tankalife「人生を1mmでもよくしたい」の第16回(「視点」の第4回)です。今回は「運命を最新バージョンに更新する」と題して、運命と宿命について見ていきます。
「運命」と「宿命」という言葉があります。
どちらも、天の命運のような意味として、似た言葉として捉えている人も多いかもしれません。まずは辞書の意味を見ておきましょう。
(運命)
人間の意志を超越して人に幸、不幸を与える力。また、その力によってめぐってくる幸、不幸のめぐりあわせ。運。
『デジタル大辞泉』
(宿命)
生まれる前の世から定まっている人間の運命。宿運。しゅくみょう。
『デジタル大辞泉』
どちらかといえば、宿命は生まれる前から定まっている命運を指す言葉であり、運命は生まれる前から定まっているというよりもそのときどきで訪れる命運を指す言葉だと感じます。
私の考えとしては、運命と宿命を非常に単純に区別しています。
運命 …… 変えられるもの
宿命 …… 変えられないもの
運命も宿命もどちらも、正常な思考範囲では把握できない命運だと思いますが、運命は変えられるものであり、宿命は変えられないものという認識です。
「運命を変えてみせる」といういい方は聞くことがありますが、「宿命を変えてみせる」といういい方はあまり耳にしません。一方「宿命を負う」とは聞きますが、「運命を負う」という表現はあまり聞くことがありません。
このように、「運命」と「宿命」は似たような方向性の言葉ですが、やはり意味合いは異なるでしょう。
次の一首は、まさに運命と宿命の違いを端的に表しているのではないでしょうか。
運命は自ら開くものとして黙って受けるものは宿命 岡部桂一郎『坂』
この歌において、「運命」は「自ら開くもの」として捉えられています。そして「宿命」は「黙って受けるもの」として提示されています。この捉え方から、「運命」は切り拓いていくようなイメージで、これから先の人生においてどのようにもいい方向へもっていけるような気がしないでしょうか。
一方、「宿命」は「黙って受ける」とある通り、ひたすら受動的なものとして表現されています。しかも、あれこれ文句もいえないのです。ただ単に「黙って受ける」しかないのです。それは文句をいってもはじまらないからでしょう。この宿命は嫌だと声を上げたところで、その宿命は変えることができないのではないでしょうか。そうであれば、もうその宿命を素直に受けいれるしか方法はなさそうです。
では、宿命が変えられないとしたら、生まれた時点で自分の人生は決まってしまうのかといえば、そういうわけでもありません。たとえ「宿命」は変えられないとしても、「運命」は自ら切り拓いていくことができるのです。「宿命」という大枠は決まっていても、その中でどのように立ち振る舞うか、つまり「運命」をどうしていくのかは、ひとりひとりに与えられた選択なのだと思います。
この歌においても、主体はまさに運命と宿命の違いを感じる出来事があったのではないでしょうか。あるいは、長年生きてきてそのように感じる心境に至ったのかもしれません。
「運命」を詠った歌をもう少し見ていきましょう。
リュックには花といろはすをいっぱいに、期待していいんだよ運命を 青松輝『4』
下句の「期待していいんだよ運命を」というフレーズが、読み手の人生をそのまま肯定してくれると同時に期待してくれるような印象を与えてくれ、読んでいて勇気づけられる一首だと感じます。
リュックに詰められているのは「花」と「いろはす」。花のやわらかな鮮やかさ、そして、いろはすの透明感。リュックの中には、あふれんばかりの花といろはすが充ちているのでしょうが、その充ちた様子が「期待していいんだよ運命を」の表現に呼応しているようです。
上でも触れましたが、「運命」はどのようにもいい方向に変えていけると思っています。したがって、この歌の「運命」もやはり「期待していいんだよ」なのだと思います。がんじがらめに定まった「宿命」とは違います。動かし難い宿命ではなく、運命は期待していいし、きっと人生うまくいくだろうし、どのようにもいい方向に向かうことができるのです。
この歌は、運命のいいところを存分に詠いあげた一首なのではないか、そのように感じます。
同じ作者で、もう一首「運命」を詠った次の歌があります。
運命は流体で、街を巡ってはときどき夏の頰を濡らした 青松輝『4』
「運命は流体」という表現に惹きつけられます。固体ではなくて、流体。運命の自由度というか流れるような感じというか、その流動性が「流体」という語でうまく表現されているのではないでしょうか。
仮に、宿命が固体であるとすれば、運命は流体だから、いかようにも変えることができるのではないかと思わせてくれるのではないでしょうか。
運命は、ときに思いもよらない出来事を私たちにもたらしてくれるでしょう。一見、何でそんなことが起きるのかといった出来事もあると思います。よくないと思った出来事が、後々いい方向へ展開するための布石だったということもあるでしょう。
運命は、「街を巡って」私たちにさまざまな人生の起伏をもたらしてくれるでしょう。それこそが、運命の役割のようにも感じられます。
あたしはあなたの夢探偵 運命が夜に震えるから行かなくちゃ 初谷むい『わたしの嫌いな桃源郷』
「運命が夜に震える」とはどういう状態なのでしょうか。怖いから震えているのではなく、武者震いのような震えなのではないかと想像します。
つまり、「あたし」が「行かなくちゃ」と思うのは、「運命」が呼んでいるからといったようなイメージでしょうか。運命が「絶対こっちだから、必ずきてね」といっている、そんな状況を思い浮かべました。
