている勝負は短期間の勝負ではなく、一生をかけた長期間の勝負を想定しているのです。同書の別の箇所で述べられていますが、九勝六敗の思考とは「ばくち打ち」の発想なのです。一生を通して九勝六敗くらいがちょうどよいという考え方です。もちろん一生を通して一度も負け知らずであればそれに越したことはありませんが、残念ながら全勝街道まっしぐらという人はおそらくほとんどこの世にはいないでしょう。そして色川氏は次のようにもいっています。

十四勝一敗の選手を、一勝十四敗にすることは、それほどむずかしくないんだ。
ところが、誰とやっても九勝六敗、という選手を、一勝十四敗にすることは、これはもう至難の技だね。

長い目で見たとき、ある意味九勝六敗の選手は安定感があるといえます。十四勝一敗の選手はたまたま調子がよかっただけかもしれませんし、運が味方したのかもしれません。それは不安定な状態ともいえます。

色川氏は安定・不安定に関連して、フォームの大切さを述べています。フォームとはいうなれば、その人自身の基礎となるかたちや軸ですね。これが簡単に揺らいだり、崩れたりするようではいけません。安定したフォームが勝負の上では重要だということです。

これは勝ち星よりも、適当な負け星をひきこむ工夫の方が、肝要で、むずかしいことなんじゃないのかな。

何とも考えさせられる内容です。「負け星をひきこむ」という発想はなかなか生まれにくいものです。何らかの勝負事、いや明確な勝負事でなかったとしても、勝ちたい、負けたくないという気持ちは多くの人がどこかしらもっているものだからです。

全勝ではなくある程度負けることが肝要だということ、それは勝ち続けることへの危険性のようなものを示唆しています。自分の力量を超えて勝ち続けるということは、何かをきっかけに一気に負けに転じる可能性があるということです。つまり反動が大きいのです。

自分自身を見つめ直した場合、どうでしょうか。勝ち続けてきたのでしょうか。周りの人たちはどうでしょうか。そのような人たちはいるでしょうか。私自身、今までの人生を振り返ってみれば波があると思っています。低調な波の方が多いかもしれません。ずっといい波に乗り続けることは難しいのです。つまり勝ち続けるということは非常に難しく稀なことだと思います。

色川氏が述べる一定の負けを受け入れるという思考は、なにもかもうまくいくということはありえないという認識に基づいています。人生すべてがうまくいくのであれば、全勝大いに結構です。ただ人生そううまくはいかないのが実情ですね。ある部分はうまくいくが、ある部分はうまくいかない。それが人生だとすれば、うまくいかない部分をいつどこでどのようなかたちで引き受けるのか。それが重要になってくるのではないかと思います。

何かうまくいかないことがあったとします。うまくいかないことを直ちに取り除かなければならないのでしょうか。「人生、うまくいかないこともあるんだよ」「九勝六敗でいいんだよ」といわれたら、心が軽くなりませんか。私自身は非常に楽な気持ちになります。今うまくいかないことがあるとして、それをこの六敗のうちの一敗だと思えばいいのではないでしょうか。一敗したからといって、まだまだこれから九勝すればいいわけですし、仮にまたうまくいかないことが出てきたとしても、あとまだ五敗してもいいわけです。ものの考え方は不思議ですよね。こう考えれば、少し心が軽くなりませんか。

負けることも決して無駄なことばかりではありません。人生においては、あのとき負けることも必要だったのだなと振り返ることができる場合があると思います。負けたからこそ得られる柔軟さというものもあります。負けた経験のある人の方が、ひと回り強くなって成長しているということもあるでしょう。

負けたからこそ気づくことも多いと思います。ですから、もし負けた場合は、負けは負けとして受け入れて、そこからどう考えていくのかがとても大切なことなのかなと感じます。

