tankalife「人生を1mmでもよくしたい」の第30回です。今回から「受容」について見ていきたいと思います。「受容」の初回は「気楽に考え、思いつめない」と題して、思いつめない生き方について見ていきます。
なぜ生きているのでしょうか。生きている目的は何でしょうか。
誰しも一度はこのような問いに直面したことがあるのではないでしょうか。特に人生がうまくいっていないと感じたときに、こんなにうまくいかないことが続いて生きているのもつらいのに、なぜ生きているのだろうと疑問が浮かんでくることがあるのではないでしょうか。
「なぜ生きているのか」に対する答えは、人の数だけあるといえるかもしれません。しかし、細かい差はあるにしても、端的にいってしまえば、人は誰しも幸せになるために生きているといえるのではないでしょうか。
では、どうすれば幸せに生きることができるのでしょうか。これをいってしまえば、身も蓋もないかもしれませんが、自分が今この瞬間生きていることが幸せだと思えれば、もうそれだけで幸せといえるでしょう。
大きな家に住んでいることでも、高級車を所有していることでも、預貯金がたくさんあることでも、社会的地位を築いていることでもありません。もちろん、それらを否定するものではありませんが、家やお金がいくらあっても幸せを感じられない人だっているでしょう。一方、住まいは賃貸で小さな部屋に住んでいても、あるいは預貯金があまりなかったとしても、日々の生活に幸せを感じられる人もいるのです。
「がんばる」ことが美徳とされる傾向がある世の中ですが、果たしてがんばることがその人にとって、本当に幸せに生きることにつながるのでしょうか。それは各自が今一度考えてみた方がいいのではないかと思います。がんばることが生きることの目的なのか、幸せになることが生きることの目的なのか。このような二者択一にきれいに分割できるものでもないかもしれませんが、もし後者を優先するのであれば、必ずしもがんばって生きる必要はないのではないでしょうか。
がんばらない、気楽に考える、執着しない、楽観的、開き直る、思いつめない…。
人によっては、このような生き方は甘いという人もいるかもしれません。しかし、このように捉えることで、幸せに生きていくことができるのであれば、その人にとっては「がんばらない」を選択することは、甘いことでも駄目なことでもなく、幸せに生きるために最適な選択といえるのはないでしょうか。
人生をもっと気楽に考えて、思いつめずに毎日を送ることができれば、もっと生きやすくなるのではないでしょうか。
がんばるのが好きな人はがんばればいいと思います。そして、がんばることが自分の幸せにつながるのであれば、それは大変素晴らしいことでしょう。一方、がんばらないことが自分の人生にしっくりくるという人は、無理にがんばる必要はないと思います。がんばらないことから見えてくる幸せというものがきっとあるでしょう。
自分は今、正直にどう感じているのかを改めて問い直すことが大切なのではないでしょうか。特に、今の人生がつらいと感じている人ほど、思いつめて考えている可能性がありますので、もう少し気楽に人生を捉えてみてはいかがでしょうか。
それでは、気楽や、がんばらないを感じさせる短歌を見ていきたいと思います。
ひぢまくらして客を待つ信楽の狸もぐわんばらないを主義とす 吉岡生夫『草食獣 隠棲篇』
信楽は滋賀県甲賀市に位置する地名で、陶磁器の信楽焼で知られています。そして福を呼ぶ縁起物として、信楽焼の狸の置き物が有名です。なぜ狸かといえば、「他を抜く」、「太っ腹」がその由来ともいわれています。信楽にいくと、店先や道沿いで小さな狸から大きな狸までたくさんの狸の置き物を目にすることができます。
「ひぢまくら」をしている狸の姿から、そして「ぐわんばらないを主義とす」から、無理をせず、ありのまま生きていこうという様子が伝わってきます。実在の狸ではなく、信楽の狸というのもポイントで、絵や作品などでつくられる狸のとぼけた顔のイメージともこの雰囲気がつながっているでしょう。
旧かなづかいの「ぐわんばらない」が魅力的ですね。「がんばらない」よりも「ぐわんばらない」の方が、よりだらしない感じがして、この主義にはよく合っているのではないでしょうか。
「狸も」の「も」からは、狸を見つめる自分自身も「ぐわんばらないを主義と」していることが窺えます。もっといえば、狸の主義をもち出しながら、実は自分の主義を表現しているのです。自分の主義を表面立てていうよりも、狸を引き合いに出している点が非常に巧いところです。
