tankalife「人生を1mmでもよくしたい」の第28回(「関係」の第7回)です。今回は「誰かからの応援を原動力にする」と題して、誰かの存在や応援が自分が生きていく力につながることについて見ていきます。
元気いっぱいで活力に充ちているときは、何をやってもうまくいくでしょうし、もし少しぐらいの問題が発生したとしても、ほとんどへこたれることもないでしょう。
しかし、どうにも元気がなく、気分がふさぎ込んでいるようなときはどうでしょうか。やる気も起きず、どうにも人生が楽しくない。時間が経てばよくなるかもしれませんが、なるべく早く何とかいい方向に転換するにはどうするでしょうか。
気分が落ちている自分が、自分自身を励ますことも難しいでしょう。無理に励まそうとしてうまくいかなければ、余計ダメージをくらうこともあるでしょう。
気分が落ちているとき、いい方向へ向かうために一番いい方法は、「誰かからの応援」なのではないでしょうか。
応援と聞くと、「そんな応援をもらえるような有名人でもないし、誰も自分に応援なんてくれないですよ」と思った人も多いと思います。でも、ここでいいたいのは、応援はファンからの応援メッセージだけはなく、もっと広く捉えていいのではないかということです。
つまり、自分を元気づけてくれそうなものすべてを、自分に対する応援だと捉えてみるのはどうでしょうか。
私が青年海外協力隊に参加する前の国内派遣前訓練のときの話です。同時期に訓練を受けた仲間の中に、いつも笑顔でいる人がいました。毎朝、元気よく「おはよう」とあいさつしてくれるし、陳腐な表現かもしれませんが、本当に純粋で太陽のように輝いている存在でした。おそらくその人にとっては、明るく元気に笑顔であいさつすることは当たり前のことで、何も特別なものではなかったのだと思います。すっかり習慣化されたことでしょうし、明るさや元気もこれまでの人生から自然と現れたものだったのだと思います。しかし、毎朝元気に「おはよう」と大きな声でいうようなタイプではなかった私にとっては、このような人もいるのだなとかなり驚いた記憶がありますし、今振り返っても印象に残っています。
明るく元気にあいさつしてくれるだけで、その日一日の私の気持ちも朝からとても気分のいいものになりました。毎日そういうあいさつをしてくれていたので、訓練所にいたときは、毎日元気をもらい、私に気分まで本当に明るくしてくれていたのだと感じています。
相手にとっては何気ない態度やあいさつでも、私にとっては大きな応援になっていたのです。私が勝手に応援だと捉えていただけかもしれませんが、それでいいのです。大切なことは、そのような応援とおぼしき種をいかに見つけることができるかどうかではないでしょうか。
特に、気分が落ちているときほど、応援を見つける力が状況を好転させるのに大変活きてくるでしょう。
人はひとりで生きているわけではありません。誰かとの関係の中で生きているのです。そうであれば、誰かからの応援を自分の力に変える原動力にしてみてもいいのではないでしょうか。人間関係の嫌な面を見るのではなく、できるだけいい面を見るように心がければ、きっと誰かからの応援が自分に届いていることに気づけると思っています。
これから応援について詠われた短歌を見ていきますが、こういう歌を読むことで、さらに活力をもらえる気がします。
君からのエールはつまり人生を走り続けるためのガソリン 萩原慎一郎『滑走路』
「人生を走り続けるため」に必要なものは何でしょうか。
夢でしょうか、地位でしょうか、財力でしょうか、環境でしょうか、人脈でしょうか。色々と考えられると思います。
人生が一瞬で終わるであれば、人生に必要なものをあれこれ考えることもないのかもしれません。でも、人生はそれなりの長さがあります。「人生を走り続けるため」の何かをあれこれ考えるには、充分な時間があるでしょう。
この歌は、「君からのエール」が「人生を走り続けるためのガソリン」だと詠っています。
「君からのエール」はお金や食べ物と違って、生きていくうえで必ずしもないと生きていけないかというとそういうものでもありません。「君からのエール」がなくても、お金や食べ物があれば、とりあえず命を永らえることはできるでしょう。一方、「君からのエール」が山のようにあったとしても、お金や食べ物がなければ、生命を維持することは難しいかもしれません。つまり、「生存」という意味において「君からのエール」は直接的には関与しないかもしれません。
しかし、「生きる」という点においては、「君からのエール」は何にも増して大切な存在なのではないでしょうか。「人生を走り続ける」は、単に生命を維持することを意味しているのではないでしょう。いかに充実した人生を駆け抜けていくのか、少しでも生きていてよかったといえる人生を進んでいくのか。それこそが「人生を走り続ける」ことであり、そのために必要不可欠なものが「君からのエール」なのです。
