tankalife「人生を1mmでもよくしたい」の第25回(「関係」の第4回)です。今回は「自分軸を譲らない」と題して、自分軸と他人軸について見ていきます。
ランチのメニューを、どのように選んでいますか。
私の例で見て見ます。親子丼で有名なお店があることを知っていました。いつかいってみたいと思いながら、なかなかいく機会に恵まれなかったのですが、先日やっと訪れることができました。
もちろん、親子丼を食べる予定でいったのですが、店についてみると、「牛しゃぶ&温野菜の日替わり定食」がおすすめとして表示されていました。店の中を見ても、ほとんどの人がその日替わり定食を頼んでいる様子です。
日替わり定食がおすすめでおいしいのかもしれない。座席も混んでいるし、昼どきの忙しいときだから、日替わり定食を注文した方が、お店の人も楽でスムーズかもしれないと一瞬思いました。
でも、自分がこの店にきたのは、日替わり定食を食べるためではありません。評判の親子丼を食べるためにきたのです。いくら周りが日替わり定食であったとしても、自分が食べたい親子丼を頼むのが、自分の気持ちに正直な行動といえると思います。お店の人も食事を提供する側ですから、忙しいときであっても親子丼を頼んだからといって悪い顔はしないでしょう。
ランチの選択の話なのにちょっと大げさに思えるかもしれませんが、これが「自分軸を譲らない」ということだと思います。つまり、自分の価値観や基準に基づいて判断するということです。周囲が日替わり定食を頼んでいるから、お店が混んでいるから、自分が本当に食べたいものを食べずに違うものにするというのは「他人軸に依る」ことではないでしょうか。
もちろん、相手の気持ちを配慮するということは大切なことです。ただ、その判断基準が「自分」なのか、「他人」なのかが重要です。最終的に自分で納得したうえで日替わり定食を選択したのであれば、何の問題もありません。しかし、日替わり定食選択の基準が他人を基にしているのであれば、それは「自分軸」からずれていることになりはしないでしょうか。
他人には他人の生き方や価値観があるでしょうし、同じように自分には自分の生き方や価値観があるのです。
「自分軸」は何も相手に迷惑をかけたり、乱暴に振る舞ったりすることではありません。「身勝手」とは違います。
この「自分軸」を大切にすると、随所の選択の場面において、かなり楽に判断できるようになるのではないでしょうか。
それでは、自分軸を感じられる短歌を見ていきたいと思います。
秋日傘つつと回してここにいるわたしはわたしの地軸でいいよ toron*『イマジナシオン』
生きていく中で、自分と他者を比べてしまうことは少なからずあるでしょう。そして自分より相手の方が優れている、恵まれていると思うこともあります。
また自分がどうありたいか、どうしたいかではなく、相手がどう思うか、どう見えるのかを優先して日々を過ごしている人もいるかもしれません。自分軸、他人軸という言葉がこれに当たります。
人はひとりでは生きていけず、絶えず誰かとの関係の中で生きていくことになるのですが、そのときに他者との比較ばかりしていたり、自分軸ではなく他人軸ばかりを重要視していると、とても生きづらくなるのではないかと思います。
この歌は、そんな生きづらさを抱えている人にこそ知ってほしい歌です。
この一首は自分軸を全面肯定した歌といえるでしょう。
「わたしはわたしの地軸でいいよ」のフレーズが何ともやさしく語りかけてくるではありませんか。「地軸」という言葉がスケールの大きさを表していて、地球の地軸の少し傾いた感じ重なります。この軸の傾きは、「秋日傘」を差したときの中棒の傾きとも呼応しているでしょう。
上句も魅力的で、特に「つつと回して」の「つつ」というオノマトペが何ともいえない軽やかさを与えてくれます。
秋日傘を回す行為、ここにいること、そしてわたしはわたしでいいという肯定。これらすべてがつながって、一首は読者の存在を、ただそこにいるだけでいいことを認めてくれているような印象を受けます。
この歌を読むたびに、自分の存在を認めること、そして自分はどうありたいのかということを振り返らせてくれるように感じます。
理解されなくてもいいのだ生きている時間はそんなに長くないから 川本千栄『樹雨降る』
他者に理解されるかどうかというのは、日々生活する上で割と大きな位置を占める要素かと思います。
職場にしても、学校にしても、家庭にしても、地域のコミュニティにしても、他者と関わり合う中で、他者に理解されなければ、やがて孤立していくかもしれません。理解されて初めてつながりが生まれると思いますが、理解されないままだと、人は離れていくでしょう。
ですから大抵の場合、輪からはみ出したくないために、理解されるにはどう振る舞えばいいかを考えながら生きているのではないでしょうか。
