tankalife「人生を1mmでもよくしたい」の第29回(「関係」の第8回)です。今回は「孤立を避けて、孤独を楽しむ」と題して、孤立と孤独の違いについて見ていきます。
人生がつらいと感じたり、人生投げ出してしまいたいと思う原因のひとつとして、しがらみや人間関係の占める割合は大きいのではないでしょうか。
仕事、家庭、地域、組織……。あらゆるものに関係は付きまといます。もし今のこの環境をいったんクリアできれば、どんなに楽になるだろうかと考えたことがあるのではないでしょうか。あるいは、関係をまったくゼロにはできなくても、その一部だけでも緩和することができれば、今よりずっと生きやすくなるのではないか、と。
ここで見ていきたい視点は「孤独」です。孤独とはネガティブな印象で語られる言葉ではありますが、孤独は本当に悲観的で避けるべきものなのでしょうか。
心理学者である諸富祥彦はその著書『孤独であるためのレッスン』で次のように述べています。
孤独は、決して、避けるべき否定的なものなどではない。
孤独は、現代をタフに、しなやかに、かつクリエイティブに生きていくために不可欠の“積極的な能力”である。(諸富祥彦『孤独であるためのレッスン』)
孤独は否定的なものではないといい、それどころかむしろ積極的に「孤独」になることを勧めています。「孤独」の定義はさまざまあるでしょうが、ここでいう「孤独」は一般的に思われているようなひとりでいる寂しいものとは異なります。どちらかといえば、寂しいというよりも好意的な状況として捉えていいでしょう。「孤独」は「孤立」とは違います。そして諸富氏は、孤独は「積極的な能力」とまでいっています。
孤独とはどういう状態を指すのかもう少し見てみましょう。作家の辻仁成のエッセイ集『ガラスの天井』に、そのあたりを的確に説明した箇所があります。
孤独とは、自分と戯れることである。自分と遊ぶことであり、また、自分と対話することでもある。自分を発見する場でもあり、自分をなぐさめる行為でもある。自分を強くしたい人は、まず孤独になるべきであり、自分をやさしくさせたい人は、孤独の中に浸ってみるべきだろう。孤独こそは、自分という不可解な存在への最初の入口なのである。
孤独を知っている人は、他人の中へ入っても、自分をなくすことはなく、相手をまた認めることもできる。逆に孤独を怖れる人は、必要以上に他人を求めてしまい、自らのアイデンティティを喪失してしまいがちだ。或いは孤独を孤立と勘ちがいしがちな人もいる。しかし、孤独と孤立ではまるで意味が違ってしまう。孤立してしまったら死ぬしか道はない。
(辻仁成『ガラスの天井』)
人は孤立したら生きていくことは難しいが、孤独と孤立とは別であり、孤独は現代を生き抜くための真のパートナーだと述べています。ひとりでいることが寂しく、いつも誰かと一緒にいなければ駄目だという人もいるでしょう。でもそういう人は、人生をあまり悲観的に考えなくてもいいのかもしれません。誰かと一緒にいられるという状況は、孤立していないといえるでしょう。いや、誰かと一緒にいるにしても、人生どこか寂しく感じてしまうし、悲観的に考えてしまうことがあるんだという人は、いったん孤独を受け入れてみませんか。孤独と向き合ってみるのはどうでしょうか。孤独な時間をもつこと、ひとりでいることは否定的なことではなく、肯定的なことだと視点を変えてみましょう。もちろん孤立ではなく、孤独です。充実した孤独というものがあるのです。そこから展開していく視界があるかもしれません。
積極的に孤独になりたいとはいっても、日々の仕事は忙しいし、家庭もある。ひとりになる時間など取れる暇がないという人はどうすればいいのでしょうか。例えば、飲み会の誘いがあったとき、その誘いを断って、飲み会にいくはずだった時間をカフェでひとりゆっくり自分と向き合う時間に充ててみるのはどうでしょうか。あるいは、朝三十分早く家を出て、公園のベンチに腰掛けながら、ひとりの時間に浸るのはどうでしょう。いや、三十分でなくとも毎日五分、十分でいいのかもしれません。少しでも自分と向き合う時間をつくるという意識が、孤独になる能力を伸ばしていってくれるのでしょう。反対に、孤独になろうと意識しなければ、充実した孤独をもつことは難しいかもしれません。