どのように生きていくかは本当に人それぞれですが、「ぐわんばらない」主義もそのひとつの生き方でしょう。「がんばる」ことも大切ですが、「ぐわんばらない」ことも同じくらい大切であることをこの歌は気づかせてくれるのではないでしょうか。
少し軽く生きんとおもう餡ぬきの饅頭のような雲浮くかなた 杉﨑恒夫『パン屋のパンセ』
自分の人生をどのように捉えて生きるのかは人それぞれかもしれませんが、重たく見つめて生きるのか、それともあまり重たく考えずに生きるのか、さまざまあるでしょう。また時や状況によっても、その捉え方は変わってくるでしょう。
この歌は「少し軽く生きんとおもう」と始まります。主体は、それまで「軽く」は生きていなかったのでしょう。それがふとしたことをきっかけに、自分は少し重たく考えすぎて生きていたのだと気づいたのではないでしょうか。そして、その生き方が少ししんどく感じてしまったのかもしれません。
三句以降は「少し軽く生きんとおもう」を象徴するような状況が展開されます。一般的に大抵の「饅頭」には「餡」が入っていると思いますが、ここで登場する喩えは「餡ぬきの饅頭」です。饅頭において、周りの皮よりも中心の餡の方が重たいでしょう。その重たい餡が抜かれた饅頭は、すでに饅頭とは呼べないかもしれませんが、一応饅頭と呼ぶとすれば、軽々とした饅頭になっていることでしょう。
彼方に広がる光景として「餡ぬきの饅頭のような雲」が浮いています。それは暗く重たい雲ではなく、明るく軽い雲でしょう。ふわふわと風に乗って、どこまでも飛んでいきそうな雲を想像できます。その軽い雲と自分を対比させたとき、自分の生き方はどうも重たく感じられたのではないでしょうか。何かに固執していたのかもしれません。
重く、厳しく、ストイックに生きる生き方もあります。そのような生き方が合っているという人もいます。その方が心地よいと感じる人がいます。それをわかったうえでいうのですが、やはり私は、この歌のように「少し軽く生きんとおもう」に賛成してしまうのです。
春だから生きているのかいないのか曖昧にしていい春だから 谷川電話『深呼吸広場』
白黒はっきりさせないと気が済まないという人もいるでしょうが、私は結構曖昧な状態というのを好みます。量子力学においても、観測するかしないかによって結果が変わるといわれていますし、シュレディンガーの猫の思考実験はまさにふわふわした状態をいっているのだと勝手に捉えています。
ただ、特に仕事において、曖昧なことは許されないケースが多いでしょう。しかし、はっきりしないといけないことばかりが人生では途端に息苦しくならないでしょうか。この歌は「曖昧にしていい」という勇気を与えてくれないでしょうか。
幽霊などではなく人間である場合、「生きているのかいないのか」を思っている主体は、きっと生きているでしょう。ですから「生きているのかいないのか」を生と死の観点、つまり心臓が停止しているかどうかという肉体的な死を境界として真面目に捉えてしまうと、この歌はあまり面白くありません。
この歌における「生きているかいないのか」は、厳密に突きつめていくのではなくて、もう少し余裕をもって読みたいと思います。つまり、生きてはいるのだけれど生きている心地がしないといった状況や、何となく自分自身がふわふわとして感じられるといった場合、あるいはそれこそ幽霊のような人間ではないものからの視点のように捉えてもいいのかもしれません。
ポイントは「生きているのかいないのか」が「曖昧にしていい」につながっており、「生きているのかいないのか」の曖昧さが増せば増すほど、この歌の魅力は増していくのだろうと思います。
曖昧にしていい理由は「春だから」なのが、わかるような気がします。初句と結句で二回登場し、サンドイッチするかたちで「春だから」が出てくるのも、視覚的にも音の繰り返しの点でも工夫がこらされ、印象に残るようになっています。
「春だから」を「夏だから」、「秋だから」、「冬だから」に置き換えても一首の歌としてかたちは成り立つと思いますが、春夏秋冬の中で最も「曖昧」に通じる季節としては、やはり「春」のように感じます。
