【短歌×人生】人生を1mmでもよくしたい 【視点②】視点の位置を変えて、解釈を変える

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【短歌×人生】人生を1mmでもよくしたい 【視点②】視点の位置を変えて、解釈を変える
tankalife

人生を1mmでもよくしたい」の第14回(「視点」の第2回)です。今回は「視点の位置を変えて、解釈を変える」と題して、人生をどう解釈するかについて見ていきます。

ドイツの哲学者フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェに次の言葉があります。

事実というものは存在しない。 存在するのは解釈だけである。 (フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ)

また、イギリスの劇作家ウィリアム・シェークスピアは次のようにいっています。

世の中には幸福も不幸もない。ただ、考え方でどうにでもなるのだ。 (ウィリアム・シェークスピア)

どちらも、同じような主旨の言葉でしょう。

目の前で起こっていること自体に幸不幸はありません。その出来事を見て自分がどう思うか、どう解釈するかによって、その出来事は幸にもなるし、不幸にもなるということです。

つまり、解釈を変えれば出来事の意味が変わります。解釈をいい方向に使えば、つらく苦しいと思われる出来事でさえも、「ありがとう」といえるような出来事に変えることが可能なのです。

これまでの記事でも何度も書いていますが、私は、中学二年生のときに、クラスメイトの前で話すことができなくなってしまいました。そのときは本当につらくて、自分が嫌になりました。でも今振り返ると、その経験は自分の人生にとって必要なことだったのではないかと思えるようになりました。人前で話すことができなくなったという過去の事実は変えられませんが、それに対する解釈は変えられるのです。

それまでは、この出来事をずっと否定的に捉えていましたし、それさえなければ、自分の人生は今頃もっとうまくいっていたのではないかというふうにも思うこともしばしばでした。でも、だんだんとこの出来事がなければ、今の自分の人生はなかったのだと感じられるようになっていったのです。

かなりの間、この出来事をなかったことにしたいと、完全に否定的に解釈していました。けれども、つらい出来事ではあったけれど、それが起こったことにより、今の自分の人生にいい影響が与えられたのではないかと、どちらかといえば肯定的に捉えることができるようになりました。このように、起こった事実は変えられませんが、それをどう捉えるか、どう解釈するかは、今この瞬間にも変えることができるのです。

人生をどのように解釈するか

人生をどう解釈するかによって、人生はとてつもなく素晴らしいものにもなりますし、一方とてつもなく残念なものにもなるでしょう。

幸せは気の持ちようと思う朝人と光と風流れる駅 田中有芽子『私は日本狼アレルギーかもしれないがもう分からない』

「幸せ」とは何かと問われれば、何と答えるでしょうか。

幸福について述べた古典的書物もさまざまありますが、特にヒルティ、アラン、ラッセルの3人の哲学者が書いた書物を「三大幸福論」と称し、これまでに多くの人々に読まれてきました。もちろん、このような本を読んで「幸せ」とは何かを会得することができる人もいるでしょうが、文字を追っているだけでは、実感としての幸せを感じることは中々難しいことかもしれません。

自らが幸せだと思うためには、自らの生きているそれぞれの状況において、自ら考え、自らがどう捉えるかが重要になってくると思います。

さて、この歌では、幸せをもう少し単純に捉えて「幸せは気の持ちよう」と詠われています。このようにいわれれば確かにその通りなのです。たとえどんな状況であったとしても、自分が幸せだと思えば幸せであり、不幸だと思えば不幸なのです。そのとき、状況は一切変わっていません。状況をどう捉えるかだけが変えることができる可能性があるのです。別のいい方をすると、状況を毎回いいものとして捉えていれば、常に幸せであり続けることができるということでしょう。

歌に戻ると、自らが幸せだと感じていれば、駅の風景の見え方までも変わってきます。「人と光と風流れる駅」は、とても明るさに満ちた捉え方だと感じます。しかも穏やかであり、争いの気配が感じられません。

大抵通勤ラッシュ時は、満員電車やごった返したホームの状況から、人々の言動も荒くなり、殺伐とした雰囲気を感じることもあるでしょう。

しかし、この歌は「幸せは気の持ちよう」と捉えた主体がそこに存在し、主体はまさに気の持ちようによって「幸せ」な気分になっているのだと思います。

現状を変えようがないのであれば、自らの考え方を変えるしかありませんし、幸せを感じたいのであれば、考え方を変えた方が早いのです。

気の持ちようでいくらでも人生は好転することを、この歌は教えてくれるようです。

次の歌は、人生について思い切った捉え方をしている一首です。

産むことと死ぬこと生きることぜんぶ眩しい回転寿司かもしれず 柴田葵『母の愛、僕のラブ』

「産むこと」と「死ぬこと」、そして「生きること」が並列になっていますが、一生というものを大枠で捉えると、この三語に集約されるのかもしれません。誕生して、どのように生きて、どのタイミングで死ぬのか、それを一生といっても差し支えないのではないでしょうか。むしろ一生とは、人によって細かいレベルでの違いはありますが、どの人もこの経路をたどるといってしまっても、それほど間違いではないのでしょう。

