tankalife「人生を1mmでもよくしたい」の第38回(「受容」の第9回)です。今回は「大いなる力と偶然に生かされる」と題して、自分以外の力を信じてみることについて見ていきます。
「生きる」ということについて、自分の力と、自分以外の力という観点から少し考えてみたいと思います。
地球には八十億人を超える人々が生きています。これだけ多くの人がいれば、その中には、自分ひとりの力があれば生きていけると考える人も決して少なくないかもしれません。つまり、「自分の人生は、自分で切り開いていく」「誰にも頼らない」「他人の助けは借りない」「偶然など起こらない、すべて必然だ」「自分の頑張りがすべて」というような考え方をもっている人もいるでしょう。
自分の力を信じて周りを頼らない姿勢は、ときには大変すばらしいことですが、人は本当に自分ひとりの力で生きているものなのでしょうか。ひとりの力ではどうにもならないこともあると感じます。
そもそも、自分が生まれたときのことを思い出してみてはどうでしょう。自分ひとりの力では到底命を存続させることさえできなかったのではないでしょうか。産んでくれた親がいて、親を含めた周囲の人たちが育ててくれて、徐々に成長してきたのではないでしょうか。そういう意味では、人は誰しも、自分ひとりの力だけでは生き続けることは難しいといえるのではないでしょうか。
また、自分という存在の大きさというか小ささというかについても考えてみるとどうでしょう。全宇宙の、その中の銀河系の、その中の太陽系の、その惑星のひとつである地球の、その地球の中のひとつの国の、その国の中のひとつの場所に住んでいる我々の、と考えていくと、とても小さな存在ともいえます。
広大な空間の中ではちっぽけな存在なのだと自覚できれば、人生はすべてを自分ひとりで何とかできるとは到底思えないのではないでしょうか。もちろん、ちっぽけな存在だといっても、決して自分を卑下する必要はありません。
卑下する必要はありませんが、自分の存在を、全宇宙という広大な空間に置いて考えた場合、自分だけの力で生きていると思い込むことは、少し驕りが過ぎるのかもしれないと感じるのです。
我々が住むこの空間も、人生もわからないことばかりです。自分が見えているものだけがすべてとは限りません。宇宙には暗黒物質と呼ばれる、目に見えない物質が全体の95%あるといわれています。つまり、我々が目に見えている物質は、全体のたった5%ということです。この世界には、認識できていない部分が多数あるのです。
ですから、人生においても、大いなる力や偶然が作用している部分が少なからずあると考えています。
自分ひとりの考えや力がすべてというわけではないと思います。ふとしたときに、何だかわからないけれど、生かされているなあと感じることはないでしょうか。人生がいい方向にいくのを助けてくれる何かがあるなあと感じることはないでしょうか。
自分以外の力、自然、大いなる力などの存在に抵抗しなければ、人生はかなり生きやすくなりますし、何より守られていると実感できるはずです。自分では制御できない何かの存在を受け入れることで、生きやすくなることもあるのだと考えてみてはいかがでしょうか。
まさに「生かされている」と感じる歌を見ていきたいと思います。
切なさは川面に溶ける夕茜ただ生かされてこの星におり 笹本碧『ここはたしかに 完全版』
自然の雄大さを目の当たりにした場合や、自然に対する畏敬の念を感じた場合、あるいは自分自身の状況を深く見つめた場合など、ふと「生かされている」と感じるときがあるのではないでしょうか。
「生きている」よりも「生かされている」と感じたとき、感謝の気持ちが自然と湧き上がってくることでしょう。
川面に沈んでいく夕方の茜色は「切なさ」として溶けていったのですが、切なさが川面に映し出されたと読むのか、切なさが徐々に消えていったと読むのか、読みの難しいところではあるでしょう。
歌の鑑賞に作者の背景をもち込まないという考えもあるかとは思いますが、ここではやはり背景に触れておきたいと思います。それは何かというと、作者は重大な病気を抱えていたのです。健康な状況とそうでない状況という単純な二分法が決していいとは思いませんが、健康な者が見る夕暮れの風景と、病気を抱えた者が見る夕暮れの風景は異なるかもしれません。同じように「切なさ」を感じたとしても、そこに感じる切なさはやはり違う切なさなのではないでしょうか。