充実した孤独に浸ることは、きっと今の自分の環境や境遇を見つめ直す絶好の機会となるはずです。
さて、孤立と孤独の違いを見てきたところで、孤独を詠った短歌が多くありますので、順に読んでいき、さらに孤独について考えてみたいと思います。
「孤独を素直に見つめる歌」「孤独を肯定する歌」「孤立と孤独の違いを感じる歌」の大きく三つに分けて見ていきます。
孤独を素直に見つめる歌
まずは、孤独を素直に見つめる歌です。極端な肯定も否定もなく、見つめる態度が正直に表れたような歌々です。
夕焼けをおつまみにして飲むビール一篇の詩となれこの孤独 萩原慎一郎『滑走路』
夕焼けの見える場所でビールを飲んでいる場面でしょう。部屋の中から窓の外を見ているのかもしれませんし、ベランダで飲んでいるのかもしれません。あるいは、もっと夕焼けを全身に浴びるのであれば、河原など視界のひらけたところが最適でしょう。いずれにしても、主体の視界には夕焼けが広がっています。
しかし、このビールは、みんなでワイワイと飲むビールではありません。騒がしい居酒屋で飲むのとも違います。そこに「この孤独」が表現されています。
人は時折、物理的にも精神的にもひとりになりたいと思うときがありますが、この日、主体は自ら進んで「孤独」を選んだのでしょうか。「この孤独」を全面肯定しているわけではないけれども、決して全面否定しているわけでもないと感じます。肯定的な要素と否定的な要素が入り交じった思いで「この孤独」と向き合っているのだと思います。ただ、「この孤独」に対して、確かな愛着を感じるのです。それは「一篇の詩となれ」という力強い言葉によって伝わってくるのではないでしょうか。
「夕焼け」は友ではありません。夕焼けを友とすると「この孤独」がなくなってしまうからでしょう。ですから、「夕焼け」は「おつまみ」なのです。夕焼けがおつまみとは、これ以上ない最高のおつまみではないでしょうか。
「孤独」だからこそ味わえる、このときの「夕焼け」。この瞬間は「一篇の詩」として、きっと主体の心に深く刻まれているのではないでしょうか。
檜の山の奥へ奥へとのぼりつつわれへわれへと刺し込む孤独 小島ゆかり『憂春』
山を登る行為は、自分と向き合う行為そのものだと思います。登るときには自分の足を一歩一歩踏み出すしかなく、誰かが担いで運んでくれるわけではありません。たとえ、誰かと一緒に登っていたとしても、最終的には自分がどのようなペースで進むのか、これ以上いくのかここで止めるのかの判断をしながら、登っていくことになるでしょう。
したがって、登っていくほどにだんだんと自分と向き合い、自分を見つめる時間が増えていくのです。それは、登ることが体力的、精神的につらいということもありますが、山の奥深くに入っていくことによる、日常から隔離された経験や時間の中に身を置くということも多分に影響しているでしょう。
この歌も「檜の山の奥へ奥へ」登っていき、登るほどに「われへわれへと」孤独が刺し込んできたと詠われています。「われへわれへと刺し込む孤独」という表現が独特ですが、体の表面から徐々に体の内部へと孤独が沁みわたっていくような感じを受けます。それは「檜の山」の奥深さがもたらした孤独なのでしょうが、自ら孤独を生み出したのではなく、山という外部から孤独が照射され導き出された、そんな印象を受けるのです。
「刺し込む」が「差し込む」や「射しこむ」ではなく、「刺」の字が使われているところに、非常に鋭さを感じ、孤独がえぐられて炙り出されたようなイメージも浮かんできて、印象深い一首となっています。
豆乳を飲みつつ豆腐のどこまでも白い孤独を考えてみる 小島なお『乱反射』
