tankalife「人生を1mmでもよくしたい」の第23回(「関係」の第2回)です。今回は「いい人に見られなくてもかまわない」と題して、いい人でありたい気持ちと手放す気持ちについて見ていきます。
いつ頃からでしょうか。特に職場における、周囲の態度、こそこそ話、自分だけ情報を知らない状況など、そういうことがあまり気にならなくなりました。
自分が教えてもらえない情報というのは、仲間外れにされているのではなくて、自分にとって今は不要な情報というふうに捉えるようになったのです。本当に必要な情報であれば、いずれ知ることになるでしょうし、それが早いか遅いかの違いだけです。知らないままで継続されれば、それは自分にとって不要な情報だったということだと思うようになりました。
周囲の反応があまり気にならなくなると、いい人に見られなくてもいいのかもしれないと思うようにもなりました。周りを気にしすぎてしんどくなるより、周りの反応はあまり気にせず、気楽にいる方がよほど大事だと考えるようになったのです。
そもそも、いい人に見られたいという気持ちはどこからやってくるのでしょうか。
いい人に見られた方が、とりあえずは周りから好かれて、仲間外れにされることはないという安心感からでしょうか。周りに認められたいという承認欲求の現れかもしれません。
でも、いい人に見られる状態を継続するのは、負荷のかかることなのかなと思います。いい人でいなければいけないという思いがプレッシャーになることもあるでしょう。
ただ、自分は周囲の人たちのために生きているのではありません。自分自身のために生きているのです。周囲を優先してつらくなるのではなく、自分の気持ちを優先してもう少し気を楽に生きてみてはどうでしょうか。
いい人に見られなくてもかまわないと割り切ってしまえば、変な縛りから解放されて清々しい気持ちになると感じます。
それでは、いい人を詠った歌を見ていき、いい人をやめることについてもう少し考えてみたいと思います。
Amazonの箱の微笑を踏みつける いいひとはもう終わりにしたい toron*『イマジナシオン』
これまで周囲から、おそらく「いいひと」といわれてきたのではないでしょうか。
何かを頼まれたら断らずに頼みを引き受けたり、意見を求められても自分の思いよりもその場にふさわしい意見に合わせたりしてきたのではないでしょうか。
しかし、そんな「いいひとはもう終わりにしたい」といい切っています。Amazonの箱を踏みつけながら。
Amazonで注文した品物が送られてくる箱には、矢印のマークがついています。そのマークが「微笑」に見えるということでしょう。思いっきり「Amazonの箱の微笑」を踏みつけたのではないでしょうか。
この「微笑」は、ひょっとすると主体を「いいひと」として扱ってきた周囲の人たちの微笑に重ね合わせているのかもしれません。「笑い」ではなく「微笑」であることも、何となく裏があるような気がして、怖ろしさを際立たせているように感じます。
「いいひと」に見られようと意識するから、「いいひと」扱いされてしまうのかもしれません。
そうであれば、「いいひと」に見られようと思わなければ、随分と気持ちが楽になるのではないでしょうか。
Amazonの箱の微笑を踏みつけるのは、「いいひと」を終わりにする宣言です。非常に力強さを感じます。いい人に見られなくてもかまわないと思えば、かなり生きやすくなると思いますが、いかがでしょうか。
いい人でありたいだけの純白のレースのこころ裂いてやりたい 柳澤美晴『一匙の海』
先ほどの歌と同じように、この歌も「いい人」との決別を示した歌です。
冒頭でも少し触れましたが、「いい人でありたい」という気持ちはどこからくるのでしょうか。
「いい人」の方が、周りから好かれて、とりあえずグループやコミュニティから疎外されないといったメリットがあるかもしれません。しかし、一方で、「いい人」であり続けようとする自分に嫌気がさすこともあるでしょう。「いい人」であることを、自分は本当に望んでいるのでしょうか。そのような振る舞いを続ける自分を、心の底から納得できているのでしょうか。
「純白のレースのこころ」だけであれば、無垢で純真な心のようなイメージでしょうが、「いい人でありたいだけの純白のレースのこころ」となると、「純白のレースのこころ」は少し影を帯びてきます。
「いい人でありたいだけ」は褒め言葉でもなければ、プラス方向でもないと主体自身が感じているのです。「いい人でありたいだけ」は今すぐにでもやめてしまいたいと思っているのです。