同じように「生かされて」に対する思いも、本当のところは傍からはわからないと思います。先ほど、感謝の気持ちと書きましたが、実際は感謝だけではなく、複雑な思いが「生かされて」には込められているのかもしれません。
ただ、この日のこの夕茜を見ている瞬間は、「生かされて」いることは事実です。自分の力だけではなく、そこにはやはり大きな何かによって生かされていると感じられる瞬間があったのではないでしょうか。
しかし、結句の「この星におり」はいい差しのかたちとなっており、はっきりと断言できない迷いのような気持ちを滲ませているように感じる一首です。
白い空きょうもまた厚い雲の下世界から守られて生きるよ 谷村はるか『ドームの骨の隙間の空に』
守られるという感覚は、特定の人に守られる場合もあるでしょうが、この歌のように世界から守られていると感じられるときもあると思います。世界から守られるとしたら、生きていく上では最強ですね。守られているから、堂々と生きていけるでしょう。
青空ならイメージしやすいのですが、「白い空」とはどのような空でしょうか。「白い雲」ではなく、「白い空」です。「厚い雲」とあるので、雲が広がっている曇り空を「白い空」と表現していると想像しました。
「きょうもまた」とあるので、住んでいるところでは、白い空の日が続くことが多いのかもしれません。そのような白い空を見ながら、白い空が広がっていることにありがたさを感じているのだと思います。そして、今日もまた生きていられることに感謝している感じが伝わってくるようです。
「世界から守られて生きる」という意識をもって日々を過ごしていくことができるのは、大いなる力の存在を信頼しているからかもしれません。自分ひとりで自分をすべて守れるわけではないということであり、それよりももっと大きな「世界」という捉えどころのないものから守られていると感じる方が、生きるうえでは随分と気持ちが楽になるのではないでしょうか。世界から守られているということは、自分ひとりですべて解決する必要はないということにつながるでしょう。
守られることは、ときには窮屈に感じるかもしれません。しかし、同時に安心がそこには生まれるでしょう。
白い空が、安心の在り処として広がっているように感じます。この歌を読むと、もっと世界に身を委ねていいと感じさせてくれますし、すべてはうまくいくような気がしてきます。
偶然に僕は生かされそして死ぬ生きてる間は眼鏡をかけて 榊原紘『悪友』
生まれてから死ぬまでを「生きる」ともいえますし、同時に「生かされる」ともいえると感じます。
この歌は主に「生かされる」に焦点を当てて詠われています。何に生かされているのかといえば、「偶然」に生かされているのです。
偶然に生かされて、偶然によって死ぬ。それが人生なのかもしれません。生死に関していえば、自らの意思でコントロールできることはおそらくないでしょう。もちろん自死というかなしい出来事もあるわけですが、それさえも自分が本当に望むことではないと思います。
主体は、生きるということは偶然の要素が強いと考えているわけですが、生きている間は少し自分の主体をもちたいという思いがないわけではないでしょう。それが「生きてる間は眼鏡をかけて」という部分に表現されているのではないかと感じます。
眼鏡をかけるのは、目が悪くなったからかけるのでしょうが、ここには眼鏡を選びとる意思のようなものを感じます。目が悪いといっても、眼鏡ではなくコンタクトレンズでもいいわけです。また目が悪いから絶対視力矯正しなければならないわけではありません。目が悪くても眼鏡をかけない選択をすることもできるでしょう。近年ではレーシックによって視力を回復することもできるようになりました。
つまり、眼鏡をかけることはある程度自分の意思で選ぶことができる事象というわけです。人生という大きな視点から見れば、生きている間に眼鏡をかけるかかけないかは些細な選択なのかもしれません。しかし、「眼鏡をかけて」には人生を積極的に捉えようとする主体の姿が浮かび出ていないでしょうか。