「産む」「死ぬ」「生きる」という大きなテーマを、すべて「回転寿司」に喩えているところがユニークであり、読みどころです。

回転寿司の特徴といえば何でしょうか。回転寿司の場合、どんな寿司皿が流れてくるかは、目の前にくるまでわかりません。また、どの皿を取るかは自分で決めますが、タイミング次第で取れたり取れなかったりします。つまり、回転寿司の特徴をひとことでいうならば、「巡り合わせ」ではないでしょうか。

回転寿司の皿が止まることなくどんどん流れていくように、人生の時間もどんどん経過していきます。この世に生を受けること、あるいは子どもを産むこと、やがて死ぬこと、死ぬまでは生きていくこと、それらすべては巡り合わせであり、回転寿司のイメージからこの巡り合わせが強く想起されます。

深遠で広大な宇宙の中においては、ひとりの一生というものは本当に小さな出来事かもしれません。その出来事も、巡り合わせのような偶然によって成されるのであれば、非常に頼りなく寂しささえも感じてしまうでしょう。

しかし、一筋の光があるとするならば、それは「眩しい」と詠われているところです。ひとつひとつの巡り合わせはすべて眩しさを伴って訪れる回転寿司のようなものであると解釈することができれば、その明るさの方向性のようなものを素直に感じることができ、人生の苦しみが少しは軽減されるのではないでしょうか。

「人生は苦しい」(たけし)「人生はなんと美しい」(故モーツァルト) 永井祐『日本の中でたのしく暮らす』

この歌をどう読むかは難しいところではありますが、捉え方の対比、つまり人生に対する解釈について詠った歌だと思います。

二人の言葉が並べられた構成の歌ですが、このように並べられることで、どちらかひとりだけの言葉だけでは見えなかったものが見えてくるように思います。「たけし」というのは、映画監督・お笑い芸人の北野武(ビートたけし)を、そして「故モーツァルト」は音楽家のウォルフガング・アマデウス・モーツァルトを指しているでしょう。

二人とも「人生」に対しての言葉となっていますが、一方は「苦しい」、もう一方は「なんと美しい」といっています。反対の方向性にあるこれら二つの言葉からまず感じるのは、人生というのは捉え方次第であるという点です。どのように捉えても「人生」は人生なわけであり、「苦しい」と思ってもひとつの人生ですし、「美しい」と思ってもそれはひとつの人生です。

もちろん、長い人生の中で浮き沈みはありますから、その時々で苦しいと感じたり、美しいと感じたりすることはあるでしょう。ただ、そのような積み重ねで人生は進んでいくため、総合的に見て「苦しい」であったり「美しい」であったりという言葉にやがては集約されていくのでしょう。

もうひとつ見逃せないのは、モーツァルトに「故」がついている点です。たけしの言葉を生の側からの発言とするなら、故モーツァルトの言葉は死の側からの発言となるでしょう。もちろんモーツァルトの言葉は、モーツァルトが生きている間に感じた思いが集約された言葉ではありますが、現在地点から見ると、たけしは生の側、モーツァルトは死の側に分類することができるでしょう。

であれば、今生きている人間とすでに亡くなった人間が残した言葉をそれぞれ現在地点から見つめるとき、それぞれの言葉が含んでいる、人生に対する考え方や感じ方は異なるであろうという対比を、この歌は提示してくれているように感じます。

人生をどう捉えるかは自由ですが、対極的な二つの言葉が並べられることによって、人生は捉え方次第でどうにでもなることを教えてくれはしないでしょうか。

風景のやうに己れの一生をながめてはならぬとかくは思へど 小笠原和幸『定本 春秋雑記』セレクション歌人『小笠原和幸集』

自分の一生をどのように見つめるのか、その見つめ方によって自分の人生は変わっていくのかもしれません。「風景のやうに」とは一体どういうことでしょう。風景を見るとき、我々はどのような思いや状態でそれを見つめるでしょうか。

風景を見るとき、その心境は穏やかかもしれません。ただし、その穏やかさは、自分とは遠い存在として風景を見ているからかもしれません。ここでいう「風景のやうに」とは、自分自身と風景を直接的な結びつけをもって見るのではなく、他者を見るような目で風景を見ているということではないでしょうか。

そのように風景を見るとき、そこに熱量はあまり感じられません。ですから、この歌でいう眺め方とは、熱量なく「己れの一生」を「ながめてはならぬ」というようなイメージだと思います。

結句に「かくは思へど」とあり、「風景のやうに」自分の一生を眺めてはいけないと思ってはいるのだけれど、どうもそのように見てしまう自分がいることを認めているのです。しかし、本当は「己れの一生」にもっと向き合った見方、もっと入り込んだ見方をもって、眺めたいという思いがあるのだと思います。自分の人生に距離をとらず、もっと接近することで、自分の人生がより満たされる、そんな思いが滲み出ているように感じます。

「ならぬ」の否定、「思へど」の逆接、これらによって却って「己れの一生」への執着のようなもの、そして向き合おうとする主体の姿が感じられる一首ではないでしょうか。まさに、人生をどう捉えるのか、それを考えさせられます。

