【短歌×人生】人生を1mmでもよくしたい 【視点⑥】日常の些細な幸せをつかまえる

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【短歌×人生】人生を1mmでもよくしたい 【視点⑥】日常の些細な幸せをつかまえる
tankalife

人生を1mmでもよくしたい」の第18回(「視点」の第6回)です。今回は「日常の些細な幸せをつかまえる」と題して、小さな幸せを感じることについて考えていきます。

幸せになりたい。

誰しもがもつ、ごく自然な気持ちの表れだと思います。なぜ生きているのですかと問われたとき、「幸せになるため」という回答は何ら間違いはありません。むしろ、人は幸せになるために生きているといっても過言ではないでしょう。

では、幸せや幸福とは一体何なのでしょうか。画一的な定義をすることは難しいでしょうし、何を幸せと感じるかは人によってさまざまです。

幸せとは何かに関して、松村正直氏が次の一首を詠んでいます。

もう少し右もう少し幸せは近似値でしか求められない 松村正直『駅へ』

面白いですね。幸せとは「近似値でしか求められない」と詠われています。

確かに、幸せとは何かと訊かれて、そのものずばりを明確にする定義というのは存在しないのではないでしょうか。ある意味、幸せとは捉えどころがないところもありますから、その幸せを述べようとするとき、いつも回りくどくなってしまうものかもしれません。「近似値」という表現が、正誤をきちんと求める学問である数学的なものでありながら、どうしても核心に迫っていけないもどかしさのようなものとして、ここには滲み出ているのではないでしょうか。

「もう少し右もう少し」にも近似値感がよく出ています。実際、もう少し右にいけば、幸せに近づくことはできるのかもしれませんが、実際幸せとぴったりイコールとなるわけではないように感じられます。つまり、幸せが位置する方向性は右方向ということで何となくわかるけれども、幸せの座標そのものは把握できないというイメージではないでしょうか。

このように、幸せや幸福とは、どうも捉え難いところがあるでしょう。

幸せとは何かについて、いくつか名言がありますので、もう少しそれらを見てみましょう。

「最大の幸福は、幸福など必要ないと知ることにある」(ウィリアム・サローヤン)

(晴山陽一『すごい言葉』)

幸福とは、報酬など全然求めていなかった者のところに突然やってくる報酬である。(アラン『幸福論』)

人間の幸福というものは、時たま起るすばらしい幸運よりも、日々起って来る些細な便宜から生れるものである。(『フランクリン自伝』)

(紀田順一郎『翼のある言葉』)

三つの言葉を取り上げてみました。

まず一つ目の言葉は、「幸福など必要ないと知ることにある」とありますが、幸せだ、幸福だと意識しているうちは本当の幸せではないのかもしれません。幸福を追求する心が強すぎても、それは幸福に縛られているだけであり、「最大の幸福」とはいえないといった感じでしょうか。幸福への強すぎる思いを一旦脇において、もう少しリラックスして、幸せとは何かを感じてみるのがいいのかもしれません。

二つ目も、一つ目に近い傾向の言葉ですが、幸福は求めたときにはやってこず、忘れたときや手放したときにふっとやってくるものなのかもしれません。あまり意識していないときに訪れるからこそ、より一層幸せだなあと感じるのではないでしょうか。

さて、三つ目が今回一番強調したいポイントを伝えてくれている言葉なのではないかと思います。それは、幸福とは「日々起って来る些細な便宜から生れるもの」という部分です。何も特別大きなことが起こらなくても、日常の些細なことから幸せは充分感じられるのだと思います。

そして、その些細なことに幸せを感じられるかどうかで、人生は随分と充実していくだと感じます。自分にはあれもこれもないと不足を嘆くのではなく、日常の些細な出来事だけど、自分にはあれもこれもある、よくよく見れば、幸せの種はたくさん転がっていると思えるかどうか。これが大切です。

幸せというのは、大仰なものではなく、日常の些細な出来事そのものなのではないでしょうか。その些細な日常に対して、心の奥から幸せだなあと感じることができれば、それはとても素敵なことだと思います。