それでは、負けることについて詠まれた短歌を見ていきましょう。

負ケ犬ニナルナとばかり教えられ負ける強さを知らずに育ち 大井学『サンクチュアリ』

人生を勝ち負けで語るとき、負けるよりも勝つことが求められる場面は多いでしょうし、一般的には勝つことが素晴らしいものとされているでしょう。しかし、長い人生において、勝ち続けることは並大抵のことではないでしょう。当然浮き沈みもあるでしょうし、勝ったり負けたりという状態の方が自然なのかもしれません。

ここでは「負ケ犬ニナルナ」という言葉が登場しますが、実人生においてもよく耳にする言葉ではないでしょうか。

ビジネスの場面を詠った歌と思われますが、「負ケ犬ニナルナ」はある面では相手を鼓舞する、相手にやる気を出させる言葉として一定の役割をもっているでしょう。

ただ、これまでずっと勝ち続けてきて、一切負けることを知らない場合、その人は本当に強いといえるのかという疑問を、この一首は提示しているといえるのではないでしょうか。

例えば受験において、例えば就職において、相手よりいい大学、いい会社に入れと育てられてきた人も少なからずいるでしょう。

人生、勝ち続けて負け知らずで死ねれば一番いいのかもしれませんが、冒頭でも述べた通り、長い人生そうそう常勝というわけにはいきません。

であれば、どこかで挫折するときがやってくるのです。

そのときに危ないのが、”負けることを知らない”ということでしょう。負けることを知っていれば、挫折したときに、時間がかかっても何とか立ち直ることができるのですが、負けることを知らないと、そこでポッキリと心が折れてしまう可能性が高いのです。

この歌では「負ける強さ」とはっきりと詠っていますが、「負ける」ことは決して弱いことだけでも悪いことだけでもなく「強さ」であるということをいっているのです。

「負ける強さ」は、負けることを受け入れる強さであり、負けることから立ち直る強さであるのでしょう。

「負ケ犬ニナルナ」と教えられたのは、主体自身かもしれませんし、自分の部下かもしれません。いずれにしても負けを知らないことは、このような強さをもっていないことであり、それを危惧しているのではないでしょうか。

勝ちと負けは表裏一体のものであり、この歌は負けることの大切さを教えてくれる一首だと感じます。

「負けたくはないやろ」と言うひとばかりいて負けたさをうまく言えない 虫武一俊『羽虫群』

この歌も、「負け」を否定することで鼓舞する意味合いの言葉を周囲の人たちからいわれた場面でしょう。

「負けたくはないやろ」という人は、負けより勝ちの方が優れているという考えをもっているのでしょう。それはごく自然なことかもしれません。ただ、その考えを誰かにそのまま押しつけようとしたとき、それがまさにこの歌の場面ですが、そこにひずみが生じるような気がします。

主体は別に何かに勝ちたいという思いがそれほどあるわけではないのでしょう。「負けたさ」をいいたいくらいですから、勝ちたいよりもむしろ負けたいのだと思います。

「負けたくはないやろ」といわれれば、「はい、負けたくないです」ではなく、「いや~、別にそんなに勝ちたいわけでは…。どちらかというと、負けたいというか…」といった感じではないでしょうか。実際声に出したかどうかはわかりませんが、「うまく言えない」ですから、ひょっとすると表面上はごまかして、心の中だけで「負けたさ」を唱えていた状況かもしれません。

とにかく、「負けたさ」をうまくいえずにいるのです。「負けたくはないやろ」といった相手も、まさか「負けたさ」をアピールされるとは思いもよらないでしょう。このような相手には「負けたさ」を伝えるよりも、「勝ちたさ」をいう方がよほど簡単なのではないでしょうか。

「勝ちたい」よりも「負けたい」が優先される考え方があってもいいと思いますが、それを伝えるのはなかなか難しそうに感じます。そのもどかしさがよく現れているのではないでしょうか。

