tankalife「人生を1mmでもよくしたい」の第24回(「関係」の第3回)です。今回は「わかりあえなさを起点とする」と題して、人は互いにわかりあえる存在なのかについて考えていきます。
古代中国の思想家である荘子(荘周)、およびその弟子がまとめたとされる古典『荘子』に、次の言葉が見られます。
君子の交わりは淡きこと水の如し、小人の交わりは甘きこと醴の如し(『荘子』)
「醴」とは甘酒のこと。徳のある人の付き合いは、水のようにさっぱりしていて長続きするが、教養のない人の付き合いは、甘酒のようにベタベタして長続きしないことを意味しています。甘酒の付き合いは一見濃厚に見えますが、ベタベタとした関係は長続きしないのでしょう。
人間関係において、相手の領域にあまり踏み込みすぎないことも大切だと思います。互いの境界を認識して、その境界を大切にする、まさに水のような大人の付き合いが重要なのかもしれません。
そもそも、人と人は互いにわかりあえる存在なのでしょうか。
互いをわかろうとして、あるいは互いのことをわかっているつもりで、甘酒のようなベタベタとした付き合いになってしまうのかもしれませんが、本当のところ、人はわかりあえるのでしょうか。
私の結論からいうと、表面的には理解できるところもあると思いますが、心の奥底の深いところまでは互いはわかりあえないのではないかと思っています。
どうせわかりあえないのであれば、他者はわからない存在だし、自分の思い通りにはならない存在だと認めてしまって、互いにわかりあえない存在として付き合えばいいのではないでしょうか。その方が、イライラせずに済みますし、随分と気持ちに余裕をもって接することができると思います。
例えば、仕事を一緒にしているケースで、次のようにいう人が周囲にいませんか。
- 何で私のいう通りにしてくれないの。
- あなたのためを思って、伝えているのよ。
- 何で毎回そうするの。何度いったらわかるの。
- あなたのことは信頼している。だからあなたも私を信頼して。
相手のことをわかっていると思い込むと、相手は何でも自分が考えた通りに行動してくれると勘違いしてしまうのではないでしょうか。
しかし、相手のことを深い部分で理解することできないでしょうし、相手がどう行動するかも制御できないのです。
大切なのは、自分が変えられること、変えられないことを理解することではないでしょうか。相手に対して、自分が思う通りに行動してほしいと思っても、なかなかそのようにはなりません。それは、自分が変えられない領域の部分だからです。どう思おうと自由ですが、その通りになるかどうかは相手の領域なのです。相手の領域を変えようとしても変わらないということを認識すると楽になるのではないでしょうか。
相手が自分の思い通りにならないからといって怒り出す人がいますが、そもそも相手が自分の思い通りに行動してくれるわけがありません。相手には相手の領域があり、自分には自分の領域があるのです。相手のことを理解している、わかっているという考えが幻想なのではないでしょうか。
では、変えられる部分は何かというと、それは自分の考え方です。
周りの状況はなかなか変えられないとしても、自分の考え方は今すぐにでも変えることができます。つまり、現状は変えられなくても、現状に対しての自分の捉え方や考え方は変えられるでしょう。
自分と他者はわかりあえない存在であること、相手は自分の思い通りにならないこと。そういう認識をもって、他者とどう付き合っていけばいいかをもう一度見つめ直してみるのがいいと思います。
わかりあえないということは、自分と他者の間のどこかに境界線があるのではないでしょうか。その境界線を意識することで、他者との付き合いは随分とスムーズにいくように感じます。
それでは、わからない、わかりあえないを詠んだ歌を見ていきましょう。
こんりんざい人の心はわからぬをはるかに白し山ぼふしの花 小島ゆかり『憂春』
「こんりんざい人の心はわからぬ」とあり、人の心はわからないということをはっきりと打ち出している一首です。「こんりんざい」が強烈に響き、人の心なんて絶対わからないといっているようです。
そもそも、自分と他者とは別の人間なのに、人の心をわかろうとすること自体がおこがましいのかもしれません。
「山ぼふしの花」を見ている場面でしょうか。「はるかに」は距離的に離れているとも採れますが、遠すぎると花もはっきりと見えないので、ここでは「各段に」という、程度を意味する「はるかに」というふうに捉えたいと思います。
ヤマボウシの花はとてつもなく白くすっきりしているのに対して、人の心は何ともわかり難いものだということを意味しているのかもしれません。白一色のようなはっきりとした、すっきりとした「人の心」は存在しないのでしょうか。「こんりんざい」ないのだと感じられます。
本当は、人の心をわかりたいというのが本心かもしれませんが、何度考えてもやはりわからないのだと、諦めも含めて「こんりんざい人の心はわからぬ」ものなのでしょう。「こんりんざい」がとても強く響く一首です。