些細な幸せを詠った短歌

些細な幸せを詠った短歌は、数多くあります。できるだけ多くの歌を一首ずつ見ていきたいと思います。

丹念に生活たつきを繰れば枝豆の中の塩水ほどの幸あり 松木秀『5メートルほどの果てしなさ』

まさに、日常の中に充分幸せはあるのだと教えてくれる一首です。「丹念に生活を繰れば」という詠い出しから、とても丁寧に日常を送っていることが窺えます。

主体は、実際に枝豆を食べていたのでしょう。塩をかけてある枝豆は、時間の経過とともに塩が溶けて、液体となった塩が枝豆に沁み込んでいったのだと思います。その塩水の量は、非常に微々たるものかもしれません。指先で触れば、しっとりと湿った感じがする程度で、ずぶずぶに塩水に浸っているということではないでしょう。そんなわずかな塩水、それに等しいほんのわずかな「幸」が、日々の生活にはあるのだと詠っているのです。

このような視点をもてるかどうかで、日々は随分と充たされていくのではないでしょうか。「枝豆の中の塩水」ほどの幸せを感じられるような、そんな丁寧な暮らしぶりが表れている一首ではないでしょうか。

新しいパン屋のパンが美味かったような小さなしあわせでいい 松木秀『RERA』

こちらも「小さなしあわせ」に焦点を当てています。

近所に新しいパン屋がオープンしたのでしょうか。その新しいパン屋を訪れて、パンを買ったのでしょう。新しいパン屋という場所は、とてもワクワクするところです。どんな味のパンがあるのだろうか、どんなかたちのパンがあるのだろうか、と店を訪れる前から色々と想像する楽しさがあるでしょう。そして、実際パン屋に入ってからも、パンの種類の豊富さに目を奪われ、どれもこれも食べたいけど、全部は購入できないから今日はどれにしようかななどと迷う時間も幸せですね。

そして何より楽しいのは、買ったパンを食べるとき。見た目も鮮やかで楽しいパンは、一体どんな味がするのでしょうか。新しいパン屋のパンだから、今までのパン屋とは違う味だろうなあ。パンを食べる時間ってなぜこんなに幸せなんだろうなあ。天気もいいし、ベンチに座って食べるパンは最高だなあ。おいしいなあ。嫌なことも色々あるけど、こういう時間が幸せなんだよなあ…。

色々と想像しながら、じっくりと味わいながら過ごすひとときは、本当に「幸せ」と呼ぶにふさわしい時間なのかもしれません。パンを食べることは、決して「大きなしあわせ」ではないかもしれません。でも、このような「小さなしあわせ」こそが、人生を豊かにしてくれる本当の幸せなのかもしれないと感じるのです。

誰だろう毛布をかけてくれたのは わからないからしあわせだった 岡野大嗣『うれしい近況』

知らぬ間に寝てしまった場面でしょうか。畳や床の上かもしれません。ちょっと横になるだけと思っていたけど、気がついたら寝てしまっていたという状況を想像しました。

風邪を引かないように、誰かが毛布をかけてあげたのでしょう。主体は眠っているのですが、誰かが毛布をかけてくれたことは気がついたのだと思います。ただ、目を開けてまで、それが誰かを確かめることはしなかったのでしょう。

「わからないからしあわせだった」という部分が不思議といえば不思議です。毛布をかけてくれたのが誰かわかった方が、その人に対して感謝することができるような気がするのですが、ここでは「わからないからしあわせだった」となっています。

わからないという状況の利点とは何でしょうか。それは、わからないがゆえに、色々と想像できるということではないでしょうか。つまり、毛布をかけてくれた可能性がある幾人かを、主体は自由に思い描くことができるのです。あの人がかけてくれたのかもしれない、それともこの人がかけてくれたのかもしれない、あるいは天使が毛布をかけてくれたのかもしれない…。このように特定のひとりに絞らずに、想像する余地が多分にあるところから、感じられたのが「わからないからしあわせだった」なのではないかと思うのです。

実際は、毛布をかけてくれたのがもしわかったとしても、それはそれで幸せでしょう。でも、わからないからこそ感じられる幸せもあるのだと、この歌は教えてくれるように思います。日常の一場面ではありますが、心があたかかくなる一首です。

