【短歌×人生】人生を1mmでもよくしたい 【受容③】平凡こそ最良

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【短歌×人生】人生を1mmでもよくしたい 【受容③】平凡こそ最良
tankalife

人生を1mmでもよくしたい」の第32回(「受容」の第3回)です。今回は「平凡こそ最良」と題して、何もない日の素晴らしさについて考えていきます。

何もない時間、何もない一日の素晴らしさを改めて見つめ直してみたいと思います。

人は、時間があると、ついつい何かを求めたり、探したり、つくりだしたりしがちです。それはそれで素晴らしいことですが、求めてばかりいると日々が忙しくなり、今この瞬間を本当に味わえているのだろうかという疑問が湧き上がってきます。

何もすることのない時間をもつことを、時間を無駄に過ごしてしまったように感じてはいないでしょうか。スケジュール帳をスキマがないくらい予定で埋め尽くしてはいないでしょうか。ちょっとしたスキマ時間があれば、スマホを取り出して情報収集を始めていませんか。

では、なぜ、何もしない時間に対して、時間を無駄にしてしまったと感じるのでしょう。人はどこかで成長しないといけないと思い込んでいるのかもしれません。昨日より今日、今日より明日、ほんのわずかでも成長しなければならない、と。何もしなかった日は成長が感じられないから、何もしないことに対する罪悪感が湧いてくるのかもしれません。

でも、成長しない日があってもいいのではないでしょうか。成長が必ずしも人生にプラスに働くとは限りません。先ほどの例でいうと、スマホでの情報収集が必要な場面ももちろんありますが、一方でスキマ時間にあえて何もしないという選択もとても大切なことでしょう。

今日一日を振り返って、特別なことがあったわけでもないし、いつもと変わらない一日が過ぎたとしましょう。それを停滞や無駄と捉えてしまうことは、今日一日を卑下することと同じです。人生の今この瞬間を味わうのに、特段大きなイベントは必要ありません。何もない一日だったけれど、無事に一日を終えることができた、元気に過ごすことができた、ケガをせずに済んだ、三度の食事を食べることができた、安心して眠りにつくことができたなど…。何もないように思える一日でも、感謝することはたくさんあるでしょう。

晴れの日と褻の日という言葉があります。晴れの日はお祝い事やお祭りなど非日常の特別な日を意味し、褻の日とは日常を意味します。褻の日があるからこそ晴れの日があるのです。晴れの日ばかりが続けば、それは晴れの日には感じられなくなるでしょう。だからこそ、褻の日が大切になってくるのです。一年を通して、むしろ褻の日の方が圧倒的に多いため、褻の日をいかに充実した日だったと感じられるかどうかが人生の充実にもつながるといえるでしょう。

そもそも褻の日は何もない日ではありません。何もないように思えても、実は何もないからこそ大切な日なのです。平凡には平凡の素晴らしさがあるのです。

それでは、何もない平凡な日を詠った短歌を見ていき、平凡の素晴らしさを堪能したいと思います。

映画にはなれない今日が好きだった 卓にふくらみたるティーコジー 笠木拓『はるかカーテンコールまで』

毎日、映画に出てくるような出来事が起これば人生どんなに楽しいだろうか、と想像したことが一度はあるのではないでしょうか。

でも、映画のように素敵な出会いやワクワク、スリリングな展開はそうそう訪れるわけではありません。映画のような展開にならない一日でも、いや映画のような展開にならない一日だからこそ、今日はよかったなあと感じられる日がきっとあると思います。

この歌がまさにそうで、映画とは無縁の一日のよさが伝わってくる一首です。

「ティーコジー」とは、ティーポットにかぶせる布製のカバーのことで、紅茶を温かいまま保ってくれる機能をもっています。テーブルに置かれたティーポットにティーコジーが装着されている場面です。

ポットの熱でティーコジーが少し膨らんだ状態になっているのでしょう。紅茶専門店のような店でしょうか、あるいは家の中でしょうか。いずれにしても「ティーコジー」という具体的アイテムが雰囲気を出している歌でしょう。