視点の位置を変える

出来事に対する解釈を変えるに当たり、視点の位置を変えることは有効な手段です。視点の位置が特徴的な歌を見ていきましょう。

幸せなあちらのオレが今ここのこのオレを思いぞっとする夜 工藤吉生『世界で一番すばらしい俺』

宇宙的スパンで見れば風呂のあとまたすぐ風呂の生物だろう 虫武一俊『羽虫群』

これら二首は、自分が今いる場所から、遠くにある位置に視点をもっていっているような歌でしょう。

一首目は、「幸せなあちらのオレ」を想像しています。「幸せなあちらのオレ」は、将来幸せになっているオレでしょうか。それとも、パラレルワールド(並行世界)におけるオレでしょうか。ともかく、オレの視点を今ここにいるオレだけに当てるのではなく、「あちらのオレ」側にもっていき、「あちらのオレ」から「今ここのこのオレ」を見つめているのです。今の自分を客観視するためには、一旦視点を遠くの別の場所にもっていくのが効果的でしょう。

二首目は、「宇宙的スパン」とある通り、広大な宇宙の視点から、今いる自分の生き方や行動を見つめている場面です。この「宇宙的スパン」は空間的というよりも、時間的に「宇宙的スパン」ということでしょう。つまり、宇宙時間のような広大な時間間隔からすれば、自分は「風呂のあと」に「またすぐ風呂」に入る生き物だという捉え方なのです。一日に一度風呂に入るとすれば、今の風呂と次の風呂との間には一日という時間が流れるのですが、宇宙から考えると、そんな一日はとても微々たる時間として映るのではないでしょうか。このように考えると、日常の些細なことで悩んでいる自分が、いい意味で何だか莫迦らしく感じてくるのではないでしょうか。そんなに思いつめて悩む必要はなかったのではないかと。

「視点の位置を変える」とき、ひとつの方法として、できるだけ遠くの場所へもっていく意識をするのがいいでしょう。

例えば、あの世や宇宙、無限遠点など、とにかく遠い場所に自分の意識をもっていきます。そうしておいてから、今ここにいる自分を見つめてみればどうなるでしょう。

今の自分を新たな視点で捉えなおすことができるのではないでしょうか。目の前で起こることに追い立てられているときは、意識をどこにもっていくかによって、随分と楽になると思います。

視点の位置に関して、もう一首見ておきましょう。

せつぱつまつたわたしの斜め上空にしづかにわらふわたしが浮かぶ 小島ゆかり『さくら』

こちらは、パラレルワールドや宇宙ではなく、もう少し近くの「斜め上空」に視点の位置を合わせている歌です。

切羽詰まったとき、自分を客観視できないと余計に混乱することになります。しかし、自分を一歩出て、この歌にいう「斜め上空」の地点から、自分を客観的に見つめることを行えば、かなり冷静になれるのではないでしょうか。

よくいわれるのは、自分の意識の位置を後方斜め上方にもっていき、そこから自分を眺めているイメージをもつといいということです。目の前を意識しながらも、同時にその自分も俯瞰する。こう意識することで、人生をよりよく捉えることができるということでしょう。

斜め上空から見ることによって、切羽詰まっている状態がそんなに大きな出来事ではないのではないか、それほど慌てることはないのではないか、そんな心境にきっとなれるでしょう。

後方斜め上空から見ることは、自分で自分を余裕をもって見つめることができるということであり、それによって人生がふっと軽くなり、とても生きやすくなるのです。行き詰まったときほど、視点の位置を固定せず、動かしてみる意識をもつことが大切でしょう。固定化された視点だけでは見えなかったものが、きっと見えてきて、そこから行き詰まりが解消されるきっかけにつながるのではないでしょうか。

視点の位置を変えることは、突き詰めていけば、人生をどう解釈するかに通じると思います。

人生は、結局のところ、解釈次第でどのようにもつくりあげていくことができるのだと感じます。

私の基本的な考え方は、もし良いことが起きたら感謝し、悪いことが起きたら、それを学びの機会ととらえるというものです。(ピーター・バーウォッシュ)
(ロンダ・バーン『ヒーロー』)

結局人生をどうするかは、人生をどう解釈するかによります。私たちの体験は、自分は何者で、なぜここにいるかについて、私たちが自分自身に語る物語によって決まるのです。幸いなことに、あなたはいつでも自分でその物語を変えることができます。あなたの人生の物語の著者は、唯一あなた自身だからです。(リズ・マレー)
(ロンダ・バーン『ヒーロー』)

日々起こるさまざまなイベントに対して、そのひとつひとつに対して、どのような解釈をもって接するのか。つらい出来事だと解釈するのか、それとも素晴らしい出来事だと解釈するのか。

出来事自体を変えることはできません。でも、その出来事に対する解釈は、自分自身で如何様にも変えることができるのです。

人生を少しでもよくするには、人生に対する解釈をどうするのか、それによるところが大きいといえるかもしれません。

「解釈を変える」という話は、【短歌×人生】人生を1mmでもよくしたい 【時間⑤】過去を生きるのではなく、過去を通して現在を生きるでも、少し触れています。よろしければ、こちらの記事もご覧ください。

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