ここで焦点が当たっているのは、人間の孤独ではなく、豆腐の孤独です。
豆腐の孤独を考えるうえで、まず登場するのが「豆乳」です。牛乳ではなく「豆乳」が出てきて、その後に「豆腐」が登場します。
豆乳を飲みながら、「豆腐のどこまでも白い孤独」に思いを寄せている場面です。豆腐を食べながら豆腐の白い孤独を考えるのではなく、豆乳を飲みながら豆腐を思い浮かべているところに面白さが現れているでしょう。
豆腐の白い孤独を考えてみる時間を通して、主体は一体どんな考えに至ったのでしょうか。豆腐の孤独を考えるというのは、どこかしら自分自身にも同じように孤独を感じる瞬間があるからではないでしょうか。
自分は孤独を感じているけれど、果たして豆腐も同じように孤独なのだろうか。「どこまでも白い」がゆえに、豆腐は一層孤独ではないのだろうか。豆腐の孤独と、自分自身の孤独は同じなのだろうか。それとも違うのだろうか…。
ここに、孤独のいい悪いは詠われていません。孤独そのものを素直に見つめる目が感じられます。そしてまた、孤独に対するわからなさも滲み出ているように思います。それほど、孤独は深いもので、簡単に片づけられるものではないのかもしれません。だからこそ、主体は自分自身の孤独だけでなく、豆腐の孤独に思いを馳せたのではないでしょうか。
一人分の紅茶は一人分の香り かきまぜながら私は生きる 中沢直人『極圏の光』
「一人分の紅茶は一人分の香り」とありますが、当たり前といえば当たり前の状況です。一人分の紅茶から漂うのは、半人分の香りでもないでしょうし、ましてや二人分の香りでもないでしょう。やはり一人分の紅茶からは一人分の香りが感じられるものだと思います。
ここでいいたいのは、そのような当たり前か否かの話ではありません。一人分の紅茶を淹れているという状況が主眼なのです。つまり、二人分を淹れるわけでも、三人分を淹れるわけでもありません。一人分を淹れるということは、今この場に必要な紅茶が一人分であるということです。いいかえれば、この場にひとりでいるということでしょう。
下句の「かきまぜながら私は生きる」に、自分を客観的に見つめる目を感じます。一人分の紅茶を淹れる状況を、ただ受け入れているような感じでしょうか。ここに孤独を感じるのです。決してそれが、かなしいわけでもなく、反対にとびきりうれしいわけでもないのだと思います。どこか坦々と日々を過ごすイメージが浮かぶのです。
このような状況に起こり得るいいことも悪いこともすべて含めて、つまりすべてかきまぜて、私は生きていくのだという意思が感じられます。
小雨降る山道をひとり歩きたし満席のネットカフェの静けさ 中沢直人『極圏の光』
もう一首、同じ作者の歌です。こちらには、「満席のネットカフェ」が登場します。
通常ネットカフェへは、ひとりでいくことが多いのではないでしょうか。基本的にはひとり一ブースであり、ネットカフェへいく目的は、ひとりで作業をしたい、ネットサーフィンをしたい、マンガを読みたいなどでしょう。また終電を逃してしまって、とりあえず朝の始発までネットカフェで過ごすケースもあるでしょう。
もちろん、ペアシートもあるのでカップルで訪れる場合もあるとは思います。一緒にDVD鑑賞をすることもできます。ただ、ネットカフェは騒げる場所ではないので、元々誰かと一緒にいくには不向きな場所だと思います。したがって、ネットカフェは基本ひとりで訪れる人が多く、客同士は互いに面識のない人たちであり、そんな人たちが集まっている場所といえるでしょう。
主体は、そんな満席のネットカフェにいるときの静けさをひしひしと感じています。そして、その静けさ、その空間にどこかしら居心地の悪さを感じたのではないでしょうか。その場から逃げ出したいと思ったのかもしれません。ネットカフェという人が集合する空間ですら、互いの交流はないわけですから、ひとりでいるのと同じではないでしょうか。