下句の雰囲気に加えて、上句の「映画にはなれない今日が好きだった」というフレーズに惹かれます。

映画になる一日というのは、おそらく劇的な展開や奇跡のような出来事が訪れるということを指すのでしょう。しかし、この歌では「映画にはなれない今日」が詠われています。平凡な一日だったのでしょうか。あるいは何か落ち込むような出来事があって、それが大逆転すれば映画のようになるのだけれど、そんな大逆転や奇跡は起きないから、ただ落ち込んでいるだけの日だったのでしょうか。「映画にはなれない今日」からは色々と想像できると思います。

ただし、主体が好きだったのは、「映画になるような今日」ではなく、「映画になれない今日」なのです。平凡だろうが、落ち込もうが、映画で見るような華やかさや大逆転、奇跡はなくても、いやないからこそ「今日」を愛おしく思うことができているのだと感じます。

映画になる一日も素敵かもしれませんが、映画になるような日は簡単に訪れるものではありません。であればこそ、「映画にはなれない今日」をどれだけ大切にできるのか、愛着をもてるのか、それが生きていく上で大事なことなのかもしれません。

テーブルにふくらむティーコジーは、穏やかな一日を想像させると同時に、また今日を好きでいられる、穏やかであろうとする主体の心の内を表しているように感じます。

何もなき一日ひとひの何もなき川を身を乗り出して子ら眺めをり 梶原さい子『リアス/椿』

東日本大震災が起こってから約半年後の2011年10月の歌です。

この歌から感じるのは「何もなき」ことに対するありがたさのようなものです。何かがあることに価値があると考え、何もないことを否定的に捉える人もいますが、何もないということもとても大切なことだと思います。

それは「何か」が起こったからこそ感じるものかもしれません。この歌集において、そしてこの歌において、その「何か」を東日本大震災と引き離して考えることは難しいでしょう。

とてつもなく大きな出来事が起こってしまった、それは「何かがあった」一日ということです。その経験があるからこそ、「何もなき一日」の尊さが伝わってくるのです。

「何もなき川」もまさにそうで、何もなくても、そこに川が流れていること、それだけで「子ら」にとっては素敵なこととして見つめていられるのではないでしょうか。橋の欄干でしょうか、「身を乗り出して」というところに活力を感じます。

起きてしまったこと、過ぎてしまったことはもう取り戻せないかもしれません。しかし、この瞬間、「何もなき一日」「何もなき川」に最大限の感謝をもって向き合うことは可能なのではないでしょうか。

「何か」が大きければ大きいほど、「何もなき」の大切さに改めて気づかされます。「何もなき」の繰り返しが痛切に響く一首です。

冷ややかに星は輝く何ひとつ為し得なかった日の黒ラベル toron*『イマジナシオン』

 「黒ラベル」とはサッポロ生ビール黒ラベルのことで、缶パッケージの中央には大きな星がひとつ描かれています。

「冷ややかに星は輝く」の「星」は、夜空の星はもちろん、「黒ラベル」のパッケージの星も表しており、両方の星が冷ややかに輝いている様子を詠っているのです。

「何ひとつ為し得なかった日」を、悔いている場面でしょうか。その悔しさを吹っ切るように「黒ラベル」を飲んでいるのかもしれません。夜空に輝く星も、黒ラベルの星も、星としてそこに存在していますが、そこに「冷ややかさ」を見るのは、主体の心の現れでしょう。

もしもこの日、何かひとつ成し遂げていたなら、星を見る目は変わっていかもしれません。夜空の星は明るく輝いていたかもしれませんし、黒ラベルの星も冷たさが心地よく感じられたかもしれません。

たとえ、何かを成し遂げなかった日だったとしても、それでもいいと思います。毎日毎日何かを成し遂げられるわけではありませんし、できない日もあるでしょう。そもそも何かを成し遂げないといけないというのは、一体誰からの命令でしょうか。自分で自分を厳しく追いやっている縛りになっていないでしょうか。自分を縛ることで、自分のモチベーションをアップさせたり、いい方向に進んでいける人であればいいのですが、何もできなかったなと感じて自己卑下に陥ってしまう場合は注意が必要でしょう。

それよりも、今日も一日無事生きてこられたと思うのはどうでしょうか。何も成し遂げられなかったとしても、生きてこられたことは確かです。それだけでも自分を褒めてあげてもいいのではないでしょうか。何もできなかった日は、何もプラスになっていないように感じることもあるかもしれませんが、その何もなさも大切なことではないでしょうか。