しかし、この歌は全く反対の「理解されなくてもいいのだ」という強いフレーズから始まっています。
他者に理解されずに生きていくよりも、理解されて生きていく方が生きやすいとは思います。
ただ人生というのは、長いようで短いものなのかもしれません。特に短命で終わった場合はなおさらでしょう。そのような短く貴重な人生において、他者に理解されようとすることばかり考えて生きている暇はないよとこの歌は教えてくれているようです。
つまり、自分の人生という大きな視点に立ったとき、他者に理解されるかどうかよりも、自分の人生を貫けるかどうかの方がはるかに重要だと感じさせてくれるのです。
この歌は、歌集の中では、画家ゴッホを取り上げた「ひまわり」と題された一連にあり、ゴッホの絵またゴッホその人について詠っている歌でもありますが、同時に作者が自らを見つめ直している歌でもあるでしょう。
死を迎える瞬間に、もっと自分を貫けばよかったと後悔だけはしたくない、この歌を読むとそのような思いが湧き起こってきます。人生は長くない、だからもっと自分を貫いていい、読むたびに鼓舞してくれる歌で、平易な言葉で書かれていますが、とても力強さを感じます。
「あなたには、自分の中に一本の軸がありますか」と、改めて問いかけてくるような一首です。
満月が「たとえ一分一秒も他人のためには使うな」と言う 谷村はるか『ドームの骨の隙間の空に』
満月の輝く夜、見るともなく満月を見ていると、まるで満月が語りかけてきたように感じた場面でしょう。
満月が主体に対して何を語りかけてきたのかといえば、「たとえ一分一秒も他人のためには使うな」ということです。
「人のためになることをしなさい」「自分のことより他人を優先しなさい」などと、何度もいわれてきた人も多いのではないかと思います。
ここで考えてみたいのは、自分の人生において最も重要なのは「自分」なのか、それとも「他人」なのかということです。
人のために何かを為すこと、自分のことを後回しにして他人のことを優先して考えたり行動したりすることは、一見すばらしいように思います。
しかし、「人のために」何かをする、「人のために」時間を使うというときに、自分が本当に心の底からそれを望んでいるのかということを問いかけてみる必要があるのではないでしょうか。
自分自身が心底望んでいる場合はいいのですが、そうではなく、自己犠牲のような思いを持ちながら「人のために」何かをすることは、本当に自分にとって最善の生き方なのでしょうか。
この歌では、「たとえ一分一秒も他人のためには使うな」とありますが、裏を返せば、すべての時間を自分のために使いなさいということです。
自分の人生のすべての時間を自分のために使うということは、当たり前のようでいてなかなかできるものではないのかもしれません。人は人との関わりの中で生きていますから、自分が望まない時間の使い方、他人を優先した時間の使い方をしてしまうこともあるでしょう。ですから、時間のすべてを自分のために使うことができたとすれば、もうそれだけで充分満たされた人生だということもできるかもしれません。
何も傲慢に生きろといっているのではないでしょう。他人を気にしすぎて生きていないかということです。
おそらく主体はこれまで、「他人のために」多くの時間を割いてきたのではないでしょうか。場合によっては、それが正解だと感じていたのかもしれません。しかし、この日満月を見ていたら、ふと感じてしまったのでしょう。本来、自分の時間は自分の自由にしていいはずですが、人は何かしらの制限を勝手に設けてしまい、知らず知らずのうちに自分の時間を自分ではない誰かや何かのために使ってしまっているものなのでしょう。
自分が望んで使った時間が、結果として他人のために何か影響を与えたのであれば、それは他人のためでもありますが、自分が本当に望んで自分が選んだ結果であれば、根本は自分のために時間を使ったことになるでしょう。
人生は有限であり、時間はお金で買うことができないものです。時間はお金と違い、過ぎてしまえば、もう戻ってくることはありません。ですから、時間は貴重なのです。
「たとえ一分一秒も他人のためには使うな」というのは、一見非情で自分勝手なように思う言葉かもしれませんが、実はそうではなく、自分自身の人生を最も輝かせるために必要なことを述べている言葉だと思います。
自分が一番輝く生き方をしていると、結果的にはそれが他人のためになることもきっとあると思います。
満月の下、自分の時間のあり方を見つめる姿が印象に残る一首です。
いつだって誰かのために生きていて誰かの期待にそって振る舞う 石井僚一『・』
生きていれば、多からず少なからず人と関わりをもたないといけないものでしょう。