どうせひとりでいるなら、ネットカフェの中ではなく、「小雨降る山道」にいる方が断然ましだと感じたのでしょう。単に山道を歩きたいだけではありません。小雨が降っていても山道を歩きたいのです。いや、小雨が降っているくらいの山道を歩きたいのかもしれません。どしゃ降りの山道は、体にも心にも堪えます。でも、小雨程度なら風情が出て、ひとりで歩くにはとてもいいと感じたのかもしれません。
主体は、好んで「小雨降る山道」をひとりで歩きたいのでしょうか。ネットカフェの静寂と比較した場合、小雨降る山道が魅力的に映ったのかもしれません。とにかく、ネットカフェにひとりでいる孤独と、小雨降る山道にひとりでいる孤独とは別物だと考えているのだと思います。
孤独は孤独でも、どこにいるかというのは、孤独に少なからず影響を与えるものかもしれません。周囲の状況によって、孤独は快適にも不快にもなり得る可能性を秘めていると思わせてくれる一首です。
ひとりなり。一夏の読点として階段にひいやりと座れば 駒田晶子『銀河の水』
「ひとり」を最も感じるときは、どんなときでしょうか。
掲出歌は初句でいきなり「ひとりなり。」と句点で締められたところから始まります。主体は一人を感じているのですが、それは「階段にひいやりと座れば」という状況において、一人をひしひしと感じているのでしょう。
「ひいやり」とあり、階段の冷たさが臀部に伝わっているのでしょうか。臀部の冷たさに意識が向くということは、そのときに、臀部の冷たさ以外に意識を向けるもの、あるいは意識を向ける誰かが、その場にはいなかったのだと思います。
階段に座ったときに、自分の意識がどこに向くのか、それが階段の「ひいやり」であったというところに、一人に寂しさのようなものが滲み出ているのではないでしょうか。
「一夏の読点として」という表現が、やや着飾った言葉のようにも感じられますが、工夫の凝らされた表現であり、この歌において欠かせない一部分となっているのでしょう。夏という時間的にも空間的にも大きな存在を示し、自分をその中の「読点」であると詠うことで、その対比によってより一層「ひとりなり。」が活きてくる、そんな印象を覚えます。
さて、「ひとりなり。」の「ひとり」は孤独を指しているのでしょうか、それとも孤立を指しているのでしょうか。
何度も述べていますが、孤独と孤立は違うものだと思います。孤独は心の内に抱えているものであり、生きていく上で孤独が必要な場合もあります。誰かと一緒にいても、孤独を抱えているという状況はあるでしょう。
しかし、孤立はとても苦しいものだと思います。孤立は心の状況ではなく、外的な状況において一人になってしまっていることだからです。
この歌の「ひとりなり。」には、孤立のような悲愴な印象はあまり感じられません。それは「ひとりなり。」という表現が、捉え方によってはきっぱりとした物言いのように感じられるからではないでしょうか。夏との対比で自分を見つめる余裕のある点も、影響していると思います。
主体は、「ひとりなり。」を心の底から、残念がっているようには思えません。むしろ、「ひとりなり。」によって、どこか清々しい気持ちにさえなっているのかもしれません。
孤独を肯定する歌
続いて、孤独を肯定的に捉えている歌を見ていきたいと思います。
一人なら一人のほうがよいことを貪るようにさくらよさくら 谷村はるか『ドームの骨の隙間の空に』
「一人なら一人のほうがよい」は、強がりでしょうか。本当は誰かと一緒にいることを望んでいるのでしょうか。
「貪るようにさくらよさくら」は、桜がこれでもかというほどに咲き誇っている様子を表している感じがします。次から次に桜の花びらが開き、尽きることのない花の鮮やかさがそこには充ちているのでしょう。
この桜の状況から、「一人なら一人のほうがよいこと」は振り切った後の心の本音なのではないかと思うのです。当初は、強がりや迷い、誰かが傍にいてほしいといった思いもあったのかもしれません。しかし、「貪るようにさくらよさくら」を見ていると、そのような思いはもう遠くへ消えていってしまったのではないでしょうか。吹っ切れたというのが正直なところかもしれません。そうなると「一人なら一人のほうがよい」は心底、そう思えているのだと感じます。