何もないから駄目なのではなく、何もないは実はそれだけで素晴らしいことなのかもしれません。悔しさを抱えて、黒ラベルを呷るのではなく、心から黒ラベルをおいしく味わおうではありませんか。そうすることで、きっとこの一日は生きていてよかったと思える一日になると思います。

読むべきを読めずに風を見ていたりああぼんやりとするはゆたかさ 大松達知『ばんじろう』

「読むべきを読めずに」とありますが、本か資料か何か読む必要があるものがあったのだと思います。何か文章を執筆する必要があるのかもしれませんし、発表や授業の準備のためかもしれません。とにかく、読まなければいけないものがあったのに、読めずに時間が過ぎていった場面でしょう。

「ああぼんやりとするはゆたかさ」とあるので、決して忙しくて読めなかったのではないでしょう。読まないといけないなあと思いながら、どうも読む気が起きず、ぼんやりと過ごしていたのだと思います。

ここで注目したいのは、ぼんやりと過ごしてしまったことを後悔したり、責めたりしていないところです。「ぼんやりとするはゆたかさ」といい切っています。

子どもの頃、親から「ぼんやりしていないで、宿題でも何でもさっさとやることやってしまいなさい」などといわれた経験をもつ人も少なくないのではないでしょうか。このようなことをいわれ続けてしまった結果、まるでぼんやりすることが悪いことのように、知らず知らずのうちに刷り込まれてしまっているのではないでしょうか。

しかし、果たしてぼんやりすることは、本当に駄目なことなのでしょうか。

忙しくしているより、ぼんやりとする時間があることはとても貴重なことだと感じます。何かをぼんやりと考えてもいいでしょうし、何も考えずぼんやりするのもいいでしょう。

このとき見ていた「風」は、「ぼんやり」にマッチするように、とても心地よく吹いているように見えたのではないでしょうか。突風や強風ではなく、やさしい風、あるいはやわらかい風を想像します。

「ああぼんやりとするはゆたかさ」と心からそう思える時間は、最良の時間なのではないでしょうか。

なにもないこともないけどなにもない或る水彩画のような一日 小島なお『乱反射』

「水彩画」から、やわらかな色合いを思い浮かべ、淡いイメージが浮かんできます。油彩画の重厚な感じではなく、水彩画であるところが、「なにもないこともないけどなにもない」につながっているのでしょう。

この一日は、振り返ってみれば何もない一日だったなあと感じたのではないでしょうか。実際には、細かい部分で見ていくと、まったく何もなかったわけではありません。些事と呼べるようなことはいくつもあったのでしょう。しかし、一日を総合的に捉えると「なにもない或る水彩画のような一日」だったということです。

「水彩画」の喩えがとてもイメージしやすく、何もない感じを表現するのにぴったりだと感じます。空白のキャンバスではなく、そこには絵が描かれているので、「なにもないこともない」なのです。しかし、一枚の水彩画として見れば、透明感をもったそのイメージは「なにもない」として感じられるのではないでしょうか。

ただ、水彩画のような一日も素敵な一日ではないかと思うのです。水彩画が嫌いだという人はあまりいないのではないでしょうか。油彩画のような重厚で密度の濃い一日も素晴らしいのですが、水彩画のような淡い一日もそれはそれで愛すべき一日だと思います。

「なにもない或る水彩画のような一日」は、否定的にこの一日を見ているのではなく、むしろ肯定的に捉えていると受け取りたいと思います。

夕風が窓から窓へ通りゆく淡さにひとひ終へてしまひぬ 菅原百合絵『たましひの薄衣』

「夕風が窓から窓へ通りゆく」のを「淡さ」と捉えています。そして、そのような淡さに今日の一日は終わってしまったと詠われています。

夕風は、窓の外からやってきて、そしてまた別の窓から静かに出ていったのでしょうか。特に荒れることもなく、夕風自身の存在感すらも誇張することなく、ただ淡々と窓から窓を通り抜けていった様子が浮かんできます。