ガソリンのない自動車が動かないように、「君からのエール」のない「人生」は展開することのない人生なのではないでしょうか。いいことばかりではない人生ですが、この人生を前に押し進めてくれるのは「君からのエール」以外にないのです。それほど「君からのエール」は主体にとって、とても大切なものなのだと感じます。
「君からのエール」があれば、人生の数々の難題も乗り越えていける、そんな気にさせてくれる一首です。
舫われた二艘の舟として生きるきみの存在がわたしの浮力 九螺ささら『ゆめのほとり鳥』
「きみ」と「わたし」の関係の喩えとして、「舫われた二艘の舟」が登場します。二艘の船はロープでしっかりとつなぎとめられているのです。そのような二艘の舟として生きていくことに対する固い決意が窺えます。
では、この二艘の舟はまったくの同種同型かというと必ずしもそうとはいい切れなさそうです。力関係が均等という感じでもない感じがします。それは下句で「きみの存在がわたしの浮力」と詠われているからです。
「わたし」を浮かせてくれる、つまりわたし自身である舟が沈まないのは、「きみの存在」のおかげだということです。ここに「きみの存在」の応援を感じるのです。もしかしたら、「きみ」は応援しているつもりは一切ないかもしれません。でも「わたし」にとって、「きみの存在」は「浮力」につながるほどの力があるのです。まさに、「きみ」からの応援・エールに他ならないのではないでしょうか。
「きみの存在がわたしの浮力」だとして、「わたしの存在がきみの浮力」かどうかは詠われていないのでわかりません。必ずしもそうではない可能性も考えられます。「わたし」の側は「きみの存在」をとても大切に思っているのですが、「きみ」の側がわたしの存在をどう捉えているかは、「わたし」の側からは想像するしかありません。
しかし、「舫われた二艘の舟」という意識であり、「きみ」は「わたし」に対して大切な存在である状況からして、わたしの存在はきっと「きみ」の浮力になっているのではないでしょうか。同種同型ではないにしても、互いが互いを必要としているのでしょう。それでこそ、舫われた二艘の舟であり、一蓮托生なのだと感じます。
「わたし」が浮いて生きていられるのが「きみの存在」であるといえるところに、相手への愛情と信頼があふれ出ているような歌ではないでしょうか。
次の一首も、自分と相手との間に応援が感じられる歌です。
僕のこと自慢に思う人がいて夜道がすごくすごく明るい 水野葵以『ショート・ショート・ヘアー』
「僕のこと」を自慢に思ってくれる人がいるようです。その人は、家族かもしれませんし、親しい友達かもしれません。あるいは、これまではあまり接点のなかった人かもしれませんが、自慢に思ってくれるくらいだから、やはりある程度気ごころの知れた仲と考えるのがいいでしょう。
自分のことを自慢に思ってくれる人がひとりでもいるというのは、とても幸せなことではないでしょうか。自分が何かを成し遂げたことに対しての自慢なのか、それとも人との関わり合いにおける接し方が自慢なのか、人柄が自慢なのか、色々と考えられると思いますが、いずれにしても自分のことを自慢に思ってくれていることは確かなのです。
相手にとっては「僕」が大変自慢なのでしょう。誰か別の人に、その自慢を伝えたくて仕方ないのかもしれません。
「夜道がすごくすごく明るい」に、「僕」の喜びようがあふれているように感じます。本来暗いはずの夜道が明るいということ、そして「すごく」の繰り返しは、見た目の明るさだけに留まらないでしょう。「僕のこと」を自慢に思ってくれる人がいることこそが、夜道を明るく照らしているのです。
もちろん「夜道」を、人生がうまくいかない暗い時期と比喩的に捉えることもできるでしょう。でも、比喩として捉えなくても、実際に夜道を歩いていて、その夜道が明るく感じられたという状況として素直にとってもいいと思います。夜道の明るさは、主体の心の明るさです。
「僕のこと自慢に思う人」は、図らずも「僕」を応援するかたちになりましたが、「僕」にとってはとてつもなく大きな応援をもらったと感じているのだと思います。
えらい、って誰かに言ってほしかったような気もする疲れていれば 石井僚一『・』
「えらい」は「偉い」のことでしょう。「えらい、って誰かに言ってほしかった」というのは、よくやったねといってほしかった、褒めてほしかったというようなイメージでしょうか。
何か大きなことをやり遂げたのでしょうか。あるいは、そんな大それたことではないにしても、日々の仕事や作業を丁寧に取り組んだことに対する「えらい」がほしかったのかもしれません。どちらにしても「疲れていれば」とあるので、何もしていないわけではなく、何かをやったことに対して「えらい」がほしかったのだと思います。