桜が咲き充ちている様子は、主体が「一人のほうがよい」と感じていることと呼応するでしょう。「一人のほうがよい」は「孤独」を愛することと同義ではないでしょうか。何も孤立しようというわけではありません。自分を見つめる時間を愛するということです。咲き充ちる桜は、そんな主体の姿を頭上から照らし続け、やさしく見守っているのでしょう。
側溝にたまる紅葉を雨は打ちあかるかりけりひとりというは 中津昌子『むかれなかった林檎のために』
落葉の季節になると、側溝に落葉が溜まっている光景をよく見かけます。側溝に溜まる落葉は、状況としてそれほど美しいものではないでしょう。土や砂にまみれて葉はもう汚れていますし、側溝という場所がそもそも薄暗い雰囲気を纏った空間でしょう。
しかし、ここでは雨に打たれた「側溝にたまる紅葉」の景と、「ひとり」の明るさとが結びつけられています。「あかるかりけり」は上句にも、「ひとりというは」にも両方にかかっているのでしょう。側溝の紅葉は雨の滴を伴って明るく感じられたのでしょう。そして、自分を振り返ってみれば「ひとり」の状況もとても清々しく明るさに充ちた状況に感じられたのでしょう。
「ひとり」というのは、決して華やかな部分だけではありません。「側溝」を持ち出しているあたりにその認識が窺えます。これが城や王宮では非の打ちどころがなく、「ひとり」の陰影が現れないのでしょう。「側溝」であるところに「ひとり」の明るさと暗さをないまぜにしたような雰囲気が滲み出ていると思います。
そんな側溝の紅葉ですが、それでもやはりそこに明るさはあるのです。「あかるかりけり」に、「ひとり」を肯定している姿が感じられるのではないでしょうか。
ひとりとは自由の謂だバーガーの包み紙ふかく顔をうづめて 山木礼子『太陽の横』
「謂」とは「○○の意味」ということなので、「ひとり」とは「自由」そのものであることをはっきりと詠っています。
ハンバーガーを食べている場面でしょうか。ひとりでハンバーガーを食べる状況が普段あまりないのかもしれません。ですから余計に、ひとりでハンバーガーを食べる状況が本当に「自由」に感じられるのではないでしょうか。
ハンバーガーを家族や友人と一緒に食べてももちろんおいしいでしょう。でも、ひとりでゆっくりと、自分のペースで、周りを気にすることなく、自分の世界に浸りきって頰張るハンバーガーは、それはそれは至福のひとときではないでしょうか。
「包み紙ふかく顔をうづめて」に、自由に浸りきっている主体の姿が現れていると感じます。「自由」と「孤独」は意味合いは少し異なると思います。しかし、ここでは「ひとり」になることが、自由そのものであり、その自由はやはり孤独に浸ることなのだと感じます。孤独に浸ってこその、このハンバーガーの至福が訪れているのだと思うのです。ですから「ひとり」である「自由」のひとときを肯定しているのです。こういう時間はとても大切なものでしょう。行き詰まる日常において、自らに浸りきる時間をもてるかどうか。こういうひとときをもつことが、生き続けていくことを支えてくれるのだと思います。
日曜のひとりぼっちは思いのほか幸せなんだ 歯磨きはしない カン・ハンナ『まだまだです』
「日曜のひとりぼっち」はさびしいのでしょうか、それともうれしいのでしょうか。「思いのほか幸せなんだ」は強がりでしょうか、それとも本心でしょうか。
日曜ということは、おそらく学校も仕事もなく休みの日ということでしょう。
ひとりでいることが好きな人は、日曜のひとりぼっちは全然さびしくもないし、むしろうれしいくらいでしょう。一方、大勢といることが好きな人、誰かと一緒にいないと不安になる人にとって、日曜のひとりぼっちは結構つらいものかもしれません。