夕風が通り抜けることは、特段印象に残るような出来事ではないでしょう。だからこそ、そこに「淡さ」を見てしまうのだと思います。このような淡さに一日が終わってしまったことを主体はどのように感じているのでしょうか。残念がっているのでしょうか。それとも、そういう日もあるよねと受け入れているのでしょうか。

「終へてしまひぬ」といういい方に、こんなはずではなかったという後悔が少し滲み出ているように感じます。本当はもう少し「濃い」一日を想定して過ごそうと考えていたのかもしれません。しかし、夕方になってみると、今日一日は淡いものだったなと感じてしまったのでしょう。

でも、このような淡い一日があってもいいのではないかと思います。夕風が窓から窓へ吹いていくところに意識を向けられるのは、とても豊かなことではないでしょうか。慌ただしくしていたら、とても夕風に目を向けることはできないでしょう。夕風に淡さを見いだす気持ちが、もうすでに優しさを伴っているように感じます。

夕風の優しさと、主体の優しいまなざしが印象深く残ります。

なにもせずに終わった今日をどうにかこうにか延ばそうとして起きている 島楓果『すべてのものは優しさをもつ』

何もしなかった今日一日に後ろめたさを抱えているのでしょうか。

何かを行った今日という実績をつくりたくて、そして納得したくて、日が変わっても寝ずに起きているのかもしれません。納得して一日を終えたいという気持ちはよくわかります。眠りにつく前に「今日はいい一日だった、充実していたなあ」と感じることができたら幸せですね。反対に「何もできない一日だった」と自分を責めてしまうと、心地よく眠ることもできないでしょう。

ただし、もし何もできなかったとしても、自分を責める必要はまったくありません。そんな日もあります。何もなかったと思える日も素晴らしい一日ではありませんか。そういう空白や余裕はきっと新しい何かを受けとるスペースになっていることでしょう。

 「どうにかこうにか」には必死さというよりも、客観的な視点をもった落ち着きの余裕を感じます。ですから、「なにもせずに終わった今日」に納得はいっていないにしても、ある程度あきらめて受け入れる覚悟はあるのかもしれません。受け入れてしまえば、「なにもせずに終わった今日」も、人生においてはかけがえのない一日だったと気づくことができるのではないでしょうか。

何もすることのない日があなたにはあつたでせうか 影と飛ぶこゑ 魚村晋太郎『銀耳』

この歌も「何もすることのない日」を詠っていますが、「何もすることのない日」に対するもやもや感のようなものを感じる歌です。

「影と飛ぶこゑ」とあるので、鳥か何かのことを指しているのでしょうか。仮に鳥だとして、その鳥の姿そのものを見たというのではなく、その鳥の影を見て、声を聴いたという状況だったのではないかと思います。

つまり、そこに本体への直視はありません。見えていたのは、そして聞いていたのは、影と声という、鳥の本体そのものではなく、本体から派生された分身のような存在だったのです。ここに、本体に直接的に接することができないもどかしさのようなものが表されているのかもしれません。

さて、そのような状況において核となるのは「何もすることのない日があなたにはあつたでせうか」という問いかけです。特定の「あなた」でしょうか、それとも読み手全般に対する「あなた」でしょうか。

いずれにしても、この歌を読んだ読み手はドキッとするはずです。「あなた」といわれる以上、自分ではなかったとしても、この問いかけを自分から無視できずに受け取ってしまうのではないでしょうか。

「あなたにはあつたでせうか」は、語感から結構強さを伴っているように感じ、問いかけなのですが、詰問のイメージも含んでいるような印象を受けてしまいます。主体は答えを求めているわけではありません。この問いかけを投げかけることができただけで、目的は達成できたのかもしれません。

さて、この歌の「何もすることのない日」を、主体はどのように捉えているのでしょうか。肯定的に捉えているのか、それとも否定的に捉えているか、どちらでしょうか。主体は自分自身「何もすることのない日」を幾度も経験したことがあるのだと思います。つまり、私にはそのような日が何度もあったのだが、あなたにはあったのですか、といったイメージでしょうか。そう考えると、主体は「何もすることのない日」を全肯定しているわけではなさそうです。しかし、全否定とも違うように感じます。はっきりとはわかりませんが、ここには複雑に入り交じった感情があるのかもしれません。ただ「何もすることのない日」がどんな日であるか、主体は経験として知っているのでしょう。