「曖昧にしていい」は誰かに強要するわけでもなく、強く主張するわけでもなく、どちらかといえば、主体が自身を納得させるような感じで、つぶやきに似た印象をもって伝わってくるように思います。しかしそのつぶやきのような「曖昧にしていい」が、読み手にとっては何かを許されているような感じがして、この歌を読むと少し心が軽くなる、そんなふうに感じられるのではないでしょうか。
「春」、「生きている」、「曖昧」。わかりやすい言葉で複雑にならないように詠われていますが、読めば読むほど、その奥深さに気づいていくような一首だと思います。
白き花の地にふりそそぐかはたれやほの明るくて努力は嫌ひ 紀野恵『フムフムランドの四季』
「かはたれ」は明け方の薄暗い時間帯を指す言葉です。
庭でしょうか、道沿いでしょうか。山手の方かもしれません。白い花が明け方の薄暗いときに、地面に散っている様子が詠われています。「ふりそそぐ」とあるので、花びらが一枚散って終わりというのではなく、かなりの数の花びらがしきりに降り注いでいる情景が浮かんできます。
明け方の薄暗い時間とはいえ、真夜中ではありませんし、もうすぐ太陽が昇る時間帯ですから、「ほの明るくて」と詠わて、だんだんと明るさが増してきている様子が窺えます。
さて、四句までは語の選択や語の順番も相まってクラシックな趣きのある詠い方で、白い花と明け方のコンビネーションが感じられますが、結句で一転「努力は嫌ひ」と詠われています。この突然の結句が、この歌の一番の見どころですが、四句までの雰囲気やリズムを結句でひょいっと躱されたような感じがします。もちろんこの躱し方が絶妙で、読み手はこの躱しに魅力を感じてしまうのですが。
さて、「努力は嫌ひ」とさらっといってのける感じが、まさに「努力は嫌ひ」と考えている人生観とマッチしているように思います。努力することが嫌いなら、努力は嫌いだとすっといってしまえばいいのだと思わせてくれるのです。もちろんすっといえないかもしれませんが、この歌のように無理なく「努力は嫌ひ」と声に出すことができればいいなあと憧れます。もしも努力が嫌いなのであれば、嫌いなまま努力し続けるよりも、「努力は嫌ひ」といってしまう方が、よほど自分の人生に正直なのかなと感じます。
明日? そんな遠くの事は思はずに柚子大根で酒をのんでる 高野公彦『渾円球』
明日の仕事嫌だなあと感じたことのない人はあまりいないのではないでしょうか。
仕事に限りませんが、「明日」のことを考えると憂鬱になることが色々とあるでしょう。もちろん明日から旅行にいくなど楽しいことも待っているかもしれませんが、憂鬱になることの方が多いかもしれません。
さて、この歌では明日は「遠くの事」として捉えられています。主体にとっても、明日は楽しいことばかりではないかもしれません。楽しもうと思っても、どうも楽しめない明日が待っていることもあるでしょう。それでも明日を「遠くの事」として、今日は明日のことを考えず「柚子大根で酒をのんでる」のです。
別の記事「【時間③】5分前でも5分後でもない今を生きる」でも書きましたが、今この瞬間を生きることが大切だと思います。明日のことを思わずに柚子大根で酒を飲んでいる今この瞬間は、本当に素晴らしい時間だと思います。
明日のことを思い悩んで今を蔑ろにするよりも、もっと気楽に考えて、明日のことは明日になればなんとかなるくらいに思っているくらいがちょうどいいのかもしれません。酒を飲んで明日のことを思わずにいる主体の姿が本当に素敵に映ります。
楽観的に生きる
気楽に考えるということについて見てきましたが、楽観主義と悲観主義の対比をした場合、気楽に考えるというのは楽観主義に当たるでしょう。名言を取り上げながら、楽観主義と悲観主義の違いについて触れ、もう少し楽観主義のイメージを深めてみたいと思います。
「楽観主義者はドーナツを見、悲観主義者はドーナツの穴を見る」(作者不明)
(晴山陽一『すごい言葉』)
これはよくわかると思います。ドーナツの穴は、「ない」部分です。悲観主義者は「ない」を見るのが得意ということでしょう。一方、楽観主義者はドーナツ、つまり「ある」をいつも見ているのです。今ここに「ない」ものを見るより、今ここに「ある」ものを見る方が、幸せを感じることはできるのではないでしょうか。
悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである。
(アラン『幸福論』)
アランは、先ほどの対比とは少し違った対比をしています。