セーターの編み目のとこから指を出し「ハロー」とか言ってしあわせだった ユキノ進『冒険者たち』

こちらは「セーター」を詠った歌です。登場するのは、主体と相手。

セーターの編み目のうち、指が出せるくらいの編み目があるのでしょう。破れているわけではないでしょうが、そこから指を出したのです。そして「ハロー」といって、主体と相手はじゃれ合っていたのでしょう。こういう状況の楽しさ、幸せ感は、主体と相手との間でしかわからない部分はありますが、この二人にとっては、とても幸せで貴重な時間だったのではないでしょうか。

「「ハロー」とか」の「とか」が、とてもいい表現です。「ハロー」以外にも何かいったかもしれないし、いっていないかもしれません。とにかく、「とか」には、少し照れたような感じが窺えます。「「ハロー」とか」をいいあえる時間、いいあえる仲が、幸せを充分満たしてくれることでしょう。

「しあわせだった」とある通り、もうこの「しあわせ」は戻らないのかもしれません。今現在同じように「ハロー」とかをいいたいとしてもいえないのかもしれません。それは二人の関係性が変わってしまったからでしょうか。歳をとりすぎてしまったからでしょうか。

もう二度と戻らない時間だからこそ、振り返って愛おしく思われるものは、大きなイベントではなく、この歌のように、セーターの編み目から指を出してじゃれ合うといった、些細といえば些細な出来事なのではないでしょうか。

日常における些細な幸せをどれだけ心の中にもっているか。人生を幸せと感じる上では、とても大切なことなのだと感じます。

至福とは特に悩みのない日々のことかもしれず食後のココア 萩原慎一郎『滑走路』

「毛布」「セーター」と衣類の歌が続きましたが、次は食べ物が登場する歌を見ていきたいと思います。

主体は、食後にココアを飲んでいたのでしょう。「食後のココア」と聞くだけで、もうそれだけで「至福」の時間を感じずにはいられません。食後のココアの時間は、とてもゆったりと、そして心が落ち着くひとときなのではないでしょうか。

「至福とは特に悩みのない日々」と詠われていますが、本当にその通りだと感じます。悩みがある日々と、悩みがない日々を想像して比べてみれば、すぐわかるでしょう。仕事の悩みかもしれません、人間関係の悩みかもしれません、お金に関する悩みかもしれません。いずれにしても、悩みのあるなしで、こうも人生が違うものかと感じるのではないでしょうか。

何についても一切悩む必要がないひとときこそ、まさに「至福」のひとときなのではないでしょうか。悩みがなく、食後にゆっくりとココアを味わうことのできる時間をもてること。このひとときに勝る「至福」の時間は、そうそうあるものではないでしょう。

何も高いお金を出して、高価な飲み物を味わう必要はありません。日常使いのココアでいいのです。自分のお気に入りのココアがいいでしょう。悩みのない日々こそが、そのココアを何倍にもおいしいココアにしてくれるのですから。

食後の一杯のココアに幸せを感じられる日々は、本当に素敵な日々だと感じます。

幸せだ 青葉若葉を通り抜け日差しが届くジャムを塗る手に 藤島秀憲『すずめ』

こちらも食べ物で、「ジャム」が登場します。

朝、トーストにジャムを塗っている場面でしょうか。苺の赤色でしょうか、それともマーマレードの橙色でしょうか。色々なジャムを想像しますが、とにかく色鮮やかなジャムを想像します。

さて、ジャムを塗る手に朝の日差しが届いた場面です。窓の外には青葉若葉の茂る樹々があるのでしょう。その樹々の葉を通り抜けて、ジャムを塗る自らの手にあたたかい日差しが届いたということでしょう。

そのようなひとときを「幸せだ」と詠っています。初句に置かれた「幸せだ」とその後の一字空けが、本当に幸せな気持ちを表してるように感じます。

トーストを食べる、ジャムを塗るといった行為は、日常の行いかもしれません。しかし、そこに朝のあたたかな日差しが射しこみ、生きている実感を感じられる瞬間があるのだと思います。特段、大きなイベントは起こらないかもしれません。しかし、その何気ない日常こそが、本当に「幸せだ」なのだと思います。