「何もすることのない日」を手放しで喜ぶことはできないけれども、完全否定はしたくない感じでしょうか。「何もすることのない日」を否定することは、そのような日を経験してきた自分自身を否定することにつながるのかもしれません。ですから、そのような日に対する愛着や懐かしさは少なからずあるのだと思います。

最初に述べた鳥の本体に迫れないもどかしさは、相手に対する問いかけとしてしか提示できないはがゆさにつながっているのかもしれません。

しかし、「何もすることのない日」は、それはそれで貴重な日であったことだけは伝わってくるのではないでしょうか。

かがまりてもやしのひげ根をとる厨 些事にこだはる日は平和なれ 蒔田さくら子『標のゆりの樹』

料理にもやしを使うとき、「もやしのひげ根」をとる人とそうでない人がいると思います。またどんな料理にするか、誰にその料理を出すかによっても、変わってくるでしょう。もやしのひげ根をとる理由は、その見た目や食感が主なものだと思いますが、ひげ根をとった方が長持ちするようです。

この歌は、体を小さく丸めてもやしのひげ根をひとつひとつとっている場面が詠われています。

そして、もやしのひげ根をとる行為を「些事」と詠っているのです。ひげ根をとってもとらなくても、そのまま調理して食べることができるわけで、確かにもやしのひげ根をとる行為は「些事」といえば些事と呼べるものかもしれません。

けれどもこの日はそんな些事にこだわって、ひげ根をとっているのです。そして、そんな一日を「平和」だとつくづくと感じているのでしょう。

「平和」であるからこそ、もやしのひげ根をとるといった些事にこだわることができるのかもしれません。緊急事態であったり、日々に余裕がなければ、もやしのひげ根をとるという行為はたちまち優先順位が下がってしまうでしょう。
もやしのひげ根をとるという具体的な行為を通して、些事にこだわることができることのありがたさがあふれ出ています。

凡庸の一日ひとひのをはり潮にほふ畑に堀りし生姜美味しも 伊藤一彦『月の夜声』

「潮にほふ」とあるので、海の近くにある畑でしょうか。一日の終わりに、その畑で生姜を掘ったのでしょう。そして、堀った生姜を食べたのです。生姜はおいしかったと詠われています。

自ら掘った生姜があり、その生姜を味わうことができて、食べたらとてもおいしかったとなれば、もう素敵なことではありませんか。そして、ここで注目したいのは「凡庸の一日のをはり」です。

主体は、一日を「凡庸」と見ていますが、決してこの一日をかなしいものとも残念なものとも思っているわけではありません。一般的に「凡庸」は平凡で特徴がないといった否定的なニュアンスで受け止められがちですが、この歌においての「凡庸」は必ずしも否定的な捉え方だけではなさそうに感じます。

それはこの歌から「凡庸」に対する愛着のようなものを感じるからです。たとえ凡庸であっても、一日を終えることができた安心感や感謝が伝わってこないでしょうか。そして、生姜を掘ることができて、おいしく食べることができることは、それだけで素晴らしいことだと感じます。凡庸とはいいながらも、このような経験ができる一日はありがたいのではないでしょうか。

そう考えると、「凡庸の一日」は決して悪いものではないように思えてきます。殊更何か特別で華々しいことのある一日ではなかったとしても、生姜を掘って食べてできる一日の終わりをもつことができるのは、得難いことかもしれませんし、その瞬間が輝いてみえるのではないでしょうか。

「凡庸の一日のをはり」のよさが存分に伝わってくる歌ではないでしょうか。

さて、以上、平凡や何もない状態を感じる歌を見てきました。平凡や何もない状態を嫌う人もいると思います。しかし、ここで見てきた歌のように、何もない状態は決してマイナスなことばかりではありません。

「何もない」は、豊かさの現れだと思います。

ここでいう豊かさは、モノや金銭的な豊かさではなく、心の豊かさです。何もない一日をどう感じられるかということです。

何もない一日を残念がるのではなく、何もない平凡な一日を得難い貴重な時間として接することができれば、人生はもっと充実して感じられるのではないかと思います。

ときには「平凡こそ最良」を意識して、一日を過ごしてみるのもいいのではないでしょうか。

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