tankalife「人生を1mmでもよくしたい」の第22回です。今回から「関係」について見ていきます。「関係」の初回は「人間関係をほどよく保つ」と題して、人間関係の向き合い方について見ていきます。
生きていく上で、人間関係ほど難しいものはないかもしれません。
もちろん、自分ひとりだけでは生きていけませんし、他者がいて生きていくことができる現実はあるでしょう。生まれたばかりの赤ん坊は、決してひとりでは生きていけません。誰かに育てられなければ、たちまち命を落としてしまうでしょう。ですから、この世で生きて成長していくためには、他者の存在は欠かせないといえます。
もし、この世界に自分ひとりしか存在しないと想像してみればどうでしょうか。
世界にたったひとりの自分。他者は一切いません。人間関係の煩わしさはないかもしれませんが、たったひとりだけの世界が面白いかといえば、そんなことはないと思います。
やはり、他者がいるから生きていて面白いのだと思います。でも、自分と他者が存在する以上、そこに生まれるのが人間関係でしょう。
人間関係に思い悩む人も少なくありません。私自身も、以前の職場では、この人とは合わないな、嫌だなと思う人がいました。でも、その職場の全員が嫌かといえば当然そんなことはありませんし、この人とは合わないけど、別の人とはうまくいっているという状況でした。
ですから、嫌な関係に注目するのではなく、いい関係の方を見つめるように心がけていました。嫌な関係については、ほどほどに相手をしておく気持ちで接するくらいがちょうどいいのかもしれません。
自分の生き方次第で、幸せの感じ方は大きく変わるものです。
なので、他人の目や他人の意見をいちいち気にするよりも、余計なことは軽く聞き流す生き方、つまり「気にしない生き方」をしたほうが、幸せの階段を上ることができると僕は考えています。
(ひろゆき『気にしない生き方』)
嫌な人間関係は、あまり「気にしない」のが得策かもしれません。
小言や嫌味をいってくる人は必ずいます。しかし、それをいちいち真正面から受けていたら、とても心がもちません。ひろゆき氏のいう通り「余計なことは軽く聞き流す」のがいいと思います。
さて、短歌においても人間関係を詠った歌がいくつか見られます。人について詠った歌は多数ありますが、人間関係について詠った歌にも面白い歌があると感じます。
辛い一生と楽しい生活の間には人間関係というものがある 生沼義朗『関係について』
日々生活する中で、人間関係を避けて通ることはできないでしょう。
いい人間関係であれば、何も避けることはないのですが、人間関係というときは大抵、よくない人間関係を指すことが多いものです。
この歌は、人間関係の所在を面白い位置づけとして捉えています。それは、人間関係が「辛い一生」と「楽しい生活」の間にあるという捉え方です。
まず、「一生」という長いスパンで時間を見た場合、そこには「辛い」という認識が示されます。そして「生活」という割と短いスパンで時間を見つめた場合、それは「楽しい」ものであると捉えられているのです。
実際には、日々の「生活」にも辛いことは存在するのでしょうが、「辛い一生」との比較においては、生きるということの根源的な辛さがないという意味で「楽しい生活」になるということなのでしょう。
さて、そんな時間的にも視野的にも異なる二つの間に「人間関係」があるというのはどういうことでしょうか。
「辛い一生」と「楽しい生活」の間を埋めるものとしての人間関係は、いい人間関係だけでもなく、悪い人間関係だけでもなく、どちらもが混在しているような状態であると想像します。
非常に複雑で混沌とした人間関係の集積が、一生と生活の間に横たわり、その人間関係があることで、一生と生活とは何とか関連づけられているのかもしれません。
辛い、楽しいというのは人ぞれぞれ感じる部分は異なるのでしょうが、結局のところ、長期的な一生も短期的な生活も、人間関係なしには存在しえないものなのでしょう。
人との関わり合いにおいて生まれる「辛い」「楽しい」は、人間関係の振れ幅そのもののように思います。人間関係があるからこそそれらの感情が生まれ、人間関係を媒介として「一生」と「生活」は結びつけられていると考えれば、生きていくということは、まさに「人間関係」なしには成り立たないのだと感じます。
生きるということと人間関係は切っても切れない関係にあることを考えさせられますね。
にんげんは好きだ人間関係は嫌いだ ペットボトルを洗う 田村穂隆『湖とファルセット』
こちらも人間関係について詠った歌ですが、「人間関係は嫌いだ」とはっきりいい切っています。しかし、人間嫌いかといえばそうではありません。「にんげんは好きだ」ともいっているのです。
「にんげんは好きだ人間関係は嫌いだ」に、人間関係の複雑さや厄介な部分が如実に表れているように思います。主体は、人間自体は好きなのです。「にんげん」と平仮名表記されているところから、通常の見方ではなく、生物学的な視点で人間を見ている可能性もありますが、ともかく人間自体は好きなのです。
でも、人間と人間が絡み合う「人間関係」になると、それはとても厄介なものであるという気持ちが先行し、好きにはなれないのでしょう。
「ペットボトルを洗う」という日常の場面において、人間関係について考えていたのかもしれません。特定の人との関係において、あまり好ましくない状況があるのかもしれません。
もしも、人間関係のないつきあいがあればいいのにと想像してしまいますが、人間同士が向き合う時点ですでにそこには人間関係が発生してしまうといっていいのでしょう。
ここでは、人間関係を嫌ってはいますが、それを避けようとしている感じは受けません。淡々とその人間関係を受け入れているように感じます。人間関係を断つ方向に向かわないのは、「にんげんは好き」だからに他ならないのではないでしょうか。