わからない他者と自分もわからない自分と 富士に初雪が降る 香川ヒサ『The quiet light on my journey』
他者の心をわかろうとする前に、そもそも自分のことは自分でわかっているといえるのでしょうか。
「自分もわからない自分」とありますが、自分で自分のことをわかっているつもりになっていても、実際のところは、自分のことさえもよくわかっていないのが現状なのかもしれません。
自分もわからないのに、他者をわかろうというのが土台無理なのかもしれません。
「富士に初雪が降る」は、偶々そのような状況だったということだと思います。富士に初雪が降ったとしても、急に他者のことがわかるようになるわけではないでしょう。富士に初雪が降ったという事実をただ受けとめるのと同じように、他者はわからないものだと認識する以外ないのかもしれません。
まして、自分自身のこともよくわかっていないのですから、わからない他者とわからない自分が向かい合ったとして、わかりあおうというのが極めて困難なことであることは、明確にいわずとも窺い知れるのではないでしょうか。
分かり合うという幻想の絶景に胸ひらきおり桜花のごとく 内山晶太『窓、その他』
やはり「分かり合う」というのは、「幻想」だったのですね。この歌は、初句二句ではっきりとそのことを示してくれています。
幻想であれば、もういっそのこと、幻想だと割り切ってしまえばいいのです。幻想だと思ってしまえば、その幻想にも「絶景」が広がっているのです。
お互いにわかりあおうとするから苦しい思いをするのであって、わかりあえないを前提とすると苦しさはどこかにいってしまうのではないでしょうか。「絶景」には「胸ひらきおり桜花のごとく」とある通り、春の桜花のようなあたたかさと心地よさが広がってくるように感じます。
「分かり合う」は「幻想」であると割り切ることからスタートする展開がきっとあるでしょう。そして、その展開は美しく心安らぐ瞬間をもたらしてくれるのではないでしょうか。
くるしみは共有できず白粥のひかりを炊けどひかりを置けど 雨宮雅子『昼顔の譜』
こちらは「くるしみ」の「共有」について詠った歌です。
「くるしみは共有できず」とありますが、苦しみが共有できない根底には、相手のことを本当のところは理解できないという思いがあるからではないでしょうか。
この歌は、相手が病を抱えていて、その相手に白粥を出している場面だと思いますが、「白粥のひかり」を炊いても、「ひかり」を置いても、やはり「くるしみ」は共有できないのです。
自分がなりかわって、他者を生きることはできません。であれば、表面的には「くるしみ」を理解したとしても、本当に深いところでは「くるしみ」を理解することはおそらくできないのです。
本当は「くるしみ」を共有したいのです。しかし、「くるしみ」は共有できない。「くるしみ」を共有できない状況が、より一層主体を苦しくさせているのでしょう。
共有できないという地点から、今自分にできることは何なのかを考えていく他ないと感じます。
お互いのこころがわかり過ぎるのもさびしかるべし湯舟につかる 松村正直『やさしい鮫』
人は互いにわかりあえない存在だとは思いますが、この歌は「わからない」ではなく「お互いのこころがわかり過ぎる」と詠われています。
普段から、お互いのこころがわかりあえているのでしょうか。それとも、何かをきっかけにして、ある場面においてはお互いのこころがわかりあえていると感じている状況なのかもしれません。
「わかり過ぎる」ということは、言葉を交わさなくても、自分は相手の思っていることがわかるし、相手も自分の思っていることがわかるということでしょう。その状況を「さびしかるべし」と詠っています。
湯舟につかって、お互いのこころがわかり過ぎることについて、思いを巡らしているのでしょう。お互いわかり過ぎるのを、あまりよしとはしていないようです。わかるということは、言葉を発するよりも先に、先回りして、相手の気持ちを汲んで行動なり対応なりをすることになるでしょう。それは、やはり寂しいことなのではないでしょうか。
声に出してもいないのに、今飲みたいと思っていたお茶がすっと出てくるとか、明日もっていくものを準備しようと思っていたら、すでにそのものが用意されていたとか、日常のあらゆる場面で「お互いのこころがわかり過ぎる」がゆえになされる行動というものがあると思います。
相手と自分は、別の個体として生きているわけですが、お互いにわかってしまうのは、いってみれば、自分ひとりという存在を生きていない、他者によって、自分の心を一部掌握されてしまっているような感じがあるのではないでしょうか。そこが「さびしかるべし」につながっているのではないかと想像します。
しかし、「わかり過ぎる」には、若干の「わからない」余地も残しているような表現にも感じられます。なぜなら「完全にわかる」とは詠われていないからです。「わかり過ぎる」けれども、すべてが完全に相手をわかるわけではない、そんな印象を受けるのです。そこには「わかりあえない」自分と他者がわずかに立ち上がってくるわけですが、「わかり過ぎる」が「さびしかるべし」であるならば、「わかりあえない」お互いが少しでも存在することは、少なからず救いになるのではないでしょうか。