日差しも、ジャムも、塗る主体の笑顔も、すべてが日常の幸せとして感じられる一首です。

持ち帰る紙袋から焼きたてのたい焼きの尾が揺れる幸せ カン・ハンナ『まだまだです』

幸せはここにあるかも焼き鳥でネギの旨味を分かり合えた夜 カン・ハンナ『まだまだです』

食べ物つながりで、「たい焼き」と「焼き鳥」の歌です。

「たい焼き」を買ってもって帰るという時間は、とてもうれしい時間だと思います。特に「焼きたて」というところがいいですね。紙袋からはみ出す「たい焼きの尾」は、まさにささやかな幸せの象徴そのものではないでしょうか。

これから食べるたい焼きのほかほかとしたぬくもり。おそらく餡がしっぽの先までぎっしり詰まっているのではないでしょうか。それを頬張る姿を想像するだけで、本当にもうワクワクしますし、幸せな時間だなと感じられます。

二首目は「焼き鳥」の歌です。焼き鳥のネギがおいしいと感じた場面です。「分かり合えた夜」とあるので、ひょっとすると自分ひとりだけではなく、誰か特定の相手と、ネギの旨味がわかったという状況かもしれません。これまでは、焼き鳥のネギの旨味がいまいちわからなかったのかもしれません。それが、この夜に限ってネギがおいしいと感じられたのでしょう。

焼き鳥を食べて、ネギがおいしいと思う。何と素晴らしいひとときでしょうか。「幸せはここにあるかも」と詠っていますが、「幸せはここにあるんです」と本当にいいたいと思います。焼き鳥のネギという、些細といえば些細なものかもしれませんが、本当に幸せだと感じることは、このような日常の些細な中にきっとあるのだと思います。

甑島の椿油を手にぬくめて顔に押し当つ風呂上がりの至福 染野太朗『初恋』

甑島こしきしまは、鹿児島県薩摩川内市にある島です。甑島の椿油は、厳選された人気の椿油なのだと思います。その椿油を、風呂上がりに、手に温めて顔に押し当てるのが「至福」だと詠っています。

こういう時間の「至福」は本当にいいと感じます。風呂上がりというだけで、もうそれだけで気分がさっぱりした感じがしますが、その上に「椿油」です。しかも甑島の椿油。おそらく主体のお気に入りの椿油なのでしょう。それを、風呂上がりの手と顔につけるひとときは、もう他に代えがたい至福の瞬間なのではないでしょうか。

毎日の中で、こういう幸せを感じられる時間が、一瞬でもあるのはとてもうれしいことです。今日一日もしも嫌なことがあったとしても、風呂上がりの至福の瞬間で、すべてがリセットされるでしょう。それは何も多額のお金をかけて行うものでもありません。ほんの些細な日常の中の幸せなのです。

椿油の時間を、至福の時間と感じられる心そのものが、本当の豊かさなのだと思います。

他愛ない会話に愛があることを知っているからまた会いに行く 岡本真帆『あかるい花束』

この歌は、何か特定のものが登場するのではなく、「会話」にフォーカスされた一首です。

ここで幸せを感じてるのは「他愛ない会話」なのです。「他愛」の語の中に「愛」があるので、「他愛ない会話に愛があること」と詠っているわけです。言葉遊びの要素はもちろんありますが、それ以上に「他愛ない会話」には、やはり本当に「愛」があるのだと感じます。

重要な目的のある会話も、場合によっては大切でしょう。しかし、幸せな会話という観点から見ると、目的のある会話よりも、雑談のような他愛ない会話の方が適しているのではないでしょうか。

「他愛ない会話」ができる相手だからこそ、「また会いに行く」のでしょう。他愛ない会話は、実利や実績という点からいえば、何も生まないかもしれません。しかし、だからこそ他愛ない会話は楽しいのでしょうし、その会話に幸せを感じられるのではないでしょうか。