「裂いてやりたい」がなかなかに強烈な表現ですが、それほど「いい人でありたい」と感じている心に嫌悪感を抱いたということでしょう。
「いい人」をやめたとき、そこから見える景色はきっと違うものとなるでしょう。
全員に好かれなくてもいいと思う きみのほくろがよくって笑う 岡本真帆『水上バス浅草行き』
いい人といえば、周囲の誰からも好かれるような立ち位置かと思いますが、誰でも彼でも好かれようとすることは、本当にいいことなのでしょうか。
「八方美人」という言葉があります。誰にでもいい顔をするのは、むしろあまり喜ばれないのではないでしょうか。「八方美人」という言葉は肯定的に使われるよりも、皮肉として用いられるケースが多いと思います。
「全員に好かれなくてもいいと思う」は、本当にその通りだと感じます。
人の顔色を窺うことが癖になっている人は、誰からも好かれようとするかもしれません。嫌われたら困るという気持ちもわからなくはありません。しかし、世の中には何十億という人間が住んでいるのです。その全員に好かれるということ自体、土台無理なことでしょう。
そうであれば、全員に好かれようとすることを手放してみればいいと思いませんか。好かれなくてもいいんだ、何人かには嫌われてもいいんだと思うだけで、随分と気持ちが楽にならないでしょうか。
全員に好かれなくても、特定の誰かに好かれていれば、もうそれで充分ではないでしょうか。この歌から感じるのは、おそらく「きみ」には好かれているのではないかということです。
そもそも、「きみ」から好かれる前に、自分が「きみ」のことを好きでいることの方が大切かもしれません。「きみのほくろがよくって笑う」に、主体と「きみ」との信頼のある関係性が見えるようで、非常に好感がもてます。「きみ」に好かれていれば、もうそれで充分ですし、大変素晴らしいことなのではないかと感じます。
極端なことをいえば、「きみ」以外の全員が自分を嫌いになったとしても、「きみ」が好きでいてさえくれれば、それに勝ることはないのではないでしょうか。
全員にいい人に見られる必要はありません。特定の「きみ」から好かれていれば、それが何より素敵なことなのだと感じさせてくれますね。
もし俺が宇宙人でも取り敢えずいい人止まりで終わるだろうな 木下侑介『君が走っていったんだろう』
この歌は「いい人」を、純粋な意味での「いい人」ではない捉え方をしているでしょう。
「いい人」というとき、「都合のいい人」や「悪影響を及ぼさない人」の意味合いで見られることも多いのではないでしょうか。
一番素敵な人、心から尊敬できる人、誰よりも好きな人を、通常「いい人」とはいわないでしょう。しかも「いい人止まり」という表現であれば、尚更です。
本当は「いい人」を超えた関係性になりたいのだと思います。特定の誰かに対して「いい人」を超えたいのではないでしょうか。
地球人の今の自分では、どう頑張っても「いい人止まり」の関係性なのでしょう。もし、自分が宇宙人だったらどうなのでしょうか。そんな想像をしてみたのでしょうが、宇宙人であったとしても「いい人止まり」だなと感じている場面です。地球人より宇宙人の存在を、パワーアップした存在と考えているのでしょうが、そんなパワーアップした宇宙人であっても、相手との関係性は変わらないということでしょう。
宇宙人になったとしても、関係を変えることができないのであれば、「いい人止まり」を解消するにはどうすればいいのか悩むところですが、諦念を含みながらも、どこか清々しさを伴う諦めであるところに、この歌の救いがあるように感じます。
人間が嫌いだと言えてしまえば簡単で奥歯でゴリゴリ牛蒡をかじる 永田淳『1/125秒』
もし、周囲の誰かに向かって「嫌い」だと直接はっきりといったとしたら、どうなるでしょうか。たちまち、その人との関係は崩れてしまうのではないでしょうか。
また、これまで「いい人」で通してきた状況であれば、周りの見る目も変化してしまうかもしれません。
「人間が好きだ」といわれて、悪い気がする人はほぼいないと思いますが、「人間が嫌いだ」という発言は、ときには人を不快にさせたり、関係性を壊してしまうことにつながりかねません。
それでも主体は「人間が嫌いだ」といいたいような状況があったのではないでしょうか。ただ、「嫌い」という気持ちは胸の奥深くに沈めたままで、声に出すことはしなかったのです。「奥歯でゴリゴリ牛蒡をかじる」に、深く抑え込んだ様子がありありと伝わってくるのではないでしょうか。