たぶん君は答えではなく相槌が欲しかったのだ今にして思えば 松村正直『やさしい鮫』
こちらは、前の一首とは異なり、お互いのわかりあえない部分が表出された一首だと思います。
「今にして思えば」とあるので、過去の場面を振り返っている状況でしょう。主体はそのとき「君」が「答え」を求めていると考えていたのでしょうが、今考えると「君」が求めていたのは「答え」ではなく「相槌」だったのではないかと想像している場面です。
「相槌」は、聞き上手になるために求められるスキルとして取り上げられることもありますが、相手に対しての寄り添い、理解、共感などを示す重要な行為であることは間違いないでしょう。
一方「答え」はもっとダイレクトです。相手が何かに悩んでいたり、困っていたりするときに、解決策としての「答え」は、たちどころにその悩みを解消できるかもしれません。
しかし、不思議なもので、たちまち解決できるであろう「答え」よりも、すぐには解決に結びつかない「相槌」を求める気持ちが存在するのです。「君」が求めていたものは相槌だったのではないかと、後になって振り返っているのです。
わかりあえない者同士だからこそ、そのときにはわからなくても、相手に少しでも寄り添おうとする行為や考えによって、後になって気づくことがきっとあるのだと思います。
もこもこのスリッパで踏み込んでみる心は土足厳禁だから 宇野なずき『しかし世界はあなたではない』
いきなりずかずかと入ってきたり、あれこれ聞いてきたりする遠慮のない人を「人の心に土足で踏み込んでくる人」のようにいうことがあります。この歌は、このように遠慮のない人の形容である土足で踏み込んでくる様子を踏まえた一首になっています。
人の心が「土足厳禁」であれば、どのように人の心に入り込むでしょうか。靴を脱いで入るか、上履きに履き替えるかするのではないでしょうか。ここでは「もこもこのスリッパ」が選ばれています。
ただのスリッパではありません。「もこもこのスリッパ」であるところがポイントなのでしょう。もこもこしている分、通常のスリッパよりも、柔らかい印象を与えます。接触面もふんわりとしていて、尖っている様子もありません。まさに、人の心に「踏み込んでみる」には「もこもこのスリッパ」は適しているのではないかと思わされます。
しかし、「もこもこのスリッパ」であったとしても、踏み込んだ結果どうなるかはわかりません。受け入れる人もいれば、拒絶する人もいるでしょう。
人の心に踏み込むに当たり、主体ができる最大限が「もこもこのスリッパ」なのですが、結果がわからないという以上、究極、やはり人の心はわからないものだと感じます。
それでも、わからないことを前提として、今自分ができる最大限の接し方は何だろうと考えることは決して無駄ではないでしょう。「もこもこのスリッパ」を思いついて実行しようとする姿そのものに、エールを送りたいと思います。
三人にわかってもらえばいいと思うその三人にあなたは入る 大松達知『ばんじろう』
さて、ずっと「人は互いにわかりあえない」について見てきました。この一首も、やはり根底には、人はわかりあえない存在であるという意識があるのではないかと感じます。
「三人にわかってもらえばいいと思う」ということは、裏返せば、三人以外その他大勢にはわかってもらわなくてもいいということになります。実際は、わかってもらえるなら多くの人々にわかってもらいたいけれど、おそらくそんなにたくさんの人にはわかってもらえないだろうと思っているのではないでしょうか。
わかってもらう人がひとりもいないのはかなしいですが、これまで生きてきた経験則から、「三人」くらいいれば、もうそれで充分なのだと感じているのでしょう。
面白いのは、「その三人にあなたは入る」です。「あなた」は、自分のことをわかってくれている存在だということももちろんあるでしょうが、それ以上に「あなた」は自分のことをわかってくれる存在であってほしいという気持ちが強いのではないでしょうか。
人と人は、深いところではわかりあえないと思いますが、それでも、その中でも、何とかわかろうとするでしょうし、相手からは自分のことをわかってほしいと思うものです。
「三人にわかってもらえばいい」のでしょう。その「三人」に、大切な「あなた」が入っていれば、それは素晴らしいことなのではないでしょうか。
最後に、改めて「わかりあえない」について振り返っておきましょう。
人は互いにわかりあえない存在だということを起点にする方が、人との付き合い方がうまくいくように感じています。相手は自分とは異なる存在ですから、自分が考えた通りの行動はとらないのに、ややもすると、相手のことをわかっている、相手は自分の思い通りの行動に改めてくれるというふうに考えがちです。
その考え方が、イライラを引き起こしたり、相手を責めたり、互いの関係を崩すきっかけになったりするのだと思います。
わかりあえないをベースに、人との関係を見つめてみると、そこから生まれる考えも行動もプラスに働くのかもしれません。