この歌では、どちらか一方に極端に寄っているというよりも、もう少し複雑な気持ちなのかもしれません。誰かといたい気持ちはあるけれども、この日は一緒にいる相手もいないし、ひとりで過ごしていると、思っていたよりも楽で落ち着いて、幸せが感じられるという状況なのではないでしょうか。そうはいっても、日曜のひとりぼっちを心の底から全肯定しているわけではなく、思いのほか幸せとは思いつつも、やはり心の片隅では、ひとりぼっちでいることへ全信頼をおけない自分がいることも感じているのだと思います。「思いのほか」という表現が、そのような微妙な感情をうまく表しているように思います。しかし、やや肯定的寄りだとは感じます。
面白いのは結句で、「歯磨きはしない」といい切っていることでしょう。ひとりだから、誰かと会う必要もないから、歯磨きしないのですが、このようにはっきりといわれることで、主体の人間味のようなものが垣間見える気がします。
それはぐうたらであるとか、だらしないとか、そういうことではなく、歯磨きをしないことが、幸せにつながるひとつの事象として、生々と表れているのだと感じます。
歯磨きをしないことを幸せにつなげようとする強がりであるとも読めなくはないですが、それよりも、歯磨きをしなくていいというひとりぼっちを肯定的に捉えている方向性の方が強いのではないかと思い、素直に受け取りたいと思います。
ともだちが少ないことの明るさが見えるかいわたしのどまんなか 初谷むい『わたしの嫌いな桃源郷』
「ともだちが少ないことの明るさ」に、孤独を感じる一首です。
「ともだち」から思い出しましたが、童謡「一年生になったら」の歌詞に次の一節があります。
いちねんせいに なったら
いちねんせいに なったら
ともだちひゃくにん できるかな
よく知られた一節で、私も小さい頃にこの歌詞から、友達は多くできた方がいいんだと思い込んでいました。また友達がたくさんいるクラスメイトをうらやましく感じたこともあります。あんな風に誰とでも仲良く打ち解けることができたらなあと感じたものです。
でも、歳を重ねるごとに、友達の本当の価値は、数ではなく質なのではないかと思うようになりました。いくら友達が多かったとしても上辺だけの付き合いであれば中身が薄いものになりますし、反対に数は少なくても仲がよく濃い付き合いができれば、中身も充実したものになるでしょう。そもそも、上辺の付き合いだけの人を友達と呼ぶのかどうかの問題もあるでしょう。
さて、この歌では「ともだちが少ないことの明るさが見えるかい」と詠い出され、「わたしのどまんなか」で締められています。
「ともだちが少ない」なので、友達がゼロではありません。その意味では、孤立しているわけではありません。むしろ「ともだちが少ないこと」を誇っているようにすら思えます。それは「明るさ」という表現からくるのでしょう。
また「わたしのどまんなか」ですから、「ともだちが少ないこと」は自分自身の求めるところそのものなのだと思われます。主体は、決して友達が多いことをよしとしているわけではありません。それどころか少ないことに価値を見いだしているのです。
「ともだちが少ないこと」と孤独が直接的に結びつくわけではありませんが、この歌からどこか孤独を肯定している雰囲気を感じるのです。それは友達が少ないことをよしとする思いが、孤独を肯定する思いと近いからかもしれません。友達が少ない方が孤独に浸る時間が増えると思います。ですから、この歌から孤独を肯定する思いが現れているようであり、「孤独」という語はひとつも使われていませんが、まさに孤独を見つめている歌ではないかと感じます。
宮崎の熱きスピリット〈百年の孤独〉を飲みて孤独たのしむ 高野公彦『天泣』
〈百年の孤独〉は宮崎県の麦焼酎の名前です。主体はこの焼酎を飲んだのでしょう。そして、堪能したのだと思います。
「孤独たのしむ」は、〈百年の孤独〉を存分に味わい楽しんだという意味はもちろん、いわゆる孤独を楽しんだという意味も含んでいます。