自分ひとりで生きていくと決意してみても、やはり人との関係は避けられない部分はあるわけで、「誰かのために」というわけではなくても、「誰か」を意識していかざるを得ません。主体はこれまで何度も「誰かの期待にそって振る舞う」経験をしてきたのでしょう。
子どもの頃から、「人の役に立つように生きなさい」といわれてきたり、「自分のことよりも人を優先しなさい」といわれてきたり、そういったことも数々あったのかもしれません。そのような言葉に絡めとられてしまった環境では、「誰かの期待」が優先されてしまうことも仕方のないことでしょう。
しかし、主体は本当に心の底から「誰かの期待にそって振る舞う」ことを望んでいるのでしょうか。この歌からはどうもそのような肯定的な印象を感じないのです。
それは「いつだって」という初句の入り方、「誰か」の繰り返し、一首全体を通しての起伏のなだらかな感じがそのように思わせているのかもしれません。
「誰かのため」を自分が本当に望むのであれば、それはすばらしいことで「誰かのために」生きていくことがその人自身の活力になるのでしょう。しかし、反対に「誰かのために」を心の底から望んでいない、周りの雰囲気やそのときの状況、あるいは見栄や体裁などから「誰かのために」を進めているのであれば、それは本当に自分自身を生きているということにはならないのではないでしょうか。
「誰かのため」や「誰かの期待」というのは非常に厄介なものですが、「誰かの期待」に沿って生きるよりも、自分がどう振る舞いたいのかをもう一度考えてみる必要があるのかもしれません。それが誰かの期待と合致するのであれば素敵なことですが、仮に誰かの期待に合わなくても自分を生きるという点においては、それでいいのではないでしょうか。そんなことを考えさせられる一首です。
先生に言われたとおりに生きました 誰も褒めてはくれませんでした 石井僚一『・』
こちらも、先ほどの歌に近い思いを感じます。
「先生に言われたとおりに生きました」は、まさに他人軸によりかかって生きてきたことを表しているといえるでしょう。で、そのように生きた結果うまくいけば、せめてもの救いなのですが、かなしいかな実際は「誰も褒めてはくれませんでした」になってしまったのです。
「先生に言われたとおり」を他人軸とすれば、先生に何かをいわれたとして、その発言をどのように解釈して自分の中の基準でもって判断していくかが、自分軸なのではないかと思います。
他人軸の怖いところは、自分の判断を他人基準にしてしまっているところです。また、結果がうまくいかなかったときに、その他人を恨んでしまわないかという点もあります。
この場合、先生を恨んでしまうことはないのでしょうか。「先生に言われたとおり」に生きてきたのに、先生の言葉や考え方を信じてその通りに生きてきたのに、生きてきた結果誰も褒めてくれなかったのです。
つまり、先生のいう考え方は間違っていたのではないのか。それに従った自分は一体何だったのか。自分の人生は間違いではなかったのか。もっと違う考え方や生き方があったのではないか。ひょっとして、これまでの自分の人生は無駄だったのではないか。自分の人生の時間を返してほしい…。
このように、怒りや恨みの矛先が先生に向かう可能性も充分あり得ます。でも、先生に対して怒りをぶつけても、恨んでも、過ぎた時間は戻ってこないのです。
どんな結果が起こっても後悔せず、自分で納得して生きるために必要なこと、それは「自分軸にしたがって生きる」ことに他ならないのではないでしょうか。自分の軸をもって、その軸に沿って判断して生きていくことができれば、誰かが褒めようが褒めまいが、もう関係ないことなのでしょう。誰かが褒めてくれるかどうか以上に大切なのが、「自分軸をもって生きる」ということだからです。
この歌には、「自分軸」という言葉は含まれていませんが、「自分軸」の大切さを充分に感じさせてくれるのではないでしょうか。
しなくていい苦労をせずに生きてほしい白桃、桜桃、無花果、李 北山あさひ『ヒューマン・ライツ』
白桃、桜桃(=さくらんぼ)、無花果、李が登場しますが、いずれも暖色系が鮮やかにイメージできるフルーツです。
さて、これらフルーツと、上句の「しなくていい苦労をせずに生きてほしい」とはどのように関係しているのでしょうか。三つの見方を考えてみました。
ひとつは、これらのフルーツを見ていたときに、特段の理由はないけれど「しなくていい苦労をせずに生きてほしい」という思いが湧きあがってきたと考えることができるでしょう。「生きてほしい」なので、自分自身への願望ではなく、誰か別の人に対する願望であることはわかりますが、それが誰なのかは明示されていません。ただ、このように願うということは、まったくの赤の他人ではなく、やはり親しい間柄の人を思い浮かべていることは窺えます。