会話における幸せといえば、「他愛ない会話」こそが日常における些細な幸せなのかもしれません。

買い物の袋から飛び出たネギがわたしの生活をよくしそう 郡司和斗『遠い感』

買い物の場面における幸せを見ておきましょう。

ネギが一本あるいは数本、買い物袋に刺さっているのでしょう。スーパーの買い物袋は縦横の長さがほぼ同じで、正方形か長方形に近い四角形であるのに対し、ネギは棒状であるため、どうしてもネギの頭の部分が袋から出てしまいます。

買い物袋に入れたけど、そこから飛び出しているネギを見て「わたしの生活をよくしそう」と主体は感じたのです。「よくしそう」の表現からは、悲観的な思いは感じられません。純粋に「よくしそう」と感じたのだと思います。

ネギから、生活がよくなりそうだという思いへの移行には、非常にささやかでありながらも、日常の中に幸せの種を見つける豊かな視点を感じます。しかし、無理に向上へのきっかけを見つけだそうとしているわけではありません。ネギを見て、自然と「わたしの生活をよくしそう」という思いが湧いてきたのだと思います。

それはいってみれば、直感のようなものかもしれません。例えば、金銭的な面で生活をよくするといえば、お金や出世などが想像されますが、ここではネギであり、生活がよくなりそうだといっても、そのような金銭面とは直接的には関係がありません。ですから、買い物袋から飛び出たネギが生活の向上に寄与するかどうかは、目に見えるかたちではっきりとわかるものではないでしょう。あくまで、そんな気がする、予感がするといった印象を受けるのです。

ひょっとすると、このネギを使って友人や恋人、家族など親しい人と一緒に料理をするのかもしれません。そのような人との関係性が濃くなる要因のひとつとして、このネギが象徴的に存在しているようにも思います。今回一回きりのネギというよりも、今後も買い物袋から出るネギとそのネギをきっかけに生活が充実していくという場面が、何度も繰り返されそうだという予感も含まれているのはないでしょうか。

ときにはこのような予感を大切にしてみること。それが日々の生活をわずかでも豊かにしてくれるきっかけになるのかもしれません。日常のとても小さな一場面を切り取った歌であり、肯定的な感じがあふれています。こういう幸せの感じ方もあると思います。

ちょっと良いポン酢を買えば良い帰路で春の宵など俯瞰しながら 小俵鱚太『レテ/移動祝祭日』

陽が落ちた後の、あたたかさと若干の寒さが入り交じったような春の時間帯の中で、主体は「ちょっと良いポン酢」を買ったのでしょう。

「ちょっと良い」というところがポイントで、もう少し安くてよく売られているようなポン酢を選ばずに、少々値ははるけれども、自分にとってよいと思えるポン酢を買って帰ったのです。

「ちょっと良いポン酢」を買ったことで、気分よく帰ることができたことが伝わってきます。「春の宵など俯瞰しながら」には、気分がよくなったことで、周りを見る余裕が生まれてきた状況を示しているのでしょう。この余裕は、主体の心のもちようによって生まれてきたものといえるのではないでしょうか。

ポン酢を買うというささやかな行為ですが、そのようなささやかな行為をどれだけ喜べることができるのか、どれだけ感謝することができるのか、によって人生の質は大きく変わってくるといっていいかもしれません。

ポン酢を買っても何も思わない人もいるでしょうし、また出費したと感じる人もいるでしょう。しかし、主体は、「ちょっと良いポン酢」を買ったことにウキウキしている、そんな様子が伝わってくるでしょう。ポン酢を買うという日常の一場面においても楽しめ、喜べるということは、すばらしいことなのではないでしょうか。

「良い帰路」は誰かから与えられるものではなく、良い帰路にするかどうかは、その人自身の気持ちに委ねられているように感じます。

大きなイベントが起こるわけでもなく、日々の生活の中のちょっとした場面かもしれませんが、心があたたかくなる一首ですね。

私の場合、コーヒーを飲みながら、音楽を聴いたり、読書をしたり、子どもと会話したりすることが、日常の些細な幸せなのかなと感じています。

最後にもう一度繰り返しになりますが、幸せは何も大きな出来事が起きたときに感じるものではありません。日常の中の、ほんの些細な出来事、そのような中にこそ、無理のない、素敵な幸せがひそんでいるのだと感じています。

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