その場で誰かと一緒に飲んでいたのかもしれません。あるいは、周りには誰もおらず、ひとりで飲んでいたのかもしれません。いずれの状況であっても、主体は「孤独」を感じていて、そしてその孤独を充分楽しんでいたのだと思います。
〈百年の孤独〉が好きなのはもちろん、孤独そのものが好きなのかもしれません。誰かがいるいないは関係なく、自分の奥底に向き合う時間こそを愛しているのではないでしょうか。そして、そのときにアルコールがあれば尚更でしょう。アルコールを飲みながら、孤独と向かい合う時間は、まさに「孤独たのしむ」なのです。
孤独を嫌う人がいますが、「たのしむ」域にまで達することができれば、孤独ほど素敵なものはないのかもしれません。単なる肯定に留まらず、「たのしむ」ことができる。そんな素敵な境地になってみたいと思わせてくれる一首です。
孤立と孤独の違いを感じる歌
冒頭で孤立と孤独の違いについて触れましたが、ここで孤立と孤独の違いを感じる歌を見ていきたいと思います。
一人と独りの違いについて考えるひとりで窓の外みてるとき 岡本真帆『あかるい花束』
ひとりを漢字で表すとき、「一人」と表現する場合と「独り」と表現する場合の二通りあるでしょう。どちらで表記するかによって、随分と印象が変わります。
この歌は「一人」と「独り」の違いを考えている場面を詠っています。
「ひとりで窓の外をみてるとき」とある通り、部屋の中から窓の外を見ているのですが、自分ひとりがそこにいるだけで、傍には誰もいません。
果たして、今ひとりで窓の外を見ている状況は「一人」なのでしょうか。それとも「独り」なのでしょうか。
「一人」には、単純にその場にいるのがひとりであるという意味合いが強いと思います。つまり、複数人ではないことを示す意味としての「一人」です。
一方、「独り」はその表記からもわかるように「孤独」に近いイメージを思い浮かべます。「一人」と同じで、傍に誰もいない状況を想像するのが普通でしょうが、必ずしも周りに誰もいないかというとそうでもありません。例えば、仲間数人で集まっている場があるとして、その場で「独り」を感じることもあるのではないでしょうか。
そう考えると「一人」は状況を表すひとりであり、「独り」は内面において孤独か否かを表すひとりと考えることもできるでしょう。
主体がどのように考えているのかは断定はできません。また「一人」と「独り」の違いは、漢字の字面から感じる影響は人それぞれでしょうが、私はこのように捉えたいと思います。
ちなみに、孤立しているかどうかは、「一人」と「独り」のどちらにも当てはまりそうに思います。客観的な状況で孤立していて「一人」でもあり、内面も「孤独」ではなく「孤立」であるということも考えられると思います。
もちろん、短歌によって歌人によって表記はさまざまで、どのように捉えているかはその歌人、その歌によって色々でしょう。あれこれと想像し出すと深みにはまりそうですが、「一人」と「独り」の違いについて、改めて考えてみるのも面白いのではないでしょうか。
ひとりじゃない、でもひとりだよ新緑が全速力で走ってる 北山あさひ『ヒューマン・ライツ』
「ひとりじゃない」の「ひとり」は「孤立」を、そして「でもひとりだよ」の「ひとり」は「孤独」を表していると捉えるとイメージしやすいのではないかと思います。
「ひとりじゃない」から、自分は孤立してはいないことをいっているのだと思います。知り合いがいて、まったくのひとりで生きているわけではないのでしょう。しかし、孤独としてのひとりはもっているのだと思います。それが「でもひとりだよ」に表れています。
孤立してはいないけれど、孤独はいつも抱えているのです。「でもひとりだよ」のいいぶりに若干のさびしさが漂っているでしょうか。ただ「新緑が全速力で走ってる」には、プラス方向の視線と明るさが感じられはしないでしょうか。これから夏に向けて輝こうとする「新緑」の登場、そして「全速力」のスピード感と力の入れ具合が、「ひとりだよ」とはいいながらも、決して「ひとり」を否定していない主体の思いを感じさせてくれるようです。