「嫌い」といえれば簡単なのはわかるけれども、どうしてもいえないのでしょう。それはなぜでしょうか。「嫌い」といった後に起こるであろう展開を想像してしまうからでしょう。こういう場合、悪い展開を想像しがちです。これまでの関係が崩れるかもしれません。確かに「嫌い」といわれて気分がよくなる人はあまりいないでしょうから、「嫌い」という発言が引き起こす展開がプラスに働くことは想像しにくいことは間違いないでしょう。
しかし、実際はいってみた後の展開がどう転ぶかはわかりません。「嫌い」ということで、一旦は関係が悪化したとしても、そこからまた新たな展開が生まれる可能性がゼロではありません。思いきって「嫌い」と発することで、自分の気持ちに素直になれたり、人生がいい方向に展開することもあり得るかもしれないのです。
主体は、今は牛蒡をかじっていますが、その後はどうなるかわかりません。何かをきっかけにして、「人間が嫌いだ」と声高らかに発することもあるかもしれません。そのとき、どういう展開になるかわかりませんが、少なくとも今までとは違った現実が待っていることだけは間違いないでしょう。
もっともなご意見ですがそのことをあなた様には言われたくない 枡野浩一『毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである 枡野浩一全短歌集』
「あなた様には言われたくない」といった態度で、「あなた」に接したら一体どうなるでしょうか。おそらく、「あなた」はあまりいい気分には感じないでしょう。その前に「あなた様には言われたくない」と主体が感じているわけですから、すでに相手に対する思いがいい気分ではないのです。
ここには、いい人に見られようとか、嫌われないようにといった意識はありません。周囲がどう思うかよりも、自分の気持ちに正直になっている様子が窺えます。つまり、いい人に見られなくても全然かまわないという意識を感じるのです。
「もっともなご意見ですが」も、本当のところ「もっともなご意見」と心底思っているのでしょうか。「あなた様」がいう「もっともなご意見」は、「あなた様」の立場が発言することにより、「もっともなご意見」として、主体は受け取れない気持ちになっているのではないでしょうか。
とにかく、この一首は、いい人に見られたいという振る舞いとはほど遠い印象を受けますが、このはっきりとしたいいぶりがとても心地よく、清々しく感じ、いい人なんかどこかへ吹き飛んでしまえばいいと感じさせてくれる歌だと思います。
みなにきらはれてから始まるたつた一つの矜持みたいななにか 藪内亮輔『海蛇と珊瑚』
最後はこの一首です。
「いい人に見られなくてもかまわない」を突き詰めていくと、一体どうなるのでしょうか。周囲のみんなに嫌われるという状況に行き着くのでしょうか。もしかしたら、周囲の人たちから疎外される状況になるかもしれません。
でも、それでもいいのかもしれないと感じます。いい人に見られることを意識するあまり、本来の自分の気持ちに即した人生を送れていないのであれば、たとえいい人に見られなくても、自分の気持ちにもう少し正直に生きてみた方がいいのではないかと思うからです。
「みなにきらはれて」という状況になったとしても、そこから「たつた一つの矜持みたいななにか」が始まるとこの歌は教えてくれています。
「たつた一つの矜持みたいななにか」は、はっきりと何であるかは示されません。主体自身にも、目に見えるかたちで示せるこれだというものではないのでしょう。しかし、「矜持みたいななにか」であることだけは、何となくわかっているのです。その輪郭はつかめているのです。
いい人に見られるということを手放した後に訪れる思いはどんなものでしょうか。
周囲を気にして、周囲を優先して、自分を抑え込んで、自分を後回しにして…。そういったことをやめたときに訪れるものは、自分自身を大切にする気持ちなのではないでしょうか。もっと自分に素直に、自分を大事に、自分に誇りをもって生きていけるのではないでしょうか。それが「たつた一つの矜持みたいななにか」なのだと思います。
「たつた一つの矜持みたいななにか」は、みんなに好かれることよりも、いい人に見られることよりも、もっともっと大切なことなのかもしれません。
以上、いい人に見られること、いい人を手放すことについて見てきましたが、いい人に見られなくてもかまわないと思うことで、人生はかなり生きやすくなる側面があると思います。
無視できるものが多ければ多いほど、その人は豊かなのだ。(ヘンリー・デイヴィッド・ソロー)
(ジュディ・ダットン『理系の子』)
ときには、周囲がどう反応するか、周囲が自分をどう思っているかを無視してもいいんだと気持ちを楽にもつことができれば、それが人生を1mmでもよくすることにつながるかもしれません。