さくらさくら つよくなりたいほんとうはつよくなくてもいいとしりたい 塚田千束『アスパラと潮騒』

季節は春でしょう。満開の「さくら」を見上げているところでしょうか。

「つよくなりたい」と思うのはなぜでしょうか。強くなるメリットは何でしょうか。強くなれば、勝負や競争に勝てるからでしょうか。誰かを打ち負かすことができるからでしょうか。自分自身を成長させることができるからでしょうか。

「つよくなりたい」という気持ちはよくわかります。強くなれば、何か現状を打開できるのではないかという気がするのです。現状よりステップアップするために、強くなりたいと思うのではないでしょうか。でも、強くなることが本当に自分にとっていいことなのかどうかという疑いを主体は抱いているのだと思います。

「つよくなくてもいいとしりたい」がその現れでしょう。主体は、これまで強くなるために色々と無理しながら取り組んで生きてきたのかもしれません。でも、心の奥底では違和感があったのだと思います。「つよくなりたい」という気持ちは嘘ではないけれど、本当に自分が求めていることなのだろうか、と。本当に望んでいるのは強くなることではなくて、「つよくなくてもいい」と感じられることなのではないか、と。

強さは誰のためのものでしょうか。自分のためのものでしょうか。それとも周囲へのバリア、あるいはアピールのためのものでしょうか。そのようなことを考え出すと、自分にとって本当に必要なものは強さだったのかどうかという疑問が改めて浮かび上がってくるような気がしないでしょうか。

「さくら」は強いのでしょうか。それとも弱い存在なのでしょうか。「さくら」自身、「つよくなくてもいい」と思って咲いているのではないでしょうか。

本当は「さくら」のように、やわらかな存在として生きていきたいのではないでしょうか。強さだけがすべてではないことを、心の底から迷いなく感じる自分になりたいのかもしれません。

強さは勝負事と無関係ではないと思いますが、強いだけがすべてではなく、勝つことだけがすべてでもなく、負けることが否定されるべきものでもないことを、この歌は伝えてくれているように感じます。

敗北はかくも静かであることのほの灯りして窓の辺の雨 藪内亮輔『海蛇と珊瑚』

「敗北」に焦点が当たった歌です。

当たり前のことですが、「敗北」がどういうものであるかを感じることができるのは、敗北した者だけでしょう。敗北したことがない者は、敗北を想像することしかできないのです。

この歌では「敗北はかくも静かであること」と詠われています。つまり、主体は敗北を経験したのです。そして、「敗北はかくも静かであること」を身をもって感じているのです。ここには敗北した後の穏やかさが感じられるのではないでしょうか。

敗北の後は、負けて悔しいとか、怒りが湧いてくるといった状況ではなかったのでしょう。勝負が決するまでは、絶対負けたくない、負けるなんて考えられない、負けたら後悔するだろうなどとさまざまな思いがあったのかもしれません。しかし、実際負けてみると、敗北はとても静かに感じられたのです。

窓辺で雨が降っている様子を眺めているのだと思いますが、その雨さえも、敗北を否定するような降り方はしていないのでしょう。むしろ主体の敗北を包み込むようなやさしさをもって降っているのではないでしょうか。

一般的に「敗北」はつらく残念なイメージをもって見られがちですが、ここでは必ずしもそうではないのです。「ほの灯りして」が、敗北を闇に隠してしまわずに、わずかな希望をもって迎え入れているような、そんな印象を受けるのです。

敗北を見つめる主体の静かな姿が立ち上がってくるのではないでしょうか。

負け方を知らない人の隣にて言葉に色を失ってゆく 永田淳『光の鱗』

「負け方を知らない人」は、これまで一度も負けたことがない人なのかもしれません。

ただ「負け方を知らない人」は、特に親しい間柄の人という感じではなさそうです。好き嫌いに関わらず、偶々隣に位置しないといけないような状況があって、その人の隣にいる場面を想像します。そう考えると、一度も負けたことがない人というよりも、勝負事となると何が何でも相手を打ち負かしてやろうと手段を選ばず行動する人なのかもしれません。