「ひとり」すなわち「孤独」は、新緑と全速力によって輝いていると思います。
妻の来ない場所がわたしのなかにある真つ暗で明るくて静かな 荻原裕幸『永遠よりも少し短い日常』
「妻」と一緒にいるから、孤立ではありません。しかし、主体はもっているのです。「妻の来ない場所」を。
「妻の来ない場所」がどこにあるのかというと「わたしのなかにある」のです。その場所は「真つ暗で明るくて静かな」場所なのです。主体は、この場所を気に入っているのではないでしょうか。
「真つ暗」はともすると否定的で避けたい場所のように思いますが、ときには真っ暗な場所も悪くはありません。そして同時にその場所は明るいのです。タイミングによって、暗くなったり明るくなったりするのでしょうか。明暗が交互に入れ替わるというよりも、明暗が同時に存在しているような感じがします。さらに「静かな」場所であり、この静かさが心を落ち着けてくれるのではないでしょうか。
「わたしのなかにある」この場所を、あえていいかえるならば「孤独」そのものなのではないかと思います。ここには「妻」もくることはできません。いくら招いたとしても、くることができない場所なのです。「来ない」は妻の意思によってこないともいえますが、くることができないという意味合いが強いでしょう。
この場所は、案外主体のお気に入りなのではないでしょうか。遠出をしなくても、どこかへ逃げなくても、思い立ったらすぐいくことができる場所。なぜなら「わたしのなかにある」からです。こんなに身近で安心できる場所が他にあるでしょうか。
繰り返しになりますが、孤立と孤独は違うと思います。「妻」といくら一緒にいたとしても、人には孤独の場所が必要なのではないでしょうか。
わたしたちみんなひとりを生きてゆく 横一列で焼き鳥食めば 上坂あゆ美『老人ホームで死ぬほどモテたい』
孤立と孤独の違いという点で見れば、横一列で焼き鳥を食べている場面ですので、ここに登場する「わたしたち」は孤立しているわけではないと思います。
しかし、「みんなひとりを生きてゆく」とある通り、それぞれは孤独を抱えて生きていかなければならないことを詠っているのでしょう。
「横一列で焼き鳥食めば」とあるので、居酒屋か焼き鳥専門店のカウンターで並んで食べているのだと思います。久々に集まった仲間たちでしょうか。焼き鳥を並んで食べる時間は共有できても、この楽しい時間もやがて終わりを迎え、またそれぞれの日常に戻っていくわけです。
結局、「一緒に生きてゆく」ことはできないのです。「みんなひとりを生きてゆく」とあり、「ひとりで」ではなく「ひとりを」となっているところも注目すべきポイントでしょう。「ひとりで」の場合であっても、やはり一人一人生きていくことに変わりはありません。しかし「ひとりを」の方が、ひとりの存在そのものを生きていかなければならないことがより伝わってきて、孤独を生きる意味合いが強く感じられるのではないでしょうか。
横一列で焼き鳥を食べる状況があるからこそ、一層「ひとり」が意識されたのかもしれません。でも、こういう機会があるからこそ、人は改めて「ひとり」を意識するのではないでしょうか。そして同時に、自分は孤立していないことを知るのではないでしょうか。
孤独を生きながらも、孤立していない状況に感謝する。「横一列」での「焼き鳥」は、そんなことを感じさせてくれる最適の場面なのかもしれません。
以上、孤独を感じさせる歌を、大きく三つの区分にわけて見てきました。
度々になりますが、「孤立」すると人は生きていくのが難しくなります。一方、「孤独」は自分が生きていくうえで、また自分を成長させるうえで必要なものだと感じています。
孤立を避けて、孤独を楽しむ。
孤独を嫌って遠ざけるのではなく、心の底から孤独を楽しむことができれば、こんなに素晴らしいことはないと思います。