「悲観主義は気分によるもの」であるといっています。悲観的な見方は何もそのように見ようと思って見るのではないということかもしれません。悲観的にものごとを見たいと心底望んでいる人はあまりいないでしょう。また、気分が気分を連れてくるということはよくいわれますが、悲観的な考え方は、最初は小さな悲観的見方が連鎖してやがて大きな悲観主義につながることもあるかもしれません。
一方「楽観主義は意志によるもの」といっています。ものごとを楽観的に見ようと思えば、そこには「意志」が必要になるということでしょうか。楽観的に捉えるという意識を常にもって生きていくことは大切なことでしょう。
二人の人が隣同士に住んでいました。一人は、朝目覚めて、窓を思いっきり開けて、「おはようございます、神様!」と言い、悲観的な隣人は、「なんてことだ。朝だ」と言います。(ピーター・バーウォッシュ)
(ロンダ・バーン『ヒーロー』)
こちらは短い喩え話です。この話はとてもイメージしやすいと思います。
果たして、あなたは「おはようございます、神様!」といっているでしょうか。それとも「なんてことだ。朝だ」といっているでしょうか。
どうせ朝を迎えるのであれば、元気よく「おはようございます」といいたいものです。今日も嫌だなと朝に思うより、今日も楽しい一日になるぞと朝に思う方がよほど素敵な一日になるような気がしませんか。
悲観的でいるよりも、楽観的に生きていくという気持ちをもつことが、人生を好転させていくのかもしれません。
楽観的で思い出したのが、シンガーソングライターの関取花の曲「もしも僕に」の歌詞の次の一節です。
それもこれも最後には
笑い話に変えれるように
人生なんてそうさ
ネタ探し
楽しんだもん勝ち
そういうものだよ
人生は「ネタ探し」なのです。人生を思いつめてしまうとつらくなりますが、人生は「ネタ探し」なのだと思えば、随分と気が楽にならないでしょうか。多少うまくいかないことがあっても、いいネタをゲットしたくらいの感じでいればいいのです。
うまくいったことも、うまくいかなかったことも、それらすべてが「ネタ」だと思えば、「ネタ」が多い人生ほど豊かなのかもしれません。
「楽しんだもん勝ち」も本当にそう思います。もっと楽観的に生きていいのだと思います。この歌詞、本当にいいですね。思いつめているときに聴くと、ふっと心が軽くなっていきます。
予定を入れない日をつくる
最後に、気楽に考え、思いつめないことに関連して、あえて予定を入れない日をつくることについて述べて終わりたいと思います。
気楽に考えるひとつのポイントとして、予定を入れない日をつくることもいいと思います。予定があると、それだけであれこれ考えてしまい、気持ちを楽に保つことが難しくなります。
やらなければいけないことがたくさんあると思うと、予定を埋めて、準備をして、いついつまでにこれをやってとやりがちです。でも、あえて空白の日をつくるということも大切だと感じます。空白の日というのは、その時間は何もしていないから、停滞したような気がします。しかし、このような空白の時間を設けて、気楽に考えることは精神にはいいのかもしれません。
あえて何もしない日を設けることを詠った歌があります。
おもひきり怠けてそして早寝せん切なきまでの秋晴れのけふ 小島ゆかり『純白光』
こんな気楽な一日があってもいいのではないでしょうか。
まず「おもひきり怠けて」とあり、この日は自分でもびっくりするくらい思いっきり怠けたのでしょう。普段から怠けている人であれば、怠けに慣れてしまって、思いっきり怠けた感じがしないでしょうが、ここで主体は普段怠けていないからこそ「おもひきり怠け」たのでしょうし、そこに「おもひきり」を本当に感じたのではないでしょうか。
続いて「早寝せん」とあります。本来であれば、夜遅くまで仕事や作業があるのかもしれません。やらなければならないこともきっとあるのでしょう。でも、今日はそれを行わず、早寝をしようというのです。
「切なきまでの秋晴れ」が、より一層この一日を輝かせます。大雨の日に家に籠って、何もしないのとは違います。「切なきまでの秋晴れのけふ」に「おもひきり怠けて」「早寝」をするのです。
秋晴れの日に怠けて早寝することに価値が生まれるのではないでしょうか。
人生を1mmでもよくするひとつのポイントとして、気楽に考え、思いつめないことは結構重要かもしれません。
人生がつらいと感じているなら、人生をもう少し気楽に考えてみてはいかがでしょうか。