二つ目の見方としては、先に「しなくていい苦労をせずに生きてほしい」という思いが突如湧き起こってきて、そのときに「白桃、桜桃、無花果、李」の映像や記憶が呼び起こされたということも考えられるかと思います。なぜ、苦労をせずに生きることとこれらフルーツが結びつくのかは一般的な回答があるわけではなく、主体自身にとってこれまでの経験や思い出に結びつく何かがあってこれらの景が浮かんできたり、あるいは直接的な経験ではなくてもふと記憶の底から思い出され、時間的に離れた出来事が結びついてしまったということはあるかもしれません。
最後は、自分は自分の特質に従って自らの道をいけばいいよという見方です。どういうことかというと、白桃は白桃として生き、桜桃は桜桃として生きていけばいいよということです。白桃が桜桃に憧れたり、無花果を羨んだり、李に嫉妬したりしながら生きていく必要はないということです。白桃がいくら他のフルーツみたいになりたいと思ってもなれないわけです。そうではなくて、白桃は白桃として、他のフルーツにないよさをもっているわけですから、その特質に従って白桃として自信をもって生きていけばいいという感じでしょうか。桜桃、無花果、李にしても同様で、他のフルーツみたいに生きる必要はありません。他のフルーツみたいになりたいと思って生きることは、非常に苦労が伴うでしょう。そもそも種類が違うわけですから、なろうとしてもなることはできないでしょう。なれないものに憧れて必死にその生き方を目指すことは、いってみれば「しなくていい苦労」なのかもしれません。
自分が本来もつ特質も、自分軸を考えるうえで大切なものだと感じます。
この歌をどのように読むのが正しいのかは難しいところですが、色々な見方があっていいと思います。具体物が提示されながらも、状況を限定していないところに、かえって広がりが感じられます。
大丈夫かどうかはおれが決めていく一年前の飴はにちゃにちゃ 虫武一俊『羽虫群』
「にちゃにちゃ」になった一年前の飴が、今目の前にある状況です。
「にちゃにちゃ」になった一年前の飴を食べようと思うでしょうか。大抵の人は「あ~あ、ほったらかしにしてしまって、こんなになってしまった。仕方ないけど捨てよう」と思うのではないでしょうか。でも、大抵の人がそう思うからといって自分まで同じ考えをもつ必要は全くありません。
「大丈夫かどうかはおれが決めていく」の力強さの通り、食べるかどうかは「おれ」が決めていけばいいのです。
たとえ、周りの人が「食べたらお腹壊すかもしれないよ。やめといた方がいいよ」といったとしても、その意見はあくまで自分の判断の参考に留めておけばいいのです。そのような意見を聞いたうえで、最終的に食べるかどうかを自分が決めることが大事なのです。
まさに、他人軸、自分軸を感じる一首です。
周囲の人がやめといた方がいいというから、そこまでいうなら食べないでおこうというのが他人軸。
一方、周囲の人がやめといた方がいいというけど、自分は食べても大丈夫だと思うから食べようというのが自分軸。また周囲の人がやめといた方がいいというけど、確かにそれもそうだなと思って、最終邸に自分が食べない方がいいと判断したから食べないというのも自分軸。
つまり、最終的な判断を自分がしているかどうか、自分の価値観や基準に則ってしているかどうかが大切なのです。
「おれが決めていく」が非常に強く響いてきます。
最後に、もう一度自分軸について振り返っておきましょう。
生きていれば、自分軸が揺らぐこともあると思います。
冒頭でランチの話をしましたが、例えば、次のような選択の場合はどうでしょうか。A定食「メンチカツ定食」とB定食「ししゃもの天ぷら定食」の二択があるとします。仲間六人でいったランチで、自分以外の全員がA定食を注文するとします。でも、自分はB定食が食べたいとしましょう。そのとき、みんなA定食だから自分もA定食にしようかなと思うことがきっとあるでしょう。でも、そのときに問いかけたいのは、自分が今本当に食べたいのはどちらなのかということです。
最初はB定食がおいしそうだと思っていたけど、迷っているうちにA定食の方が食べたくなってきてA定食を選ぶということであれば、何の問題もありません。でも、A定食を選ぶ理由が「みんながA定食を選んでいるから」ということであれば、もう一度心に問いかけ直すのがいいと思うのです。みんなが選んだからという理由で食べたA定食はそこそこおいしいかもしれませんが、食べ終わった後もずっとB定食のことが気になるのではないでしょうか。「ししゃもの天ぷら」はどんな味がしたのだろう。そっちの方がおいしかったかもしれないな。食べたかったなあ…と。
自分軸に沿って判断した結果であれば、後悔することは少ないでしょうし、納得して結果を受け入れられるはずです。ですから、自分軸をもって生きていくことは、人生を充実させていくためにとても大切なことだと感じます。
「自分軸を譲らない」を意識して、生きていきたいと思います。