「あたしはあなたの夢探偵」というところから、「あたし」は「あなたの夢」に登場しているのでしょうか。夢の中で、夢を手がかりに何かを探しているのでしょうか。それとも、「あたし」自身の夢をきっかけに何かを探しているのかもしれません。
とにかく、ここで探しているものは、何も殺人事件の手がかりではないでしょう。「あなた」に関する何かを探すのが、この歌における「あなたの夢探偵」なのではないでしょうか。つまり、探しものは「あなた」に関わるものなのでしょう。そして、「あなた」に向かう方向性において「運命」が強く関係していると思います。
あなたに向かうのも、あなたに関する何かを探すのも、すべて夜に震える運命がその中心に据えられているように感じるのです。
運命がダイナミックに動き出す夜。「あたし」と「あなた」の関係において、運命が動き出していく様子を感じられる歌ではないでしょうか。
甘やかしてゆけばいいのに運命はきみには時計としてあらわれる 平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』
「あらわれる」は現れるの意でしょうが、「運命」というのは、特定のかたちを伴って目の前に現れるものなのでしょうか。
この歌では「きみには時計としてあらわれる」と詠われています。運命が「時計としてあらわれる」というのは、時計そのものとして現れたのではなく、時間的な何かとして示されたということではないでしょうか。
初句二句の「甘やかしてゆけばいいのに」が手がかりのひとつになりますが、この甘やかしと運命との関係性を、ここでは二通りの採り方ができるかもしれません。
ひとつは、運命が時計として現れたことが、甘やかしではなく、厳しい指導や助言であるという捉え方です。もし、甘やかすのであれば、厳しい指導や助言は不要です。つまり、運命という厳しい指導や助言は一切出現する必要はなく、「きみ」はその存在さえも知る必要はなかったのでしょう。しかし、ここでは「運命」は現れてしまったのです。しかも「時計として」。これで「きみ」はもう、この「運命」を受け入れるしかありません。この運命は厳しいものなのかもしれません。甘やかしではないのです。時間的に大いに関係する運命は、今後の「きみ」の人生の時間に多大な影響を及ぼすのかもしれません。
もうひとつの採り方は、運命が時計として現れたことが、甘やかしとしては不十分であるという捉え方です。つまり、もっともっと「きみ」にヒントや手がかりをたくさん与えればいいのにというイメージでしょうか。運命が時計として現れたくらいでは、何の甘やかしにもなっていません。全然甘やかしているうちに入らないということです。甘やかすのであれば、時計として現れるくらいでなく、もっとわかりやすいかたちで現れたらどうなのといった感じでしょうか。例えば、お金がザクザク目の前に積まれるとか、高級車や豪華な邸宅がいとも簡単に手に入るとか…。それを「時計としてあらわれる」などというのは、甘やかしの程度としては低いのではないかということです。何ともわかりづらいではありませんか。運命のヒントなら、もっとわかりやすくしてほしいものです。そのような捉え方でしょうか。
色々と読み方はあると思いますが、「運命はきみには時計としてあらわれる」という状況がとても面白く感じます。「きみ」ではなく違う人であれば、時計ではなく、また別のかたちとして運命は現れていたのでしょう。
見てきたように、運命はさまざまに短歌に詠まれています。
運命を最新バージョンにする
冒頭で触れましたが、運命と宿命について改めて見ておきたいと思います。
昔、ある本のあとがきか解説で、運命と宿命について書かれた文章を読んだことが印象に残っています。正確な表現は忘れましたが、ギリシア神話の話に関連して書かれていました。ギリシア軍のアキレウスとトロイア軍のヘクトルとの対決において、運命と宿命の違いは現れました。
結果からいえば、ヘクトルはアキレウスに討たれてしまいます。つまり、ヘクトルがアキレウスとの戦いにおいて死ぬということは、宿命で決まっていたといっていいでしょう。実力的には、ヘクトルよりもアキレウスの方が上だったのでしょう。しかし、ヘクトルがアキレウスに必死に立ち向かい、死という宿命に必死に抗おうとする姿そのものが運命であり、人はその姿に感動するといった内容が書かれていました。
このとき、私は、このヘクトルの姿から、宿命は変えられなくても、そこに至る運命はどのように変えることができるのだと学びました。ヘクトルはアキレウスに背を向けて逃げることもできたでしょう。あるいは戦わずに許しを請うこともできたかもしれません。もちろん結果は、どれを選んでも殺されてしまい、死という宿命は避けられなかったかもしれません。しかし、そのときヘクトルが選んだのは、アキレウスに立ち向かうという姿だったのです。
宿命は変えられないかもしれません。でも、運命は変えることができると思います。
そうであれば、常に運命をいい方向に変えていけるよう意識してみてはどうでしょうか。運命を、いい方へいい方へ最新バージョンに更新しつづけていくことができれば、人生は少しずついい方向へ動き出さないでしょうか。
運命は、何も一回決めたら終わりというものではありません。人生の、そのときどき、節目節目で、自分にとって最もしっくりくる流れというものがあると思います。
まさに、運命という大きな流れを、自分が望む方向へ流していくためにも、運命に対する感度を上げて、運命を常に最新バージョンに更新するという意識をもつこと。
ヘクトルの話からもそう感じますが、運命というのは、まさに今この瞬間に直面する生き方そのものなのではないか、そのように感じています。
今後も、運命というものを、改めて見つめつづけていきたいと感じます。