「にんげんは好き」だけど「人間関係は嫌い」というところに、面白さを感じる一首です。
人が嫌いで人が好きだな降る雪に手を差し伸べてしまう感じに 岡野大嗣『うれしい近況』
「人間関係」という言葉は登場しませんが、「人が嫌いで人が好きだな」から、人間関係に関連する思いを詠った様子を想像させてくれる一首だと感じます。
「人」が特定の誰かを指すのか、それとも人類全般のような幅広いケースを指すのかどちらでしょうか。
例えば、特定の誰かを思い浮かべてみるとします。その人のことが「嫌い」でもあり「好き」でもあるというケースはあるでしょう。その人のすぐ怒る態度は嫌いなんだけど、あれこれと気にかけて声をかけてくれたり、笑顔で挨拶してくれるところは好きみたいな感じです。
一方「人」が特定の誰かではない場合、「人が嫌いで」の「人」と、「人が好きだな」の「人」は別の人の範囲を指していると捉えることができるでしょう。この場合は、自分が関わる世界において、嫌いな人もいるけど、好きな人もいるという状況を指しているといえるでしょう。
どちらにしても、「人」との関わり合いであることには違いありません。
では、「降る雪に手を差し伸べてしまう感じ」とはどういう様子なのでしょうか。雪が降ってきたら、明確な理由はなくても、ついつい手を差し出してしまうことがありますが、そのような状況を意味しているのではないでしょうか。
そう考えると、ここで詠われている「人が嫌いで人が好きだな」は、はっきりとした理由で好き嫌いというよりも、もう少し淡い感じといいますか、フィーリングや感覚で好き嫌いを分けている感じを想像します。「何となく」という言葉がぴったりでしょうか。
ですから、先ほど特定の人かそうではなく別々の人かどちらであるかを述べましたが、もうそういう分け方すらも不要で、もっとふわっとした感じで、「人が嫌いで人が好き」なのかなと思うのです。
人と関わり合うと、そこには人間関係が生まれますが、この歌のように「降る雪に手を差し伸べてしまう感じ」で接するくらいの気持ちでいた方がいいのかもしれないと感じます。
アカシアのひすがらしろき季節きてだれもが好きで嫌ひになりぬ 小島ゆかり『泥と青葉』
この歌も、先ほどの歌のように「好き」と「嫌い」という感情が両方登場する一首です。
「ひすがら」とは一日中の意味。「しろき」とあるので、ここでいう「アカシア」は、黄色の花を咲かすミモザのことではなく、白い花を咲かす「ニセアカシア」を指しているのではないでしょうか。そうなると季節は五月か六月でしょう。
さて、「だれもが好きで嫌ひになりぬ」とある通り、人の中に好き嫌いの両面を見ている状況でしょう。「だれもが」とあるので、この季節において、全面好きだけの人、全面嫌いだけの人は、主体の中では存在しないのかもしれません。
先ほど、このアカシアはニセアカシアではないかと触れましたが、ひょっとするとニセアカシアのニセであるところが、このような気分にさせているのかもしれないと考えるのも面白いのではないでしょうか。
「だれもが好きで嫌ひになりぬ」は、非常にストレートな表現です。でも、好き嫌いはこれくらい思いっきり素直に表していいのかもしれないとも思います。
人と人とが向き合う場合、そこには好き一辺倒、嫌い一辺倒だけでは表せない複雑な思いの入り交じりがあるのではないか、そんなことを感じさせてくれる歌です。
知り合ひになる人の数増えてゆくともに桜は見ぬ間柄 澤村斉美『夏鴉』
人間関係はこれくらいの距離感がちょうどいいのかもしれません。
年を経るごと、職場やコミュニティに属する年数が増えるほど、生活していれば、自ずと「知り合ひになる人の数」も増えていくでしょう。
「知り合ひ」といっても、親密度のレベルはさまざまです。単に顔や名前を知っているだけというレベルもあれば、ランチを一緒にする仲だったり、一緒に飲みにいったり、遊びにいったりするほど仲のよい場合もあるでしょう。
ここでは、さまざまな「知り合ひ」がいる中で、「ともに桜は見ぬ間柄」のレベルの「知り合ひ」について詠われています。
「花見一緒にいこう」といいあえる仲ではないということです。自分もその「知り合ひ」と桜を一緒に見ようとも思わないのでしょうし、相手側もこちらに対して「桜一緒に見にいきませんか」と誘ったりはしないのです。遠慮というのとは少し違うでしょう。お互いに、一定の距離感を保っていたいという感じでしょうか。
「知り合ひ」だからといって、無理に一緒に桜を見にいく必要はありません。それぞれが別々に桜を見にいって、後日「どこどこの桜見にいったけどきれいだったよ」と報告するくらいの間柄でいいのです。
つまり、「知り合ひ」の数が多くなっていったとしても、全員と仲良くする必要はまったくありません。むしろ、全員と親密な関係を築くことの方が大変ですし、疲れるのではないでしょうか。
つかず離れずの適度な距離感を保てるというのは、人間関係を維持していく上で結構大切なことだと思います。まったく無視するのでもなく、かといって踏み込み過ぎない距離感が、自分も相手も一番疲れない関係なのかもしれないと感じます。
「ともに桜は見ぬ間柄」がとても効果的で、惹かれますね。
以上、いくつか短歌を見てきましたが、人間関係にあまり思い悩まないことが重要なのではないかと思います。
人間関係をほどよく保つ。
あまり思いつめても苦しむだけですし、まったく無視してしまうと疎外された状態になってしまうでしょう。どうせなら、つらい人間関係をもって生きるより、いい人間関係をもって生きていきたいものです。
「ほどよく保つ」くらいの距離感で生きていくことが、充実して生きていくにはいいのではないでしょうか。


