くさむらの水引草の赤い実がはじけようともさびしい秋は
土岐友浩『Bootleg』
土岐友浩の第一歌集『Bootleg』(2015年)に収められた一首です。
水引草はタデ科イヌタデ属の植物で、紅白に見える花序が水引に似ていることからその名がつけられました。秋の植物で、9月頃に見頃を迎えます。
水引草は、薄暗い場所で見られることも多いのですが、掲出歌では「水引草の赤い実」の鮮やかさが際立って読み手に伝わってきます。水引草の赤い実が鮮やかに迫ってくる理由として、初句に置かれた「くさむら」の効果が見逃せないと感じます。
この初句「くさむらの」があることで、「くさむら」の中に咲いている水引草が一層目立つ仕掛けになっています。くさむらの緑と、水引草の実の赤が対比され、その対比が色彩的な効果を生み、赤い実に焦点が当たっていくのです。
まず、くさむらと赤い実の対比によって、赤い実の鮮やかさが強調され、そして次の展開として、そのような鮮やかさを伴った実と秋のさびしさとが引き合わされています。水引草の赤い実がはじけるとしても、秋はさびしいと詠われているのです。
このさびしさは秋そのもののさびしさだけではないでしょう。秋のさびしさはもちろんのこと、それに加えて、それ以外の個人的事情によってさびしいと感じているのかもしれません。
このさびしさは、何かで埋め尽くすことができないさびしさなのではないでしょうか。鮮烈な赤の水引草の実がはじけようとも、このさびしさを埋めることはできないのです。「はじけようとも」の「とも」が、どうすることもできないさびしさを一際大きくさせて迫ってきます。
個人的な事情に兆すさびしさは、秋にある「水引草の赤い実」を見つけてしまうのです。自然とその赤さに目がいってしまったのかもしれません。さびしいがゆえに、この赤い実は、一層の赤さをもって主体の眼前に登場したのではないでしょうか。
逆にいえば、この秋に主体が個人的事情によるさびしさを一切感じていなかったとするならどうでしょう。果たしてこの「水引草の赤い実」は主体によって見つけられたのでしょうか。主体は、この水引草の赤い実を意識することがあったのでしょうか。主体の中にあるさびしさが、水引草の赤い実へ導いたといっても、いい過ぎではないのかもしれません。
この歌のさびしさは、くさむらの中に咲く水引草の孤独な様をも思わせます。そして、より一層その赤色が浮かび上がってきます。
くさむらと赤い実の色彩的に鮮やかな対比によって、この秋のさびしさも一際鮮やかさをもって伝わってくる一首です。