「ような気もする」と書かれていますが、本当は「気もする」ではなく、誰かにはっきりと「えらい」といってほしかったのでしょう。そのひとことで、自分が随分救われることを、主体は想像しているのかもしれません。
「疲れていれば」とありますが、疲れていても、疲れていなくても、「えらい」といってくれたら、元気をもらえるのだと思います。ただ、疲れていれば、一層自分の元気につながるのではないでしょうか。
しかし、「言ってほしかった」とあるので、いってほしいと思っていながらも、現実は誰も「えらい」とはいってくれなかったのでしょう。
何も金銭やモノを求めているわけではありません。「えらい」の言葉だけで、そのひとことだけで、自分は今よりもっと元気になれるのに、誰もそのひとことをくれなかったところに若干のさびしさが漂っているように感じます。
誰かからの応援は求めても得られないときもありますが、予想していないタイミングでもらえることもきっとあるでしょう。今回、「えらい」は得られませんでしたが、別の機会に必ず「えらい」を誰かがいってくれるときがあると信じてみたいと思います。
どうしようもなければいいよぼくの肩をコインパーキング風につかって 斉藤斎藤『渡辺のわたし』
こういうさりげない応援もあるのかなと思います。
面白いのは「ぼくの肩をコインパーキング風につかって」と詠っているところです。「コインパーキング風」とはどういうことでしょうか。コインパーキングは、月極駐車場と違い、一時的に駐車するスペースです。短時間から利用できますし、いつでも使える点も特徴でしょう。
「ぼくの肩をコインパーキング風」に使うというのは、ぼくの肩にもたれてもいいよということをいっているのでしょう。しかも、いつでも使っていいし、使う時間も特に決まっていないということです。
ぼくの肩を使っていいのは、「どうしようもなければ」の場合です。その場合に限って、ぼくの肩をコインパーキング風に使ってもいいのです。
人はどうしようもないと感じるとき、自分で解決できればいいのですが、そうはいかないから、どうしようもないと感じているのでしょう。そんなとき、頼りたいのは自分ではなく、誰か他者なのです。誰かに話を聞いてもらう、誰かにそばにいてもらう。ただそれだけで、随分と気持ちが軽くなることがあると思います。
そして、誰かの肩に凭れかかりたいと思うときもあるでしょう。その状況が、まさにこの歌なのです。そのときに「ぼくの肩をコインパーキング風」に使ってもいいといわれたら、どう感じるでしょうか。その人に、ありがとうっていいたくなるのではないでしょうか。そして、その肩に凭れかかるのではないでしょうか。
ぼくの肩を使っていいよ、コインパーキング風に使っていいよというのは、いった相手側にも若干の照れがあるのかもしれません。月極駐車場のようにずっとしっかりぼくの肩を使っていいというのではありません。コインパーキング風というライトな感じが、肩を使っていいよという発言をいいやすい状況にしているのではないでしょうか。
いわれた方はその相手に対して甘えてしまいたくなります。相手から主体に対する応援の意識はそれほどないのかもしれませんが、この歌はやはり主体に対する応援の歌だといいたいです。全力の応援ではなく、さりげない応援。さりげないけれども、とても心に沁みる応援なのではないかと感じます。
以上、誰かからの応援を思わせる歌を見てきましたが、いかがでしたでしょうか。
もうだめだと思ったとき、誰かのひとことに救われたことはないでしょうか。そのひとことが、自分を勇気づけ、原動力になって、また人生を継続できるようつながったことはないでしょうか。
何も応援は、多数の人からもらう必要はありません。たったひとりからの応援が、とてつもなく大きな応援であることもあると思います。
昔、仮面ライダーや戦隊シリーズを見るのが好きでした。何度もやられながらも、最後には悪を倒してしまう姿は、子どもごころにとてもかっこよく映りました。おそらく、仮面ライダーや戦隊シリーズの隊員は多くの子どもたちから、応援をもらっていたと思います。
でも、みんながみんな仮面ライダーや戦隊シリーズのような地球を救うヒーローにはなれなくてもいいのです。たったひとりの誰かが自分のことを応援してくれている。その応援が、自分を輝かしてくれるきっかけになることがあるでしょう。自分が輝くことは、そのたったひとりのためのヒーローになることです。もし、そのひとりのためのヒーローになることができるのであれば、それはとても素晴らしいことなのではないでしょうか。
誰かからの応援を原動力にする。
自分の周りに、自分への応援がないのどうか、改めて見つめてみてはいかがでしょうか。