「言葉に色を失ってゆく」とあるので、それほど「負け方を知らない人」の振る舞いに対して、驚き、またショックを受けたのかもしれません。詳細な事情は詠われていないのでわかりませんが、「この人、負け方を知らないなあ」と感じたということでしょう。ちなみに、主体自身は「負け方」を知っているのでしょう。

いい合いでもあったのかもしれません。自分が負けるということは、相手に勝ちを譲るということでもあります。勝負や意見の交わし合いにおいて、何が何でも相手に勝つことが正解とは限らないと思います。その勝負事において、どうなることが、その場において最も最適なのかを考えることも大事なことなのではないでしょうか。

負けということを完全否定するのではなく、負けは負けでよさがあることを一旦受け入れてみるのはどうでしょう。そうすると、勝つだけがすべてではないことが見えてくるのではないでしょうか。

負け方の作法を確認して立ちぬ 雲――それならばいいといいたり 吉野裕之『ざわめく卵』

※正式には、吉野裕之の「吉」は上の横棒が短い漢字です。

こちらも「負け方」の歌です。

負け方にも「作法」があるのですね。勝ち負けと聞くと、どうしても勝ったか負けたかだけに焦点が当たってしまいますが、実際はどのように勝ったのか、どのように負けたのかも重要なことなのだと思います。

武道では、勝敗が決した後も互いの健闘を称えているシーンをよく見ますが、勝者も過度にはしゃぎ過ぎず、礼儀をわきまえて振る舞う様子が印象的です。

勝ち方にも作法があれば、この歌のように負け方にも作法があるのではないでしょうか。

何かに対して、主体は負けたのでしょう。誰かとの勝負かもしれませんし、自分自身との勝負だったのかもしれません。そして、立ち上がりました。そのときの空には雲が存在していたのです。その雲に主体は向き合ったのでしょう。雲はいいました。「それならばいい」と。

負けたということを過剰に卑下する必要はありません。長い人生、勝つこともあれば負けることもあります。大切なのは、負けを負けとして受け入れることなのではないかと思います。そのときに、「負け方の作法」があることを意識することが、負けをひとつの貴重な経験として位置づけるために必要なステップなのではないでしょうか。

以上、負けを感じさせる歌を見てきました。

私の考えとして、負けることは決してマイナスの面ばかりではないということです。

これまでの自分の人生を振り返ったとき、私は結構、人生の早い段階で負けの経験をしたと感じています。

中学二年生のとき人前で話せなくなったことは、すでに別の投稿記事で何度も書いた通りですが、自分にとってのこの挫折は、人生の早い段階で起こったと思います。あのときは、「なぜ自分がこんな目に…」という思いでしたが、今振り返ると、早い段階である意味「負けた」ことはむしろよかったのだと思います。

常勝軍団という言葉がありますが、勝ち続けることのリスクは冒頭で触れたように色川武大氏がいっている通りだと思います。負けから学ぶことはきっとあるでしょう。負けたから見えてくる世界があります。自分もあのとき負けていなかったら、きっと今の自分はいないと思います。あのとき負けていなかったら、青年海外協力隊にも参加しなかったでしょうし、その後の職場に勤めることもなかったでしょうし、今の妻と出会うこともなかったでしょうし、子どもと過ごすこともなかったかもしれません。そう考えると、あのとき負けたことは単なる敗北ではなく、今の自分から見ればむしろ勝利だったのではないかとすら感じることがあります。負けに見えることもすべては、今の自分につながっているのです。

いわゆる失敗や間違い、後退や落胆した経験を振り返ると、自分の旅にそれらが必要だったことに気がつくでしょう。(レイン・ビーチリー)

(ロンダ・バーン『ヒーロー』)

この言葉は、まさに負けを経験した自分の人生を肯定してくれているように感じます。負けたからこそ、気づくことがきっとあると思います。

負けて得られるものがあると信じられれば、負けに対する考え方も少し変わってくるのではないでしょうか。

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