人生という大枠を見れば、偶然に生かされていると感じることがあるのですが、その人生という舞台において、眼鏡をかけるという行為が、ただ漫然と流されて生きているのではない様子を伝えてくれているように思います。人生には偶然を感じながらも、自分という存在をしっかりと見つめている主体の姿がここにはあると感じます。
生かさるることの偶然 春レタス茎をちぎれば苦き乳垂る 森井マスミ『まるで世界の終りみたいな』
こちらも「偶然」を詠んだ一首です。初句からの「生かさるることの偶然」が強く訴えかけてきます。
人生は筋書きのないドラマとはよくいわれることですが、生きている途中で、生まれてから死ぬまでのストーリーを完璧に予測できる人はほとんどいないに違いありません。何が起こるかわからないから生きていけるともいえるでしょう。最初からすべてのイベントの発生が事細かに設定されているとしたら、生きることはとても息苦しいものになるかもしれません。
「偶然」があるからこそ、人生は楽しくなるのではないでしょうか。偶然があるからこそ、人生を面白く感じられるのでしょうし、生きるということはそれ自体偶然の連続だと感じます。
状況としては、春レタスの茎をちぎっているところで、ちぎった際に茎から白い液体が垂れてきたのでしょう。その液体を「苦き乳」と表現しているところに、生きることにおける苦さのようなものを重ねているのかもしれません。生きることは決していいことばかりではないけれど、たとえ「苦き乳」だとしても垂れること自体が、生きている証そのものなのだと気づかせてくれるようです。皮膚を切れば血が出るように、レタスの茎をちぎれば苦き乳が垂れるのです。きれいごとだけでは済まされないさまざまなことがあると思いますが、それも含めて生きていることなのだという思いが感じられます。
偶然がなければ、今自分は生きてもいないかもしれません。偶然によって生かされ、生かされることが偶然なのでしょう。
春レタスのみずみずしさと苦さが混じり合い、人生そのものについて考えさせられる歌ではないでしょうか。
転がったペットボトルの蓋ほどの偶然の行き先のその先 鈴木晴香『夜にあやまってくれ』
やはり人生は偶然の方が面白いと思わせてくれる一首です。
ペットボトルの蓋は、本来転がすためにあるわけではありませんが、蓋を閉めようとして、蓋を落としてしまうこともあるでしょう。そのとき、ペットボトルの蓋は地面で転がりだしますが、ふらふらとしながら転がる蓋の、その行き先は予測しにくいものです。
人生が、転がるペットボトルの蓋の描く軌跡のようであれば、その偶然を楽しみたくなるのではないでしょうか。「偶然の行き先のその先」とあり、蓋がたどり着いた行き先で終わらず、さらにそこから未知の行き先がまだ存在していることを示してくれます。その未知への道も面白そうではありませんか。
人生には大いなる力が働いて、偶然や奇跡のような出来事を準備してくれていると思うと、今の自分を少しは肯定できるのではないでしょうか。もちろん納得いかない部分は改めればいいわけで、まだ起こってもいない不安に苛まれる必要はありません。今日太陽が照っていること、空気があって息ができること、そして生きていること、そのものに感謝してみましょう。そうすると、我々は自分の力だけで生きているのではなく、生かされていると感じることができるはずです。
ときには大いなる力にお任せしてみる、そんな風に感じて生きていければ素敵ですね。
以上、大いなる力や偶然に生かされていると感じられる歌を見てきました。
人生というのは、考えれば考えるほど、深くわからないものだと感じてしまいますが、自分が見えている範囲のものだけがすべてではないという意識をもつことが大切なのではないかと思います。
自分が見えていないもの、認識できていないものも含めて、この世界が存在しているのだと思います。むしろ、わからないことの方が多いかもしれません。そのわからなさを一旦受け入れてみてはどうでしょうか。
わからないことがあるのだと受け入れてしまえば、わからない存在に対する感謝や畏敬の念が生まれてくるかもしれません。
人生は、自分ひとりで生きているわけではなく、生かされている部分があると意識することが、人生をもう一段深く見つめるきっかけになるのではないでしょうか。



